2007年5月29日火曜日

7/14-15 英語教育「ゆかいな仲間たち」夕張大集合

英語教育「ゆかいな仲間たち」

夕張大集合

―英語教育は夕張を救えるか?―

もれなく元気の素(夕張産)進呈!

日 時 :第1日:2007年7月14日(土) 13:00~17:00

      第2日:  〃   15日(日) 10:00~15:00    

場 所 :ゆうばり文化スポーツセンター

      〒068-0425 北海道夕張市若菜2番地 TEL:0123-56-6046

HP「ゆうばり文化スポーツセンター」で検索ください。

出演者 :久保野雅史(東京・筑波大学附属駒場中高等学校)

      田尻 悟郎(大阪・関西大学)

菅  正隆(東京・国立教育政策研究所/文部科学省)

高橋 一幸(神奈川・神奈川大学)

      中嶋 洋一(大阪・関西外国語大学)

会 :小畑  壽(大阪・柏原市立玉手中学校)

      松永 淳子(大阪・大阪府教育センター/大阪府立高津高等学校) 

内 容 :【第1日目】 

13:00~13:10 開会

13:10~14:20 (1)菅ワールドにようこそ

14:30~15:40 (2)田尻ワールドにようこそ

      15:50~17:00 (3)高橋ワールドにようこそ

【第2日目】

      10:00~11:10 (4)久保野ワールドにようこそ

11:20~12:30 (5)中嶋ワールドにようこそ

      12:30~13:30 昼食

      13:30~15:00 ジョイント・トーク   

費 :1日2,000円/2日間4,000円

※資料代として当日会場でお支払いください。

     ※事前予約は必要ありません。当日、直接会場にお越し下さい。

 

【JR】鹿ノ谷駅下車徒歩10分(清水沢駅と夕張駅の間の駅です)

【 車 】札幌から1時間30分(道道3号線)

久保野 雅史 (KUBONO Masashi)

1960年神奈川県生まれ。 神奈川県立外語短期大学付属高校を経て、現在、筑波大学附属 駒場中・高等学校勤務。 著書に「英会話ぜったい音読・入門編」(講談社インターナショナル)、「授業で使える英語の歌20」(開隆堂)等多数。

田尻 悟郎 (TAJIRI Goro)

1958年島根県生まれ。神戸市、島根県内の中学校を経て、現在、関西大学教授。2001年度「パーマー賞」受賞(財団法人語学教育研究所)。カリスマ英語教師として各マスコミに登場。著書に「田尻悟郎の楽しいフォニックス」(教育出版)等多数。

菅 正隆 (KAN Masataka)

1958年岩手県生まれ。大阪府立長吉高等学校、大阪府教育委員会、大阪府教育センターを経て、文部科学省教科調査官・国立教育政策研究所教育課程調査官。著書に「英語教育ゆかいな仲間たちからの贈りもの」(日本文教出版)等多数。

高橋 一幸 (TAKAHASHI Kazuyuki)

1957年大阪市生まれ。大阪教育大学附属天王寺中・高等学校を経て、神奈川大学准教授。1992年度「パーマー賞」受賞。2002~2004年度NHKラジオ「新基礎英語1」講師。著書に「授業づくりと改善の視点」(教育出版)、「すぐれた英語授業実践」(大修館書店) 等多数。

中嶋 洋一 (NAKASHIMA Yoichi)

1955年富山県生まれ。埼玉県及び富山県内の小、中学校、富山県教育委員会指導主事、砺波市立出町中学校教頭を経て、現在、関西外国語大学准教授。著書に「英語を好きにする授業マネージメント30の技」(明治図書)等多数。

2007年5月28日月曜日

Dialectic

Deryn P. Verity Associate Editor, JALT Journal

Exploring the Dialectic: An Interview with James P. Lantolf

JALT Journal Volume 29, No.1, May 2007, pp. 123-130.

このインタビューのなかで、ラントルフ氏は、ヴィゴツキーの諸概念が一種の流行語となってしまい安易に使われてしまい、概念が本来もつ深さを失っていることを懸念していることを表明しています。自分自身、ヴィゴツキーを読むことは、最初には簡単に思えたが、きちんと読むにつれ、そこには深遠な存在論(a profound new ontology of what it means to be human, p. 128)がわかったと彼は言います。次はそれに続く発言です。

This is a long-winded way of getting to my answer – the single most important notion to be discovered in Vygotsky is his dialectical perspective on human consciousness. Until this notion emerges in your thinking, you are left with a collection of concepts (the ZPD, private speech, mediation, activity, sense, meaning, etc.). (p. 129)

しかし(私のような哲学好きとってはともかく)、 “dialectical”とは重たい言葉です。多くの人はそれを “dialogical”と混同してしまうかもしれません。そういった誤解を予想してか、インタビュアーは次のように尋ねます。

Could you unpack the term dialectical? How does it differ from contextual or interrelated? Is something is done in dialogue, does that make it dialectical?

しかしラントルフ氏は、ここでの “dialectical”とはあくまでも「弁証法的」概念であると明言します。

http://en.wikipedia.org/wiki/Dialectic

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95

To function dialectically means to be able to hold in one cognitive space notions that on the surface appear to be contrary (learning / development, implicit / explicit knowledge, input / output, etc.) and to come to understand how these seeming contraries fit together as necessary components of the object of study.

