2007年11月30日金曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想(その2)

N県F先生のご感想

 シンポジウムお疲れさまでした。そして、心温まる素敵な時間、本当にありがとうございました。

  N県のFと申します。当日は、勤務先のN県から、実家のあるY県に戻り、参加させていただきました。日本語教育に携わるようになってからまだ3ヶ月ですが、あぁ、教育の現場にいることができて本当に良かった!と思わせていただいたシンポジウムでした。私のような、新米教師がもののみごとにはまっていたネガティブスパイラルから、一気に引き上げていただいた気分です。教科書や、進度にとらわれるのではなく、きちんと自分の前にいてくれる学生を見るという、当たり前のようで、忘れかけていたことに気づかせていただきました。

 今後の教師生活がますます楽しくなりそうです。3年半のブランクを経て復帰できた日本語教育の現場で、切磋琢磨しながら、学生と共に進んでいける自分でありたいと思います。

 先生方の今後ますますのご活躍を心からお祈りしております。日本全国に活力を与えてくれる今回のようなシンポジウム、どんどん開催してください。よろしくお願いいたします!!!




H県K先生のご感想

田尻科研シンポジウム関係者の皆様


 H県のKと申します。
 11月24日(土)の「田尻科研シンポジウム」では大変お世話になりました。メールでの申し込みから、当日までの温かいアドバイス、そして、当日の会場での動き、お茶等の準備、ありがとうございました。参加者には見えにくい部分ですが、大変だったここと思います。おかげさまで全国からの参加者が充実した思いで帰ることができました。

 簡単ではありますが、私なりに講座をまとめてみました。
 以下、様子をシンプルでありましが、ご報告いたします。


【大津由紀雄先生】
 「田尻実践における文法の扱い方を斬る!」

(1) 講座開始時菅先生の写真登場。「うるさいですから落としましょう」(笑いでつかむ)
(2) 文は、本来3次元構造。これを1次元構造(語順)として提示している。
(3) 田尻実践は、誰にでもできるものではない。表面的な模倣ではなく、次のことを磨きましょう。
 ◆言語感覚 ◆分析力 ◆創造力/想像力 
 ◆好奇心とサービス精神(つまり、「子どもの心」)
(4) 母語の仕組みと働きに関する知識を豊富に持とう。(日本語との対比)




【柳瀬陽介先生】
 「何がよい英語教師をつくるのか」

(5) 学ぼうと思ったとき、自分に関係するものしか取り込めない。(予備知識の必要)
(6) 田尻先生は、多彩な声:方言、直接話法、シームレスな日英、ジェスチャー
(7) 田尻先生の反応:正誤だけでなく、ようやった、どうした?わかる、オモロイ。
(8) 田尻先生の英語力アップは、シャドウイングと英作文の添削による。
(9) 自分を崩壊させず、コミュニケーションを継続させ、自己改革をしよう。



【横溝紳一郎先生】
 「田尻実践に出会ってしまった私たちはどうすればいいの?」「ライフヒストリー」 

(10) 田尻先生が育てたい生徒
  ◆自分の言動に責任を持つ 
  ◆地域や社会に建設的な働きかけができる 
  ◆心が豊か)
   →そのために、「コミュニケーション能力」と「社会性」を身に付けさせるのが、教育。
(11) 田尻先生の生後から、現在までを写真や動画で紹介。80時間もかけて作成された。



【田尻悟郎先生】
 「田尻の授業をちょっと体験してみます?」

(12) 楽しめば勉強が勉強でなくなる。学問を楽しむことをおそれてはいけない。
(13) 教師を育てることでより多くの生徒を救いたいという思い。
(14) 今まで知っていたことに戻ることが大切。「今まで知っていたけど、あぁ、そういうことなんだ」と思うと楽しい。講座開始時も、文法に関する「へぇ~」で聴衆を引き付けた。(volley:バレーとボレー、hook:フックとホック、ヘボンとHepburn等)
(15) できそうでできないが、もうちょっとがんばればできそうだというものに燃える。
(16) ちょっとした脱線・小ネタでおもしろいと思わせる。10~15分に1回入れていた。
(17) プレッシャーを下げる配慮。「言いたい人・言える人は言って。そうじゃない人はマイクを渡して」「はい、ドラえもん。(耳横に指先を置き、選択肢の番号を示す)
(17) 授業は生徒主体。生徒の気持ちに合わせて内容も変える。(数ヶ月先の授業とも)
(18) 困らない人生などない。できないことだらけ。だから一つずつできるようになることを楽しもう。笑えるっていい。気にしないことも大切。
(19) 今日の学びをリストだけで終えない。原理・一般性を見つければ広がる(大津由紀雄先生)
(20) 「教育ってこんなに可能性があるんだ」(春原憲一郎先生)


 以上、内容全般でなく、特に印象に残った内容、言葉、プレゼン方法を報告しました。おそらく先生方が言われた事と正確ではないことがあるかもしれません。自分の頭の中で整理できたことをお伝えしました。しかし、本当に、ワクワクしながら目からウロコの講座でした。ありがとうございました。

2007年11月29日木曜日

田尻科研シンポに寄せられた感想

田尻科研シンポに寄せられた感想のうち、ご本人から掲載許可をいただいたものをここに匿名化して掲載させていただきます。

学んだことを自分で言葉にしてみることは、他人のためだけでなく、何より自分のためになるかとも思います。もしよろしかったら田尻科研のコメントを

tajiri071124@hotmail.co.jp

までお寄せいただけたら幸いです。

*****

N県K先生のご感想

 田尻先生、N県のKです。本日のシンポジウムでの講演ありがとうございました。初めて先生の講演を聞かせていただきましたが、感動や興奮するというより、癒やされた気分になりました。本当に生徒と向き合うということがどんなことなのかが垣間見られた気がしました。 理屈や理論抜きの真っ向から勝負する先生の姿に私の求めていた英語教育と出会えた気がします。 私も今回のシンポジウムで学んだことを少しずつでも授業で実践していけるよう頑張りたいと思います。ありがとうございました。
付け加えですが、わくわく授業の校外学習のポエム作りは音楽も合わせ涙が出そうなくらい感動しました。ありがとうございました。



M県Eさんのご感想

 シンポジウムでは楽しみながらも、いろいろなことを知り、考える機会になったと思います。田尻先生の授業も楽しかったですが、その前の先生方の、田尻先生に負けないそれぞれの魅力にも圧倒されました。本当に楽しくて、あっという間の4時間半でした。 
 私は日本語教育を学んでいますが、田尻先生の授業は英語なので、かえって余計なことを考えず、授業自体を楽しめたし、英語の知識や教え方といったことより、話し方やフィードバック、指示の仕方、先生の人間性に集中することができたので、よかったと思います。
 その時に学ぶだけではなく、その後に自分で考えることが多い授業というのは、なかなか出会えるものではなく、貴重な体験となりました。
 終わった後、その内容について自分がどう感じたか、何を学んだかを話したくなるシンポジウムでした。学習者がどう学ぶかを考えているからこそ、こんなことができるんでしょうね。自分もいつかはそんな授業ができるようになりたいと思います。
 日本語学校で働いていた時も、今も、自分の周りにいる人たち以外の日本語教育に携わっている人たちに会う機会が少なかったので、とても刺激になりました。有名な先生方ともお会いすることができて、本当に緊張しましたが、魅力的な方ばかりで、お話しできてよかったです。
とても有意義な1日になりました。広島に来てよかったです。ありがとうございました。


F県H先生のご感想

 科研シンポジウム メールご担当梅宮様、柳瀬先生、スタッフの皆様、昨日は本当にありがとうございました。田尻先生の授業を様々な角度から取り上げ、その名人芸を分析した、本当にためになるセミナーでした。
 どうしても、大学入試を言い訳に、文章解読と語彙の強制暗記、情報収集のみに重点を置いたリスニング指導を細々とくり返している自分の授業をふり返り、明日からできるものは何だろうと、考えさせられました。
 田尻先生の授業への工夫と情熱。あちこちにちりばめられた「しかけ」、と計画された脱線。様々な声色、イントネーション、身振り、表情。でも、なにより「生徒の成長への真摯な思い」がびんびん伝わってきて、まず、この原点から、真似しようと思いました。
 前から5列目で、田尻先生を拝見し、生の声を聴き、本当に得難い経験をさせていただきました。 柳瀬先生の言葉通り、この素晴らしい「環境」から、自己崩壊しない程度に少しづつ、統合することから始めようと決心した次第です。 スタッフの皆さん、昨日は早くからありがとうございました。帰りのバスの時刻から、JRの時刻、順路まで至れり尽くせりの準備に、頭が下がる思いでした。 取り急ぎ、お礼まで 



