2008年5月30日金曜日

中野好夫先生の警句

中野好夫先生の警句が、なぜか思い出されてきました。備忘のためにここに言葉を残しておきます。

「語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。実際は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。」

「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の肝を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。」

2008年5月29日木曜日

6/28(土)-29(日)に広島市内で教師を目指す学生さんのためのセミナー

主催:教育ネットワーク中国
後援:広島県教育委員会
受講対象:養成段階の大学生、教員採用試験を受験予定の方、すでに教職の道を歩み始めている方、この分野に関心のある方など。(大学1年生から受講できます。)

で、6/28(土)-29(日)に広島市内でセミナーが開かれます。
ぜひご参加下さい。

詳しくは
http://www.enica.jp/teacher/2008/index.html
をご覧下さい。

教育再生懇談会の動き

教育再生懇談会は、5月26日付けで「これまでの審議のまとめ」を発表し、英語教育に関しては、以下のようなポイントを含む提言をしました。

ポイント
4 英語教育を抜本的に見直す
○小・中・高・大の各段階の到達目標を立て、国語教育等と矛盾しない形で、全ての段階で
英語教育を強化する
・英語教科書の質、語彙数、テキスト分量の抜本的向上
・小学校3年生以上で英語教育を行うモデル校を大規模に(5,000 校)設ける
・英語教員の英語力の飛躍的向上、外国人や社会人を活用した英語指導の人材確保を図り
つつ、早急に学習指導要領の見直しの検討に着手し、実行に移す
○高校生、大学生の海外留学の推進などを通じ、英語教育を強化し、日本の伝統・文化を英
語で説明できる日本人を育成する
全文はこちらをご覧下さい。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/matome.pdf


さらに、その際の審議資料が公開されています。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/kaisai/dai3/2s-3gijisidai.html

特に
資料4 英語教育関連資料 [PDF]
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/kaisai/dai3/2seku/2s-siryou4.pdf
に関しては、これから様々な政策決定に使われる資料かとも思われますので、様々な立場からの吟味と精査が必要かとも思われます。

また、「留学生30万人計画」に関しても、経済界は日本の高等教育・言語政策の方向に関して大きな提言をしているように思われます。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/kaisai/dai3/2seku/2s-siryou5.pdf

ご参考までに

2008年5月28日水曜日

森田邦久「勝手に哲学史入門」

グーグル検索していたら偶然、博士(理学)と博士(文学)を、いずれも大阪大学にて取得された森田邦久先生による「勝手に哲学史入門」というウェブサイトを発見しました。ご自身は「はじめに」で「ここに書いてあることをそのまま信用することはオススメできません」と書かれていらっしゃいますが、とても有益なサイトだと思いますのでここでも紹介させていただきます。

http://www.geocities.jp/enten_eller1120/philindex.html

2008年5月27日火曜日

的場昭弘『超訳「資本論」』(祥伝社新書) / 『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』(五月書房)

かつてWittgensteinから始まった私の知的関心は、柄谷行人への関心にもつながってゆきました。そこからバフチンJames WertschヴィゴツキーJames Lantolfとつながりました。そしてLantolf先生(Jim)は、Paulo Freireの重要性を教えて下さいました。一方で私はアレントネグリ・ハートにも興味を持ち続けています。

柄谷から始まったこれの系譜はある一点で共通しています。それは彼/彼女らがマルクスに根源的な影響を受けているということです。マルクスを理解せずに、彼/彼女らを理解することは不可能かもしれません。しかし私はマルクスに関してきちんとした勉強をせずにここまでやってきました。

私が大学に入った1982年当時は、かろうじて「大学生なら『資本論』ぐらい読んでおこう」という空気が残っておりました。しかし私も他の学生と同じく第一巻の始めあたりで挫折しました。その後、廣松渉先生の著作を読む度にマルクスは気になっていましたが、80年代の妙な明るさは、私からマルクスを遠ざけました。89年のベルリンの壁崩壊や91年ソビエト連邦の解体に私も他の人々同様、何が起こったのだろうと、うろたえるだけでした。90年代前半、私たちは「平成不況」という言葉で現実認識を誤魔化していました。95年の阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、96年の薬害エイズ事件、97年の神戸連続児童殺傷事件、98年の山一證券の自主廃業、大蔵官僚のノーパンしゃぶしゃぶ接待、等の一連の出来事で、私たちは日本の何かが根本的に変わってしまったように思いましたが、その正体はわからずじまいでした。やがて2001年に「自民党をぶっ壊す」と小泉内閣が誕生し、その流れは堀江貴文氏、竹中平蔵氏といった「時代の寵児」を生み出しました。小泉氏の退陣後の安倍内閣は教育基本法および「教育改革関連三法」の改正、「国民投票法」の成立など矢継ぎ早に法律を通過させましたが、07年の参議院選挙惨敗を経て、安倍氏は急に失速したように辞任し、福田内閣の誕生へとつながり、現在に至っています。

そうしてある意味、落ち着いてきたら、私たちが日本に見出したのは、「格差社会」の到来でした。戦前の経済や文化、そして政治の状況が急にリアリティを持ち始めました。小林多喜二の『蟹工船』が売れているというニュースさえ聞かれるようになりました。



かくして人々は「そうだ、マルクスは何と言っていたのだろう」とマルクスのことを思い出しました。


私にしても無論、教条的な「マルクス主義」なるものを信奉したくて興味を持ち始めたのではありません。ソビエトや北朝鮮、あるいは中国を崇拝したくて勉強したくなったというのでもありません。ただ人類の偉大なる知的遺産の一つとしてのマルクスの考え方をクールに学んでおきたいと思うようになったのです。マルクスは上に述べた私の知的関心からも、現在に私が感じている時代の閉塞感からもとても重要な人物に思えてきたのです。

そのような中、本屋で偶然に見つけたのが的場昭弘先生の『超訳「資本論」』(祥伝社新書)でした。的場先生のことを全く知らず、「超訳」というタイトルの言葉に違和感を感じ、おそるおそる手にした同書でしたが、「はしがき」から的場先生の言葉は私をとらえ、私は同書を購入し、出張先のホテルで一気に面白く読み終えました。

その後、別の本屋で同じく的場先生による『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』(五月書房)を見つけたのでこれも買い、これまたその晩に一気に読みました。

面白い。マルクスの思想は、一度それなりにきちんと学んでおく必要があると思いました。私はこれら二つの本を皮切りに、少しずつ余暇の時間にマルクスを学んでおこうと思います(特に『資本論』は丁寧に論理を追っておきたいと思いました)。そうして一時代前の「マルクス主義」に復古的に同調するのではなく、現代を「マルクス的に考えるなら、どうとらえられるだろう」という自分の知的枠組みの一つとして使いこなせるようになりたいとも思いました。安易な言葉で言うならマルクスの哲学を批判的に継承したいということです(我ながら青臭いこと言うなぁ 苦笑)。

