2007年7月30日月曜日

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 1/7

0 はじめに

 韓氏意拳の光岡英稔氏と、武術家の甲野善紀が共著で著された光岡英稔・甲野善紀(2006)武学探究 巻之二 ----体認する自然』(冬弓舎)を一年数か月前に読んだ時、私は本当にその本の内容に引き込まれてしまい、この本を自分なりにまとめておかないと、なんだか先に一歩も進めなくなるような気すらして、旧ホームページにまとめの記事を書きました。

 しかし「まとめの記事」として、自分なりに英語教育の事象と絡めながら書いたその文章ですが、大半は同書の紹介となったので、著作権を尊重するために、後日、その記事は自主的に撤去しました。それでも、その本のインパクトは私の中で残り続け、ある論考をまとめるにいたりました。とはいえ、この論考とて、光岡氏と甲野氏の論考とマイケル・ポラニーの論考の親近性を指摘し、そこから得られる英語教育研究への示唆を書いただけに終わってしまいました。


 自ら何のオリジナルな貢献もできない自分にほとほと嫌気がさし、私はしばらく韓氏意拳のことを考えることを拒否しました。この『FLOW』の本も発刊されたらすぐに購入はしたものの、わざと私の目の届かないところにおいておりました。深い思想を、一知半解の俗見に変えてしまった自分が嫌で嫌で仕方なかったからです。

 しかしやはり韓氏意拳の思想は気になります。先日、といっても二、三か月前のことですが、今の自分なら読めそうだと、本棚からこの本を取り出しますと、はたせるかな、一気に最後まで読み通しました。そうしてまたこりもせず、この本を自分なりに咀嚼しないと我慢できないという衝動にかられました。以下は、同書の論考の中で私に響いたところを、私なりに再構成したものです。包括的な要約などではありません。少しでも同書に興味を持った方は、ぜひお買い求めください。

 さらにお断りを付け加えておきますと、私はこれまで漫然と空手の稽古を続けたりしておりましたが、まったくものになりませんでした。ですから身体運動についてはごくごくわずか「かじった」ぐらいです。そのような人間が身体運動哲学のこの本について何か書こうとするのは、まさに一知半解以下のまことに愚かな行為です。ですが、私はその愚かなレベルから始めないと何もできないので、このように文章をまとめた次第です。

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 2/7

1 言語の限界について

 私たち英語教育に関わる人間は、学習者が英語という第二言語を習得するさま、あるいは教師が英語を教えるさまをできるだけ言語で適確に表現しようとします。それどころか、言語ではまだまだ多義的過ぎるとばかりに言語を「構成概念化」し、さらにそれを「操作的に定義」して測定し、数値化して一義的、客観的に言語習得や教授技術を記述しようと試みています。しかし、そもそも言語表現とは、厳密な数値化に適するような「客観性」を有したものなのでしょうか。それとも反対に、言語表現とは、単なる主観的で恣意的な戯言に過ぎないのでしょうか。同書の中で言語について書かれたところをいくつか抜書きしながら私なりに論を再構成してみます。その要旨は、(1)言語化とは単純化であり既視化である、(2)言語表現は数学表現でもなければ全くの戯言でもない、(3)言語表現は関係性の中で理解されるべきである、となります。

(1)言語化とは単純化であり既視化である

 日頃の私たちにとって言語とはあまりに自明であって、言語表現とそれが指示(refer)する対象物・指示物(referent)の関係には何の問題もないように思えます。すなわちXという言語表現は、常に同じYという対象物・指示物を指すのであり、Xが使われるたびに指示されるY1Y2Y3という対象物・指示物は同じYのヴァリエーションに過ぎないというわけです。どんなヴァリエーションであれ、Yという対象物・指示物はXという言語表現で過不足無く指示されるというわけです。

 しかし、Yが比較的単純な対象物・指示物であっても、それをXと呼ぶことは、一種の単純化であり、Yの属性を私たちの既存の枠組みに押し込めようとする既視化でもあるという警戒を一方でもっておくことも重要かもしれません。

