2007年11月23日金曜日

田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み6/8

4 田尻悟郎のコミュニケーション

4.1 田尻はコミュニケーションにおいて、自分の知識や心情を伝達しようとする以上に、相手に創造的刺激を与える (inspire) ことを試みている。田尻はコードモデル的コミュニケーション観ではなく、「私たちは他人の頭の中への直接介入や直接操作ができない」という前提をもつコミュニケーション観を持っているように思える。

4.1.1 田尻は教室を、一人の教師から一塊の生徒全員への知識伝達の場としてはとらえない。彼はそのような教育観が有効でないことを経験とその経験からの反省によって学んだ。

4.1.2 田尻は教室を、一人一人の生徒が、それぞれに自分なりの刺激を受け、自分なりに変わり、その新たな自分を表現し、一人一人の生徒がお互いに相互作用を起こす場として考えている。田尻の教室において生徒は自律し、新たな自分と他人を見出す。

4.1.2.1田尻は教室で、教え込むのではなく、気づかせることを目指す。

4.1.2.1.1 田尻の生徒は、しばしば自ら気づき、「あっ、そうか!」と叫び、「わかった、わかった、もう先生説明するな!」と教師の介入を拒む。このような生徒の行動を田尻は授業の成功を測る指標の一つとしている。

4.1.2.2 田尻は、テストや自学ノート、放課後自主勉強会といった形で個人指導を徹底していた。

4.1.2.2.1 大学の授業でも田尻はできるだけ個人指導を導入しようとしている。

4.1.2.3 田尻はクラスの初期では、ファーストラーナーの指導を優先し、彼/彼女らがある課題ができるようになったら彼/彼女らを「リーダー」として任命し(生徒はそれを「子田尻」と呼んだ)、彼/彼女らに、彼/彼女らに続く生徒を指導させ、田尻はスローラーナーの指導に取り組んだ。

4.1.2.4 田尻は自分だけが知識の供給源となることを拒み、英語教室の壁面一杯に文型表やフォニックス一覧を貼ったり、「お助けブック」を刊行したりして、生徒に常に複数のレファレンスを持たせ、生徒が様々な形で気づくことを支援した。

4.1.3 この田尻の個人に創造的刺激を与えるスタイルは、クラスに一斉に「教え込もう」とするコードモデル的コミュニケーション観での授業スタイル(知識伝達型)と好対照である。

4.1.3.1 教師が、生徒の頭の中に直接知識や意欲を移転させようとする授業スタイルは、せいぜいうまくいったとして、教師の知識が生徒にそのまま複製されるだけである。だがそれは複製である限り、劣化したものである。また、複製もそのまま複製されただけなら、生徒の中に取り込まれず、「丸暗記」されたものとして、やがて消えてゆく。現実的には情報伝達型の授業は、教師、生徒の多くが共に自己嫌悪と相互嫌悪を持つこと、あるいは共に怠惰な諦念を持つことに終わりかねない。

4.2 田尻は自分にとっての《環境》である生徒との接点を持つために、内容と方法において多彩なコミュニケーションを生徒に対して試みる。彼は「正解と不正解の区別」という狭義の教師のコミュニケーションスタイルをはるかに超え、多彩な発話の使い分けによって、互いに《環境》であるお互いの接点を増やし、コミュニケーションを絶えず継続しようとしている。

4.2.1 コミュニケーションの継続こそが、教師ができる限界であり、最良のことである。教師は生徒の頭の中に直接介入操作して知識や意欲を移植することはできない。教師ができる最善は、生徒が教師の外からの働きかけを通じて内から変わることを促進することである。

4.2.1.1 田尻のスタイルは、生徒指導と英語指導を融合させたものとも解釈できる。

4.2.1.1.1田尻は、「自転車の鍵をなくした生徒への対応一つで、それからの授業が変わる」とも、「授業で人間関係ができた子には生徒指導もしやすい」とも述べる。

4.2.1.1.2田尻は、しばしば英語指導の際に「社会ではそういうのは通用しない」というスタイルの説得をする。田尻は、彼が、生徒が社会に出た時のことを見通して指導していることを生徒に伝える。