以下、『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』から印象的だった箇所を何カ所か引用します。


私は [ ソ連は ] 端的に国家資本主義であり、それも労働者国家の形態を採った国家独占資本主義の究極の形態であったと考えています。
独占資本主義が国家と癒着したのが国家独占資本主義ですが、共産党を中心とする支配階級が国有企業のオーナーとして、搾取と収奪を国家を通じて、労働者国家の名の下に行うのですから、国家独占資本主義を最も効率的に機能させたのと同じだと思います(116-117ページ)

所有が私的であるか、公的であるかは、所有する主体の問題です。所有する主体が、たとえ全国民であろうともそれが私的な要素をもっていれば、それは私的所有ということになります。逆に私的要素がなければ、私的な所有でも公的になります。(134ページ)

収奪される労働者にブルジョア的要求を実現できる可能性はない。実は資本主義のほうが大所有によって個人的所有を制限している。これは所有の収奪と言えば言えないことはない。だからマルクスはここでパラドックスを展開する。
共産主義者は所有を廃止していると言っているが、実は所有をさせないのはブルジョアのほうなんだ。むしろ逆に共産主義こそ所有を与えると。事実そうなんです。共産主義は資本家たちによってとことん零落していったプロレタリアートを解放して、プロレタリアートにそれなりの生活を保障する。プロレタリアートに実は所有を与えるのです。所有を奪うことはない。
ただしこれは資本主義のような排他的所有ではない。むしろ集団的所有なんですね。この集団的所有というのは、アソシエーションという言葉です。だから所有概念が変わる。そう意味では所有は実現しますが、内容が変わる。(212ページ:強調は引用者)

アソシエーション運動は、労働者たちが自分たちの賃金を上げることだけに熱心になるのではなくて、自分たちの企業を自治すること、社会を運営する運動です。(198ページ)

この文章 [ =フォイエルバッハ11番目のテーゼ:哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであるが、重要なことは世界を変革することである(岩波文庫訳『ドイツ・イデオロギー』240ページ ] は二つに分かれているのではありません。哲学者の解釈と変革は一つの行為として続いているわけです。つまりこうです。「哲学者は世界を解釈するだけで、解釈しえたと思ってきたが、それは間違いである。哲学者が解釈したと言えるとすれば、それは哲学者が世界を変革するという実践的行為を行ったときである。だから哲学者は実践的変革をすることによって世界をよりよく解釈できるはずである」と。(152ページ)

マルクス思想の根本には労働に通じた共同の概念があります。これは、もちろん労働に尽きるものではありません。消費に至るまで共同であるという原則があります。ここでは人間が類として考えられているからです。類としての動物は、進化論的自然淘汰の洗礼を受けますが、これはけっして過当競争による類の消滅を意図していない。むしろ利己的な遺伝子が、逆に類を発展させるために個人という個体に競争を強いているのであって、逆ではないのです。
マルクスの思想には、人間集団を一つとして考え、そこに所属する一人一人の能力の差を認めながら、それを排除しないで包括する論理がある。秀でた個人がいてもよい。無能な人がいてもよい。もちろん秀でた人が得をするでしょう。しかし、優れた人はそうでない人を救うようにできている。その共同体では再配分ができている。(328ページ)


「現代は高度資本主義社会だ」と私もよく言います。しかし突き詰めて考えれば「資本主義」とは何なのか。さらには「所有」とは何なのか、「私的」とは、「公的」とは何なのか?私がネットの知的資産を活用し、自分でも少しでもこのネットの豊かさを増すように努力し、同時に「著作権」とは何であり、どうあるべきかなどということを考えていると、こういった概念の再精査は現実的に非常に重要なことであるように思えます。

また私は教育という公的性格の強い業種に属し、さらには独立法人化したとはいえ一応「国立」の機関に勤めています。ですから、私という職業人は教育をどのように考えるべきなのか、「国立」大学は、個々人に知識を結局は排他的に所有させることを目指しているのか、それとも社会に知識が普及しそれが豊かに相互作用を引き起こせるような状態を作り出そうとしているのか、といったことも私の毎日にとって、重要な問いかけとなります。

「格差社会」において私たちがなすべきことは、いかに「負け組」の人々に「勝ち組」にはい上がる方法を教えることなのか。それとも「勝ち組/負け組」とは異なる枠組みで社会を考えることを学ぶことなのか。

「知行合一」という陽明学の知恵は、現代の知識人にきちんと理解されているのか。

私はアレントやハイエクに影響され個人という単位を重視していますが、それでも大きなレベルで言えば地球規模の環境破壊から、小さなレベルで言えば家庭での老人介護のことなどを考えるならば、個人という単位で物事を考え続けることは合理的なことなのか、それともイデオロギーなのか。私たちには個人という概念も類という概念も同時に必要なのではないか・・・

マルクスを通じて、いろいろな問いかけが生まれてきそうです。

内田樹氏も最近のエッセイでマルクスについて触れ、「マルクスは私たちの思考に『キックを入れる』」と評しています。


「そういえば、こんな話を思い出した」
マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。
それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。
マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。
http://blog.tatsuru.com/2008/05/23_1649.php


稀有のテクスト、すなわち古典に学ぶことにより、現代を考え直すことは、古今東西において正統な学びとされているかと思います。人類の古典の一つとしてのマルクスの作品に学びたいと思います。

的場昭弘『超訳「資本論」』(祥伝社新書)
的場昭弘『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』(五月書房)

2008年5月16日金曜日

欠陥商品としての「考える」こと

■以下に書くことは、いつもと同じように私が直接・間接に見聞きする複数の若者を一つの類型的な人物に仕立て上げて描写するものである。したがってこれは特定個人の描写でも批判でもない。

■また私は内田樹氏の考え方に共感するところが多いので、以下の文章の中の考えにも内田氏あるいは内田氏が引用する人々の考えがたくさんあることであろう。また私はアレントにも大きな影響を受けているが、以下には彼女が『精神の生活』で示した議論の枠組みが多く使われている。以下の文章に私は責任を有するが、オリジナリティを名乗る権利は有しない。

(内田氏のエッセイでは、最近では以下の二つを面白く読んだ)

http://blog.tatsuru.com/2008/05/08_1200.php
http://blog.tatsuru.com/2008/05/13_1156.php

■話を始める。高度資本主義社会が徹底し、私たちの身の回りにはあまりにもたくさんの「商品」があふれている。いや、私たちは「商品」以外の物事のあり方を想像しがたくなっている。貨幣を媒介とした商品売買の枠組み(あるいはメタファー)以外で物事を捉えることがほとんどできない若者も存在するのかもしれない。

■同時に「教育」という社会の営みは、かつては市場原理の外側あるいは周縁に存在するものと見られていたのかもしれないが、現状では教育機関の多くは市場原理に基づいて運営されているようにも思われる。大学なら研究における資金獲得のための競争であり、教育における受験生の確保のための「営業」である。

■思わず「営業」という言葉を使ってしまったが、これは大学教員の少なからずが自嘲的に使う言葉であり、大学経営者の多くが確信的に使う言葉であろう。

■「営業」である以上、大学も「商品」をセールスする姿勢で高校生に接する。また大学院も定員確保に焦るあまり、気がつかないうちに商品のセールスのような言辞を弄しているのかもしれない。