Dialogue and context are events and spaces. What matters is the quality of what happens in these events and spaces. A dialogue for instance can be antagonistic rather than dialectical. A dialogue can also be cooperative and even collaborative without being dialectical. (p. 129)

この「弁証法的」思考においてこそ、ラントルフ氏のSLA研究の構想は正しく理解されるのかもしれません。

SLA is still functioning under a set of dichotomies that I think have prevented us from fully understanding the nature of language learning and teaching. These include competence / performance, learning / acquisition, input / output, leaning / use, individual / social, explicit / implicit knowledge, teaching / assessment, teacher-centered / learner-centered pedagogy, et cetera. At the moment I am carrying out what is likely to be an extended project on what SLA would look like from a dialectical rather than a dichotic perspective. (p. 129)

しかし、なぜ「弁証法」なのだ、対立する異なるものは異なるままにある方がよいのではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません(実際、学会では、異なる流派との対話すら丁寧に拒んでいるような発表も多く見られます)。私は最近、佐藤優氏の発想に感心し、彼の発想の源泉にあるヘーゲルの『歴史哲学講義』を読み始めましたら、それが滅法面白く、いわゆる「弁証法」についても多少は理解ができたかと思います。時間があれば、その(私的)理解についてもこのブログに書こうと思います。

2007年5月24日木曜日

教師の仕事

学生たちに「未知のもの」を経験させることが教師の仕事である。

2007年5月23日水曜日

Lourdes Ortega (2005) “For What and for Whom Is Our Research?”

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お知らせ

田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!

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Lourdes Ortega (2005) “For What and for Whom Is Our Research? The Ethical as Transformative Lens in Instructed SLA” The Modern Language Journal, 89, iii, pp. 427-443

この論文は、2000年代前半にSLA研究で生じたメタ研究論(metareflection about research practices)を背景として書かれたものです。著者は、どちらかと言えば量的研究と見なされがちなcognitive-interactionist theories派の研究者としての基本的立場に立ちながらも、 “to be truly ethical, educational researchers must be prepared to defend what their research is for” “we have a responsibility to design our research programs in light of difficult questions regarding who the beneficiaries of our research are” (p. 427)という考えに賛同し、論文の最後では“I am hopeful that collectively and individually we can work towards a socially responsible, politically self-reflective, and epistemologically diverse field of instructed SLA that generates research inspired by societal needs.” (p. 439) と述べるに至ります。

 彼女がこの論文で掲げる規範的命題は、(1)The value of research is to be judged by its social utility; (2)Value-free research is impossible; (3) Epistemological diversity is a good thingの三つです。彼女はこれらの命題に関する哲学的論証にはあまり多くの分量を割かず、これらの命題に関連したSLAの諸問題を具体的にまとめます。

このように規範的命題を掲げ、倫理的態度を取るのは、一つにはこれまでのSLA研究が現場教師への関連性(relevance)を失っていること、もう一つにはネイティブ・スピーカーをモデルと規範にして第二言語学習を語ることの偏りが無視できないことなどがあります。これらの問題を無視し続けることは、もはや許されないというわけです。こういった立場を彼女はphilosophical pragmatism(ひいてはparticipatory liberalism)と称します。

 読んで大変に勉強になる論文でした。英語圏のSLA研究の層の厚さと健全さを感じました。とても誠実な論文だと思います。他の社会科学、教育研究と同様に、SLAそして英語教育研究も、まずは方法論的対立の時期を経験し、そして方法論的融和の時代を迎えるべきなのでしょう(ああ、なんだか弁証法的!(笑))。しかし日本では未だに量的研究しかみとめないような雰囲気が強く、方法論的対立の時代にすら入っていないような気がします。早く方法論的融和まで成熟し、 “a socially responsible, politically self-reflective, and epistemologically diverse field”を作り上げなければと思います。

追記:

先日、ハワイ大学に約一年間留学していた大学院生が帰国しました。日米の差を彼が述べるなかで、彼もやはり「ハワイでは、その研究は何のためにやっているのか、教育的意義は何なのかが厳しく問われていました」と述べていました。もっと日本の英語教育研究も教育現場の現実を見る姿勢を、せめて建前としてだけででも確立するべきかと思います。

2007年5月21日月曜日

「ベストエフォート型」のシステム


「日本の英語教育」と一口に言っても、その実際の実践は、多種多様です。ですから「これからの日本の英語教育はどうあるべきか」といった語り口で、「日本の英語教育」をあたかも一枚岩の一つの閉じた「組織」のように考えることは不適切だと私は考えます。そうでなくて多種多様の複数の「組織」が相互作用している一つの「自生的秩序」と考えるべきだろうということを私は、大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと―小学校英語と英語教育政策』ででも述べました。


この「自生的秩序」(spontaneous order)ハイエクの用語ですが、この概念を、彼自身は後年の Fatal Conceitという著では、 “extended order”という用語で表現しています。含意としては、この秩序は、個々人のコントロールを超えたものであるというものがあるのではないかと私は推測します。

そうしますと「日本の英語教育は自生的秩序である」という言い方も、どこか無責任なようにも聞こえてきます。個々の英語教育関係者は、それぞれが自分の組織の中で仕事をしていればいいだけのようにも思えてきます。

何かよい表現・概念はないかと思っていたときに、東京大学教授の坂村健氏の書かれたコラムが目にとまりました。毎日新聞2007520日の「時代の風 デジタル・デバイドと自己責任」です。この中で、氏は、昔の電話機の故障なら電話局に連絡すればなんとかなったが、インターネットの故障は、各種関係部局(例、パソコンメーカー、プロバイダー、周辺機器メーカーなど)に色々と問い合わせてみないと解決しないので不便だと一般ユーザーが思っているというエピソードを紹介します。「インターネットの責任者を呼べ」と言っても一人の人間が呼び出されるわけではないのです。

これはシステムが複雑化し巨大化したことから生じるものです。電話あるいは鉄道のように、一つの組織が全責任を持てるようなシステムを氏は「ギャランティー(性能保証)型」と呼びます。その設計思想と対極にあるのが、インターネットあるいは道路のように、多種多様の独立した組織が相互依存しながら運営されてゆくシステムです。これを氏は「ベストエフォート(最大努力)型」と呼びます。「ベストエフォート型」システムについて氏はこう論じます。

鉄道と道路、電話とインターネットこれらの違いを考えればわかるように、自由度を求めるほどシステムはベストエフォート型になる。そういう時代の情報システムでは、技術設計と同程度かそれ以上に制度設計が重視される。技術ではカバーできない部分は制度でカバーする。こうした発想が必要なのだ。

最も重要なのは「責任分界点」を決めること。まさに責任を「分解」して、ここの主体が担える程度の大きさの責任に切り分ける。当然、個々の主体が、他を信じてシステムの一部を担うためにも十分な情報公開がなされていることが大前提だ。