眼前に花があって、その花の美しさについて巧みに語ることができたとする。しかし、経験的に知られた「花」について饒舌に語っても、花として名づけられる以前の存在「それ」について語ることはできない。しかも、それを花と呼ぶ以外の方法で、その存在について言うこともできない。

花を花として同定していくことは、存在を限定するということだ。限定するという暴力によって言葉は言葉として伝わり、客観性を獲得する。けれど移ろう世界は決して客観的に名指しはできない。

現代では客観的な物の見方が金科玉条のように奨励され、そう言われるうちに「客観性が正しい」という考えに染められ、それを疑うことがなくなりがちだが、実際のところ客観的だから正しいかどうかわからない。客観性そのものには、正邪や是非はない。客観性とは、世界を既に知られた事実に収束していく認識だと言い換えたほうがいいのではないか。(26ページ)

 まして、私たちの課題は、第二言語の獲得のさま、第二言語教授の際の状況把握や判断のさまを言語で捉えることでした。その「対象物・指示物」は、花以上に単純化・既視化になじまないものといえるのかもしれません。私たちは「それ」を語る困難をより自覚し、「それ」を表す言語表現の選択にもっと呻吟するべきかとも思います。そうして選んだ言語表現Xをも、「それ」は常に裏切るものですらあるという自覚は必要でしょう。

(2)言語表現は数学表現でもなければ全くの戯言でもない

 ですから私は、英語教育研究の記述において、日常語を構成概念化し「X」と命名して、それを操作定義で一義的に「Y」として扱い・・・といった量的研究法の「脆さ」「危うさ」に関する懸念を払拭することができません。もちろん「一般性」を追求しようとすれば上記のような方法がもっとも標準的な作法であり、私はそのようなアプローチを全否定するつもりもありません。ただ無自覚で無批判的な全肯定だけはしたくないのです。言語表現(そしてその翻訳延長としての数値)は、純粋な数学表現のような厳密性・同一性あるいは抽象性・客観性は持ちえません。(それに付け加えておきますと、英語教育研究にはあまりに恣意的な構成概念化が多過ぎると思います)。

しかしだからといって言語表現が全くのナンセンスというわけでもありません。言語表現とは、私たちが生きて認識する「過程」の中にあるものであり、常に未決で未完成のものであるということを忘れないようにしたいと私は考えます。

たとえば夕陽を見て「赤い」と感じても、その「赤」は、他人と同じ赤には見えているとは限らない。だから、「同じ赤ではない以上、人は感じていることを本当は互いに理解できない」、または「同じ赤ではないけれど、それでも互いに赤と見える以上、何か認識には共通項があるはずだ」と、感じた不安を埋めるべく考えることが、「考え方の正しい道筋だ」と思ってしまいがちだ。しかし、真実はそのいずれでもないのではないか。

「わからない。けれどもわかってしまう能力が人には備わっている」ことが実態であり、真ではないか。そこには明確な言葉遣いをすることで綻びを覆い隠そうとする魂胆も不安もつけ入る隙がない。

人は名づけようのないものを前にすると不安になるが、それはこれまで培ってきた自己の経験や知識に「それが」が該当しない、つまり未知だからだろう。未知をつかまえるには、言葉で記述することだけが大切ではなく、それに添う体認が重要になる。それが未知を経験するということであり、普通それを「生きる」という。

感じたことを言語化し、認識しないと不安になるのは、特に現代のように情報化が尊ばれる社会ではなおさらだ。(90-91ページ)

 私たちは常に「未知」と共にあり、それを否定すること、既知の言葉を振り回してその存在を無視することは、私たちの「生」の重要な部分を覆い隠してしまうのではないでしょうか。第二言語を獲得することや、第二言語を教えようと目の前の一人一人に働きかけるという「生」を言語化するには、言語表現という「知」は常に「未知」を包含した未完性品であることの自覚が必要であるように思います。