4.2.2 発表者が、中学一年生対象の田尻の三つのクラスを連続して観察した時に、授業内容とフォーマットはほとんど同じであるにもかかわらず、田尻のクラスはそれぞれの個性を持ち、見ていて飽きるということが一切なかった。これは田尻が自分のスタイルをただただ押し付けるのではなく、それぞれのクラスという田尻の《環境》にうまく接点を見つけて、田尻の授業を田尻の方針に基づきながらも細部を即興でつくりあげていったからであろう。

4.2.2.1 田尻のクラスは「田尻流」ではあるが、この「田尻流」は、田尻が、田尻の予想を超える生徒の反応にぶつかりながらも田尻らしさを失わずに対応し続けていることにより生じている。「田尻流」は田尻によるものであるが、田尻だけによってできたものではない。

4.2.3田尻は授業で様々な声を使い分ける(授業での多声性)

4.2.3.1 田尻の授業での日本語は多彩である。

4.2.3.1.1田尻の授業での日本語は、大きく分けるなら、教育内容に言及する時は明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者との相互関係を活性化させる時には親和性に富む関西弁を使い、学習者との心理的な距離を縮めようとする時には親密性に富む出雲弁を使うという使い分けがなされている(これは田尻が島根県の公立中学校に勤務していた時の話である)。

4.2.3.1.2 田尻の授業での日本語は地域方言の使い分けがあるだけでなく、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいても多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.2田尻の授業での英語は、非常に正確かつ流暢であるだけでなく(発表者は、中学生でもわかるレベルの英語でこれだけ深く適確な英語表現ができる日本人を他には知らない)、日本語使用と同様に、スピード、テンポ、リズム、イントネーション、ポーズ、メロディー性、声の大きさ、声の質、演劇性、などにおいて多彩な使い分けがなされている。

4.2.3.3田尻の授業での英語から日本語へ、日本語から英語への変化はスムーズで、一瞬どちらの言語で田尻がしゃべっているかわからないと観察者でさえ思えるぐらいに、田尻のコミュニケーションは聞き手を引き込んでいる(田尻は「生徒は私が英語をしゃべっている時に、それが英語だと自覚していないことも多いと思います」と述懐したことがある)。

4.2.3.4田尻の身体言語も豊富である。特に生徒が失敗をした時の満面の笑み(!)、個人的にしゃべる時に決して切らないアイコンタクト(田尻は、自分はアイコンタクトが下手だからじっと見つめていると自己解説する)、言葉がなくても言いたいことがわかるのではないかといえるほどの明確で大きなジェスチャー、生徒の間違いを言語的には指摘しないまま、口の動きだけで生徒に文法などを訂正させる顔と口の動き、机間巡視のさりげない肩たたき、生徒の冗談に席から飛び上がらんばかりに笑う闊達さ、「毛づくろい」とも言えるような生徒の身体的コミュニケーションを受け入れる態度など、田尻は非言語的にも多彩な手段で生徒とコミュニケーションを取っている。

4.2.4田尻には教師の典型的な基準である「正・誤」だけでなく、「よくやった・どうしたんだ?」「理解できる・受け入れられない」「社会的に認められる・社会では通用しない」「個性的である・お前らしくない」「笑える・面白くない」などの多様な基準を持ち、それらの基準を使い分けることによって、できるだけ生徒に肯定的な反応を返して、コミュニケーションを切断しないようにしている。

4.2.4.1職員室での同僚とのコミュニケーション、特に生徒を話題にしたコミュニケーションを田尻は積極的に促進し、教員間・生徒間にできるだけ多くの接点をつくろうとしている。

4.2.4.1.1田尻の同僚である若い女性教師は、田尻が職員室では出雲弁で自分の失敗談や家族の話をよくするので、職員室の雰囲気が和むとも証言した。

4.2.5この田尻の多彩なコミュニケーションスタイルは、いわゆる「教師」としてのステレオタイプ的な役割期待を教師自身と生徒そして同僚に対して堅持し、その役割期待から外れる発言や行動は一切しようとしない教師のスタイルと好対照である。そのような教師は、教師の役割期待を共有する「よい生徒」とは、正解・不正解の区別という限られた情報伝達は行いうるが、そのような役割期待を持たない生徒とは、お互いに理解不可能な《環境》として、教室という空間に物理的には共存するが、コミュニケーションという関係は結び得ない。同僚とも、職務遂行上最低限の情報交換をするだけであり、いわゆる「同僚性」を育てることはしない。