英語教育の議論も、以前は教室内の技術実践ばかりが目立ちましたが、最近は複数教室が絡む学校内での実践も報告され始めました。しかしそれらだけでなく、学校を超えた英語教育「制度設計」も重視されるべきでしょう。そのための「大前提」として、各種英語教育の「組織」の関係者は、自らが行っていることを他人にも分かるように情報公開して、その情報が容易に他人に入手可能な状態にしておくことが必要となってくるでしょう。それではその「情報」とはどのような切り口の情報であるべきか。優れた「情報公開」とはどのようなスタイルなのか。「情報のマネジメント・システム」とはどうあるべきなのかこういった論点を英語教育に即して具体的に突き詰めてゆくことが私たちには求められているような気がします。

追記

この小文を書く際に、偶然グーグル検索で、ハイエクに関する、吉野裕介氏による次の論文を見つけました。大変面白く読みましたのでご紹介します。

http://www.kier.kyoto-u.ac.jp/coe21/dp/91-100/21COE-DP098.pdf

2007年5月19日土曜日

「自由主義的保守主義者」としての佐藤優氏

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お知らせ

田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!

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私が佐藤優氏の『獄中記』を非常に面白く読んだのは以前に書いた通りですが、
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#061228
この度、本屋で見かけて買った『国家と神とマルクス』太陽企画出版も非常に面白いもので、一気に読み終えてしまいました。


この本のなかで、佐藤氏はご自身を「自由主義的保守主義者」と称しておられます(この本のサブタイトルにも使われています)。私もこの「自由主義的保守主義者」という態度に非常に共鳴します(下のObama氏に関する記事でも私は“liberal conservative”という言葉を使いました)。

佐藤氏は「自由主義的保守主義」を次のように解説します。

一言で言えば、伝統を重視する。しかし、伝統というのは、一つではない。基本は保守主義なんです。保守主義とは、人知を超えるところの価値を尊重するということです。自分の好き嫌いは関係なしに、現にあるところの伝統を尊重する。自由主義的とは、自分の考えるところの保守主義に対して、違う保守主義や進歩主義の人がいても、自分に対して危害が加えられない限りは並存するという考え方なので、それを結びつけた自由主義的保守主義なんです。(40ページ)

佐藤氏は、大川周明の解釈による北畠親房の『神皇正統記を解説しながら、「このような北畠親房の論理を敷衍するならば、唯一、日本で認めることができない言説は、自らの言説が絶対に正しく、他の言説を禁止すべきであるとする非寛容な自己絶対化に凝り固まった言説だけです。そういう他者を原理的に否定する言説以外のものはみんな共存、並存、共栄していくのです」(145ページとして)、彼の言う「自由主義的保守主義」は日本の文化に根ざした態度でもあることを示そうとします。

 頭でっかちの左翼的言説への反動で、保守主義が台頭してきたのはここ10-20年のことかと思います。私も伝統や文化を、自らの合理性で一掃しようなどとする設計主義的発想を非常に恐れますから、その意味での保守主義の復活を喜びます。しかし、昨今は、「とくに右派、国家主義陣営がなぜか最近煮詰まっていて、右派本来の寛容の原理を失」なっている(138ページ)ように思えます。

「小児的」という形容詞は、以前は左翼によくつけられていました。「小児的左翼」とは、自分の小さな正義をヒステリックに叫ぶだけ叫んで、現状をかき回すだけの人々を蔑称するために使われた表現かと思います。しかし私は、最近はこの「小児的」という言葉は「右翼」と適合することが多いように思います。浅薄で、感情的なだけで反省的思考を欠き、他者に非寛容に自説を声高に叫ぶだけの自称「右翼」は最近多くありませんでしょうか。私はそういった「小児的右翼」、「小児的ナショナリズム」の暴走を警戒します。「自由主義的保守主義」は右派、左派を問わず、現代の日本において尊重すべき態度ではないでしょうか。

 なお佐藤氏はクリスチャンでもありますが、宗教の危険性についても十分自覚的です。

一神教の世界でも、多神教の世界でも無茶苦茶な人はいます。一神教が偏狭になる場合、超越性の組み立てに問題があると思うんです。一神教世界におけるカトリック、プロテスタントに顕著に現れることが多い、極端に思いつめて、絶対に正しいものは一つしかないという危険な発想は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のかかえる病理だと思います。絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います。

 唯一の神、絶対なる神という形で他の神々や価値観と競争できるような神は、キリスト教、ユダヤ教の言うところの神じゃないんですよね。そういう概念を超えている神ですから。(33ページ)

私は神学を勉強したことはありませんが、一人のクリスチャンとしてこの態度には賛同しています。また「絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います」というのは至言かと思います。

 『月刊日本』(http://www.gekkan-nippon.com/index.html)と『情況』(URL不詳)に掲載された文章が並存しているこの本は「思考する世論」のために書かれた良書かと思います。「自由主義的保守主義者」としての佐藤優氏に今後とも注目してゆきたいと思います。

2007年5月17日木曜日

ヒロシマ平和映画祭2007への誘い(5/19)



※以下は私の友人が関わっているイベントに関するお知らせです。


まちづくり市民交流フェスタ

ヒロシマ平和映画祭2007への誘い
ー広島から世界中のhiroshimasへ

2007年5月19日(土)
18:00~21:30
まちづくり市民交流プラザ北棟6Fマルチメディアスタジオ
(中区袋町6-36)