追記
こちらにも感想がありましたので、勝手ながらリンクをはらせていただきました。ありがとうございます。

2007年11月26日月曜日

田尻大悟郎と田尻小悟郎

「田尻科研」シンポが終わって16時間寝たら少しは元気が回復しました(笑)。実はシンポ前に疲労で風邪をこじらせてしまっていたのですが、シンポの興奮とその後の睡眠で少しはよくなりました。

よくあることですが、語り終えると、「そうか、このように語ればよかったのか」と自己観察というか反省して、新たに語りたくなることがあります。今回のシンポで語り終えて、新たに語りたくなったことを以下に短く書きます(田尻先生のことを呼び捨てで書く失礼はお許しください)。


田尻悟郎をつくったのは田尻悟郎である。

ゆえに、以下の話は嘘である。


***嘘の始まり、始まり~!***

田尻悟郎をつくったのは田尻大悟郎である。田尻大悟郎というのは、島根県の山奥の洞穴に住む謎の人物である。彼こそが、田尻悟郎に授業の技、およびその技の組み合わせ方のすべてを教えた。田尻悟郎はその田尻大悟郎の教えをすべて忠実に覚えたから現在のような授業の達人になった。

田尻悟郎は田尻大悟郎に教えてもらった授業の秘術( “the dark side of the class”と呼ばれる)をすべて忠実に再現できる弟子、田尻小悟郎をつくりだそうと全国を駆け回っている。田尻悟郎の秘術をすべて覚えた時、田尻悟郎はあなたに厳かに “From now on, you shall be called Tajiri Kogoro!”と告げるだろう。その時あなたは「スス」とも呼ばれる。これは出雲弁で「シス(Sith)」を意味する言葉である。

***以上で嘘は終わりで~す。パチパチ***


はい、わかりにくい上に、面白くなかったですね(泣)。スターウォーズ・エピソードIIIネタはマニアックすぎますね(涙)。


でも私が言いたいのは、「あなたは田尻小悟郎になろうとしていませんか?」ということです。

私が田尻科研シンポで言いたかったことは、「田尻悟郎をつくりあげたのは、田尻悟郎のコミュニケーションである」ということです。「田尻大悟郎ではない」ということです。また「田尻悟郎は田尻小悟郎をつくりだそうとはしていない」ということです(注)。

もう少し詳しく言います。

田尻悟郎は自分以外のもの(者・物)とのコミュニケーションを継続することによって田尻悟郎になった。田尻悟郎は時に、自分が壊れてしまう寸前まで、自らと異なるものの影響を受け、新たな要素を自分の内につくりだし、自分を再編成してきた。コミュニケーションを継続することにより自己変革を重ねてきた。このコミュニケーションの継続以上に田尻悟郎をつくりだした要因はない(と私は考える)。

現在の田尻悟郎は、昔の田尻悟郎と比べ物にならないほど新しい要素を自らのシステムの中に持ち合わせている。さらにこれらの要素は自己としてシステムの中に完全に組み込まれているので、新たな状況に応じて臨機応変に組み合わされる。ゆえに現在の田尻悟郎は、自分の授業がどのようになるかを自分でも完全には予想できない。この意味で、田尻悟郎は高度に複合的なシステムである。田尻悟郎というシステムは、新たな《環境》に対応するにつれ、どんどんと田尻悟郎を更新し、ますます複合性を高め、《環境》への対応力を増している。

これに対して「田尻大悟郎、田尻小悟郎」のたとえは、ある教師の技量がすべて情報として、他の教師に伝達・移転・移植できるといった(私に言わせれば誤った)前提に基づいたものである。しかし多くの教師は、田尻悟郎の技をそのままコピーして、自分を田尻小悟郎にしようとしている。

無論「技を盗む」という古来の知恵はある。だがそれは、他人の技を最終的には完全に「咀嚼」「消化」してしまって、「自家薬籠中のもの」、「受肉化」、つまりは「自分のもの」にすることである。表面だけの真似に終始することではない。表面的な真似では「技」はあなたの一部にはならない。

田尻実践の「技」を情報とだけして捉えて、その表面的な理解だけでその技を使っても、それは「田尻小悟郎」になろうとしているだけである。あなたという人間は、田尻悟郎という人間と異なるので、その異なり具合に応じて、「田尻小悟郎」になろうとする試みは失敗する。田尻悟郎をつくれるのは田尻悟郎だけである。あなたをつくれるのはあなただけである。

あなたという人間を優れた英語教師にするのは、英語の授業を核としたあなたの生活のすべての局面でのコミュニケーションである。そのコミュニケーションにおける自己変革があなたをあなたにする。


うーん、ごめんなさい。まだ田尻科研シンポの興奮が自分でもさめやらないのでしょう。だからこのような駄文を書かずにはいられず、また書いた後できっと後悔するのでしょう。しかし私はどうやらこのようなコミュニケーションの試みにより他人や自分自身から反応を得て、自己観察しない限り、自己改革ができないようですから、この恥ずかしい文章も公開します(自己準拠というか自己言及って癖になりそう←ルーマンの皮相な理解)。お粗末。


(注)田尻先生の東出雲中学の生徒の中で、ある課題をこなして「リーダー」に任命された生徒のうちの何人かは、自然と田尻先生の言動を模倣してしまっていたので、生徒は冗談で彼らを「小悟郎」と呼んでいました。しかしこれは微笑むべきエピソードであって、田尻先生が自分のコピー(「田尻小悟郎」)をつくりだそうということは全く意味していません。


追記:
「田尻科研シンポ」の詳しい報告がここにも掲載されていました。ありがとうございます。

追追記:
兵庫教育大学の今井さんのホームページのResearch Note (J)にも感想が掲載されています。感謝します。

2007年11月25日日曜日

田尻科研シンポ ありがとうございました。

おかげさまで昨日の「田尻科研シンポ」が成功裡に終わりました。

参加者の皆さん、お忙しい中、また遠いところからご参加いただき、ありがとうございました。300名を超す皆さんの温かい視線に登壇者も元気をもらいました。

スタッフの皆さん、およびボランティアで手伝ってくださった皆さん、丁寧な仕事をありがとうございました。いろいろ機転を効かせてくださり、感謝しています。

春原先生、田尻先生との対談という難しい課題に見事にお応えくださってありがとうございました。春原先生と田尻先生の化学反応が楽しかったです。お忙しいところを本当にありがとうございました。

また何よりも田尻先生、昨日、科研の三年間、お付き合いさせていただいての十年間、そして先生の教師生活二十数年に心から感謝します。まさに田尻先生は私たちの心に「火をつけて」います。これからの田尻先生のご健康とご多幸、そしてご研究の発展を心よりお祈りしております。


今後の参考にしたくも思いますので、もし今回のシンポに対してご感想・ご意見・ご批判などがございましたら

tajiri071124@hotmail.co.jp

にまでコメントをお寄せいただければ大変嬉しく思います(上記アドレスは本日から柳瀬が管理し、12月末まで継続し、その後廃止します)。

「田尻科研」研究チームを代表して皆様に感謝申し上げます。

                柳瀬陽介・大津由紀雄・横溝紳一郎



追伸
ある参加者の方による田尻シンポの感想がここにあります。

2007年11月23日金曜日

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み1/8

明日(2007/11/24)の「田尻科研シンポ」の柳瀬口頭発表のための参考資料です。当日、柳瀬はパワーポイントプレゼンテーションで説明するだけですので、以下の資料は、そのプレゼンテーションを補うものです。

ルーマンのシステム理論を援用しましたので、一言。ルーマンについては10年以上前に少し読んだだけですが、自らの身につくことはありませんでした。しかしその後、私は、コミュニケーションについて考え、関連性理論を通じてその考えを洗練させ、ルーマンの影響を受けているハートとネグリの<帝国>概念に親しんだりしていました。さらに田尻先生の実践をどうまとめようと悩んでいた時ふと読んだ西垣通先生の本がルーマン的考えに基づいていたので、「そうか、ルーマンの理論でまとめられるかもしれない!」と直感的に思い、ルーマンを読み始めました。