4.3 田尻はコミュニケーションの結果から自己観察し、自己省察し、新たな要素を自己に取り込む自己組織化・自己再生産を継続して行っている。そのプロセスが長期にわたるときには田尻はまさによく「考える」教師だと言える。

4.3.1田尻の「自分は何も考えず直感的に行動しているだけです」という台詞は、謙遜あるいは自嘲の言葉であり、田尻に関する正しい記述ではない。

4.3.1.1田尻は「24時間考えていないと何も新しいアイデアは浮かばない」というエピソード(NHKテレビ『プロフェッショナル』における自動改札システム開発秘話)を好んで語る。

4.3.1.2田尻は東急ハンズなどの様々な刺激を得る場所に行くと、時間が許す限りそこに滞在し、何が英語授業に使えるだろうかと考える。彼は積極的にこれまでの自分の英語教育の発想を超えた《環境》との接点を求め、自らの英語教育の発想を更新しようとしている。

4.3.2田尻の口癖の一つは「反省、改善、進歩」である。ビジネスでは"Plan-Do-See-Action"というが、田尻の場合『愛する、行動する、見る、考える、気づく』で授業を改善している。

4.3.2.1 いずれにせよ、田尻は自らを超えた《環境》(生徒という《心理システム》は田尻にとっても《環境》である)に積極的に働きかけ(=愛する、行動する)、その働きかけの結果を観察し(=反省する、見る、考える、気づく)、自らの行動を自らを超えていた《環境》に促されながらも、自らができうる範囲で、ということは、単なる旧来の方式の繰り返しでもなく、逆に全く自分とは異質の方式の移入でもないやり方で自己を改革する(=改善、進歩)。

4.3.2.1.1 田尻はしばしば真面目な話を真剣にした後に、わざと「オチ」を入れて人を笑わせるが、これは田尻が自らのコミュニケーションを自己観察し、そのコミュニケーションとそれ以外ののギャップ(差異)を取り込み、「オチ」という形で自分のコミュニケーションを自己再生産していると解釈できる。(自己観察はユーモアに不可欠である)。

4.3.3 田尻は自身の英語力をつけたのは、毎日のシャドウイング訓練と、生徒の英作文添削であると述懐する。田尻は生徒の英作文の的確性の判断に誠実に取り組み、その度に自らの英語知識を再観察し、辞書を引きなおし、ALTに助けを求め、自らの英語知識を充実させていった。

4.3.3.1 田尻の英語知識はこのように絶え間ない自己観察・自己省察によって自己再生産され続けているものであるので、自己整合性が高く、彼の英語の説明は他に例を見ないユニークで、論理的一貫性の高いものである。

4.3.3.1.1 田尻の英語知識は、どこかの本の知識を丸暗記して田尻の頭の中に移転させたものではない。そのような移転による知識では、生徒に対しての当意即妙かつ整合的な説明は不可能である。

4.3.4 この田尻の自己観察的・自己省察的スタイルは、自己観察・自己省察を欠いた「やりっぱなし」の授業スタイルとは好対照である。教師が自己観察・自己省察を欠く時、教師は自らの檻の中に閉じ込められたまま、《環境》に適応することができない。また教師が他人からまったく新しいやり方を学んで、そのやり方を自分の授業に移植しようとしても、自己観察・自己省察を欠くなら、そのやり方は、教師自身の中に取り込まれず、ましてや生徒にも受け入れられず、授業改善にはつながらない。自己観察・自己省察を欠いたまま新しいやり方を求め続ける教師は、失敗を重ね、やがて授業改善の試みを諦める。

4.4 まとめるなら、田尻のコミュニケーションとは、創造的刺激で生徒を内から変えようとするものであり(情報伝達型ではない)、生徒と多様な接点でつながろうとし(教師という役割期待だけに拘泥しない)、コミュニケーションする自分を絶えず自己観察し、そのことによって自己変革を持続的に継続している(「言いっぱなし」ではない)。この田尻のコミュニケーションを、この論文は「的確なコミュニケーション理解に基づくコミュニケーション」の一例として考える。

4.4.1 田尻悟郎をつくったのは、この田尻悟郎のコミュニケーションである。

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