(3)言語表現は関係性の中で理解されるべきである

 言語表現は常に過程の中にあり、完成品ではないということの別側面は、言語は常に、ある特定の状況下で、ある特定の誰かに語られる過程の中で、その時点でのベストとして生成されたものに過ぎないという語用論的認識です。言語表現は、誰でもありえない中立な観察者が、どこでもありえない一般的な時空で表現された、恒久的な真理ではないのです。ですから言語化は、限定的な私たちの最善として尊重されるべきであり、同時にその限定性ゆえに相対化されなければならないのです。

言葉にすることが大事であり、大事でないのは、私の言葉は、私が発しないと始まらないが、同時に他者との関係の中でしか私の言葉は存在し得ないからだ。言葉は固形物ではなく、まして固定された「私」のものでもなく、誰かと交換し、つながる運動の中で初めて力を持つ。自分がいるから相手がいるが、自分は相手がいないと自分として現れない。この世の関係はすべて運動であるから、「確固とした自分」というような固定した支点をつくることは本来できない。(171ページ)

 言語表現とは単純化され既視化された私たちの便法であり、数学的な真理などとは似て非なるものであるが、それでも私たちの知性の最善の一つです。それは未知を常に含む知であり、それがゆえに常に発展過程にあります。言語表現は、それが属する過程と関係性の中で慎重に扱われるべきでしょう。

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 3/7

2 法則化の限界

 言語の限界を認めるということは、言語によって表現される法則の限界も認めることにつながるかと思います。またそれは言語化の可能性をよりよく理解することでもあり、法則化の可能性をよりよく理解することでもあります。

 第二言語教授の方法論に関する研究も、今でも依然として根本の発想では「こうすればうまくゆく」とばかりに、「XY」という法則の形での記述を目指しているように私は理解しています(誤解があればどうぞ正してください)。この発想法は、通俗的な科学の発想ですから、科学によるコントロールを一種の理想とする多くの現代人にはアピールします。しかし尹氏はこのように釘を刺します。

過去の経験を整理し、うまくいった法則を導き出し、それを単純にしてパターン化すれば、誰にも伝えられ、学ぶことができる。武道に限らず、生活全体がそんな発想になれているが、複雑な事柄を単一化できるのは、そこに揺らぎのない確実な法則があるのではなく、複雑で起伏に富んでいるはずの運動を平準化する眼差しがあるからにすぎない。(28ページ)

 なるほど法則記述は、客観的な記述で、「誰でもこうすればこうなる」という記述を目指します。それが成功することも多いでしょう。しかしその代償は、事象の複雑さを平準化してしまうことです。記述のレベルを粗略にしてしまい、私たちの認識もそのレベルにまで落としてしまうことです。そういったレベルの記述や認識は、まったくの初心者や門外漢には有益なことも多いでしょう。

しかし当該分野においてある程度の熟達を示したものなら、そういった粗雑な記述と認識は、凡庸で取るに足らないと思われるのかもしれません。英語教育研究でも時に、何をムキになって、そのように当たり前のことを「証明」あるいは「実証」しようとしているのだろうと研究の動機に共感できないことは今でもあります。かつてフッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で、一般化・数量化についてガリレオを提喩として使い「ガリレオは発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもあった」といったように述べたと記憶していますが、こういった20世紀前半からの現象学的発想は、私たちがもう一度学び直してもよいことかと思います。(この本の著者の尹氏もハイデガーの『存在と時間』を参考文献の一つとしてあげています)。

 もちろんこういった(通俗的な意味での)科学批判は、科学の意義をすべて否定しようなどという反動的思考ではありません。そうではなく、科学という営みを、人間の営みの一つとして位置づけ、より広い立場から物事を考察してゆこうと促しているわけです。

何も「科学的な見解を登場させることで客観性が保たれる」という発想を否定したいのではなく、そう言いたがる人は科学的な見方も方法論のひとつだということを見落としているのではないかということだ。

何が言いたいかといえば、科学的な見解の妥当性に対し、疑いを挟むことではなく、まさに「客観性を重んじる」という名目が、その人を深い眠りに誘ってしまっているという事態についてだ。(68ページ)