資料代:500円

 ヒロシマ平和映画祭は、映画・映像作品を通して、広島の記憶を新た
な世代に伝えるとともに、これからの時代の「平和」について広く考え
ていく場をつくっていくことを目標としております。
 私たちヒロシマ平和映画祭実行委員会は、映画を愛するまったく任意
の市民たちの集まりで、何の財政的な後ろ楯もありません。そんな私た
ちですが、映画祭が市民のみなさまのものとなるため、日々努力してい
ます。そして、今回の映画祭をぜひ、市民のみなさまとともにつくりあ
げたいと考えております。
 一昨年、第一回ヒロシマ平和映画祭を開催し、計43本の映画・
テレビ作品を上映、シンポジウムなどの企画もおこない、延べ
2500人もの方々に来場いただきました。
 2005年の第一回に次いで今夏、第二回を開催予定です。「ヒロ
シマ」を中心に据えた第一回よりも、今回はさらに視野を広げたテーマ
を掲げ、広島内外の各種団体や個人とも連携を強め、さまざまな上映
作・企画で開催致します。
 今年は、1952年までの占領前後に作られた日本映画の隠れた秀
作、現在の優れた海外ドキュメンタリーの日本初公開・広島初上映作品
などを上映するとともに、他団体・機関とも連携しつつ、トークショー
やシンポジウム、アート展示などさまざまなイベントを開催して、前回
以上に充実した映画祭にしたいと考えております。
 今回は、今夏の映画祭に向けて、映画・映像作品上映、実行委員会メ
ンバーによるトークを組み合わせて、みなさんを映画祭へと誘います。

*短編や予告編上映とトークによる、三部構成のプログラムになります。
18時:第一部、19時:第二部、20時:第三部、それぞれ開
始予定。
また、当日、第二回映画祭の現時点での資料を開示・配布致します。

<上映予定作品>
*全体の流れで、上映時間は若干の変更が起こりえます。ご了承くださ
い。
(1)『マッシュルーム・クラブ』(第一部内、18:23頃)
第一回での上映作品。今年、長編新作『ヒロシマナガサキ』が公開され
るスティーヴン・オカザキ監督の名編。
(2)『魔法のランプのジニー』(第二部内、19:00頃)
13歳の少年が作ったことで話題になった作品。原爆を擬人化した笑いの
なかから考えさせる異色作。
(3)『Pawns of The King』(第三部内、20:00頃)
日常の会話のなかにふと現われる亀裂と和解。日米に分かれて戦った日
系人たちのドラマ。
(4)その他、広島の高校生たちが作った作品、映画祭上映予定
作予告編/抜粋を上映致します。

<トーク予定(ヒロシマ平和映画祭実行委員)>
青原さとし(ドキュメンタリー映像作家)、友川千寿美(シネマキャラ
バン)、三浦須磨子(元教員)、柿木伸之(広島市大国際学部)、高橋
博子(広島市大平和研究所)、藤井尚子(フリーアナウンサー、司
会)、東琢磨(音楽・文化批評、司会・進行)ほか。

<お問い合わせ>
ヒロシマ平和映画祭実行委員会
TEL:082-871-3085

インタビュー研究における技能と言語の関係について




「インタビュー研究で、例えば授業を運営する力に関する技能は、どれぐらい解明できるのだろうか」という問題意識から小文をまとめましたので、恥ずかしながら掲載します。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517

恥ずかしながらと言いますのは、書き上げて、読み返してみると自分でも突っ込みを入れたくなるところが明らかになってきたからですが、書き直す時間は今はないので現時点で掲載する次第です。
この小文をまとめたのは、通称「田尻科研」などでインタビューをたくさんやっていたので、上のような問題意識が芽生えていたのが背景になっていますが、直接的には、

光岡英稔・甲野善紀. (2006) 『武学探究 巻之二 ― 体認する自然』 京都:冬弓舎.


を読んで、その深い洞察に魅せられてしまったからです。小文では光岡氏と甲野氏の思想とマイケル・ポラニーの思想の親近性を示していますが、浅薄な議論に終わってしまっています。
このように欠点の多い小文ですが、言語による技能記述に関してご興味を持たれる方なら、多少は面白く読んでいただけるかもしれません(少なくとも上掲書を読むきっかけにはなるでしょう)。

なおこの小文は、旧ホームページに掲載しますが、これからも記事によっては通覧性やその他の実際的便宜のため、旧ホームページに掲載をします。ですが、すべての記事情報は、本ブログに掲載しますので、ブックマークは本ブログにお願いできれば幸いです。

2007年5月14日月曜日

田尻悟郎先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!

田尻悟郎先生(元東出雲中学校、現在は関西大学)の
英語教育実践に関するシンポジウムを、2007年11月24日
(土曜日)に広島大学(東広島キャンパス)で行います。

本日のお知らせはその第一報です。
ぜひこの日をスケジュール帳にメモしておいてください。

正式な申込方法などは後日お知らせします。

☆☆この文書は各種媒体に転載自由です。
広くお知らせいただければ幸いです☆☆


■名称:
「田尻科研」シンポジウム(仮称)


■目的:
(1)田尻先生の英語教育実践を分析してきた「田尻科研」
(メンバー:柳瀬陽介(広島大学)、大津由紀雄(慶應義塾大学)、
横溝紳一郎(佐賀大学)の成果を広く公表する。

(2)田尻先生ご自身に講演もしくはワークショップをして
もらい、最新の田尻実践あるいは教育観について語っていただく。

(3)日本語教育で深い実践と洞察を行っている春原憲一郎氏
と田尻先生に対談してもらい、「ことばの教育」、
「第二言語教育」に関しての新たな理解を得る。


■日時:
2007年11月24日(土曜日)[三連休の中日です]


■場所:
広島大学(東広島キャンパス)
総合科学部 L102教室
※教育学部ではありません!ご注意を!!
http://www.hiroshima-u.ac.jp/category_view.php?folder_name=access&lang=ja


■想定しているオーディエンス:
現役英語教師、指導主事などの英語教育関係者、
英語教師を目指す学生、英語教育研究者、
日本語教育関係者、その他
(参加は無料。ただし事前登録必要。登録方法は
後日お知らせします)


■スケジュール(予定)

第一部
開会行事:シンポの趣旨説明 柳瀬 10分 13:00-13:10
教員研修の改善のために(仮題) 横溝 20分 13:10-13:30
言語学的分析(仮題) 大津 20分 13:30-13:50
言語コミュニケーション力論からの分析(仮題) 柳瀬 20分 13:50-14:10