ルーマン 社会システム理論 』や『ルーマンの社会理論』はわかりやすい入門書でしたし、ルーマン自身による『システム理論入門 (ニクラス・ルーマン講義録 1)』や『ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集』や『社会の教育システム』も比較的わかりやすい本でした(もちろん「比較的」です!)。しかし何と言っても勉強になったのは『ルーマン/社会の理論の革命』の詳細な説明です。この本はあと何度か読み返して、ルーマンの全体像を私なりにもう少しきちんと理解したいです。これらの本(特に『ルーマン/社会の理論の革命』)があったからこそ、ルーマンの主著の一つである『社会システム理論(上)』、『社会システム理論(下)』を何とか読みこなすことができました。

今回の私の発表は、その『社会システム理論(上)(下)』の(浅薄な)理解に基づくものです。ですから後年ルーマンがあまり使わなくなったような用語も私の論の中では使われています。また私はこの本を日本語訳で読んだだけで、ドイツ語の原文は読んでいません(第一私のドイツ語力は、翻訳書と辞書と文法書を横にならべて、部分的に解読するのが精一杯の拙いものです)。英訳された本もまだ読んでいません。このような理由で、私は自分がルーマンを学術的レベルできちんと理解しているとは残念ながらとても主張できません。私が試みたことは、私が私なりにルーマンに創造的刺激を得た限りにおいて、ルーマンの理論(と私が信じる)枠組みを使って、英語教育について、何か新しいこと、少しだけ深いことを言おうとしたことだけです。

翻訳の話がでましたのでついでながら一つだけ書いておきますと、俗説の「英語が読めれば世界中の情報を手に入れることができる」というのは間違いであるということを今回も強く感じました。私が見た限りでは、ルーマンの受容は英語圏より日本語圏の方がはるかに進んでいるようです(同じことはハイデガーでも言えると思います)。日本のルーマン研究者も何人か「後書き」などで、若い研究者が外国語として英語しか使わない・学ばないことを憂いていましたが、私もその憂いを共有します。私のドイツ語は上述のように、はなはだ中途半端なものですが、それでも多少は学んだわけですから、少なくともドイツ語原典を読もうとすることだけはできます。でもフランス語はまったく勉強しなかったので(これは後悔しています)、フランス語で書かれた文献を日本語訳で読んで、興味をそそられても(例えばメルロ=ポンティ、レヴィナス、ラカンなど)、翻訳を通じてだけの理解ですから、自分の研究にきちんと取り込むことができません。お若い人文・社会系の研究者の卵の方々は、どうぞ英語以外の外国語もきちんと勉強された方がいいと私は思います。

閑話休題。

以下は、田尻先生の実践を、私が関連性理論とルーマンの理論を通じて、どのように読み説いたかについての草稿です。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』よろしく、桁番号システムをとって、より多い桁数の番号で、それより少ない桁数の命題をより詳しく説明しようとしていますが、それも表面だけの真似に終わっただけかもしれません。

ご興味があれば、以下、お読みください。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み2/8

2007年11月24日(土曜日)
広島大学総合科学部L102教室
科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践解明」
口頭発表「田尻実践におけるコミュニケーション」のための草稿
(これは第一次草稿であり、この稿は後日おそらく部分的に、あるいは大幅に書き換えられる予定である)

***

何がよい英語教師をつくるのか
―田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み—


広島大学 柳瀬陽介
http://yanaseyosuke.blogspot.com/
http://yosukeyanase.blogspot.com/

0 この論の構成
0.1 序論
0.2 コミュニケーションとは何か
0.3 ルーマンのシステム理論(個人主義的アプローチによる)
0.4 田尻悟郎のコミュニケーション
0.5私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか
0.6 結論

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み3/8

1 序論

1.1 背景(なぜ田尻悟郎氏の実践を研究しなければならないのか)

1.1.1 田尻悟郎という英語教師の実践は、その豊かさと深さから各方面での注目を浴びた。

1.1.2 彼の実践を「天才の技」「カリスマの芸」と称して、そこで彼の実践の解明をストップさせるのはあまりにも安易である。

1.1.3英語教育研究は彼のような教師の実践を解明し、できうる限りの洞察を得る必要がある。さもなければ英語教育研究は「現場軽視の、研究者の自己満足」といった謗りを免れないだろう。

1.2「田尻科研」以前の試み

1.2.1 発表者は1990年代後半から、できうる限り田尻悟郎を観察し、その観察に促された分析をホームページ(「英語教育の哲学的探究」http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/)に掲載してきた。

1.2.2「田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察」(『中等教育における教科内容指導研究』平成16年度広島大学教育学研究科リサーチオフィス研究報告書 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#050306)にでは田尻実践が「到達目標型」「スパイラル型」「生徒実態対応型」「複数リソース型」であることを示した。

1.2.3「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2005), Number 30, pp.167-176 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418)は、田尻実践が、英語教育によって、教室を殺伐とした空間から公共的で各人が自らを発見する空間に変えた様子を、ハンナ・アレント (Hannah Arendt) の哲学的枠組みを使って分析的に記述したものである。なおこの分析は、より広いオーディエンスを求めて、国際学会Asia TEFL 2006 International Conference (Seinan Gakuin University, Fukuoka, Japan) on August 19th, 2006 で口頭発表された。(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#060816

1.2.4 「ヤフケ実践と田尻実践を見て:芸術としての英語教育」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050603)は、田尻実践が、生徒を英語処理ができるメカニズム以上の、言語を豊かな意味合いで使える人間として育てているものであり、その人間的な英語教育は、アレントの言う「芸術」性を持つことによって可能になっているという解釈を示した。

1.2.5 「ヤフケ・田尻シンポジウムのまとめに代えて:「個性記述主義」あるいは"English as an alternative language"などについて」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050626)においては、思春期にある子どもたちには、事があまりにも深く今までのしがらみと絡まっているため、日本語で語ろうとすると、かえってその言葉の重みゆえに語れず、文法的に不如意で、語彙も貧困かもしれないけれど、第二言語である英語で表現した方がむしろ語れる事柄があるかもしれないという可能性を提示した。

1.3 「田尻科研」での試み

1.3.0.1 2005年度からは、通称「田尻科研」(「言語学・コミュニケーション・ライフヒストリー的観点からの中学英語教師の研究」平成17-19年度科学研究費萌芽研究 課題番号17652064)をスタートし、言語学的観点(大津由紀雄)、ライフヒストリー的観点(横溝紳一郎)と共に発表者はコミュニケーション的観点から田尻実践を観察しインタビューを重ね、田尻実践に関する思考と分析を進めた。

1.3.1 多くのインタビューから、発表者は言語を通じて技能の解明を行うインタビューについての問題点を「インタビュー研究における技能と言語の関係について」(中国地区英語教育学会紀要 2007年 Number 37, pp. 111-120 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)にまとめた。

1.3.2 「ある中学英語教師の多声性について」(『中等教育における教科内容指導研究』平成17年度広島大学教育学研究科リサーチオオフィス研究報告書 未公表)は、田尻実践におけるコミュニケーションの豊かさを分析したものである。なおこの分析は、国際セミナー(The 1st English Education Seminar, KOBE, JAPAN, 14-17 MARCH 2007)のポスターセッションで発表された(http://yosukeyanase.blogspot.com/2007/03/multi-voices-in-tajiri-goros-classes.html)。

1.3.3 「田尻科研」を通じてコミュニケーションを考える中で、発表者は、旧来の言語コミュニケーション力論(『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』溪水社 平成17年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)による出版)の限界に気づくようになり、言語コミュニケーション力論の新たな枠組みを、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 (2007年10月28日日本言語テスト学会 口頭発表 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html)で示した。

1.3.4 しかし田尻実践が示すコミュニケーションの豊かさと深さは、「三次元的理解」も含めた従来の個人を対象とした論考ではとらえきれないことを発表者は直感していた。

1.3.5 そんな中、発表者は、10年以上前に興味を持ちながらも、研究にまでは結実しなかったルーマンの理論に偶然に再会し、読みすすめたところ、これがコミュニケーション理論として優れているだけでなく、「何がよい英語教師をつくるのか」という大きな問題の解明にも優れた理論的解明をすることを確信した。まだまだ発表者のルーマン理解には地道な読解が必要であるが、シンポジウムのこの機会を利用し、現時点での発表者の考察を公開し、批判を仰ぐこととする。

