2008年3月24日月曜日

岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』講談社現代新書

 歴史とはもちろん事実に関する学問ですが、事実以上のものでもあります。数ある「事実」の中から何を選択的に発見し、それをどう解釈するかという側面があるからです。その意味で、私たちは単に歴史的事実を観察するだけでなく、その観察を行った歴史家という観察者を観察する(第二次観察)ということも行います。まあ、「観察者の観察」などというルーマンかぶれの世迷い言を出すまでもなく、各時代でどのように歴史は書かれてきたのかという問題は、歴史の事実的な問題同様、重要なことでしょう。

 私は高校時代に数学と世界史をきちんと勉強しなかったことを後悔していますが、「遅くともないよりはまし」ということで、恥を忍んでこのように読んだ本を、高校生よろしく自分の勉強のためにまとめておく次第です。以下、キーワード風に私なりに同書から学んだことをまとめます。ただまとめる際に思わぬ間違いが混入してしまっているかもしれませんので、このまとめを読む方はくれぐれもご注意下さい。

・ヨーロッパとアジアの区別
ヨーロッパとアジアを明確に区別しはじめたのは「歴史の祖」ヘロドトス(前484-前425)といえる。彼はペルシャ戦争に関する挿話の中で、ポリスの中で自ら定めた法に基づいて自由人たるスパルタ人のあり方を、なかなか理解できないペルシャ君主の姿を描き出している。(18-19ページ)

・歴史動因の古代的限界
ヘロドトスによると、ペルシャ戦争の原因であり敗因であるのは、ペルシャ王(クセルクセス)の人間性(「野蛮不遜」「傲慢」)であり、ヘロドトスはそれ以上に歴史の動因を探究しようとはしなかった(49-51ページ)

・「世界史家」と「世界史の父」
ヘロドトスは、ギリシャ人と戦ったペルシャ人について調べる過程で、征服地であるエジプトからインドにまたがる地域を描いたから、単一民族の歴史を描いた歴史家でない、はじめての「世界史家」となった。しかしローマで人質となっていたギリシャ人ポリュビオス(前201-120)がヘレニズム文化を背景にしつつ、ある特定の民族ではなく、諸民族を包含する「世界」の側から地中海という「ローマという世界」(ローマ的世界史)を描いたときにはじめて「世界史」は誕生したともいえる(33-36ページ)。

・政体循環論
ポリュビオスはアリストテレスの分類を基にして、君主政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政→君主制・・・という「円環的時間」でギリシャ人とローマ人の政治を説明した。また、彼によると完成期のローマ共和政が地中海を統合できたのは、これらの政体のうちの理想型である君主政(執政官)、貴族政(元老院)、民主政(平民会)をうまく「混合」できたからである。(37-40ページ)

・古代的な三重構造の世界
ローマ時代には「自由な市民=真の人間が住む地域(ローマ世界)/一段と劣った人間が住み、隷属を特徴とする地域(アジアおよびアフリカ)/怪物たちの住む地域」という三重構造で世界が考えられていた。(31ページ)

・「古代普遍史」の誕生
アウグスチヌス(354-430)は、人間の歴史を神による人類教育の過程として直線的かつ発展的に描こうとした。ここに「普遍史」が誕生した。(62-63ページ)

・中世的な三重構造の世界
カール大帝は西ローマ帝国を再興し、イスラム教徒に対抗できる権力を打ち立てたが、この頃から「キリスト教徒=選民の住む地域/異教徒の住む地域/怪物的人間の住む地域」という中世的な三重構造で世界が考えられるようになった。(71ページ)

・歴史的分析の萌芽
アウグスチヌスが『神の国』を書いた動機は、なぜローマ帝国がキリスト教化したのに滅びてしまったのかということを説明することであった。彼はその理由として「ローマ人の罪」(「自己愛」、「支配欲」、「名誉欲」、「傲慢」など)と、「理性の不完全さ」(限られた人知では計り知れない神の意図)に求めている。ここで歴史的原因探求は、古典的ヒューマニズムの限界を超えたといえる。(82-83ページ)

・近世的な三重構造の世界
大航海時代で世界は広がったが、探検者たちは怪物を見つけることはできなかった(しかしこのあたりはポストコロニアニズムの観点からの詳しい記述が必要.
例、本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波新書、第二章))。ここで「キリスト教徒/異教徒/野蛮人」という近世的な三重構造の世界ができあがった。(102ページ)

・「科学革命の世紀」としての17世紀
17世紀は、ケプラーによる惑星の法則の発見、ガリレオによる天体望遠鏡の発明(1609)、デカルトによる『方法序説』(1637)、ライプニッツによる微積分学の完成(1675)、ニュートンによる『ピリンキピア』(1687)などに代表される科学革命の世紀であった。これは18世紀の「進歩」の観念につながった。(120-128ページ)

・啓蒙主義的歴史観
コンドルセ(1743-1794)の『人間精神進歩史』(1793-4)は啓蒙主義的な「進歩史観」を代表する書の一つといえる。そこでは人間は、その固有の能力である理性によって進歩する存在としてとらえられ、歴史も個体の能力の発達と同じように、普遍的法則に従って進歩すると考えられた。この啓蒙主義的進歩史観は、普遍史観と対立しつつ、科学革命の法則観を取り入れた。(129-131ページ)

・18世紀のヨーロッパ人にとって、はるか遠いところにある中国にも見事な統治制度や豊かな産物があることは驚異であった。それに関してヴォルテール(1694-1778)は、中国は道徳や治安では発達の最終段階にあるが、哲学や文学、ましてや学問(科学)の点では劣っていると主張した。モンテスキュー(1689-1755)は『法の精神』(1748)で、この中国(アジア)の「停滞」を、三政体(専制政体、君主政体、共和政体)のうち、専制政体しかなく、社会が「隷属」を基礎としていることにより説明しようとした。(150-153ページ)

・近代的な三重構造の世界
19世紀のヨーロッパ人は「近代的なヨーロッパ/古代的なアジア/未開・野蛮なアフリカ(暗黒大陸)という三重構造で世界を考え、植民地支配で「文明化」を図ることが自分たちの使命だと考えた。

・国民国家意識の誕生
啓蒙主義の反動から19世紀にはロマン主義が台頭した。ロマン主義は初期は個人を対象としたものであったが、次第に「民族」を「有機体」としてとらえはじめ、ナショナリズムが誕生した。(168-173ページ)

・歴史主義
19世紀の歴史観は「歴史主義」と呼ばれる。歴史主義では、「過去の歴史的事象を有機体としてとらえ、その生成・発展・死滅の運動を、個性に注目しつつ認識しよう」とした。ここでは量的拡大としての「進歩」ではなく、質的な「発展」という言葉が好まれた。(178ページ)

・マルクスの唯物史観
マルクス(1818-1883)とエンゲルス(1820-1895)は、自らの唯物史観を「科学的社会主義」として規定して、資本主義的段階を通じて人間の普遍的解放への道が歴史法則的な必然であると主張した。彼らはヨーロッパ以外の地域についてはモンテスキューやヘーゲルらと同じような考えを有していた。(198-211ページ)

と、以上は、同書から私が恣意的にまとめたものです。ご興味のある方は、歴史記述における「世界」の構造、「時代」の区分についてわかりやすくまとめたこの本をぜひお読み下さい。

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