休憩 20分 14:10-14:30

第二部
英語教師田尻悟郎のライフヒストリー(仮題)(スライドショー) 横溝 20分
14:30-14:50
ワークショップ(あるいは講演) 田尻 60分 14:50-15:50

休憩 20分 15:50-16:10

第三部
対談:田尻実践とは何なのか(仮題) 田尻・春原 50分 16:10-17:00
フロアとの質疑応答 田尻 20分 17:00-17:20
閉会行事(最後に一言) 横溝・大津・春原・田尻・柳瀬 10分 17:20-17:30


■この文書の文責およびこの件に関する問合せ先
柳瀬陽介(広島大学)
082-424-6794
yosuke@hiroshima-u.ac.jp

2007年5月12日土曜日

Barack Obama、あるいは成熟について


未だ現実の試練をあまりくぐり抜けていない人間の過大評価は慎むべきですが、The New York Review of Booksに続いて(下の旧ブログ記事(1)参照)、The New Yorker, May 7, 2007. pp. 46-87Barack Obama氏についての好意的な記事を掲載しました。Staff writerLarissa MacFarquharによるThe Conciliatorという記事です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Obama

Obama氏は、旧来の政治家のように、自らの知識を誇るような態度は取らないし、安っぽい同情や怒りは示さないと書かれています。

He tends to underplay his knowledge, acting less informed than he is. He rarely accuses, preferring to talk about problems in the passive voice, as things that are amiss with us rather than as wrongs that have been perpetrated by them.. ... He comments in a neutral, detached way. He doesn’t express sympathy for sickness, or scorn for bureaucracy, or outrage at unfairness. He says that the system is broken and needs to be fixed, but conveys no particular urgency. (p. 49)

このようにクールな態度こそはが ‘professional’ ではないかと述べた後で、著者は、いや、 ‘medical’という比喩の方がふさわしいのではないかと述べます。

No, Obama’s detachment, his calm, in such small venues, is less professional than medical – like that of a doctor who, by listening to a patient’s story without emotional reaction, reassures the patient that the symptoms are familiar to him. It is also doctorly in the sense that Obama thinks about the body politic as a whole thing. If you are presenting a problem as something that they have perpetrated on us, then whipping up outrage is natural enough; but if you take unity seriously, as Obama does, then outrage does not make sense, any more than it would make sense for a doctor to express outrage that a patient’s kidney is causing pain in his back. (p. 49)

なるほど、(英語)教育界でも、どこかに不倶戴天の敵を見つけてきて(あるいは作り出して)、それをひたすら呪詛するパターンの言説は多くありますが、もし本当に(英語)教育界を良くしようとするのなら、怒りや罵倒ではなく、全体のバランスと相互作用を慎重に見極めながら、少しずつ事態全体を改善する必要がないでしょうか。関係者の話を辛抱強く聞き、全体の構造を理解し、あちらが立てばこちらが立たずのジレンマも受け入れながら、忍耐強くあちらもこちらも活かしてゆこうとする姿勢は大切なような気がします。

Obama氏は、このような態度を、主に、父母、祖父母を反面教師にすることで学んだようです。

Innocence, freedom, individualism, mobility – the belief that you can leave a constricting or violent history behind and remake yourself in a new form of your choosing – all are part of the American dream of moving west, first from the old country to America, then from the crowded cities of the East Coast to the open central plains and on to the Pacific. But this dream, to Obama, seems credulous and shallow, a destructive craving for weightlessness. (p. 51)

ですから、この意味で彼は「保守」であると言えます。

In his view of history, in his respect for tradition, in his skepticism that the world can be changed any way but very, very slowly, Obama is deeply conservative. (p. 52).

私も以前、西部邁氏の言葉をめぐって短文を書きましたが(下記の旧ブログ記事(2)を参照)、私もこのような意味では「保守」でありたいと強く願っています。

もちろんObama氏は民主党員ですが、旧来のイメージの民主党員ではないようです。以下はObama氏自身の言葉です。

“I’m a Democrat. I’m considered a progressive Democrat. But if a Republican or a Conservative or a libertarian or a free-marketer has a better idea, I am happy to steal ideas from anybody and in that sense I’m agnostic.” (p. 53)

ここにおいても私はとても深く同意します。自らがagnosticであることを深く自覚することが、「保守」であることの大切な資質の一つであると思います。自らの信条を大声で喧伝する自称「保守」には、私は常に抵抗を感じています。(ちなみに洋の東西を問わず自らをatheist/atheisticと語る人は現代では多いのですが、それはagnosticの間違いではないでしょうか。神の不在をあなたはどうやって「証明」するのでしょう(不在の証明は、存在の証明よりも一般に、はるかに困難なものです)。私は、神の存在について私はagnosticであると自覚した上で神の存在を信じて生きることを決めた ‘believer’です。自称atheistは、しばしば ‘believer’を軽蔑しますが、agnosticであるにもかかわらずatheistを僭称する彼/彼女らこそは、「神はいない」と信じたいだけの ‘believer’ではないでしょうか)。さらに脱線を重ねますとObama氏も成人後に神を信仰するようになっているそうです。

話を政治に戻しますと、Obama氏は、非現実的であることを嫌い、自由とは傲慢を避けることであり、自分は、知らないことを知っているとは決して言いたくないと語っています。

Even when he was very young, Obama was scornful of, as he puts it, “people who preferred the dream to the reality, impotence to compromise.” (p. 54)

“The spirit of liberty is the spirit which is not too sure that it is right.” (p. 54)

“I don’t want to make claims as if I had been in a position to articulate a clear position on it.” (p. 55)

私はこの記事に、過剰に自分の理想を仮託しているだけなのかもしれません。しかし現代は、あまりに「現実離れすることを誇るリベラル」や「自らの正しさを疑わない保守」が多すぎるのではないでしょうか。そうでなく「異見を容認するリベラル」と「自らの知識と知恵に対して謙虚な保守」がもっと必要ではないでしょうか。また、そうした時にリベラルと保守は通じ合うように思います。