■手元に大学・大学院のパンフレットがあったら見てほしい。たいていは現役生が楽しいキャンパスライフを満喫し、卒業生が満足ゆく就職先で懐かしく母校を回顧する談話と笑顔の写真があることだろう。私の知る限り、大学・大学院の勉学がいかに厳しいかを詳しく具体的に記述するパンフレットはあまりない (反例があればぜひ教えて下さい)

■このようなパンフレットは「夢」を売ろうとしているのではないか。

■以下、大学・大学院は「夢」を売ろうとしていると仮定して話を進める。

■商品としてのその「夢」は、「夢」だけに漠然としたイメージでしかないが、少なくとも上記のエピソードや写真で想像できるぐらいの具体性は持っている。

■つまり、大学が商品として「買って下さい」と高校生に提供しているのは、「楽しくも充実したキャンパスライフ」あるいは「笑顔で働ける就職先」という「夢」である。

■高校生・大学生は、大学・大学院を選ぶ場合、自分なりにパンフレットやらその他の情報を収集し、自分の所有する「貨幣」と相談して、もっとも得をすると思われる大学・大学院への入学権を購入する(「学生はcustomerである」という表現はもはや一部の大学関係者にとって比喩ではない)。入学とはお得な買い物をすることである。

■入学者が「貨幣」として支払うのは実際の入学金・授業料であるが、さすがに現在の若者とて金ですべてが解決するとは思っていない。彼/彼女らが大学・大学院生活という商品を購入するために支払わなければならない対価は入学試験をパスするという「知力」である(ちなみにこの「知力」の対価は少子化でどんどん下がっているのはご承知の通りである)。

■「知力」を獲得するため若者は勉強する。だが私見では、小学校から高校まで「○○を××したら合格です」というように、明確な始まりと終わりと範囲があるものを学びとして規定する風潮がどんどんと強くなっている。さらにはその規定を細かくして、誰でも一定の暗記や知的作業をすませれば一定の点数がもらえるようにすることが親切な指導であり評価であるとしている(一部の人は「指導と評価の一体化」などという言葉を頻繁に使うが、私はこの言葉にスローガン以上の深い意味を見出したことはない。乞、ご批判)

■つまり現代日本の学校では、「知力」とは暗記や知的作業を対価として獲得されるものであり、いったん獲得されたならそれは教育市場で交換価値を持つ一種の「貨幣」として通用する(いや通用しなければならない)

■現代日本の学校での「学び」とは、暗記や知的作業によって教育市場での交換価値をもつ知力を獲得するプロセスであり、そのプロセスが細分化され、簡易化され、誰でもその知力という「貨幣」を獲得できるような単純課題に還元された時に、教師は親切でよい教師という評判を得る。

■だが大学・大学院で待っているのは、そのように細分化・簡易化された単純課題ではない。大学・大学院での学びの本質は、自ら考え、その考えを他人の批判やや現実の世界に面しても耐えられるように充実させることである。

■このことは、従来「高校までの『勉強』と大学からの『学問』は異なる」という言葉だけで、それほど大きな問題もなく学生にも理解されてきたが、最近は学生にこのことを理解させるには骨が折れる場合が多い。時には大学院生すらもこのことがなかなか理解できない。

■学生からすれば、すでに入学金・授業料という実際の貨幣、および入学試験をパスする知力という対価を支払い終えたのである。なぜ支払いを終えたのに、商品である「夢」をすぐに手渡してくれないのか、彼/彼女らには不可解である。

■もちろん学生とて、入学時の支払いだけですべての支払いが終わったなどとは思っていない。入学以降も支払いは続くことを承知はしている。しかしその支払いは、彼/彼女らにとっての旧知の貨幣であり、細分化・簡易化された知的課題であるはずだし、あるべきである。彼/彼女らはそれ以外の枠組みで思考し行動することにほとんど慣れていない。

■授業料の支払いは親、もしくは「奨学金」という名の負債が自分の代わりに支出してくれるので、学生はほとんど気にしない(「奨学金とは借金のことだ」などと言う教師は疎んじられる)。知的支払いは、これまでのように明確に範囲が定められた箇所の暗記あるいは知的作業ですませられると学生は思い込んでいる。

■ところが、一部の大学教員は「考えろ」という。始まりこそあるかもしれないが、明確な範囲も定められておらず、最終地点も示されていない「考える」という営みは、学生がそれまでほとんど経験したことのないものである。

■だが実社会で「考える」ことは不可欠である。

■現実社会で、自分の思い込みだけで物事がすむことはほとんどない。私たちはしばしば現実に驚かされ、自分の思い込みが単なる仮説でしかなかったことを知る。複数の仮説を同時にもっていないならばなかなか現実には対応できないことを知る。あるいはせめて一つの仮説のもとに行動するにせよ、常にその仮説以外の可能性について自らを開いていないとやっていけないことを知る(Donald Schönはこれをdouble visionと呼んだ)。時には自分の仮説が当たり前のこととしてその存在すら自覚していなかった諸前提を掘り起こし、疑ってみなければならないことを知る。諸前提を取り替え、今まで人が思いついていなかった全く新しい仮説を立てることさえ時には必要であることを知る。そしてどんな仮説を立てても、それは部分的で暫定的なものでしかなく、現実世界の複雑性は、常に自分の知的複雑性を凌駕していることを知る。これが現実である。

■だから現実に対応するためには、考えることができなければならない。考えて、自分の思い込み以外の可能性を想像し、その想像を仮説という形で具体化しなければならない。複数の、一部は相矛盾するかもしれない諸仮説を同時に考えながら行動しなければならない。仮説がうまくいかないなら新たな仮説を考え出さなければならない。新たな仮説を生み出すためには、自明視していた前提を問い直さなければならない。そうして考え続け、考え抜いて、なんとか現実に対応しなければならない。

■この考えるという営みには、「ここまででよい」という明確な範囲はない。「それで正解です」という最終解答はない。この意味で「考える」ことは高校までの知的課題遂行とは決定的に異なる。言い古された言い方だが、高校までは「既定の問いに対する既定の答えにいかに速くたどり着くか」という勉強をしていた。大学・大学院では、いかに適切な問いを立てるかという学問をする(=問ヲ学ブ)。現実社会で必要なのは、高校までの勉強を基盤とした、創造的な知的能力だからだ。

■だが高校まで「親切な教師」に知力のお得な購入の仕方ばかり指示されてきた学生は、この「学問」に狼狽する。「卒論・修論のテーマは自分で見つけろ」、「見つけられないなら、自分でじっくり本を読んで考えろ」などという大学教師は、不親切で非常識な人間に思える。そのような大学教師は、消費社会の常識では考えがたい変人である。なぜ「このテーマで研究しなさい」、「この本のここからここまでを読んでまとめなさい」、「ここからここまでを調べてきなさい」「調べるのはこの方法でやりなさい」と目の前にわかりやすく「商品」を出してくれないのだ! 「商品」さえ出してくれれば自分は知的作業という対価を払う用意があるのに!!

