2008年4月15日火曜日

中山元『思考のトポス』新曜社

21世紀の現代を理解するのに、前世紀すなわち20世紀の哲学を理解しておくことは非常に有効な手段だと思います。少なくとも私には20世紀哲学は、現代理解に有効な枠組みを提供してくれるように思います。

また近代の哲学を現代において読むのに、20世紀の哲学を理解しておくことは必須かもしれません。私にとってそれは、現代においてバッハ、ベートーベン、ブラームスを聴くことは、シェーンベルクはおろか、ドビュッシーやストラヴィンスキー、あるいはミニマリズムなどを聴いておくこと抜きには考えられないことと同じです。サティやバルトークなどの影響を深く受けた音楽を、安物テレビドラマのBGMですら聴いている私たちにとって、もはや20世紀音楽を抜きにした聴き方はできません。たとえそれが20世紀以前の音楽であっても。哲学においても、20世紀の出来事とその中から紡ぎ出されてきた哲学を抜きにして、私たちは近代の哲学を無垢に読むことはもはやできないと私は考えます。

この本は20世紀の哲学を、ということは20世紀という時代を、さらにはそれ以前の哲学と時代をきわめてわかりやすく解説した良書であると思います。52のキーワードが8章にまたがってそれぞれ4ページで簡潔にまとめられています。

本を通じている姿勢は、「はじめに」の冒頭の文章に端的に表現されているかと思います。


現代の哲学の最大の特徴は、近代の哲学的な枠組みが崩壊し、さらにそれまでの道徳的な原理そのものが破砕されたところから出発しなければならなかったことにある。アドルノが明言したように、哲学は「アウシュビッツの後で」、いかにして可能になるかという問いから始めなければならなかったのである。(3ページ)


この姿勢はアリストテレスからフッサールに受け継がれた「第一哲学」批判につながります。


しかしこの第一哲学という考え方には、いくつかの重要な問題が孕まれていることを指摘したのがアドルノである。まず第一哲学においては、存在にせよ、純粋な自我にせよ、ある究極の第一者を前提とせざるをえない。この第一者の重要な特徴はその自己同一性にある。デカルトのコギトが、疑い思考する自我から哲学を基礎づけたように、第一哲学では自己との同一性だけを特徴とする一者まで還元してゆく。「その原理が存在であるか、思考であるかを問わず、主観であるか客観であるかを問わず、また本質であるか事実性であるかを問わず、ともかく哲学上の第一者として主張されている原理のもとに全てのものが吸収されていると考えられている」[テオドール・W・アドルノ『認識論のメタクリティーク』古賀徹・細身和之訳、法政大学出版局、10ページ]のである。
(中略)
たしかに「私が身をおいている存在の場は、私の自由の領域のごときものである。しかるに他者が全面的にこの領域に組み込まれることはない。他者が私と出宇野は、存在一般にもとづいてではない。他者のうちにあって存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有のもとにある。他者の歴史、その環境、その習慣にもとづいて、私は他者を了解する。しかし他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ」[エマニュエル・レヴィナス「存在論は根源的か」。『レヴィナス・コレクション』合田正人訳、ちくま学芸文庫、360ページ]と言わざるを得ないのである。現代の哲学の重要な課題は、自己という一者からは原理的に考察できないもの、思考できないものを思考することにあるのである。(26ページ)


私のような勉強不足の者は、このように丁寧にまとめられた入門書に非常に助けられます。それぞれの学問領域で、哲学的背景の勉強を必要とされている方々への一冊としては非常に良い本ではないでしょうか。


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