私は下の記事(2)で、自らを「リベラルな保守」と称しました。それが「リベラルな保守」であれ「保守的なリベラル」であれ、この希望的宣言で私が述べたかったのは、成熟した社会を私は望み、そのためには私自身が少しでも成熟しなければならないということです。

Obama氏の動向にも今後注目したいと思います。もちろん保守的な感覚は、生ける人間に過剰な期待を持つことを警戒するのですが・・・

****以下は旧ブログの記事*****

(1)

Barack Obama

The Phenomenon by Michael Tomasky

Barack Obama
という今人気の政治家はレトリックに長けるようです。
以下は彼の演説の一部。

There's not a liberal
America and a conservative America; there's the United States of America. There's not a black America and a white America and a Latino America and an Asian America.
NYR
November 30, 2006. p. 14

なるほど、古典的ともいえるレトリックですね。

しかしもちろん彼は口先だけの人間ではなく、健全な判断力も持っているようです。

I believe it is in the interest of both Americans and Iraqis to begin a phased withdrawal of US troops by the end of 2006, although how quickly a complete withdrawal can be accomplished is a matter of imperfect judgment, based on a series of best guesses.
NYR
November 30, 2006. p. 16

"A matter of imperfect judgment, based on a series of best guesses"
なんて覚えておきたい表現ですよね。ここを見誤ると大変なことになりますから。自他を制するこのような台詞は重要です。

彼は民主党ですが、いわゆる「リベラル」とは一線を画しているというのがこの著者の見解のようです。

He really is not a political warrior by temperament. He is not even, as the word is commonly understood, a liberal. He is in many respects a civic republican -- a believer in civic virture, and in the possibility of good outcomes negotiated in good faith.
NYR
November 30, 2006. p. 17

2008
年の大統領選挙に向けて、彼はどう出ますでしょうか。



(2)

「保守」とは何か

私という人間を形容する言葉は何だろう、と思っていたら"liberal conservative"という言葉が浮かんできました。(けっこう暇だね、私も)

私は、文化的・政治的には"liberal"、というより「ストライクゾーン広し!」のような人間かと思いますが、本質的なところでは、口語でいうところの「おそれ」です。

果ては全体主義的国家から、末は官僚主義まで、私は、人工的な計画の実施をけっこう「恐れ」ています。ハイエクのいう「設計的合理主義」--世界や人生を設計図どおりに作り変えようという知性--を警戒しています。そのような知性の驕慢にはしることにより、私たちが気づいていないかもしれない昔からの知恵が失われているかもしれないことを「怖れ」ています。

さらには、人間にはなかなか理解しがたいが、実は真にして義なることがあるのではないかと「畏れ」てもいたりします。ですからこの世俗的な日本の中の、「科学主義」がしばしば見られる中途半端な人文社会系の学界に属するにもかかわらず「神」などを信じたりしています。私は本質的なところで"conservative"なのではないかと最近思うようになってきました。

まあ、歳を取ってきただけのことかもしれませんが。

下は、西部邁氏の言葉です。

人間は合理的なことしか理解できないわけね、でも自分の理解を超えた不合理なことがある、だから信じるんだと。自分には保守すべきものが何であるか分かりやすく言うことが難しい。難しいからこそ、それがあるはずだと探し始める。ところが、世間の右翼や自称保守は、保守すべきものが「ここにある」と思ってる。そんなものがあれば苦労はないって。

西部邁「保守とは何かを考える」毎日新聞2007424

個人と文化


私たちは、文化とは昔からそこにあるもので、別段そこには個人の貢献などはないものだと思いがちです。もちろんそれで正しい場合も多いのでしょうが、アメリカのジャーナリズム文化にはある個人の貢献が大きかったようです。George Packerという人によるThe New Yorker (May 7, 2007, p. 29)の記事は次のように言います。

In 1963, the notion that a newspaper reporter might challenge the official story of generals and ambassadors in the middle of a war, essentially accusing them of lying, was so improbable that it could have occurred only to someone still in his twenties.

しかしながら、それをやってのけたのがDavid Halberstamです。

http://en.wikipedia.org/wiki/David_Halberstam

彼は、当時の将軍の不誠実な態度に憤りを感じ、徹底的な批判記事を書くだけでなく、大使館のパーティの席で、将軍との握手を拒否するまでのこともやりました。

Halberstam’s wartime work will last not just because of its quality and its importance but because it established a new mode of journalism, one with which Americans are now so familiar that it’s difficult to remember that someone had to invent it.

現代アメリカの良きジャーナリズム文化は、Halberstam個人の勇気と良心によって創られたのです。彼の代表作、 “The Best and the Brightest”について著者は次のように言います。

I read “The Best and the Brightest” in Iraq in the summer of 2004. By then, that war had gone badly, perhaps irretrievably, wrong, and Halberstam’s three-decade-old book seemed like front-page news.

私たちの業界においても社会においても、「こんなもんだから」「仕方ない」「難しいことをいわずに」などと諦めムードに流されず、ある個人の貢献を、その他の人々がそれぞれに評価し、良きものにはサポートを行い、悪しきもの(と思われるもの)には建設的な批判を行い、より良き文化を作り上げたく思います。

Zone of Proximal Development

子どもは周りの社会-文化的環境に助けられて言語も習得するというポイント(Zone of Proximal Development: ZDP)を印象的にするために、Leo van Lier (2004) The Ecology and Semiotics of Language Learning: A Sociocultural Perspective. Kluwer Academic Publishers: Bostonの37ページで使われた表現です。思わず笑ってしまったので、ここに掲載しておきます。

For example, if in response to the baby's "Goh!" above the adult had responded: "Notice, small fellow, that this particular canine, which you have somewhat amgiguously referred to as 'Goh,' -- presumably your immature approximation of the word 'dog' -- is of the sub-species 'mutt,' characterized by crooked paws and lopsided ears, found originally in the foothills of Neasden, and recently promoted to the status of domestic companion in the Bavarian hinterland," the baby might not have made much headway linguistically, cognitively or socially, in spite of the vastly superior level of information provided. The close connection between the learners' actions and the adults' rejoinder relates to the notion of the ZPD.