 「客観性を重んじる」あまり、私たちが忘却していることの一つが感覚の働きです。曖昧で微妙で、あまりに深く、言葉にならない(“too deep for words”)感覚は、「不正確」で「誤りやすい」ものと考えることが現代で通用している考えかもしれません。しかしこういった考えにも反省が必要でしょう。感覚でとらえるからこそ正確にとらえられることもあるのかもしれません。

どういうわけか、現代では感覚は曖昧なもので、「思考で導かれたものが正しい」という考えが蔓延している。けれど、「曖昧だから正確」で「考えるから誤る」場合もあることについては、あまり考えられていない。(56-57ページ)

もちろん感覚が常に正しいというのも、反動的な蒙昧でしょう。そのように極端から極端に振れるのではなく、客観性と主観性、思考と感覚といった対立の往復運動の中で、より妥当な認識を目指すことが、私たちが心がけるべきことでしょう。法則化への無批判的な邁進は、法則化の全否定と同様、賢明なこととはいえません。

 そのような対立関係にあるのが、静態と動態かと思います。通常の学問・科学あるいは法則は、事象を静態にあるものと理想化して解明を進めます。そうして得られた知見は、莫大なものにおよぶのですが、動態でないと理解できないこともあるかと思います。静態の理解には思考が適しているかもしれませんが、動態の理解には感覚が適しているかもしれません。この意味でも感覚の重要性は現在、強調されるべきでしょう。授業の技術にせよ、言語習得・使用にせよ、人間が、どのように流動的な状況の中で認識をし、行動をするかという動態的な理解は重要なはずです。動態的理解の重要性に関しては次のように述べられています。

またこの正しい形とは、ガチッと微動だにしない銅像のような固定した構造ではない。正しいかそうでないかは、身体の運動より先に存在しない

「動きがない限り構造は理解できません。韓氏意拳を説明するときに平面化してはわからないし、動きが必要でなかったら言葉の説明だけで済みます。構造の運動の理解が、その感覚と一致することが大事です。だから韓氏意拳の学術を理解する上では感覚が重要視されます」と光岡師は言う。(73ページ)

 かくして韓氏意拳では感覚を活かす「体認」が重要視されます。この「体認」こそは、韓氏意拳の最重要概念かもしれません。次はその「体認」に関して簡単に考察してゆきましょう。

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 4/7

3 体認とは

(このセクションの記述では、他のセクションにもまして、私の曲解・誤解を怖れます。皆様はぜひオリジナルの本をお読みください)

 「体認」などといった独自の概念を理解するには、まず通常私たちが経験している日常概念を喚起し、続いてその日常概念を修正・否定しながら新しい概念理解を進めてゆく方法があると思います。そういった便宜上導入する日常概念として、尹氏はケーキを味わうことを例としてあげます。

たとえば腕のいいパティシエのつくったケーキは、甘さ、酸味、苦味、しっとりとした感じなど、単一の味に還元できないさまざまな質感が舌の上に瞬間に同時に現れる。それはケーキの味がさまざまに現れて消えるという、いま起きている運動の中にしかない。それはまさにいま起きていることで、かつて食べたことのある何かに引き寄せられないし、味覚に手応えを覚えた時点で、それは事後的に語られた感覚でしかない。(77ページ)

運動という経時的過程の刻々において同時に経験される、複数の質・度合い共に異なる経験の現実こそが「体認」なのでしょうか。しかしそれは「ああ、これはおいしい」と感覚を言語化・固定化することでもありません。そういった認識は、現在まさに進行している「体認」を、言語によって、過去の経験枠の中に押し込めてしまうことであり(=「確認」)、「生きている事実をそのまま受け止める」ことではないのです。「生きている事実をそのまま受け止める」とはめくるめく展開の生成の中にいることであり、それは新しい人生の創造であり、「経験したことのないことを経験」することなのです。

