2008年3月21日金曜日

広島市小学校への英語科導入という「大規模・長期計画」について

以下の記事は、「英語教育セミナー」で柳瀬が行うプレゼンテーション用の資料です。

「英語教育セミナーは」(1)日時 平成20年3月22日(土)開場 13時00 開会 13時15分から17時00分(2)会場 広島女学院大学 ヒノハラホール5階 広島市東区牛田東4-13-1(3)主催 (財)日本英語検定協会(4)後援 広島市、広島市教育委員会(予定)㈱中国放送(5)協賛(予定)中国新聞社、朝日新聞社(6)協力 広島女学院大学、で開催されます。



広島市小学校への英語科導入という「大規模・長期計画」について

柳瀬陽介
広島大学大学院教育学研究科英語文化教育学講座
yosuke@hiroshima-u.ac.jp
http://yanaseyosuke.blogspot.com/
http://yosukeyanase.blogspot.com/


0 はじめに

広島市内八区の141校の小学校すべてに「英語科」を新設するというのは、言うまでもなく、大規模で長期的な計画です。この場合の「大規模」とは関係者が全員お互いに直接対面できない規模の大きさを言います。「小規模」とは関係者全員が直接対面していることが常態の規模、「中規模」とはその中間規模と定義します。
http://www.school.edu.city.hiroshima.jp/school/shou.html
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/1171357708361/html/common/45d2978f006.html

大規模で長期的な計画は、小規模で短期的な試みの延長で考えられてはいけません。前者には、後者では発生しないような問題が生じるからです。端的には直接的な相互作用(コミュニケーション)があまり期待できないので、きちんとした理念と計画を明確に言語化し、それを共有しておく必要があります。しかし日常生活で小規模な短期的な試みばかりに慣れている私たちは、大規模で長期的な計画の発想に慣れていません。

ここでは広島市小学校への英語科導入を大規模・長期計画として考えるために、少々大げさな回り道に見えるかもしれませんが、20世紀の日本が経験した最大にして最悪の大規模・長期計画であった「戦争」(日中戦争・太平洋戦争・大東亜戦争)を振り返り、改めて「戦略・戦術・兵站」の区別をして、小学校への英語科導入を考えたいと思います。



1 昭和史の反省から

以下、私が読んだいくつかの本からの引用・要約を行います。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060828
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#051223

1.1 「日本的思考」?

半藤一利(2004)『昭和史1926-1945』平凡社

 第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人びとを引っ張ってゆき、流してきました。(499-500ページ)

 二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。(500-501 ページ)。

 三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。(502ページ)。

 そして四番目に・・・・国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった、これまた常に主観的志向による独善に陥っていたのです。(502ページ)。

 さらに五番目として、何かことが起こったときに、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした。(502ページ)


1.2 「和をもって貴しとなす」?

保阪正康(2004)『父が子に語る昭和史』PHP文庫

 日本人は、討論や議論を好む民族ではないといわれてきたが、それは対立点をだしあってじっくりと話し合い、そこから調整点をさがしだす習慣をもっていなかったということでもある。和をもって貴しとするというのは、いかにも日本的発想だが、しかしこれがひとたび政治の領域にはいればひとつの考えだけが幅をきかし、それ以外は認めないとの独善になる。

 この時代をいまこうしてふり返ってみると、あまりにも「国論一本化」に狂奔した時代があったと驚かされるだろう。こういう時代には良質の個人主義など育つわけはない。そこからは大胆な発想などもでてこないとわかるはずだ。
 国民は上からいわれたことをそのまま諾々と受け入れてしまう。他人と異なっているのは怖いという感情をもつ。(119ページ)



1.3 戦術はあっても戦略はない

保阪正康(2005)『あの戦争は何だったのか』新潮新書

 
私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。
当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。(105ページ)

 私はこれまで、太平洋戦争中に戦争指導者たちが行ってきた「大本営政府連絡会議」を初め、様々な会議の資料をずいぶん当たってきた。しかし、一度として「この戦争は何のために続けているのか」という素朴な疑問に答えた資料、あるいは疑問を発する資料さえ目にしたことがない。彼らが専ら会議で論じているのは、「アメリカがA地点を攻めてきたから、今度は日本の師団をこちらのB地点に動かし戦わせよう」といった、まるで将棋の駒を動かすようなことばかりであった。それで二言目には、「日本人は皇国の精神に則り・・・」と精神論に逃げ込んでいってしまう。(2005: 121ページ)

「戦術」はあっても「戦略」はない。これこそ太平洋戦争での日本の致命的な欠陥であった。(166ページ)