http://en.wikipedia.org/wiki/Zone_of_Proximal_Development

知識人の役割

以下は、ある官僚の方が、文系の研究者を前に行った講演の要旨です。旧ホームページを整理したら出てきたので、このブログでも再掲します。

世論のemotionalな暴走を牽制し、counterbalanceとしての長期的かつ抽象的思考を提供するのが「知識人」の役割である。現代日本では学者は自分の研究の蛸壷に逃げ込むか、大衆と同化し評論家になるかのどちらかに傾いていることが多く「知識人」としての役割を果たしていない。また日本にはquality paper等の知識人のforumもない。知的エリートが存在しない(もしくはその存在を認めない)のは、世界的な観点からすれば歴史的にも地域的にも極めて特殊なことである。実務家の一人としては、日本の学者----特に文系の学者----に頑張って欲しいと願わざるを得ない。しかし日本のアイロニーの一つとして、憲法で守られている分野の競争力が弱いということがある。皆さんの自浄作用を期待します。

この言葉からすると、私はとても知識人の役割を果たしていません。妙に世間に迎合した安直な言葉をウェブに垂れ流す評論家もどきになっているからです。「ウェブは基本的に自己顕示欲の巣窟」ということを私はこの10年余りのネット生活で感じるようになってきました。もっときちんとした学術的な仕事をしなければならないと思います。

ただ私はウェブも自己顕示欲も善用できると楽観もしています。ウェブという公共空間も、そこに集う各人の自己顕示欲も、うまく使いこなせば、良識ある知的共同体を日本の英語教育界に作り出すことに貢献できると信じています。ブログを続けている次第です。

Exploratory practice

以下は、この三月に、某教育委員会の連絡協議会であいさつをした時の内容です。

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先日、神戸で開催された英語教育研究の国際会議に出席しましたので、その時に学んだことをお話してあいさつに代えたいと思います。
http://yosukeyanase.blogspot.com/search/label/Exploratory%20Practice


私なりにまとめますと、その会議では英語教育研究の第三の波について討議されました。第一の波は1980年代中頃に標準化された科学的研究の波です。簡単に言いますと、実験心理学の真似をすれば、現場に役立つ知識が得られるのではないかという期待があったわけです。ですが、厳密な実験研究のフォーマットに従おうとしますと、どうも現場の感覚や認識とは離れてしまいます。


そこで第二の波が起こりました。アクション・リサーチです。英語教育界では1990年代中頃までにはずいぶん普及したのではないかと思います(日本はちょっと遅れましたが)。第一の波に比べて、第二の波は、現場でアクションを起こすことを重視して、そこから学ぼうという姿勢を明示しました。これもよかったのですが、折からの時代の風潮にあおられ、現場はとにかく何かアクションを起こすことを次々に求められました。予算獲得や「アカウンタビリティ」のために、他人にわかるような形で次々にアクションを起こし、その結果を第三者にもわかるような形で測定し報告せよといった命令が各地で実践者に下されました。その中で多くの現場が「改革疲れ」を起こしてきました。「また次のアクションか。そして報告書か。勘弁してくれよ」といったわけです。


そうして第三の波が起こりつつあります。それがExploratory Practiceです(ここではとりあえず「探索的実践」あるいは「探求的実践」と訳しておきます)。これはアクション・リサーチよりも、もっと現場の実情に適った活動をしてゆこうとする動きであると私は理解しています。本日は時間がありませんからその主な特徴を二つだけあげておきます。(cf http://www.momiji.h.kyoto-u.ac.jp/activities/lecture1.htm )


一つは理解を重んずるということです。改善のためのアクションを起こすことも大切ですが、そのまえに実践に関わる全ての者がしっかりと自分たちの実践を理解しておくことが重要だというわけです。「理解」なんて報告書に書きにくい事は、「アカウンタビリティー」全盛の昨今では軽視されがちかもしれませんが、相互理解なくして、共同体の実践がうまくゆくはずはありません。また人間は、それが子どもであれ、大人であれ、自分をちゃんと理解してくれる人のためには、何かをしよう、何とか役に立とう、善処しよう、とするものです。まずは理解を、それがたとえ数値になりにくいにせよ大切にしてゆこうというのがExploratory Practiceの第一の特徴です。


第二の特徴は、inclusivenessということです。関係者全員を巻き込むことです。Exploratory Practiceでは、研究者としての教師は学習者を、独自の実践者と考え、学習者の声をできるだけ聞き取ろうとします。教師が聞きたいことだけを聞くのではありません。学習者は「研究データ源」ではないのです。学習者の生態をありのままに理解しようとするのです。もちろん学習者の声には明らかに間違った見解も入っているかもしれません。でもそれならそれで、なぜそのような見解を抱くように至ったのか、そもそもそれは間違っていると本当にいえるのかと、学習者をもっとよく理解しようとするのがExploratory Practiceの特徴といえるかと思います。


考えてみますと、今までは「研究者(あるいは行政者)>教師>学習者」というヒエラルキーがなかったでしょうか。研究者(あるいは行政者)は、教師をあまり理解しようとしないままに次々に「正しいこと」を押し付けます。教師は学習者を理解しないままに、勉強を押し付けようとします。そのような権力関係で相互理解の可能性をつぶしてはいけないと思います。その意味でExploratory Practiceは教育実践の民主化であり人間化であると私は考えています。


現在、小学校への英語教育導入で全国各地が大騒ぎになっています。行政の皆様にお話している研究者の端くれとしての私は、行政者と研究者が、まず小学校の先生方のことをよりよく理解しようとすることが重要であることを自戒を込めて訴えたいと思います。小学校の先生方の不安や具体的な問題を無視してはいけません。それらを正しく理解することからすべてが始まります。そして小学校の先生方が、新しい英語という教科(あるいは活動)でも、引き続き児童のことをよく理解することを続けることが必要です。決して「これが時代の流れだから」とか「もう決定したことだから」といった曖昧な言葉で、権力を押し付けて、私たちのよりよい相互理解による教育実践の自己改善の芽を摘んではいけないと思います。


