2007年7月30日月曜日

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 2/7

1 言語の限界について

 私たち英語教育に関わる人間は、学習者が英語という第二言語を習得するさま、あるいは教師が英語を教えるさまをできるだけ言語で適確に表現しようとします。それどころか、言語ではまだまだ多義的過ぎるとばかりに言語を「構成概念化」し、さらにそれを「操作的に定義」して測定し、数値化して一義的、客観的に言語習得や教授技術を記述しようと試みています。しかし、そもそも言語表現とは、厳密な数値化に適するような「客観性」を有したものなのでしょうか。それとも反対に、言語表現とは、単なる主観的で恣意的な戯言に過ぎないのでしょうか。同書の中で言語について書かれたところをいくつか抜書きしながら私なりに論を再構成してみます。その要旨は、(1)言語化とは単純化であり既視化である、(2)言語表現は数学表現でもなければ全くの戯言でもない、(3)言語表現は関係性の中で理解されるべきである、となります。

(1)言語化とは単純化であり既視化である

 日頃の私たちにとって言語とはあまりに自明であって、言語表現とそれが指示(refer)する対象物・指示物(referent)の関係には何の問題もないように思えます。すなわちXという言語表現は、常に同じYという対象物・指示物を指すのであり、Xが使われるたびに指示されるY1Y2Y3という対象物・指示物は同じYのヴァリエーションに過ぎないというわけです。どんなヴァリエーションであれ、Yという対象物・指示物はXという言語表現で過不足無く指示されるというわけです。

 しかし、Yが比較的単純な対象物・指示物であっても、それをXと呼ぶことは、一種の単純化であり、Yの属性を私たちの既存の枠組みに押し込めようとする既視化でもあるという警戒を一方でもっておくことも重要かもしれません。

眼前に花があって、その花の美しさについて巧みに語ることができたとする。しかし、経験的に知られた「花」について饒舌に語っても、花として名づけられる以前の存在「それ」について語ることはできない。しかも、それを花と呼ぶ以外の方法で、その存在について言うこともできない。

花を花として同定していくことは、存在を限定するということだ。限定するという暴力によって言葉は言葉として伝わり、客観性を獲得する。けれど移ろう世界は決して客観的に名指しはできない。

現代では客観的な物の見方が金科玉条のように奨励され、そう言われるうちに「客観性が正しい」という考えに染められ、それを疑うことがなくなりがちだが、実際のところ客観的だから正しいかどうかわからない。客観性そのものには、正邪や是非はない。客観性とは、世界を既に知られた事実に収束していく認識だと言い換えたほうがいいのではないか。(26ページ)

 まして、私たちの課題は、第二言語の獲得のさま、第二言語教授の際の状況把握や判断のさまを言語で捉えることでした。その「対象物・指示物」は、花以上に単純化・既視化になじまないものといえるのかもしれません。私たちは「それ」を語る困難をより自覚し、「それ」を表す言語表現の選択にもっと呻吟するべきかとも思います。そうして選んだ言語表現Xをも、「それ」は常に裏切るものですらあるという自覚は必要でしょう。

(2)言語表現は数学表現でもなければ全くの戯言でもない

 ですから私は、英語教育研究の記述において、日常語を構成概念化し「X」と命名して、それを操作定義で一義的に「Y」として扱い・・・といった量的研究法の「脆さ」「危うさ」に関する懸念を払拭することができません。もちろん「一般性」を追求しようとすれば上記のような方法がもっとも標準的な作法であり、私はそのようなアプローチを全否定するつもりもありません。ただ無自覚で無批判的な全肯定だけはしたくないのです。言語表現(そしてその翻訳延長としての数値)は、純粋な数学表現のような厳密性・同一性あるいは抽象性・客観性は持ちえません。(それに付け加えておきますと、英語教育研究にはあまりに恣意的な構成概念化が多過ぎると思います)。

しかしだからといって言語表現が全くのナンセンスというわけでもありません。言語表現とは、私たちが生きて認識する「過程」の中にあるものであり、常に未決で未完成のものであるということを忘れないようにしたいと私は考えます。

たとえば夕陽を見て「赤い」と感じても、その「赤」は、他人と同じ赤には見えているとは限らない。だから、「同じ赤ではない以上、人は感じていることを本当は互いに理解できない」、または「同じ赤ではないけれど、それでも互いに赤と見える以上、何か認識には共通項があるはずだ」と、感じた不安を埋めるべく考えることが、「考え方の正しい道筋だ」と思ってしまいがちだ。しかし、真実はそのいずれでもないのではないか。

「わからない。けれどもわかってしまう能力が人には備わっている」ことが実態であり、真ではないか。そこには明確な言葉遣いをすることで綻びを覆い隠そうとする魂胆も不安もつけ入る隙がない。

人は名づけようのないものを前にすると不安になるが、それはこれまで培ってきた自己の経験や知識に「それが」が該当しない、つまり未知だからだろう。未知をつかまえるには、言葉で記述することだけが大切ではなく、それに添う体認が重要になる。それが未知を経験するということであり、普通それを「生きる」という。

感じたことを言語化し、認識しないと不安になるのは、特に現代のように情報化が尊ばれる社会ではなおさらだ。(90-91ページ)

 私たちは常に「未知」と共にあり、それを否定すること、既知の言葉を振り回してその存在を無視することは、私たちの「生」の重要な部分を覆い隠してしまうのではないでしょうか。第二言語を獲得することや、第二言語を教えようと目の前の一人一人に働きかけるという「生」を言語化するには、言語表現という「知」は常に「未知」を包含した未完性品であることの自覚が必要であるように思います。

(3)言語表現は関係性の中で理解されるべきである

 言語表現は常に過程の中にあり、完成品ではないということの別側面は、言語は常に、ある特定の状況下で、ある特定の誰かに語られる過程の中で、その時点でのベストとして生成されたものに過ぎないという語用論的認識です。言語表現は、誰でもありえない中立な観察者が、どこでもありえない一般的な時空で表現された、恒久的な真理ではないのです。ですから言語化は、限定的な私たちの最善として尊重されるべきであり、同時にその限定性ゆえに相対化されなければならないのです。

言葉にすることが大事であり、大事でないのは、私の言葉は、私が発しないと始まらないが、同時に他者との関係の中でしか私の言葉は存在し得ないからだ。言葉は固形物ではなく、まして固定された「私」のものでもなく、誰かと交換し、つながる運動の中で初めて力を持つ。自分がいるから相手がいるが、自分は相手がいないと自分として現れない。この世の関係はすべて運動であるから、「確固とした自分」というような固定した支点をつくることは本来できない。(171ページ)

 言語表現とは単純化され既視化された私たちの便法であり、数学的な真理などとは似て非なるものであるが、それでも私たちの知性の最善の一つです。それは未知を常に含む知であり、それがゆえに常に発展過程にあります。言語表現は、それが属する過程と関係性の中で慎重に扱われるべきでしょう。

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