■仕方がないので、教師に自分の意見を述べると、教師はそれにネチネチ絡んでくる。「それはもっと精確に表現するならどういうこと?」、「そう主張できる理由は?」、「その理由をサポートする具体的な証拠は?」、「その証拠は十分な証拠能力を持っている?」、「そもそもあなたの枠組みで私たち読者も考えるべきだという根拠は?」、「あなたの問いはなぜ読者にとっても大切なの?」、「あなたの問い以外にはどのような問いが考えられるの?」などと次々に問いを出す。それでいて正解は決して示さない。これは教師の不親切なのだろうか。無能力なのだろうか。

■「これは学生を追い詰めているだけである」と学生は思う。「追い詰めることは指導ではない」と学生は不満を抱く。「これはアカハラではないのか」という思いさえよぎる。

■だが大学教師は別段追い詰めているとは思っていない。教師は学生と対話をしたいと願っている。対話を通じて、学生の考えを、他人や現実にも通じるように鍛え上げたいと願っている。対話こそが指導だと思っている。

■だが現在の学生にとってそのような大学教師の言いぐさは、理解しがたい言い訳に過ぎない。

■百歩譲って、自分が買ったはずの「夢」を実現するためにはその「考える」ことが必要だとしよう。しかし明確な範囲も終点もない営みなど荒唐無稽ではないか。形なく終わりない商品などない。ゆえに学生としては、もしこの「学問」が大学・大学院が売ろうとしている「商品」だとしたらこれは欠陥商品であり、そもそもこの商取引は詐欺ではないかとさえ思えてくる。

■一神教の文化を持つところでは、もしその信仰が原理主義的なものでなければ、神は人の知が不完全であることを否応がなしに思い起こさせてくれるものである。禅の公案の文化を持つところでは、ある問い方を根本的にひっくり返したところに新たな知が現れることを人々は体得する。だが前者は日本では稀であり、後者は数百年もの歴史にもかかわらず今死に絶えようとしている(私はそれが悲しくてたまらない)。

■自然の中で遊び回った子どもなら、五感(いや六感)を総動員しても、自然は不可知なものだということを体感する。その圧倒的な複雑性の中で、自分なりに何とか遊んでゆくなかで、子どもは柔軟な思考力と想像力を養う。だが現代日本の多くの子どもにとって自然の中の遊びなど、年に一度ぐらいに指定管理区域内で親の監視の下に経験すればいい方だ。多くの子どもにとって自然はアニメの中で描かれているものだけだ。「体験」とはWiiDSでするものだ。アニメやゲーム以上の複雑性は処理しきれないものであり、危険なものだ。アニメやゲームでは「こうすれば、ああなる」という単純な因果法則が存在する。単純な因果法則では説明できない経験などあってはならない(一部の大学院生は単純な因果法則を複雑性の観点から否定する教師は「非科学的」だと主張するかもしれない)

■それでもスポーツなどを徹底的に経験することができるなら、自然ほどの複雑性はないものの、自分の五感(六感)を総動員しても、予期できない結果が生じることを熟知する。だがスポーツに熱中することは、それが英才教育によって支えられていない限り、無駄な「投資」だと多くの親は信じている。ましてや互いに全身で闘い、その中で六感を最大限に発揮する武術など時代遅れの陋習に過ぎない。

■昔のように、年齢・性情・思考において様々に異なる人間と、とにかくなんとかつきあってゆかなければならない文化があれば、自分の考えは、多くの考えの中の一つに過ぎないことにすぐ気づく。だが習い事(=市場交換価値のある知力などの獲得)に忙しい子どもにそんな暇はない。

■読書に夢中になり、あるページで感動のあまりしばし天を仰いでみたりした経験や、芸術作品の表現に文字通りひっくりかえりそうになってしまった経験があれば、自らを超えた偉大なるもの・畏怖すべきもの・崇高なるものがあることを知ることができる。だが明確に定義されないそのような経験は市場にはのらない。市場にのらないということは、他の物と交換できないということで、それは「価値」がないということだ。

■しかし現代の若者は上記の文化とはほとんど無縁である。したがって彼/彼女らの思い込みがすべてである。自分が認識する世界のあり方が、唯一の世界のあり方である。

■いや「唯一」という言い方ですら誤解を招くかもしれない。「一」は「二、三、四・・・」を連想させるからだ。彼/彼女らの思い込みには、それに対立するものがないのだから「絶対」である。

■「絶対」を否定されることは冒涜されることである。彼/彼女らの思いは絶対だ。少なくとも絶対であるべきものだ(なぜならば他の異なる世界は想像しがたいものなのだから!)

■かくして現在、少なからずの大学・大学院生が、自分の意見(自分の世界)に色々な問いを投げかけ、あげくのはてには「考えろ!」という大学教師を、「絶対」を否定しようとする不心得者だと思う。だが彼/彼女はなんとか卒業・修了する。大学教師も授業アンケートや退学率などの数値管理や、アカハラで訴えられることを恐れ、厳しくは教育しないからだ。

■そうして学生は社会に出る。彼/彼女の人生が豊かであらんことを!

■だが憧れの就職をした若者もそこに「夢」はないことにやがて気がつく(非正規の仕事しか見つけられなかった若者はもっと早くそれに気がつく)

■現実社会では自らの思いを超えたことが次々に生じる。しかも明確な指示なしにそれらに対応することが求められる。

■自分の思いが否定された時に「キレる」のは多くの若者の特徴である(それはそうだろう「絶対」が否定されたのだ!)。「キレた」若者は次の夢を探して転職する。( /彼女の人生が豊かであらんことを! )

■しかしどこに行っても「夢」や「絶対」はない。彼/彼女の思い込みは否定される。自分の思い込み以外のことを想像できないし、自分を超えた現実の中で考え抜くことで新たな可能性を見出すことができない若者にとって、そんな自分は「傷ついた」被害者である。「なぜ自分はこんなにひどい目に遭わなければならないだろう」と彼/彼女らは思うかもしれない。

■しかし雇用者の立場からするなら、彼/彼女は単純で固定的な仕事ならできるのだが、想像力で異なる複数の立場を同時に考慮する判断はできないし、ましてや自らを問い直し新しい仮説を生み出すこともできないのだから、組織を導き革新する中核のメンバーとしては仕事を任せられない。いきおい彼/彼女には、それが知的なものであれ肉体的なものであれ、単純労働をあてがうことになる。

■単純労働は、彼/彼女の知的能力を向上させることはない。彼/彼女は年齢を重ねるが、それにふさわしいと彼/彼女が考える賃金も仕事の働きがいも得られない。彼/彼女は心中深く「傷つく」。

■「傷ついた」中で、安直な宗教やナショナリズムに「絶対」を見出し救われたように思う若者も多く出てくるだろう。「今までの自分の思いは間違っていたかもしれないが、これこそは絶対だ!」。彼/彼女は熱心にそれに没頭し、それに疑問を投げかける人間を矯正しようとする。矯正できなければ排斥するしかない(Eric HofferThe True Believer (1951)をきちんと読んでみたいものだ)。