 尹氏は、韓氏意拳の光岡先生の言葉を引用しながら「確認」と「体認」が、似て非なることを明らかにします。

光岡師はこう強調する。「確認は自己を枠の中に押し込めることで、体認とは枠の外を知ることです。枠の中だけでは新しいことは考えられない。未知を知ることが進化であり、だから体認が重要なのです」。(78ページ)。

 「体認」とは、言ってみるなら「今を生きる」わけであり、今、人生が創造される只中にあることと、となるのでしょうか。この「体認」に即して、尹氏はこの本のタイトルでもある “FLOW”という言葉を登場させます(補注)。

自分がまさに刻々といまを生きているとは、生成するFLOWの状態に常にあるということで、いま起きている新たなことは、既に知っている事柄には置き換えられない。この「置き換えられない」移ろう状態をただ知るのが体認で、未知を未知のものとして、「私はそれについて知らない」という把握の仕方をする。(76ページ)

補注: FLOWという言葉の表面的な一致からは、私はM. チクセントミハイフロー体験』世界思想社といった本を思い出しましたが、私はこの本は未読ですし、これらの間に関連があるかどうかは全く判断できません。ですが、万が一の可能性のために参照情報を掲載しておきます。


このFLOWとは淀まず、言葉で固定しないことだとも表現されています。

木々の葉のそよぎも、それを「見よう」とわずかでも思いを凝らした瞬間、淀みが生まれてしまう。だから「見る」のではなく、「ただ見る」。見ているけれど見ていない、見ていないようで漠然と見ているといった、固定することのないFLOWの状態でないと、目前の動きをうまく捉えられない。言葉で固定するのではなく、運動を体認するとはそういうことだろう。(164ページ)

「見ること」に淀みを作ることによって、「見ること」と「見られるもの」に断絶を作らずに、あるいはもう少し一般化していうなら、「経験すること」と「経験されること」に間断を作らずに、ただ、世界の中に新しくFLOWすること、これが「体認」なのでしょうか。それならそれで、言語学習者の言語使用や教師の教室行動で言えば「体認」とはどのようなことなのでしょうか。今更ながらに自分は「体認」がわからないことを自覚します。

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 5/7

4 生態学的視点

前節までの考察で、生きるとは、刻々と変動する世界の中で、その世界の変動と間断なく在りながら(=世界の中の自分を体認しながら)、そこに自らの動きを新たに生成させるとまとめられたのかもしれません。仮にそうしますと、生きることについて考えるには、世界と密接な相互作用関係にあるとするいわゆる「生態学的視点」を持つことが重要であると思えてきます。

そして何より、人は自己だけに留まることなく、自己の外にある世界の内に生きている。世界が「外」にあるとは、自己とは関係ないものとして、世界が世界として知られるという意味ではない。また、世界の「内」に存在しているとは、世界そのものと関わっているという意味であり、人は世界に関わりなく存在しているのではない。なぜなら、人も世界のあるいは自然の一部なのだから。(138ページ)

このあたり、まさにハイデガーの「世界内存在」概念を思い起こされますが、人間存在が生きることは、世界内での生態学的関係にあることだとすれば、それは必然的に、相互作用による総体的変化を重んずる「全体論」的視点にもつながってきます。全体論的視点では、個々の要素を単独に取り出して、それだけを問題視することはしません。その要素は他の要素との密接な連動関係にあるものであり、その全体性を無視して、個別化された要素を悪者扱いしても見当違いだからです。韓氏意拳でも、個別問題に気を取られて、物事の全体性を失うことを警戒しています。

たとえば「股関節の動きが体幹に対して遅れている」と認識すると、「だから股関節が悪い」と問題を短絡化してしまう。そして、「股関節をなんとかしなくてはならない」と仮想敵にし、「その障害をクリアするにはどうすればいいか」と物事を単純化して考えることを明晰さだと思い込む。「股関節の動きが体幹に対して遅れている」という関係性は事実だが、それは「結果としてそう」なのであって、一面的な事実でしかない。股関節が原因であったにしても、その現象の起きた理由はそれだけに還元できるはずはない。

