2007年5月12日土曜日

統合的な英語教育研究

2007年3月30日に田尻悟郎先生(島根県東出雲町立東出雲中学校教諭、4月より関西大学教授)は、NHK教育テレビに二回登場しました。最初は「英語デビュー大作戦」の再放送、二回目は地味ですが非常に評価の高い「視点・論点」でした。最初の番組で蝶ネクタイをして転げまわって英語の楽しさを伝えていた田尻先生が、「視点・論点」では正面からカメラを向き、明確な論旨で切々と「教師の力量」について語ったところに、私は田尻先生の引き出しの多さというか奥深さを感じました。

「視点・論点」に関しましては、あるメーリングリストで次のようなまとめが流れましたので、ここでもそのまとめを投稿者の許可を得て掲載します。

●「良い授業」とは一方的な知識の注入ではなく、生徒が自ら学び、仲間と協力し、知ることの喜び、関わることの喜びを感じられることの授業である。

●生徒への話し方も重要なポイントであり、教師の声のトーン、言葉の選択、表情などは、生徒が心を開くかどうかの分かれ目となり、これもプロの教師として求められる力量である。

●生徒指導というと、問題が起こった後の事後指導というイメージが強い。本来は生徒をどのように育てたいかという、明確な目標を持ち、在学期間中だけではなく、卒業後何十年にもわたって、生徒がたくましく、心豊かに生きていくための指針を与えることが生徒指導である。

●生徒に寄り添い、鍛え、共に汗を流すことによって、生徒は教師を信頼し、自らを高めようとする。

●教員の資質向上のため、教育委員会が研修会や研究会を実施しているが、必ずしも成果を上げているとはいえない。

●研修会の成功の鍵を握るのは、研修会の内容と講師、参加する教員の意欲とプロ意識である。

●それぞれの先生方は研修で学んだことを基に、自ら継続的に研鑽し、生徒からアンケートをとって、授業のアセスメントを行ったり、作品や活動、レポートなど、生徒のアウトプットを分析したりして、授業の質を高める努力をして頂きたい。

●教師の力量として案外見逃されがちなのが、行事で生徒を育てる力である。

●行事は単にやればいいというものではなく、それぞれの行事で生徒をどのように成長させるかという視点が必要である。

●残念なことに行事についての研修はほとんどない。

●活気のある学校は、生徒会活動が活発であり、行事に積極的に関わる姿勢は、企画力・運営力・協調性など、社会に出てから必要とされる力を育む。


こういった論点だけ見ますと、すぐに「これは英語教育ではない」などとコメントする英語教育研究者(あるいは時として英語教師)の方々もいらっしゃいます。ですが、私はあの素晴らしい田尻英語教育実践は、こういった問題意識を持ち続け、かつそれを行動にしていったからこそ可能になったと考えています。

学校教育において、英語の授業は、孤立して存在しているわけではありません。生徒は「英語学習者」「第二言語習得者」だけであるわけではありません。英語の授業は、生徒が生きる社会状況、学校文化、教師や生徒間との人間関係の中に成立しているものです。生徒は「英語学習者」である前に人間です。思春期の揺れ動く心をもった人間です。そういった人間的側面を無視して、あるいは捨象して、よい英語教育実践や英語教育研究ができるとは私は思えません。そもそも英語教育とは英語という言語を通じてのコミュニケーションの教育なのですから。

もちろん私とて、研究などにおいて、あえて興味範囲を絞り、専門性を高めることの利点を否定などしません。そういった専門化のないところには研究のブレイクスルーも生まれないでしょう。しかし細分化された専門的知識は、つねに統合的で複雑な現実を背景にして考察されなければなりません。また統合的で複雑な現実を、過度に単純化することなく、そのままに記述しようとする研究も必要かと思います。たとえそれが「多くの専門(=科) に分かれた学問(=学)」という意味での「科-学」にふさわしくないにせよ。( ‘Science’という言葉も、ラテン語で「知識」を意味する ‘scientia’ からきていますが、それも、 ‘from scient-, sciens (present participle of scire to know) + -ia -y; akin to Latin scindere to cut, split’ とMerriam-Websterは語源解説しています)。

英語教育研究も、もっと学習者のいる人間的状況について、実証的かつ理論的にアプローチするべきだと私は考えます。

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