■かくして個々人の若者の悲劇は、社会や国の悲劇へと拡大する。歴史上、そのような例は多くあるし、日本の未来がそのような悲劇から免れていると楽観できる理由はない。

■多くの知識を持つものの、自らの考え方を変えることができない者、いやそれ以前に他の可能性を想像することがはなはだ困難な者、こういった者の知性を私たちは何と呼べばいいのだろうか。繰り返す。彼/彼女は知識を持っていないわけではない。ただ「考える」力に欠けているのだ。

■「考える」ことについてもう一度考えてみないか。




追記

上の文章を書き終え、ブログに掲載したら、ようやく私の悶々とした気持ちが「成仏」し、冷静な気持ちも戻ってきました。
冷静になった上で、勤務校の名誉のためにも書きますと、本日行ったある大学院の授業では、ハンナ・アレントのDer Raum des Öffentlichen / Public realmは、「公的領域」と邦訳ではなっているが、それは「公的空間」、「公共的空間」、「公開空間」などの訳語より適訳と言えるだろうか、そもそも中国文化・日本文化での「公」とはどのような意味か、古来からあった日本語の「世間」と明治以来の「社会」はどのように違うのか、インターネットの2チャンネルで成立している匿名空間をアレントが目にしたら彼女はそれをどう評するだろうか・・・などを討論し、多くの院生が「面白い」と繰返し言ってくれました(これは英語講座、国語講座、日本語講座合同の授業です)。

また個人面談では、ある院生と私は一時間半、直接の修士論文の話題から離れて、現代日本の教育問題について語り合いました。私がそれほど長時間を割いたのは、ひとえにその対話を私自身が楽しんでいて、打ち切ることができなかったからです。

このようにうちの大学院そして大学には優秀で「考える」ことができる学生が多くいることを彼/彼女らの名誉のためにも付記しておきます。


2008年5月14日水曜日

Make Some Noise, Link and Vote.

私の愛読するブログ「英語教育にもの申す」を通じて、『週刊東洋経済』が「子ども格差」を特集していることを知りました。大学生協に在庫がなかったので現物確認ができず、今は目次をそのまま引用するだけですが、2008年5月17日特大号(2008年5月12日発売)は



OVER STORY
このままでは日本の未来が危ない!!
子ども格差
子育て家庭の貧困世帯率が14%にも達する日本。出産から育児、教育まで、子どもをめぐる格差の実態を追った。


として

* 【図解】学歴、職業、年収… 格差は親から子へ継承される
* 貧困の撲滅掲げた英国、いまだ手つかずの日本
* INTERVIEW
o 立教大学コミュニティ福祉学部教授/浅井春夫
o 中央大学法科大学院教授/森信茂樹

* PART 1
「子どもの貧困」最前線
* 虐待問題で疲弊、パンク状態の児童相談所
* COLUMN
o 声を上げ始めた児童養護施設出身者たち
* 母子の貧困、生活保護家庭の悲鳴
* 妊婦健診への公費助成で14倍の自治体間格差
* 外国籍児童の不就学をなぜ放置するのか
* 【海外編 1】イラクへ送られる米国の落ちこぼれ生徒たち

* PART 2
ここまで来た!! 教育熱
* 半年で350万円出費も! 私立小学校「お受験」の舞台裏
* 東大生も使い放題! セレブのぜいたく受験術
* いよいよ必修化! 小学校から始まる英語格差
* カウンセリングで見えた 「家族を追い詰める国」日本
* INTERVIEW
o NPO法人ファザーリング・ジャパン代表理事/安藤哲也

* PART 3
学校に通えない子どもたち
* 授業料滞納問題が噴出
* COLUMN
o 基準がまちまちの就学援助
* 大学進学を阻む学費の壁
* 【海外編 2】中国の仰天「教育格差」事情
* INTERVIEW | 子ども政策を問う(1)
o 厚生労働大臣/舛添要一

* PART 4
学び育つ場所が危ない
* 規制緩和を悪用、保育が「金儲け」の手段に
* 人手不足を派遣保育士で補う公立保育園
* 大規模施設に衣替えされる学童保育
* 特別支援教育で混乱する学校
* 取得率88%は幻 育児休業取得は至難の業
* INTERVIEW | 子ども政策を問う(2)
o 内閣府特命担当大臣(少子化対策)/上川陽子



といった記事を掲載しているようです。




教育における貧困の問題がもう無視できず、日本の国のあり方の根本を歪めようとしているという声は最近私の周りでも日増しに高まってきました。

研究者は冷静な分析をすることが必要です(そして私はそれができていないことを恥じます)。

しかし一方で、市民は(あるいは市民としては)声をあげる必要があると思います。何せ日本は、先進国の中では最も教育に冷たい政府を有しているのですから。

しかし声をあげてもむなしいだけだという悲観論もあるかと思います。

私は性情においてはペシミストですが、行動においてはペシミズムを捨てなければならないとも思っています。

といっても私が何か運動を組織するということなどはしません。ただ「マルチチュード」の一人(あるいは一節点)として、大なり小なり賛同してくださる方、あるいは反対でもいいから興味を示してくださる方に対しては、私なりの働きかけをしてゆきたいと思います。それぞれが自分の好きなやり方、得意なやり方で行動をし、多様で様々に異なりながら連なる連帯こそが、個人主義に基づく健全な民主主義の良さかとも思います。

ですから、個々人が個々人の判断で、最も適切なことをやるのがいいわけですが、しかしその際にも共有すべきシンプルな方法論はあるのかもしれません。私はそれを次の三つにまとめます。


1 Make Some Noise
2 Link
3 Vote



1のMake Some NoiseというのはあるCDのタイトルです(このCDはダルフールでの虐殺に対するプロテストのために作られました)。Make Some Noiseとは誰でもできることであり、ロックンロールの精神を表す言葉だとも思います(私はロックンロールを20世紀が生んだ大切な文化の一つだと思っています)。まずは声をあげること、大きな音を出すことが大切だと思います。

しかしただ騒ぐだけでは無視されるのがオチです。(別記事参照)。ですからどんどん関連する人々とつながりましょう。つながれば社会的にも無視しがたい力が、誰からの指示も支配も受けずに生じてきます。これこそウェブ時代の民主主義とは言えないでしょうか。2のLinkとはこういう意味です。

3のVoteとは文字通り投票しようということです。以前は「私の票なんてたかだか一票に過ぎない」といった言説が横行していましたが、これほどに格差が拡大し、社会的な意味での「弱者」が多くなったら、その「弱者」が、社会的な「強者」と、一票という同じ力を持っているという普通選挙の制度は、驚くべきものだと思えてきます。不適切な言い方にならなければいいのですが、歩くのも困難な老人でさえ、職を失い苦しみ続ける中年でさえ、希望をほとんど失った若者でさえ、富裕層の人と同じ政治的力を持っているというのはすごいことではないでしょうか。人類史の遺産である選挙を投票で最大限に活かすべきだと思います。

また「誰を選んでいいかわからない。どの党も駄目だ」という声も聞こえますが、私は投票では「ベストの人間・党」を選ぶ必要はないと思います。とりあえず現状が駄目ならその現政権を選挙で引きずり落とす。そうして新しい政権を生み出させる。そしてその政権も下手ばかりをするようなら、さらにそれを選挙で引きずり落とし、また新しい政権を作り出させる。そうしてそれも駄目なら、とにかく引きずり落とす。よくなるまで引きずり落とし続ける。

政治家が選挙を避けるようならまた1に戻る。
Make Some Noise.