そもそも関節は部品のように人体から取り出せないのだから、関節だけが問題となるはずがない。全体が問題なのだ。問題を特定することによって不安要因を取り除こうとして、逆に全体が見えなくなってしまっている。(172-173ページ)

この全体性の強調は、教室内での教師の判断についてもなされるべきではないでしょうか。教室の科学的研究にせよ、アクション・リサーチにせよ、私たちは「問題の特定」(およびそれに続く「問題の解決・解消・根絶」)にあまりに夢中になって、問題とは特定の現象にあるのではなく、諸現象の全体に広がりながら存在しているという認識を失っていませんでしょうか。だからこそ、科学的研究やアクション・リサーチで得られたとされる知見を行ってみても、状況は多少変化するだけで、また新たにどこかに「問題」が生じてしまうのではないでしょうか。教師の「能力」とは、ある特定の問題を解決する恒常的な力ではなく、教師が状況の全体性の中で、FLOWしていること、つまり、刻々とその世界を生きて、新たな行動を生み出してゆくことなのではないでしょうか。次は「能力」について考えてみましょう。

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 6/7

5 能力とは

私たちはしばしば能力とは恒常的な力で、それを持つ者は常に同じように問題解決ができると思いがちです。しかし、ひょっとしたら能力とは、恒常的でもなく、標準化されるものでもなく、常に世界の中で新たにあり続けることなのかもしれません。韓氏意拳は能力の反復性や再現可能性に対してむしろ懐疑的です。

王は立会いで、相手の攻撃を迎え撃ったところ、相手は大きく跳ね飛んだ。男は驚くと同時に感動し、「いまの技をもう一度!」と願い出た。が、王はこう答えたという。

「私は自分がどう動いたかを知らない。だから再現することはできない」

あらゆることが情報に還元できると信じられている現代にあっては、物事には反復性があると思い込まれている。

だから「なぜ同じ結果を再現できないのか?」とその逸話に対して思いがちだが、むしろこう問うべきなのだ。「なぜ同じ動きを再現できるのだ?」と。(142ページ)

能力が同一性の反復でないとすれば、それは絶えざる問いかけと問い直しと捉えるべきなのかもしれません。能力とは既知とのつき合い方でなく、未知とのつき合い方ではないでしょうか。現実を過去の認識と同じものとして確認し、それに対処しようとするのでなく、現実を常に未知のものとして体認し、そこに動きをもって応えようとすること、さらには常によりよい応え方をしようとすることが能力であるとはいえないでしょうか。

未知とは、可能性の別称である。わからないことが、わからないにもかかわらず、この先の運動の中に展開し、次々と生起してくるのだから。それは予想を超えた働きであって、だから認識の不可能性とは運動の可能性にほかならない。そしてこの運動のことを、人は「生きる」と呼ぶ。いま生きていることは、認識に還元できない。だから人は、ただ生きる。

知り得ないことは、絶望ではない。認識や実感が得られないことは絶望を意味しない。それらを得ることは、希望でもない。それらは求めるべき答えではなく、未知に向けられたヒントであり、問いなのだ。韓氏意拳で求めるべきは答えではない。真、すなわち原理原則を問うことが求められるのだ。(201ページ)

こうしてみると能力開発とは、標準化された解法を装備することではなく、常に問いかけることを学ぶことだとも思えてきそうです。そしてそれは深い意味での「学問」につながりそうです。

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 7/7

6 あらためて学問・科学とは

私たちは、「学問」という概念についても、しばしば通俗概念に流され、「正解の集積」とでも考えがちです。その「正解」には過去の事例からの統計的・確率的な結果も含まれます。しかし韓氏意拳は、「学問」をそういった通俗概念よりは、はるかに深いものとして捉えた上で、自らを学問・科学であると称します。