1.4 目的

1.4.1 この小論の目的は「何がよい英語教師をつくるのか」という普遍的問いについて、説得力のある普遍的・理論的解答を提示することである。

1.5 方法

1.5.1 この小論は、「何が田尻悟郎をつくったのか」についての観察を経て得た漠然とした仮説を、関連性理論 (Relevance Theory) とニクラス・ルーマン (Niklas Luhmann) のシステム理論により定式化することにより、上記の「何がよい英語教師をつくるのか」に対する答えを出すことを試みる。

1.5.1.1 つまりこの論は、個性記述的研究を経た上での、普遍理論的な仮説的解答の導出の試みである。

1.5.1.2 ルーマンの理論は、この導入が、もっとも上記の問いに的確な答えを出しうるだろうという発表者の直観に支えられている。つまりルーマンの導入は、演繹(deduction)、帰納(induction)によるものではなく、アブダクション(abduction)によるものである。この直観的アブダクションは、発表者のこれまでのデイヴィドソン(Donald Davidson)哲学および関連性理論によるコミュニケーション理解に基づいたものである。(デイヴィドソンに基づいた論考としては「コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学」日本教科教育学会誌 2002年 第25巻 第2号 pp.1-10  http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/DComComp.html)、「デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第47巻第一部pp.55-60. http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/GlobalError.html)を参照されたい。

1.6 仮説

1.6.1 第一次仮説提示:よい英語教師をつくるのは「コミュニケーション」である。

1.6.1.1 だがこの「コミュニケーション」は後述するような通俗的なコミュニケーション観(コードモデル (Code Model) ・「移転」 (Übertragung; transmission) メタファーで理解されるコミュニケーションではない。

1.6.1.2 「コミュニケーション」はより洗練された理論によって理解されなければならない。ルーマンの理論はその最有力候補である。

1.6.2 第二次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる英語教師のコミュニケーションである」

1.6.2.1実際の「コミュニケーション」は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などに下位区分される。これらすべてのコミュニケーションにおいて日本語と英語は場合に応じて使い分けられる。

1.6.3 第三次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」

1.6.3.1 採択しない二つの仮説

1.6.3.1.1 「よい英語教師をつくるには、本からの理論研究の広範な学習が不可欠である」。

1.6.3.1.2 「よい英語教師をつくるには、長期間の海外留学が不可欠である」。

1.6.3.2これらの事実は田尻氏には観察されなかった。それよりも田尻実践の観察から痛感されるのは彼のコミュニケーションの豊かさと深さである。

1.6.3.3よって「理論研究の広範な学習」および「長期間の海外留学」は、よい英語教師をつくるための、厳密な意味での必要条件とは言えない。

1.6.3.4 だが、このことは理論研究および海外留学の重要性を否定するものでは決してない。実際田尻氏も理論研究および海外体験の重要性を主張している。

1.6.3.5 したがって、本論考での主張は、英語教師の毎日のコミュニケーションは、おそらく理論研究や海外留学以上に重要であること、少なくとも毎日のコミュニケーションが豊かで深くあれば、広範囲な理論研究や長期の海外留学がなくともよい英語教師が誕生することは可能である、ということである。

1.6.4 第四次仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである」

1.6.5 最終仮説提示:「よい英語教師をつくるのは、理論研究や海外留学である以上に、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションである。よい英語教師は、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などでつくられる」

1.6.6以上の仮説の妥当性を示すべく、以下の論考では「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」を明らかにする

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み4/8

2 コミュニケーションとは何か

2.1 これまでのコミュニケーション観は特定のメタファーで捉えられている。

2.1.1 「コミュニケーション」とは、通俗的には「コードモデル」 (Code Model) によって、情報が「移転」 (Übertragung; transmission) するというメタファーでとらえられている。それゆえ「コミュニケーション」はしばしば「情報伝達」と言い換えられる。

2.1.1.1 移転メタファーの同類に導管メタファー (conduit metaphor) がある。

2.2これまでのコミュニケーション観は、シャノンとウィーバーによる情報理論に基づいている。

2.2.1 シャノンとウィーバーはAからBに情報を正確に効率よく伝達(あるいは移転)することについて考察した。伝達には、情報の符号化(encoding)と復号化(decoding)が用いられる。この符号の伝達においてノイズがひどく、正確な伝達が行われないならば、伝達の誤りが訂正される。情報の符号化・復号化・誤り訂正が正確に効率よくなされれば、情報伝達は成功する。この考え方は情報技術を急速に発展させた。

2.3 しかし多くの人は、この情報理論を人間のコミュニケーションにも転用し、この情報理論を人間のコミュニケーション理論として考えた。

2.3.1 このコードモデル的コミュニケーション観によるならば、人間のコミュニケーションは以下のように説明される。Aという人間がXという思考内容を持ち、それをYという符号に符号化する。Bという人間はそのYという符号を正確に授受し(あるいはノイズによって乱された符号を訂正してYを復元的に授受し)、そのYから元々はAの思考内容であったXを復号化し、Bの頭の中にXという思考内容を移転することに成功する。つまりAからBへのXの移転がコミュニケーションの成功である。

2.4 だが関連性理論 (Relevance Theory) は、このコードモデル的コミュニケーション観が、人間のコミュニケーションを説明するには不十分であることを明らかにした。

2.4.1 人間は思考内容のすべてをある符号に符号化しつくせることはない。符号化は莫大な前提(presupposition)に基づいて初めて可能である。莫大な前提をすべて符号化することは、人間の情報処理能力を超える。

2.4.2 したがって人間は通常、ある符号化により、その符号の「明意」 (explicature) (あるいは「文字通りの意味」 (literal meaning) )と、その文字通りの意味に基づいて、相手が推論すると思われる「暗意」 (implicature) (あるいは「話者の意味」 (speaker meaning) )を、相手が理解することを期待して、自分なりの符号化を行うだけである。

2.4.3 逆に、人間は、相手の思考内容のすべてをある符号から完全に復号化することはできない。人間ができることは、相手が発した符号の明意を把握(comprehend)し、相手が、自分が推論することを期待していると思われる暗意を自分なりに解釈(interpret)して相手の符号化を理解(understand)するだけである。相手の思考内容のすべてを自分に移転させることは人間にはできない。

2.4.4 語用論の議論では暗意は、比較的同定が容易なものとして扱われることが多い(例えば “It’s cold here.”の暗意として)。しかし実際のコミュニケーションではそのように明らかな「強い暗意」はむしろ例外的であり、たいていの暗意は「弱い」ものである(例えばピクニックでの “Look at the blue sky”の暗意を正確に同定あるいは枚挙することはほぼ不可能である)。

2.4.5 暗意に明確な境界線が引けないとするなら、伝達される「情報」には明確な境界線を持たないことになる。このようにあやふやで曖昧なものを「伝達」あるいは「移転」すると考えるメタファーはそもそも適切ではないと考えられる。

2.4.5.1 また改めて考えて直してみるならば「明意」(「文字通りの意味」)の概念もそれほど明瞭なものでない。少なくとも発表者はこの概念を、トートロジーを用いずに説明することはできない。

2.5 したがって人間のコミュニケーションは、単なる情報伝達ではない。

2.6 人間ができることは、ある発話によって、相手の思考をある一定の方向に変えようと期待できるだけである(そしてその期待はしばしば裏切られる)。

2.7 人間のコミュニケーションを、コードモデル的にとらえることは、人間のコミュニケーションを誤解することにつながる。

2.8コミュニケーションのコードモデル的誤解に基づく行動は、「私は相手に自分の思いのすべてを伝えられるはずだ」という誤った期待を生み出す。

2.8.1 したがって、教師は学習者に、自分が伝達したいと願う教授内容をすべて伝達できることを期待する。また学習者が、教師が伝達したいと願っている教授内容をすべて自分のものにすることを期待する。

2.8.2また、教師は学習者に、自分が伝達したいと願う学習への意欲をすべて伝達できることを期待する。また、学習者が、教師が伝達したいと願っている学習への意欲をすべて自分のものにすることを期待する。

2.8.3これらの期待はたいていの場合裏切られる。裏切られたという感情はしばしば、自分あるいは相手、またはその両方が罰せられるべきだという考えにいたる。

2.9 人間は、他人の頭の中へ直接介入したり、他人の頭の中を直接操作したりすることはできない。コード的コミュニケーション観は、あたかも人間が、他人の頭の中に直接、情報を移植したり、他人の頭の中の思考内容や意欲などを操作したりできるかのような誤った期待をもたせる。