そして個々人が自分の頭で考え判断し、Linkする。

それでも選挙が実施されないなら、さらにMake More Noise and Link.

誤解はないかと思いますが、私はMake Some Noiseということで、暴挙的なことをそそのかしているのではありません。ただ、人なら誰でもできることを、自分の考えと意志でまずはやろうと言っているだけです(自律的な思考と自発的な意志が人々から奪われた、あるいはそれらを人々が失った社会など考えたくもありません)。

さらにVote、あるいは「引きずり落とせ」と言うことで私は特定の政党を批判しているのでもなく、また応援しているのでもありません。現状の日本は、たとえ数回政権交代が行われてもなかなか良くならないだろうと私は思っています。政治家がよい政策を考え、認め、実行するまで、政治家を常に牽制する--私は民主主義の基本を実行しようと述べているだけです。


Make Some Noise,
Link
and Vote.



皆さんはどう考え、どう行動しますか?


追記1
同誌の特集は予想以上に充実したものでした。この問題が複合的で多面的にアプローチしなければならないことがよくわかりました。個人的には
【海外編 1】イラクへ送られる米国の落ちこぼれ生徒たち

カウンセリングで見えた 「家族を追い詰める国」日本
の記事を興味深く読みました。

特に前者では、教師だけが声をあげても駄目で、教師は親を敵に回すのではなく、味方につけて、親を通じて政治家(特に地方議員)に働きかけるべきだというアメリカの声になるほどと思わされました。

追記2
ブログ「英語教育の明日はどっちだ!」でもこの記事が取り上げられています。
http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20080514

追記3
「女教師ブログ」もこの雑誌特集のことを取り上げています。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080523/1211512698


⇒関連記事へ

「高度知識社会でますます希少資源となりつつあるのは何か?」

それは時間です。(これはドラッカーの言葉でしたっけ?)

ですから私たちはコンピュータなどの情報処理システムに自分のお金と時間そのもの(!)を投資し、できるだけ短時間で、できるだけ良質の知識が得られるように自分というシステムを組み上げてゆきます。

逆に情報の送り手の方からすれば、自ら表現したいと思うことを、可能な限り的確にわかりやすく表現する必要があります。情報の受け手は爆発的に増大する情報に接しているのですから、そうしなければまず読んでもらえません。読んでもらえたとしても、最初の数行だけで読み捨てられてしまいます。

他人に読まれないメッセージとは存在しないも同然です。


こうなりますと、現在、大切な力は

(1)短時間に良質の知識を得ることができる情報収集・処理能力
(2)受け手に最短の時間で的確にメッセージを伝えることができる表現能力

となります。


仮に情報収集・処理・表現のメディアを言語だけに限定します。
(1)と(2)は明らかに関連します。
"The better you write, the better you read."とも言われます(Craft of Research)。
Outputすなわち書くこと(あるいは話すこと)を前提として、精読をできるだけ短時間に行う訓練が重要となります。


そうやって情報収集・処理・表現能力を高めておかないと実社会では大変な損をします。
実際、膨大な情報に接する私たちは、どれだけの情報を切り捨てていることでしょう。
速く精確に読めないと大切な情報を知らないままになってしまいます。
的確に短く書けないと本当に訴えたいことも読んでもらえません。


特に書く能力、あるいは書き言葉のように整然と話す能力の欠如は死活問題になりかねません。

この世の中で本当に痛切なメッセージがあるのに、表現力がないために存在を知られない事例は数多くあると思います。
ですが表現力がないならば、きわめて残念ながらその問題は無視されがちです(もちろんそれなりに訴える方法はありますが、それは別記事で)。


とりあえず私は言語系の教師なので、言語を通じての情報収集・処理・表現能力には学生に対して厳しく訓練したいと思います。

残念ながらそうした力がなければ、切り捨てられかねないのが、私たちが生きている高度知識社会そして高度資本主義社会なのですから。

2008年5月13日火曜日

優秀な成績で卒業しながら・・・

優秀な成績で大学を卒業しながら、現実生活に対応できずに、不本意な人生を送っている卒業生を、残念ながら私は複数知っている。

彼/彼女は、教師の気持ちを読むことに敏で、教師の狙いを直接・間接に調べて(試験対策というやつだ)、教師が言ったとおりのことをテストに書いて優秀な成績を取る。

また、私からすればとんでもないことだと思うのだが、自説を学生に覚えさせてそれを答案に書かせることがいい授業であり試験だと思い込んでいる教師も大学にはいるようだ(しかしおそらくそのような教師は、最近の授業アンケートでは「授業の狙いが明確」「採点基準がはっきりしている」などと高評価を受けるのだろう)。


しかし、大学で身につけるべきなのは、現実社会でも何とか対応できる知的能力なのではないか。


それは複雑な関係性の中から、鍵となるものを何とか探索的に見つけ出して、それを基に考えて、そうして何とか現実に対応することではないのか。さらには次々に展開する新しい局面ででも何とか考え抜いて対応してゆく力ではないのか。


そのような力をつけるには「考える」ことが一番重要だと私は判断している。既成の解法がない状況で想像力を働かせて、自分の知的枠組み・分析枠組みをぐいぐい変えながら、事実と論理に忠実に行動することの根幹を私たちは「考える」ことと呼んでいるからだ。


きちんと考える(thinking)には、過去に考えられたこと(thought)、定説となったことをきちんと知る必要がある。また、過去に考えられたことや定説を通じて「改めて自分の頭で考え直す」ことはとても重要な訓練だ。だから「考えること」と並んで「精読すること」は大切なことだ。


だが「考えること」や「精読すること」は現在、多くの大学で軽視されているのではないか(乞、反論)。


私は私なりに学生に考えさせる授業を大切にしているつもりだ。

考えるために、きちんとテキスト読ませる授業も同時に大切しているつもりだ。

だからある授業では
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/pragmatics.html
のような質問集を予め用意している。


でもこれらの質問は基本的に考えるためのものだ。だから私はこれらの問いをグループで討議させ、さらには私と討議する授業スタイルを取っている。


だが今日の講義で接した学生さんにしても、私からすれば驚くぐらいに「答え」を求める。

「答え」をしっかりノートに書いて暗記し、いい成績を取りたいのだろう。

だからこれらの問いの答えを「はい、答えを言いますから、ノートを用意してください」などといった形で提供しない私は、学生さんからすれば悪い教師なのだろう。

きっと授業アンケートにも

「問いの答えをきちんと教えてくれない」(ノートが取りにくい)
「用意されていた問いを授業で扱わないことがある」(シラバスと授業が一致していない)
「予め知らされていない問いを急に問うことがあって困る」(授業計画がきちんと立てられていない)