1.4 戦術はあっても兵站がない

山本七平(2004)『日本はなぜ敗れるのか』 角川oneテーマ21

日本軍は、制海権のないバシー海峡(台湾とフィリピン領パタン諸島(バシー諸島)との間にある海峡)に、兵員を満載したボロ船を送り続けた。船は多くが米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、数分から15秒程度で沈没し、ほとんどは助からなかった。船には船倉1坪(畳二帖)あたり14人(カイコ棚二段で7人ずつ)の日本兵が入れられ、便所も満足なものはなかった。この「押し込み率」はナチ収容所最悪の狂人房と同じである。日本軍は日本の船舶が実質上ゼロになるまで機械的にこの愚行を行い続けた。「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのが軍の首脳の言い訳であろう。(35-70ページの記述を柳瀬が要約)




2 戦略・戦術・兵站の区別

 周知のことかと思いますが、ここで「戦略・戦術・兵站」の常識的な意味を再確認しておきましょう。

2.1 戦略 (strategy)

長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。三省堂「大辞林 第二版」
もともとは軍事用語であり、国家や同盟が長期的な目標の達成のためにとる大規模で総合的な計画と実施方法をいう。Microsoft(R) Encarta(R) 2007.


2.2 戦術 (tactics)

(1)個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する。(2)一定の目的を達成するためにとられる手段・方法。三省堂「大辞林 第二版」

2.3 兵站 (logistics)

戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関。三省堂「大辞林 第二版」



3 英語教育の戦略とは?

3.1 世界史的変動への対応


 小学校英語教育のことを考える前に、英語教育一般のことについて、ここではその戦略について考えておきましょう。私は大津由紀雄(2006)『日本の英語教育に必要なこと』慶應義塾大学出版会の中の「英語教育の原理について」で述べたように、日本の英語教育は「世界史的変動への対応」を根本原理として機能していると考えています。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060711

幕末から明治期においては世界的な「国民国家・植民地経済体制への対応」として英語教育が画策されました。第二次世界大戦後は、「全体主義の克服と経済復興」のために英語教育が使われたと考えています。そしてその課題がほぼ達成した頃に生じたのが1990年代の冷戦終結と情報革命によるグローバリゼーションです。

3.2 グローバリゼーションとは

3.2.1 グローバリゼーションの認識(ネグリとハートの論考から)


http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060425

私はグローバリゼーションをネグリとハートの論考などから、以下のように規定します。

インフォメーション・コミュニケーション・テクノロジーによって「私たち」が、加速的に多様に、緊密に結びつけられ、経済はおろか政治、社会、学術、文化や環境、あるいは人権や戦争においてすらさまざまな度合いで連結されており、その連結はグローバルな規模に及ぼうとしている。このグローバルな結びつきは、脱中心的・脱領土的に私たちのあり方を強く規定している。

この時代において「私たち」は、それぞれ様々に異なる様態で存在しながら、誰も現在のグローバルな結びつきから逃れることができない。「私たち」は、実態の生活においては実に様々に異なりつつ、グローバルにつながっている。「私たち」は、「多にして一、一にして多」なる「マルチチュード」(multitude)である。



3.2.2 グローバリゼーションへの誤解


したがって、以下のような考えは私は誤解だと考えます。

3.2.2.1 誤解その1:グローバリゼーションとは一部の人々の問題である。

→グローバリゼーションは、様々な様態と度合いですべての市民に影響している。異なる言語と文化を持つ人々との交流、および「私たち」の言語と文化の再検討は重要

3.2.2.2 誤解その2:グローバリゼーションとはアメリカ化と英語の問題である。

→アメリカ国民あるいはアメリカ語を話している人々がそれだけの理由で世界を支配しているというのは単純化が過ぎる議論である。米国と英語だけでは現在のグローバル規模のネットワークは形成・維持できない。

→排他的二言語主義ではなく、複言語主義が必要である。

排他的二言語主義(exclusive bilingualism)とは、英語と日本語の習得だけを言語教育の範囲と考え、かつ文化植民地的発想から、英語は母国語のように話せるまで学習しなければならないという考え。

複言語主義(plurilingualism)とは、一人の人間が母語と二つ以上の外国語に親しみ、それらを自分なりの必要性に応じて複合的に使いこなし、多様なコミュニケーションを促進する考え方。欧州評議会により提唱された考え。詳しくは
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html


3.3 他教科の学力と連動した社会で使える言語力

 現代日本の英語教育も、できるだけ客観的な時代認識に基づいて遂行されるべきです。上の考察から、私は日本の英語教育は、経済・政治・社会・学術・文化・環境・人権・戦争などの様々な結びつきの一手段として、市民がそれぞれの立場から英語を使いこなせるようにすることが主目的であると考えます。