2.10 私たちは人間のコミュニケーションにおいては、コード的コミュニケーション観から決別しなければならない。

2.11 「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」ということが新たなコミュニケーション理論の前提とならなければならない。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み5/8

3 ルーマンのシステム理論(個人主義的アプローチによる理解)

3.0.1 ルーマンは「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつシステム理論を発展させた。以下、彼のシステム理論に基づく彼のコミュニケーションについての考えを簡単に述べる。ルーマン独自の用語には《 》をつけて表記する。

3.0.1.1ただしここでのルーマン解釈は、発表者が『社会システム理論』の翻訳を理解できた限りにおいてのものである。1984年の『社会システム理論』はルーマンの主著であるが、彼の理論はその後も発展しており、この発表ではその発展を捉えていない。したがって後年のルーマンが頻繁に使用しなくなった用語もこの論には含まれている。『社会システム理論』においても、発表者は解釈に彼なりの全力を尽くしたが、この解釈の正統性を確証するまでの研究は残念ながらできていない。ここでのルーマン解釈はせいぜい初歩的なものにすぎない。

3.0.1.2さらにここの解釈は、コミュニケーションをもっぱら個人の意識の観点からとらえている。これはコミュニケーションを《社会システム》としてとらえるルーマンの理論構成からすれば、全く裏側のアプローチである。だが発表者は、個人心理学に基づく言語学および応用言語学を基本的な考え方とする英語教育関係者には、この裏側からのアプローチの方が理解容易だと考え、《社会システム》からのコミュニケーションの論考は、今回は断念する。

3.1 私という意識は、一つの《心理システム》 (psychic system) である。

3.1.1 《心理システム》は「オートポイエーシスシステム」 (autopoiesis system) である。

3.1.1.1 「オートポイエーシスシステム」とは、「自己準拠」 (Selbstreferenz; self-reference) および「自己組織性」 (Selbstorganisation; self-organization) に基づくシステムである。

3.1.2 私の意識という《心理システム》は、オートポイエーシスシステムとして、自ら(=私の意識)に依拠し、自らを要素として、自己構成を自ら継続的に再生産している。つまり、私の意識は、今までの私の意識と接続している限りにおいてしか新たにならない。この意味で、私の意識という《心理システム》は自己再生産の継続という作動において《閉鎖的》である。

3.1.2.1 しかし、《心理システム》が作動的に《閉鎖的》であるということは、《心理システム》が、それ以外のものとまったく無関係に単独で存在することは意味しない。

3.1.2.2 私の意識という《心理システム》にとって、それ以外のものすべては《環境》 (Umwelt; environment) と呼ばれる。他人の意識というもう一つの《心理システム》も、私の意識という《心理システム》にとっては《環境》にすぎない。しかし《環境》は、《心理システム》に外からの影響を与えうる。

3.1.2.3ある《心理システム》と他の《心理システム》とが互いに他方の《環境》となっている場合に、ある《心理システム》が、他方の《心理システム》が新たに編成(自己準拠的に自己組織化)されるために、その《心理システム》の複合性 (Komplexität; complexity) を、《環境》の側から提供する場合、それは《浸透》 (Penetration; penetration) と呼ばれる。《浸透》において、ある《心理システム》は、それ自身以外の《環境》と《結合》(Bindung; binding)する。

3.1.2.3.1 この本来は互いに《環境》であるはずの二つの《心理システム》が、他方の複合性を契機に、それぞれに自己準拠的に自己組織化することを、本論ではコミュニケーションと定義する。誤解を怖れず単純に言いなおすなら、コミュニケーションとは、発話を外的な契機として、お互いがそれぞれに変容することである。聴者が、話者の発話によって、聴者なりに変容することはもとより、話者も、自分が発した発話を観察することにより、話者自身も変容を示す。

3.1.2.3.2 聴者という《心理システム》は、発話という自分以外の《環境》と、聴者なりに《結合》し、その《結合》により聴者という《心理システム》は自己を再生産する。だが、その際に話者という《心理システム》が発話による《結合》を通じて、全面的に聴者という《心理システム》に入り込んだわけではない。聴者という《心理システム》にとって、話者という《心理システム》は《環境》の一部であり、自己以外のものである。《心理システム》は《環境》の一部を、あくまでも外的な契機として影響を受けるだけであって、自らが自らなりに変化するだけである。

3.1.3 この《環境》との《結合》において、《心理システム》は、オートポイエーシスシステムとして作動的に《閉鎖的》であると同時に、《環境に対する開放性》を持っているといえる。

3.1.3.1 オートポイエーシスシステムの自己準拠とは、いかなる場合にでも自己を拠り所とするように指示すると同時に、自己以外のものを参照するように指示する自己準拠である。オートポイエーシスシステムは、自己の参照と自己以外の参照の差異を用いてシステムの自己再生産を可能にしている。

3.1.3.2 しかしこの《環境に対する開放性》は、《心理システム》が自らに、自らの要素として接続可能であると選択したものに限られている。《心理システム》が《環境》に対して自らを開くとき、《心理システム》は自己を観察し、新たな自己の要素を選定しそれを今までの自己要素と連動させ組織化する。《心理システム》の自己準拠は、この意味で自己観察であり、自己観察に基づく自己組織化である。

3.2《心理システム》は《環境》に対して無限に開放されているわけではない。もしそのように無限に開放されたら、《心理システム》に莫大な複合性が生じ、その《心理システム》は自己準拠も自己組織化もできず、崩壊してしまうであろう。

3.2.1 こうなると「学習」とは、《環境》からの情報が、ある《心理システム》において部分的な構造変動を促し、しかもその《心理システム》の自己同一化が壊されないことを言う。逆に言うなら、自らの自己同一化を破壊してしまうような学習を《心理システム》は通常はしない。

3.2.1.1 意識のオートポイエーシスが破壊されそうな時、《心理システム》はしばしば身体において強烈な感情を経験する。この点で感情は、《心理システム》の免疫システムになぞらえることができる。感情は、《心理システム》が《環境》との多大な《結合》によって崩壊の危機にあることを知らせる警告サインである。この意味で、感情は《心理システム》の自己同一性に関する自己解釈であると言える。

3.2.2 学習は《心理システム》というオートポイエーシスシステムの内での出来事である以上、オートポイエーシスシステムの中には、その学習を可能にするような何らかの知識が前提的に存在しておかなければならない。

3.2.2.1 言語は《心理システム》と《環境》の《結合》において決定的に重要な役割を果たす。学習の前提となる知識においても言語は重要な役割を果たす。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み6/8

4 田尻悟郎のコミュニケーション

4.1 田尻はコミュニケーションにおいて、自分の知識や心情を伝達しようとする以上に、相手に創造的刺激を与える (inspire) ことを試みている。田尻はコードモデル的コミュニケーション観ではなく、「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつコミュニケーション観を持っているように思える。

4.1.1 田尻は教室を、一人の教師から一塊の生徒全員への知識伝達の場としてはとらえない。彼はそのような教育観が有効でないことを経験とその経験からの反省によって学んだ。

4.1.2 田尻は教室を、一人一人の生徒が、それぞれに自分なりの刺激を受け、自分なりに変わり、その新たな自分を表現し、一人一人の生徒がお互いに相互作用を起こす場として考えている。田尻の教室において生徒は自律し、新たな自分と他人を見出す。

4.1.2.1田尻は教室で、教え込むのではなく、気づかせることを目指す。

4.1.2.1.1 田尻の生徒は、しばしば自ら気づき、「あっ、そうか!」と叫び、「わかった、わかった、もう先生説明するな!」と教師の介入を拒む。このような生徒の行動を田尻は授業の成功を測る指標の一つとしている。

4.1.2.2 田尻は、テストや自学ノート、放課後自主勉強会といった形で個人指導を徹底していた。

4.1.2.2.1 大学の授業でも田尻はできるだけ個人指導を導入しようとしている。

4.1.2.3 田尻はクラスの初期では、ファーストラーナーの指導を優先し、彼/彼女らがある課題ができるようになったら彼/彼女らを「リーダー」として任命し(生徒はそれを「子田尻」と呼んだ)、彼/彼女らに、彼/彼女らに続く生徒を指導させ、田尻はスローラーナーの指導に取り組んだ。

4.1.2.4 田尻は自分だけが知識の供給源となることを拒み、英語教室の壁面一杯に文型表やフォニックス一覧を貼ったり、「お助けブック」を刊行したりして、生徒に常に複数のレファレンスを持たせ、生徒が様々な形で気づくことを支援した。