などと文句を書かれるのだろう。


はいはい。


しかしね、現実社会では既成の問いの答えを覚えておくことと、適切な問いを見つけ出し、それを取りあえずの仮説として思考しながら現実を探索的に探究する能力のどちらの方が重要なのだろう。

現実社会で、準備していたことが使われないままに終わることはそれほどに珍しいことなのだろうか(というより考えたことは、誰かに成績として評価されないと無駄になってしまうことなのだろうか)。

現実社会で、問いは予め予告されてから現れるのだろうか、それともどのように問いを定式化すればわからないような「問題」として現れるのだろうか。


(それにしても、ほとんどの学生がopen question/closed questionという言葉すら知らなかったのには驚いた。さすがに説明したらその概念の違いはすぐにわかってくれたけど)

一生学生のままでいられて、複雑な現実社会に出ないですむなら幸せなんだろうけどね。


でも人はやがてが複雑な現実社会に出て行かなければならない。

複雑な世界では、あまりに多くの要因が存在し、しかもそれらが相互作用を起こすから、あなたは単純な因果法則で、あなたの行動に一対一で結びついている結果を期待することができない。

現実世界では、あなたの、いやどんな者の知的枠組み・分析枠組みも部分的で暫定的でしかなく、あなたはあなたが知悉も支配もできない外部世界(ルーマン流にいうなら「環境」(Umwelt)からの影響を受けている。

あなたはどうにかこうにか仮説を立てながら、そして立て替えながら現実に対応してゆかなければならない。

そこでは「オールA」(あ、最近は「オールS」か)だとか「全て優(あるいは秀)」とかいう記録は、あなたにそれに見合った考え抜く知的能力が備わっていない限り、何の役にも立たないと思うのだけれど・・・

田尻悟郎先生のインタビュー

田尻悟郎先生に関しては既にいろいろなメディアでインタビューが発表されていますが、この英検協会によるものは短く、具体的に田尻先生の半生を捉えた優れたものだと思いますので、ここでも紹介します。

http://www.eiken.or.jp/eikentimes/lounge/200805.html

安井稔『言外の意味(上)(下) 新版』開拓社

安井先生の名著『言外の意味』が初版の発刊から約30年ぶりに新版となって発刊されました。
私は大学生時代にこの本を読んで、語用論の基礎を丁寧に学ばせていただきました。読んでいた頃の感覚を今でも覚えていますから、私にとってはとても大切な本でした。

私はまだこの新版を手にしていませんが、初版の丁寧な記述に、それ以後の学問の発展がつけ加えられているのではないかと想像します。

⇒アマゾンへ


追記:安井先生のエッセイはネット上で無料で読むこともできます(言語学出版社フォーラム)。

2008年5月12日月曜日

齋藤孝x梅田望夫『私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる』 ちくま新書

齋藤氏と梅田氏の対話がどんどん進み、深まり、読者もその際の息づかいや声の調子まで想像できる対談集になっているように思います。梅田氏も今までになく素の感情を出しているのは齋藤氏というぴったりと波長の合う(しかしスタイルは違う)相手に恵まれたからでしょうか。梅田氏の対談本三冊の中では私はこの本が一番好きです。

両氏の馬が合ったのは、両氏がまったく同じものと戦っていることに気がついたからだと梅田氏は「おわりに」で述べます。


そこに存在するのは、「時代の変化」への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる「迷いのなさ」、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、「未来は想像し得る」という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決めつける知的怠惰と無気力と諦め、若者に対する「出る杭は打つ」的な接し方・・・といったものだけ。これらの組み合わせがじつに強固な行動倫理となって多くの人々に定着し、現在の日本社会でまかり通る価値観を作り出している。「まったく同じもの」とは、人々のこうした行動倫理や価値観のことです。その結果、齋藤さんが言う「本気で変える意志というのをもっていない、もやーっとした感じ」、「達成が問われにくく、朦朧としている感じ」(111ページ)が日本社会全体を覆ってしまった。(204-205ページ)


私も同感です。

ただ、ある大学に勤める教員として私が一つつけ加えたいのは、この「まったく同じもの」は日本の中高年に見られるだけでなく、大学生にも見られるということです。

時代の変化への鈍感さ、想像力の欠如、親の金や奨学金によって安穏と暮らしている現状を疑わない姿勢、知的怠惰と無気力と諦め、「出る杭は冷やかす」ような同輩への接し方・・・その結果「もやーっとした感じ」は、現在、無視できないほど多くの学生の間に蔓延して、しかもそれが徐々に広がろうとしているという危機感を私は抱いています。

そういった若者に対して齋藤氏のように「みんな伸びる」(73ページ)という前提で接するのがやはり教育者としてのあるべき姿なのか、それとも梅田氏のように「全くやる気がないという人はどうにもならない」(84ページ)とクールに認める方が高等教育で学ぶ者や社会人に対してはむしろ親切であるのか。

「みんな伸びる」というのがこれまで一種の国是であった日本では、たとえ高等教育機関でも「教育者の有限のリソースはやる気を示す若者に注ぐ」と発想するのはタブーだったのでしょうか(それともこう考えるのは私が教育学部という特殊な環境にいるからでしょうか)。

「こちらがいろいろと働きかけても、全くやる気を示さない若者は取りあえず切り捨てる。そうして彼/彼女らには、周りの伸びる若者を目の前にさせたり、厳しい現実がひしひしと迫ってくることに気づかせる。それで少しでもやる気が出たら相手にする。何にも感じないなら丁寧に高等教育機関からお引き取りいただく」などという発想は、実は現実的で賢明で親切なやり方なのかと、私の気持ちは揺らいでいます。

中高年の方々はもとより、現状に不全感を抱いている若者に読んでもらいたい本です。

この新書を買う出費さえ「高い」と言う若者には、もう何も言いません。

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2008年5月10日土曜日

「現代社会における英語教育の人間形成について」(予稿)

以下は200889日(土)の13:30 16:00 に開催される 問題別討論会(全国英語教育学会 於:昭和女子大)のために柳瀬が提出を考えている予稿です。文字指定があるためにわかりにくい記述になっているかもしれませんので、この予稿を書くためにまとめたノートもこのブログに掲載しました(前の記事にさかのぼってください)。

【問題別討論会】

「学習者の成長欲求に英語教育はどのように応えるか―より効果的に英語力を養うために」(中部地区主催)

コーディネーター: 三浦孝 (静岡大学)

提案者:三浦孝 (静岡大学)、犬塚章夫(愛知県総合教育センター)、茶本卓子 (神戸市立葺合高等学校)柳瀬陽介 (広島大学)

*****

現代社会における英語教育の人間形成について 

―社会哲学的考察―

柳瀬陽介(広島大学)