児童だけでなく小学校の先生方の'quality of life'を守るのが行政者そして研究者の仕事ではないでしょうか。

「俺がこの世を変えてやる」の危うさ

研究とは時にあまりにもまどろっこしく、役に立たないもののようにも思えますが、クールな態度というのは堅持しなければならないものでしょう。身体運動の実践家の言葉です。

現在の私は、あくまでも縁のあった人達に、現代の常識として広まっているトレーニング法や稽古法を見直し、発想を転換してもらうことを促すために活動しているのであって、"正しい"稽古法を広めているわけではないのである。


 また、私のこうした立場の堅持は、かつて「これが正しい」とか「最高」と言って絶対化して人々に普及させようとした大小のカリスマ達が繰り返してきた結末の惨状が、あまりにも明確に目に浮かぶからかもしれない。


 「俺がこの世を変えてやる」という意気込みは、いつの間にか支配欲に呑み込まれ、名誉欲に転がされ、権力欲に乗っ取られ、"世の為""人の為"と言いな がら、そうした諸欲の泥沼から抜けられなくなって、周りを見回せば自分の顔色をうかがうイエスマンばかりに取り巻かれているという事になっていたりする。


甲野善紀 

http://www.shouseikan.com/zuikan0703.htm#4

生きるために許す

「神が私たちの罪を許したように(容疑者の罪を)許したい。簡単なことではない。だが、憎めばそこから動けなくなる。明日を生きるためにも、許したい」。

銃乱射事件で孫娘二人を殺されたアーミッシュのイーノス・ミラーさん(63)の言葉です。(毎日新聞2007年4月5日)


敵を許すことは、聖書が教えることです。しかし聖書の教えは生きるためのものです。違反する人を罰しようとする戒律や律法ではなく、守ろうとする人を生かそうとするのが聖書の教えかと思います。

統合的な英語教育研究

2007年3月30日に田尻悟郎先生(島根県東出雲町立東出雲中学校教諭、4月より関西大学教授)は、NHK教育テレビに二回登場しました。最初は「英語デビュー大作戦」の再放送、二回目は地味ですが非常に評価の高い「視点・論点」でした。最初の番組で蝶ネクタイをして転げまわって英語の楽しさを伝えていた田尻先生が、「視点・論点」では正面からカメラを向き、明確な論旨で切々と「教師の力量」について語ったところに、私は田尻先生の引き出しの多さというか奥深さを感じました。

「視点・論点」に関しましては、あるメーリングリストで次のようなまとめが流れましたので、ここでもそのまとめを投稿者の許可を得て掲載します。

●「良い授業」とは一方的な知識の注入ではなく、生徒が自ら学び、仲間と協力し、知ることの喜び、関わることの喜びを感じられることの授業である。

●生徒への話し方も重要なポイントであり、教師の声のトーン、言葉の選択、表情などは、生徒が心を開くかどうかの分かれ目となり、これもプロの教師として求められる力量である。

●生徒指導というと、問題が起こった後の事後指導というイメージが強い。本来は生徒をどのように育てたいかという、明確な目標を持ち、在学期間中だけではなく、卒業後何十年にもわたって、生徒がたくましく、心豊かに生きていくための指針を与えることが生徒指導である。

●生徒に寄り添い、鍛え、共に汗を流すことによって、生徒は教師を信頼し、自らを高めようとする。

●教員の資質向上のため、教育委員会が研修会や研究会を実施しているが、必ずしも成果を上げているとはいえない。

●研修会の成功の鍵を握るのは、研修会の内容と講師、参加する教員の意欲とプロ意識である。

●それぞれの先生方は研修で学んだことを基に、自ら継続的に研鑽し、生徒からアンケートをとって、授業のアセスメントを行ったり、作品や活動、レポートなど、生徒のアウトプットを分析したりして、授業の質を高める努力をして頂きたい。

●教師の力量として案外見逃されがちなのが、行事で生徒を育てる力である。

●行事は単にやればいいというものではなく、それぞれの行事で生徒をどのように成長させるかという視点が必要である。

●残念なことに行事についての研修はほとんどない。

●活気のある学校は、生徒会活動が活発であり、行事に積極的に関わる姿勢は、企画力・運営力・協調性など、社会に出てから必要とされる力を育む。


こういった論点だけ見ますと、すぐに「これは英語教育ではない」などとコメントする英語教育研究者(あるいは時として英語教師)の方々もいらっしゃいます。ですが、私はあの素晴らしい田尻英語教育実践は、こういった問題意識を持ち続け、かつそれを行動にしていったからこそ可能になったと考えています。

学校教育において、英語の授業は、孤立して存在しているわけではありません。生徒は「英語学習者」「第二言語習得者」だけであるわけではありません。英語の授業は、生徒が生きる社会状況、学校文化、教師や生徒間との人間関係の中に成立しているものです。生徒は「英語学習者」である前に人間です。思春期の揺れ動く心をもった人間です。そういった人間的側面を無視して、あるいは捨象して、よい英語教育実践や英語教育研究ができるとは私は思えません。そもそも英語教育とは英語という言語を通じてのコミュニケーションの教育なのですから。

もちろん私とて、研究などにおいて、あえて興味範囲を絞り、専門性を高めることの利点を否定などしません。そういった専門化のないところには研究のブレイクスルーも生まれないでしょう。しかし細分化された専門的知識は、つねに統合的で複雑な現実を背景にして考察されなければなりません。また統合的で複雑な現実を、過度に単純化することなく、そのままに記述しようとする研究も必要かと思います。たとえそれが「多くの専門(=科) に分かれた学問(=学)」という意味での「科-学」にふさわしくないにせよ。( ‘Science’という言葉も、ラテン語で「知識」を意味する ‘scientia’ からきていますが、それも、 ‘from scient-, sciens (present participle of scire to know) + -ia -y; akin to Latin scindere to cut, split’ とMerriam-Websterは語源解説しています)。

英語教育研究も、もっと学習者のいる人間的状況について、実証的かつ理論的にアプローチするべきだと私は考えます。