4.1.3 この田尻の個人に創造的刺激を与えるスタイルは、クラスに一斉に「教え込もう」とするコードモデル的コミュニケーション観での授業スタイル(知識伝達型)と好対照である。

4.1.3.1 教師が、生徒の頭の中に直接知識や意欲を移転させようとする授業スタイルは、せいぜいうまくいったとして、教師の知識が生徒にそのまま複製されるだけである。だがそれは複製である限り、劣化したものである。また、複製もそのまま複製されただけなら、生徒の中に取り込まれず、「丸暗記」されたものとして、やがて消えてゆく。現実的には情報伝達型の授業は、教師、生徒の多くが共に自己嫌悪と相互嫌悪を持つこと、あるいは共に怠惰な諦念を持つことに終わりかねない。

4.2 田尻は自分にとっての《環境》である生徒との接点を持つために、内容と方法において多彩なコミュニケーションを生徒に対して試みる。彼は「正解と不正解の区別」という狭義の教師のコミュニケーションスタイルをはるかに超え、多彩な発話の使い分けによって、互いに《環境》であるお互いの接点を増やし、コミュニケーションを絶えず継続しようとしている。

4.2.1 コミュニケーションの継続こそが、教師ができる限界であり、最良のことである。教師は生徒の頭の中に直接介入操作して知識や意欲を移植することはできない。教師ができる最善は、生徒が教師の外からの働きかけを通じて内から変わることを促進することである。

4.2.1.1 田尻のスタイルは、生徒指導と英語指導を融合させたものとも解釈できる。

4.2.1.1.1田尻は、「自転車の鍵をなくした生徒への対応一つで、それからの授業が変わる」とも、「授業で人間関係ができた子には生徒指導もしやすい」とも述べる。

4.2.1.1.2田尻は、しばしば英語指導の際に「社会ではそういうのは通用しない」というスタイルの説得をする。田尻は、彼が、生徒が社会に出た時のことを見通して指導していることを生徒に伝える。

4.2.2 発表者が、中学一年生対象の田尻の三つのクラスを連続して観察した時に、授業内容とフォーマットはほとんど同じであるにもかかわらず、田尻のクラスはそれぞれの個性を持ち、見ていて飽きるということが一切なかった。これは田尻が自分のスタイルをただただ押し付けるのではなく、それぞれのクラスという田尻の《環境》にうまく接点を見つけて、田尻の授業を田尻の方針に基づきながらも細部を即興でつくりあげていったからであろう。

4.2.2.1 田尻のクラスは「田尻流」ではあるが、この「田尻流」は、田尻が、田尻の予想を超える生徒の反応にぶつかりながらも田尻らしさを失わずに対応し続けていることにより生じている。「田尻流」は田尻によるものであるが、田尻だけによってできたものではない。

4.2.3田尻は授業で様々な声を使い分ける(授業での多声性)

4.2.3.1 田尻の授業での日本語は多彩である。

4.2.3.1.1田尻の授業での日本語は、大きく分けるなら、教育内容に言及する時は明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者との相互関係を活性化させる時には親和性に富む関西弁を使い、学習者との心理的な距離を縮めようとする時には親密性に富む出雲弁を使うという使い分けがなされている(これは田尻が島根県の公立中学校に勤務していた時の話である)。

4.2.3.1.2 田尻の授業での日本語は地域方言の使い分けがあるだけでなく、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいても多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.2田尻の授業での英語は、非常に正確かつ流暢であるだけでなく(発表者は、中学生でもわかるレベルの英語でこれだけ深く適確な英語表現ができる日本人を他には知らない)、日本語使用と同様に、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいて多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.3田尻の授業での英語から日本語へ、日本語から英語への変化はスムーズで、一瞬どちらの言語で田尻がしゃべっているかわからないと観察者でさえ思えるぐらいに、田尻のコミュニケーションは聞き手を引き込んでいる(田尻は「生徒は私が英語をしゃべっている時に、それが英語だと自覚していないことも多いと思います」と述懐したことがある)。

4.2.3.4田尻の身体言語も豊富である。特に生徒が失敗をした時の満面の笑み(!)、個人的にしゃべる時に決して切らないアイコンタクト(田尻は、自分はアイコンタクトが下手だからじっと見つめていると自己解説する)、言葉がなくても言いたいことがわかるのではないかといえるほどの明確で大きなジェスチャー、生徒の間違いを言語的には指摘しないまま、口の動きだけで生徒に文法などを訂正させる顔と口の動き、机間巡視のさりげない肩たたき、生徒の冗談に席から飛び上がらんばかりに笑う闊達さ、「毛づくろい」とも言えるような生徒の身体的コミュニケーションを受け入れる態度など、田尻は非言語的にも多彩な手段で生徒とコミュニケーションを取っている。

4.2.4田尻には教師の典型的な基準である「正・誤」だけでなく、「よくやった・どうしたんだ?」「理解できる・受け入れられない」「社会的に認められる・社会では通用しない」「個性的である・お前らしくない」「笑える・面白くない」などの多様な基準を持ち、それらの基準を使い分けることによって、できるだけ生徒に肯定的な反応を返して、コミュニケーションを切断しないようにしている。

4.2.4.1職員室での同僚とのコミュニケーション、特に生徒を話題にしたコミュニケーションを田尻は積極的に促進し、教員間・生徒間にできるだけ多くの接点をつくろうとしている。

4.2.4.1.1田尻の同僚である若い女性教師は、田尻が職員室では出雲弁で自分の失敗談や家族の話をよくするので、職員室の雰囲気が和むとも証言した。

4.2.5この田尻の多彩なコミュニケーションスタイルは、いわゆる「教師」としてのステレオタイプ的な役割期待を教師自身と生徒そして同僚に対して堅持し、その役割期待から外れる発言や行動は一切しようとしない教師のスタイルと好対照である。そのような教師は、教師の役割期待を共有する「よい生徒」とは、正解・不正解の区別という限られた情報伝達は行いうるが、そのような役割期待を持たない生徒とは、お互いに理解不可能な《環境》として、教室という空間に物理的には共存するが、コミュニケーションという関係は結び得ない。同僚とも、職務遂行上最低限の情報交換をするだけであり、いわゆる「同僚性」を育てることはしない。

4.3 田尻はコミュニケーションの結果から自己観察し、自己省察し、新たな要素を自己に取り込む自己組織化・自己再生産を継続して行っている。そのプロセスが長期にわたるときには田尻はまさによく「考える」教師だと言える。

4.3.1田尻の「自分は何も考えず直感的に行動しているだけです」という台詞は、謙遜あるいは自嘲の言葉であり、田尻に関する正しい記述ではない。

4.3.1.1田尻は「24時間考えていないと何も新しいアイデアは浮かばない」というエピソード(NHKテレビ『プロフェッショナル』における自動改札システム開発秘話)を好んで語る。

4.3.1.2田尻は東急ハンズなどの様々な刺激を得る場所に行くと、時間が許す限りそこに滞在し、何が英語授業に使えるだろうかと考える。彼は積極的にこれまでの自分の英語教育の発想を超えた《環境》との接点を求め、自らの英語教育の発想を更新しようとしている。

4.3.2田尻の口癖の一つは「反省、改善、進歩」である。ビジネスでは"Plan-Do-See-Action"というが、田尻の場合『愛する、行動する、見る、考える、気づく』で授業を改善している。

4.3.2.1 いずれにせよ、田尻は自らを超えた《環境》(生徒という《心理システム》は田尻にとっても《環境》である)に積極的に働きかけ(=愛する、行動する)、その働きかけの結果を観察し(=反省する、見る、考える、気づく)、自らの行動を自らを超えていた《環境》に促されながらも、自らができうる範囲で、ということは、単なる旧来の方式の繰り返しでもなく、逆に全く自分とは異質の方式の移入でもないやり方で自己を改革する(=改善、進歩)。

4.3.2.1.1 田尻はしばしば真面目な話を真剣にした後に、わざと「オチ」を入れて人を笑わせるが、これは田尻が自らのコミュニケーションを自己観察し、そのコミュニケーションとそれ以外ののギャップ(差異)を取り込み、「オチ」という形で自分のコミュニケーションを自己再生産していると解釈できる。(自己観察はユーモアに不可欠である)。

4.3.3 田尻は自身の英語力をつけたのは、毎日のシャドウイング訓練と、生徒の英作文添削であると述懐する。田尻は生徒の英作文の的確性の判断に誠実に取り組み、その度に自らの英語知識を再観察し、辞書を引きなおし、ALTに助けを求め、自らの英語知識を充実させていった。