意拳が学問である以上、確率的な そうなるかもしれないといった偶然ではすまされない。

王が意拳を武学、拳学と称したことと、韓星橋師が「意拳は科学的でないといけない」と強調したことは符合する。ここでいう科学は、いわゆる科学の概念とは異なる。現代科学が結果を達成点として求めることに重きをおくなら、韓氏意拳は「進化する過程」に注目し、「あることを行って正しいと思ったなら、なぜそれが正しいか検証してみる。検証して再現性があるかどうか試みるが、結果に束縛されず次の結果を見出していく。それが重要」とするものだ。(111ページ)

ここでの学問・科学は固定された再現可能な結果でなく、絶えず深化する過程として捉えられています。ですから「学」も次のように定義されます。

学というのは破綻のない論理としてではなく、普遍性についての問いが絶えず書き加えられる体系を指す。(110ページ)

こうしてみますといわゆる「英語教育学」にしても、それは、実践者に過去から得られた正解の集積を伝えることではなく、実践者に絶えず、個別事例を通じて、到達できない普遍性に近づくための問いかけを教えることではないかと思えてきます。「英語教育学者」にしても「達人教師」にせよ「英語の熟達した話者」にせよ、大切なのは彼/彼女らが、初心者より多くのことを知っているということではなく、初心者に問いかけすることを教えようとしているということではないでしょうか。

教える者が学ぶ者よりも知っているのは、問うとは探し求める過程それ自体であることで、そこではより深い問いが立つかどうかが重要だ。だから学ぶ者が教える者を追いかけるとき、そこに芽生えるのは、「私の知らない問いかけが存在する」という謎への誘惑で、両者に格差はありながら、道への問いかけを行う上では共通している。(126ページ)

韓氏意拳を通じて、英語教育の研究と実践のあり方を考え直そうという試みは、今回もこのように捻じれ、歪み、飛躍したものとなってしまいました。本来はもっとじっくりと考えて文章を何度も練り直し、捨てて、また書き直すべきなのでしょう。しかし私はかなりの愚者で、自らの愚かさを公然のものとしなければそれを痛感することができないので、このように文章を公開する次第です。ここまでおつきあいいただいてありがとうございました。

出版社(冬弓舎)ホームページ

http://thought.ne.jp/html/adv/flow/index.html

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追記

日本韓氏意拳学会のホームページに「韓競辰導師拳学論文」として二つの短い文章が掲載されていますが、深いことを簡潔に書いた文章だと思います。特に「『根本法』と『具体法』」という文章は、若手教師が、自らの師あるいは流派を見出して、教授技術を向上させてゆきながらも、その師あるいは流派に囚われてしまってはならないこと、と読み替えたら、学校教師にとっても非常に有益な文章であるように思えますがいかがでしょう。

http://www.hsyq-j.com/kannroushironnbunn.html

英語教育への漱石の警句

江利川春雄先生による『近代日本の英語科教育史』(東信堂)は、日本の英語教育界が誇るべき学術書だと私は考えますが、その書は次の夏目漱石の言葉をもって終わります。

「英語を習って英書より受くるCultureを得るまでには読みこなせず、去りとて英書以外のカルチュアー(漢籍和書より来る)は毛頭なし。かかる人は善悪をも弁せず徳義の何物たるをも解せず、ただその道々にて器械的に国家の用に立つのみ。毫も国民の品位を高むるに足らざるのみか器械的に役立つと同時に一方には国家を打ち崩しつつあり」

夏目漱石「断片」、『漱石文明論集』pp.308-309

私たち英語教師とは現代という時代においてどのような存在足りえているのでしょうか。少なくとも私は非常に反省させられましたので、この言葉をここに引用する次第です。『近代日本の英語科教育史』もぜひお読みください。

2007年7月9日月曜日

「地球市民」を育てる 英語教師のための研修会

  名称:「地球市民」を育てる 英語教師のための研修会
     
1 趣旨

  この研修会は,関西外国語大学准教授 中嶋洋一 兵庫教育大学准教授  吉田達弘
  広島大学大学院准教授 柳瀬陽介 の3名が、教科書をどう教えるかというレベルに
  とどまらず、広く「地球市民を育てたい」「生徒の心を育てたい」と願っている
  現役の教員および、将来そのような教師になりたいと考えている学生の力量を高め
  るために行う共同プロジェクトである.
  