 そうしますと、今まで日本人に関しては、仮に英語の成績がよくとも、実際に英語を社会的な状況で使うとなると「意見をもたない、論証ができない、議論ができない」とも、会議では「ニコニコ笑っているか眠っている」、まれに「ペラペラとわかりきったことばかりしゃべる」とも言われてきましたが、そういった状況は打開されなければなりません。

 広島市の試みで言いますなら、「言語・数理運用科」などを筆頭とした他教科との学力との連動を英語教育関係者は常に念頭におく必要があります。自分は「英語」だけ教えていればいいというのは狭い考え方だと私は考えます。
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/1171357708361/html/common/45d2978f006.html




4 小学校英語教育の戦略・戦術・兵站とは?

 ここでようやく小学校英語教育の戦略・戦術・兵站について考えます。

4.1 小学校英語教育の「戦略」とは?

 小学校英語教育(初等英語教育)の戦略とは、当たり前のようですが、中等・高等英語教育と合理的に連携することです。しかし、この「当たり前のこと」の認識はきちんとしているでしょうか。私はこの認識があやふやだと、中学校英語教育は大混乱し、大学での英語教育も混迷したままだと考えます。

4.1.1 小学校英語教育と中学校英語教育の連携

小学校と中学校の連携を説明するには「心・耳・口・目・手・頭」というメタファー(正確にはmetonymy)を使うと便利だと私は考えています。

小学校英語活動:(関心・意欲・態度など)
小学校英語科:耳・口(リスニングとスピーキングの基礎・定型的なもの)
中学校:目・手・頭(リーディング、ライティングが正確に素早くできる。文法で創造的に言語使用ができる)



4.1.2 初等・中等・高等英語教育の連携


初等から高等教育までの英語教育の連携を理解するためには、話し言葉(相互作用での言語使用)と書き言葉(脱-相互作用的言語使用)の区別を導入するべきだと考えます。


小学校:(定型的な)話し言葉を聞き始める・話し始める
中学校:(文法的な)話し言葉を聞く・話す・読む・書く
高校:(一般的な)書き言葉を読み始める・書き始める、聞き始める・話し始める
大学:(専門的な)書き言葉を読む・書く・聞く・話す


例えば理系の大学生には専門学術誌の論文を読みこなし、曲がりなりにも英語で学会発表ができるような英語力が求められています。それなのに大学の英語教育が「英会話」やTOEICなどばかりに奔走するのはどこかおかしいと私は考えています。

4.2 小学校英語教育の「戦術」とは?

研究開発校での創造的な授業実践と小学校教員の対応力・柔軟性・創造力には私は正直感嘆していますし、頭の下がる思いです。しかし少数の例を多数に拡大適用することには注意が必要です。大規模で長期的に戦術を遂行しようとすればきちんとした兵站が必要です。


4.3 小学校英語教育の「兵站」とは?

4.3.1 小学校教員への英語研修


新たな試みを行おうとする英語教員への研修は十分かと考えるとき、次のような例を知ると日本の試みは不十分ではないかとも思えてきます。

Kwon(2000)のまとめによると韓国文部省は2001年から本格的に導入される小学校英語教育のために、1996年から小学校教師に120時間の現職教育 (in-service training programs)を実施している。
この基本プログラムを終えたものに対しては、さらに120時間の上級プログラム (advanced program)が企画され、実行された。1996年度においては25,000人の小学校教師が現職教育プログラムを受けた(18,800人が基本プログラムで、6,600人が上級プログラム)。さらには700人の小学校教師が、四週間の海外トレーニングを受けた。
Kwon, Oryang. (2000). Korea's English education policy changes in the 1990s: Innovations to gear the nation for the 21st century. English Teaching, 55 (1), 47-91.


4.3.2 ALTなどとの打ち合わせの時間の確保

 経験のない教科をティームティーチングで教えるのに、打ち合わせの時間すら確保されていないのが現状である。この問題は必ず合法的に解決されなければならない。

4.3.3 教案・教材・教具などの電子的共有

 すべての小学校英語教師が一から教案を考え、教材、教具を準備するのは不合理である。著作権に気をつけながら、せめて広島市内の小学校教員の間で、教案・教材・教具などを電子的に共有するインフラが必要ではないか。

5 まとめ

小学校英語教育を、戦術といった授業案レベルだけでなく、戦略といった徹底的に抽象的なレベルでも、兵站といった徹底的に即物的なレベルでもよく考えることが必要だと思います。

以上

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