4.3.3.1 田尻の英語知識はこのように絶え間ない自己観察・自己省察によって自己再生産され続けているものであるので、自己整合性が高く、彼の英語の説明は他に例を見ないユニークで、論理的一貫性の高いものである。

4.3.3.1.1 田尻の英語知識は、どこかの本の知識を丸暗記して田尻の頭の中に移転させたものではない。そのような移転による知識では、生徒に対しての当意即妙かつ整合的な説明は不可能である。

4.3.4 この田尻の自己観察的・自己省察的スタイルは、自己観察・自己省察を欠いた「やりっぱなし」の授業スタイルとは好対照である。教師が自己観察・自己省察を欠く時、教師は自らの檻の中に閉じ込められたまま、《環境》に適応することができない。また教師が他人からまったく新しいやり方を学んで、そのやり方を自分の授業に移植しようとしても、自己観察・自己省察を欠くなら、そのやり方は、教師自身の中に取り込まれず、ましてや生徒にも受け入れられず、授業改善にはつながらない。自己観察・自己省察を欠いたまま新しいやり方を求め続ける教師は、失敗を重ね、やがて授業改善の試みを諦める。

4.4 まとめるなら、田尻のコミュニケーションとは、創造的刺激で生徒を内から変えようとするものであり(情報伝達型ではない)、生徒と多様な接点でつながろうとし(教師という役割期待だけに拘泥しない)、コミュニケーションする自分を絶えず自己観察し、そのことによって自己変革を持続的に継続している(「言いっぱなし」ではない)。この田尻のコミュニケーションを、この論文は「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」の一例として考える。

4.4.1 田尻悟郎をつくったのは、この田尻悟郎のコミュニケーションである。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み7/8

5 私たち英語教師は田尻悟郎とどのようにコミュニケーションを取ればよいのか

5.1 田尻悟郎は、私の意識という《心理システム》にとっての《環境》である。

5.1.1しかもこの田尻という《環境》は、英語教師としての総合的力量の複合性において、英語教師としての私の自己同一性を破壊しかねない《環境》である。

5.1.1.1多くの英語教師は田尻実践を見た後、嘆息をついて「自分は駄目だ」と言ったり、感情を高ぶらせ「田尻先生は特別だから」などと田尻と自分の関係を切断しようとしたりする。これは英語教師の自己防衛反応であり、英語教師が、田尻実践という現在の自分が処理できない複合性に一気に接したために生じる、自己崩壊を防ぐための自衛手段である。

5.1.2 であるが同時に、この田尻実践という《環境》は英語教師としての私を、かつての私が予想できなかったように変容することを促す潜在的可能性をもった《環境》でもある。

5.2このような《環境》に接しながら、自己改革を遂行するにはそれなりの知恵がいる。

5.2.1通俗的に私たちは「この人から多くを学んでください」というが、田尻といった対象にこういった通俗的な助言を適用してはいけない。

5.2.2田尻に対しては「この人からは少しだけしか学ばないでください。あなたが自己を崩壊させないで、自己改革を続けることができる範囲だけを学んでください。大切なことはこのような実践とあなたとのコミュニケーションを切断しないことです」といった助言の方が有効である。

5.2.2.1発表者は約10年前田尻に初めて接した時に、日頃の習慣であったノートを取ることを数分で断念し、その日は田尻の雰囲気に身を浸すことだけに留めようと直感的に判断した。それから10年かけて、発表者は少しずつ田尻から学び続けている。自画自賛的になることを怖れずに言えば、これは悪い選択ではなかった。

5.2.3 田尻実践といった高い複合性をもった《環境》に接する場合、《心理システム》と《環境》の《結合》において重要な役割を果たす言語を《心理システム》は前提知識として用意しておかなければならない。すぐれた実践を観察する前に、私たちは授業について語る言語をある程度用意しておかなければならない。

5.2.3.1 発表者の経験でも、田尻実践をいきなり学部生などに見せた場合、返ってくるのは極めて表面的な感想だけであった。

5.2.3.2 上記の失敗から、発表者は、まず授業、および言語コミュニケーションについて語る言語を、理論を教えることを通じて学部生らの身につけさせたところ、教職経験を持たない学部生でもだんだんと本質的なコメントができるようになった。

5.3 私たちは田尻悟郎に田尻悟郎の知恵と技能を私たちの中に移植してもらおうと期待してはならない。

5.3.1 田尻悟郎から私たちへのコミュニケーションは、田尻悟郎から私たちへの創造的刺激であり、その創造的刺激を活かすも殺すも私たち次第である。

5.3.2 田尻悟郎のような優れた英語教師になるには、必ずしも田尻悟郎は必要ではない。必要なのは自分以外の《環境》であり、その《環境》とのコミュニケーションを決して断念しないことである。

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み8/8

6 結論

6.1 よい英語教師をつくる基本は、的確なコミュニケーション理解に基づいて行われる、英語教師の毎日の中での様々なコミュニケーションであることを田尻実践は示している。

6.1.1 よい英語教師は、日本語と英語の多彩な使い分けによって、(1)教室内外での生徒とのコミュニケーション、(2)学校内外での同僚教師とのコミュニケーション、(3)学校外での他人とのコミュニケーション、(4)一般メディア(本・新聞・テレビ・映画など)を通じてのコミュニケーション、(6)生活を通じての環境とのコミュニケーション、などの様々な場面において、自らを超える《環境》と、自己観察と自己省察を通じて接点を見い出し、新たな自分の可能性を実現している。よい英語教師は、生徒を内から変えようとし、自らの立場を柔軟に変容させ、自らの言動を常に観察している

6.1.2 よい英語教師は、それが英語指導の場面だろうと生徒指導の場面だろうと、教育内容についてだろうとそれ以外のことであろうと、日本語を使用する場合だろうと英語を使用する場合だろうと、生徒とのコミュニケーションを継続し発展させるということを最優先している。

6.1.2.1 そのコミュニケーションの持続こそが、教師と生徒をそれぞれ自分なりに変化させ成長させる。

6.2 機械通信に適用すべき情報理論であるコードモデルを、人間のコミュニケーションに適用してはならない。

6.3 私たちのコミュニケーション理解は、関連性理論、およびルーマンのシステム理論などによって、より洗練されなければならない。

6.3.1 教師は、自分は決して生徒の頭の中に直接介入・操作ができないことを自覚しなければならない。

6.3.2 教師は、自らの最善とは、生徒とのコミュニケーションを切断せずに、創造的刺激を与え続け、生徒が自律的に内から変わることを促進することであるを自覚しなければならない。

6.4 田尻実践といった優れた実践に接しても、私たちはそれを特異なものだとして、その実践とのコミュニケーションを絶ってしまうのではなく、個性的な実践の中に普遍性を見い出そうと試みなければならない。

6.4.1 田尻実践という個性的実践が「優れた英語教育実践」と普遍的に概念化された時に、田尻悟郎という特定の個人は、英語教育にとっての「救世主」であるという考えから解放される。(英語教育界は田尻悟郎に頼り過ぎてはいけない)。

6.4.2 英語教育が変わるのは、英語教育の内側からである。英語教育の改革は、それぞれの英語教師が、それぞれの《環境》と可能な限りのコミュニケーションを継続し、自らをより複合的に自己組織化することから始まる。

6.4.2.1 自己組織化を継続する英語教師が、互いにコミュニケーションを始め、英語教師の《社会システム》を密にする時、英語教育界は他の《社会システム》という《環境》とも適合的に対応できるようになる。

6.5 自らの処理能力を超えるような高い複合性をもった《環境》に出会った場合、私たちは自らの《心理システム》の崩壊を防ぐことを優先し、それがかなう限りの範囲でその《環境》と少しずつ接点を見出し、コミュニケーションを絶やすことなく、少しずつ自己をつくり変えてゆかなければならない。ここでもコミュニケーションの継続がなしうる最善のことである。