2 内容

  参加者の気づき,振り返り,シェアリングが中心のインセンティブな学習会である.

       ・英語教育の目的について
       ・授業における生徒理解,生徒指導について
       ・授業における人間関係づくりについて 
  ・授業デザイン(Rubric , backward design等)について
       ・実践的コミュニケーション能力をつける指導の具体について
・指導案の書き方,テスティング,評価の仕方について
        ・グローバル教育や開発教育を授業に生かすデザインについて
・気づかせる指導,コーチングのあり方について 
3 対象 
 
  (1) 大学および大学院に在籍し、将来英語教師になることを希望している学生
 
(2) 現役の教員(できるだけ日帰りができる教員に限る)

         
4 場所
    関西外国語大学 穂谷セミナーハウス(第1回目)
〒573-0114 大阪府枚方市穂谷1丁目10番1号       
電話 072-858-0021 (代表) 

アクセス方法
     大阪から JR「京橋駅」から学研都市線で「長尾駅」(特急,急行)下車
          京阪バスで「境橋」下車(約15分) 徒歩3分
     京都から 近鉄京都線で「新田辺駅」下車
京阪バスで「穂谷外大行」約15分)
     車利用  名神高速道から京滋バイパスに入り,久御山JCで枚方方面へ
          枚方東IC(終点)で下り、307号を左折し「精華」方面へ(約5分)

5 日時

    原則として第4または第5日曜日に実施.(その都度,参加希望をとる)
第一回 例会は,8月26日(日)午前10:00~16:00 (受付9:30~)

6 参加費

    資料代,運営費として,当日500円を集めさせていただきます.
      
7 参加申し込み          

参加を希望する場合は,メールで naka-yoh@kansaigaidai.ac.jp 宛に
    以下のことをご報告ください.申し込み〆切日 7月13日(金)
    ただし,定員(若干名)に達し次第、締め切らせていただきます.
      
  1 名前(性別,年齢)
  2 所属校(勤務先)
  3 連絡先(住所,携帯電話ー緊急連絡用)
        4 昼食希望の有無
  ※ 近くにコンビニもありますが,当日は弁当を注文する予定です.
昼食の必要がない方は「必要なし」と書いてください.
   5 一言コメント(関心があること,学びたいこと)       
                            
 なお,当日の受付名簿には名前(性別),所属校,昼食希望の有無だけを掲載致し
 ます.他の情報は事務局でのみ保管し,外には一切出しません.

2007年7月3日火曜日

ヒロシマナガサキ


 各種報道によりますと、久間章生防衛相は本日午後、閣僚を辞任する意向を伝え、安倍首相もそれを了承しました。米国による広島、長崎への原爆投下を「米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を落とした。無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている」と発言したことについて、責任を取っての辞任だそうです。

 私自身は、閣僚とは、日本の国益を第一に考えるべきだと考えていますので、上記の発言は必ずしも適切ではないと考えます。ですが、一方では、米国などでは上記のような意見はむしろ「当たり前の意見」として受け入れられていることも事実かと思います。大切なことは、人類史上における核兵器の発明と使用をどう考えるか、核抑止力をどう考えるか、核軍備と核軍縮を理想と現実の往復運動の中でどう考えるか・・・こういった問題をどう考え抜くかということかと思います。(ちなみに私は凡庸な平和主義者として考え抜こうと思っています)。

 この問題は決して閣僚の辞任といったことだけで思考に蓋をするべき問題ではありません。

 折しもこの8月から「ヒロシマナガサキ」(THE WHITE LIGHT / THE BLACK RAIN: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki)が全国各地で公開されます。せめて私たちは被爆者14人と爆撃に関わったアメリカ人4人の証言に耳を傾けましょう。それが私たちが考え抜くことのスタートであり、また死者への敬意というものかと思います。

http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/