6.6 「何がよい英語教師をつくるのか」という本論の問いに、私たちは以下の普遍的な回答を与える。

6.6.1 必要なのは英語教師である自分とその《環境》、およびそれらの間の絶えざるコミュニケーションだけである。

6.6.1.1 絶えざるコミュニケーションにより自分はますます複合化し、《環境》のより大きな複合性にも対応できるようになる。

6.6.2 コミュニケーションを契機に複合化された自分は、複合的な《環境》に対しても、必ずしも自分でも予想していなかった対応ができるようになる。

6.6.2.1 この対応力は、一方的に誰かがあなたに「教え込む」ことができるものではない。

6.6.3 あなたは、あなた自身を崩壊させない限りにおいて《環境》とコミュニケーションを続けることによってしか変わらない。

6.6.3.1 コミュニケーションの継続により、あなたはあなたが知らなかったあなたに成る。それが「あなたらしさ」である。「あなたらしさ」とは潜在的可能性を秘めた顕在的現実、つまり自己同一性を失わないままに変わりうるものである。

7 本論は発表者の現時点での能力の範囲で、田尻実践といった優れた実践から学ぼうとしたものに過ぎず、数々の不備を備えている。しかし、重要なのは完璧な理論を求めてそれがかなえられず失望することでなく、どんな理論的試みからも、何らかのコミュニケーションを継続しようと試みることである。この点で、発表者は、ここまでこの論を読んだ読者の忍耐に感謝し、さらなる寛容を希いながら、全面否定も含めた読者からの何らかの反応を望むばかりである。反応というコミュニケーションこそが私たちを育てる。


主要参考文献

Sperber, D. and Wilson, D. (1995). Relevance: communication and cognition. Blackwell.
柳瀬陽介 (2006). 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』.溪水社
ルーマン、二クラス著、佐藤勉監訳. (1993). 『社会システム理論(上)』. 恒星社厚生閣
ルーマン、二クラス著、佐藤勉監訳. (1995). 『社会システム理論(下)』. 恒星社厚生閣

2007年11月22日木曜日

Sociocultural theory and second language learning

J. P. Lantolf教授によるSociocultural theory and second language learning: Select bibliographyです。
友人が見つけてブログで紹介していましたので、私のブログにも転載します。

http://language.la.psu.edu/aplng597f/VL2BIB.html

田尻科研シンポ満員御礼

田尻科研シンポは満員となりました。

2007年11月22日17:15を持って受付を終了します。

ご参加予定者の方、当日をお楽しみに。

柳瀬陽介

2007年11月15日木曜日

言語コミュニケーション力の三次元的理解

2007年10月28日の日本言語テスト学会で口頭発表した「言語コミュニケーション力の三次元的理解」の草稿を旧ホームページにアップしましたのでお知らせします。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html

それにしても久しぶりにホームページをいじくったらめんどくさかった(泣)。
ホームページを管理していた頃は「別にブログなんて」と思っていたけど、一旦ブログに慣れると、ホームページの管理は面倒です。
サクサク仕事が進まないとイライラしてしまう(笑)。
昔はよくこんなの頻繁にやっていたなぁ。

2007年11月11日日曜日

梅田望夫『ウェブ時代をゆく』ちくま新書

「ウェブ時代」の到来とは、新しい感性、感覚、価値観、思考法、つまりは新しいスタイルが、誰もその帰結について予想をつけることもできない、途方もない強力な乱流を地球上にもたらしつつあるということなのでしょう。この新しいスタイルは例えば、

グーグルのセルゲイ・ブリンラリー・ページエリック・シュミット、リナックスのリーナス・トーバルズ、ウィキペディアのジミー・ウェールズ、Emacsのリチャード・ストールマン、あるいは日本ではまつもとゆきひろ石黒邦宏らに代表されるものです。

この本の著者の梅田望夫さんは、いわば「確信犯的オプティミスト」になることで、このスタイルを日本語文化圏にも導きいれようとしています。ここでの「確信犯的オプティミスト」とは、単純な楽天家を意味する言葉ではありません。それは、物事の光と影の両方を見つめた上で、影を引き受けつつ光の部分を増やしてゆこうとする現実主義的でタフな行動者を意味する言葉です。その中で訴えることは、

新時代の情報リテラシーとは、「無限の情報」と「自らの有限の志向性」を直観的にマッピングする感覚で、つまり膨大な情報を遮断せず大切な情報を探し続ける能力である。(109ページ)


や、ネット空間を
パブリックな意識

でドライブすること(172ページ)であったりします。

ウェブ進化論』と共に本書『ウェブ時代をゆく』こそは、現代日本における必須の教養書だと私は考えます。日本には、情報を咀嚼・消化して自らの血肉とすることの重要性の認識、およびパブリックな空間を作り上げようとする熱意がまだまだ足りないと私は考えているからです。


⇒アマゾンへ

追記

梅田望夫氏の講演「リアルの世界に生きる人は、ウェブ時代をどう生きたらいいのか」がネットで読めます。一読をお薦めします。


追追記
英語圏のネットは日本語圏の10倍
および
英語が下手と人に言うのはやめよう
もぜひお読みください(期間限定記事かもしれませんのでデッドリンクになったばあいはお許しを)。

2007年11月5日月曜日

11/24(土)田尻悟郎先生の科研シンポジウムまだ空席あります!

以下の、科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践解明」ですが、大きな会場を確保していますので、まだお申込みはできます。ぜひお誘いあわせの上、お申し込みください。

その際の注意事項を申しあげます。

(1) 携帯メールではなくPCメールをお使いください。携帯メールだと返信にトラブルが生じることがあります。なお技術的なトラブルのため、メールが届かない場合は、その旨を明記した上で、yosuke@hiroshima-u.ac.jpにメールをお送りください。いずれにせよ、事務局では必ず確認のメールを出すようにしています。

(2) 当日、会場には暖房が入りません(ごめんなさい、国立大学は融通がきかなくて・・・)。当日は暖かい格好でお越しください。ご不便をお詫びします。

それでは下記をご覧の上、ぜひシンポジウムにご参加を!
2007/11/5
柳瀬陽介

******

☆☆この文書は各種媒体に転載自由です。広くお知らせいただければ幸いです☆☆

下記のシンポジウムの受付を、10/1(木)より、専用メールアドレスで受け付けます。

tajiri071124@hotmail.co.jp

お名前(ふりがな)・ご所属を書いて、上の専用メールアドレスにお申し込みください。会場の都合で、満員になりましたら締め切らせていただきます。上記のメールアドレスから、受付番号付きの確認メールが来て、受付は完了します。


*****以下、シンポジウムの案内*****


科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践の解明」のお知らせ


趣 旨:「プロフェッショナル」「わくわく授業」「ブロードキャスター」等のテレビ番組でも取り上げられた、田尻悟郎氏の英語教育実践は、これまでの英語教育 の理論や制度をはるかに超えた優れた実践です。しかし、この田尻氏による「現場の知」を、単なる「名人芸」や「天才の技」といった安易な言葉で片付けてし まえば、私たちが田尻実践から学べることは大きく限定されてしまいます。その成り立ちやメカニズムにメスを入れ解体し、詳しく分析することで、田尻実践を 日本の言語教育の改善そして教師の支援へとつなげることを、本シンポジウムはめざします。

日時:2007年11月24日(土曜日)[三連休の中日です]

場所:広島大学(東広島キャンパス)総合科学部 L102教室(教育学部ではありません!)


対象:現役英語教師、指導主事などの英語教育関係者、英語教師を目指す学生、英語教育研究者、日本語教育関係者、その他。

参加費:無料(ただし事前登録が必要)

スケジュール(予定)
第一部
13:00-13:10 開会の辞:シンポジウムの趣旨説明(柳瀬陽介:広島大学大学院)
13:10-13:30 田尻実践を教員研修にどう活かすのか?(横溝紳一郎:佐賀大学)
13:30-13:50 田尻実践における文法の扱い方を斬る!(大津由紀雄:慶應義塾大学)
13:50-14:10 田尻実践における「コミュニケーション」(柳瀬陽介)
(休憩 20分)
第二部
14:30-14:50 英語教師田尻悟郎のライフヒストリー(横溝紳一郎)
14:50-15:50 田尻実践を体験してみよう!(田尻悟郎)
(休憩 20分)
第三部
16:10-17:00 対談:田尻実践とは何なのか(田尻悟郎・春原憲一郎:海外技術者研修協会)
17:00-17:20 質疑応答(田尻悟郎)
17:20-17:30 閉会の辞(横溝・大津・春原・田尻・柳瀬)

申込方法
10/1(木)より、tajiri071124@hotmail.co.jp に名前(ふりがな)・所属を書いたメールを送り、受付番号のついた確認メールをもらう(会場の都合により人数制限あり)

この件に関するお問合せ先:柳瀬陽介 082-424-6794  tajiri071124@hotmail.co.jp