キーワード:人間形成、目的、システム合理性

1 要旨

 英語教育も教育の一環である以上、人間形成を目指すべきである。しかし現状では、英語教育の目的が、教育システムの外部から「政治」的に決定されることも多くなった。数値目標や資格試験、あるいは説明責任などに振り回される現場も多い。だが、現場を振り回している「目的・目標」、「システム」、「政治」などの概念は、実はおそろしく単純で粗雑なものである。私たちは複雑な現場を単純な知性から守らなければならない。他方、「人間形成」という概念も、一歩間違えば、単なる個人的な価値観の押しつけや、通俗的な思い込みの凡庸な刷り込みになる。私たちはこれらの概念に関して、適切な理解をもつ必要がある。

 本発表では、このような問題意識に基づいて、(1)「人間」概念、および (2) 「目的」概念を社会哲学的に問い直す。その問い直しにより、現代社会における英語教育の人間形成の現実的な道筋を明らかにする。その過程で「政治」、「システム」などの概念も再検討される。

 「人間」概念に関しては、世界史的考察を踏まえ、「人間」をあくまでも「複数性」の観点からとらえ(アレント)、差異を前提としたコミュニケーションを接続することを現代社会での人間形成の課題としてとらえる(ネグリとハート)。「目的」概念の議論では、そういった「政治」的で長期的・抽象的であるべき方針は「目標」であり、それは単純で測定可能で固定的な「目的」概念と区別されるべきことを指摘する(アレント)。さらにルーマンのシステム合理性の議論を導入し、単純な目的合理性にのみとらわれて学級や学校といった「システム」の存続問題を軽視するなら、その計画は破綻しかねないことを論ずる。目的とはシステムにとっての変数の一つであり、システムに関しての調整を一般化するものにすぎず、修正可能なものであることを明らかにする。これらの社会哲学的概念検討を通じて、近年横行している単純だがそれだけに強力な通念的理解を批判し、現場の健全な常識を学術的に深めた上で再提示することがこの発表の目的である。

2人間概念の再検討

 明治以降日本は「西洋化」を目指し、現代日本は「グローバル化」の課題に直面している。英語教育はその中で重要な役割を果たしている。したがって「西洋」(特に近代ヨーロッパ)および「グローバリゼーション」とは何かを見極め、それらの中で「人間」概念がどのように捉えられているかを明らかにすることが、英語教育における人間形成を考察するためには必須の課題である。

2.1 「西洋化」と人間概念

 近代ヨーロッパの人間概念を考えるには、世界のどの地域の人間よりも啓蒙されて理性的であったはずのヨーロッパの人間が、なぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦、ファシズムとコミュニズムの全体主義国家という最悪の人災を起こしてしまったのかという問いを持つことが重要である。ポスト・モダニズム、ポスト・コロニアリズム、ポスト構造主義などの知的な流れもこの問いを大きな源流としている。

 アレントは西洋の学問が、単数形の人間 (Man, Mensch) ばかりを考察の対象とし、人間を複数性 (plurality, Pluralität) において考えることができず、それゆえ複数の異なる人間が共存する「政治」において決定的な誤りに導かれたのではないかと論ずる。

2.2 「グローバル化」と人間概念

 ルーマンは差異 (difference, Differenz) を彼の理論の中心概念の一つとし、コミュニケーションも、それは合意(差異の解消)に終焉することを目指すべきものではなく(ハーバマスとの論争)、限りなく生じる差異によって接続され再生産されるものだと論じた。このルーマンに影響を受けたのがネグリとハートであり、彼らはグローバリゼーションの進行する現代を、脱中心的・脱領土的に私たちがつながり合い、そのつながりが大きな力となった時代と規定する。「私たち」という存在は、一般的意志を共有する「人民」(people)でもなく、まとめてコントロールされうる「大衆」(mass)でもなく、無秩序な乱衆(mob)でもなく、烏合の群衆crowd)でもない。私たちは「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」、「多数多様性」、つまり「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」を持つ「マルチチュード」(multitude)であり、それぞれが、自らの特異性を肯定しながら、様々につながりあっていることをグローバル化の事態だと認識している。

 以上の考察から、西洋化を経てグローバル化の中にある日本の英語教育も、特定の時代・地域・状況・前提で単独的に認められている人間像を追求するのではなく、差異ある複数の他者と、差異を活かしながら接続し合い共存できる人間を目指すべきだという価値観が導出される。コミュニケーションにおいても前提あるいは目的とされるものは合意でなく、差異である。「私たち」とは「一にして多」、「多にして一」というマルチチュードであるという認識が現代的人間理解なのではなかろうか

3 目的概念の再検討

3.1 目標概念と目的概念の区別

 「マルチチュード」といった概念も、これは歴史的考察に基づいた「政治」的概念であり、抽象的な指針である。こういった長期にわたる方針は「目標」(goal, aim, Ziel) と呼ばれるべきであり、単一の視点からの計測が可能で具体的・短期的である「目的」 (end, objective, Zweck) と区別されるべきである。「目標」概念はCEFRACTFLにも見られる。

「目的」概念の横行が「目標」概念を駆逐することは日本の益にはならない。

3.2 システム合理性による目的概念の再検討

 計測可能・具体的・短期的な「目的」概念に関しても再検討が必要である。古典的組織科学では、組織とはあくまでも目的を達成するためだけに設計され存在するシステムだと把握されてきた。しかしここには、システムとは、システムの外の「環境」 (environment, Umwelt) の複雑性の影響を縮減し自ら存続させているものだという洞察がない。また、システムの外(「環境」)だけでなく、システムの内にも複雑性が存在し、それにより予測しがたい事態がシステム内外に生じうるという現実の知恵が無視されている。システムが目的を達成するためにも、システムはまず自らが崩壊せずに存続しながら、その条件下で目的を達成しようと試みることができるだけである。目的合理性がシステムの基礎ではなく、システム合理性がシステムの基礎である。目的はシステム合理性の中で、(a)事態の主観的観念化、(b)体験処理の制度化、(c)外部環境の分化、(d)システム内部の分化、(e)システム構造の無規定化、のいくつかあるいは全てを同時に行う、処理できない複雑性を縮減させるためのシステム戦略である。このように複数の機能をもつ目的は、システムの唯一の基礎あるいは目的として捉えるべきではなく、システムの存続と機能を調整する変数と考えられるべきである。組織も、目的によって/のために存在するのではなく、目的と共に、内外の複雑性に対処しながら自己再生産しているシステムと考えられるべきである。外部から「目的」を与え、その達成ばかりをシステム(組織)に過剰に要求するのは、単純すぎる知性により複雑な現実の営みを破壊する試みであるといえる。

4 結論

 「人間形成」は英語教育の「目標」であるが「目的」ではない。「目的」の過剰な追求により「目標」が忘れ去られたり、教育の営みというシステムが破壊されたりすることは、全体主義(=単一知性の支配)という歴史の過ちを小規模で繰り返す愚行である。単純な単一の知性というのは、そのわかりやすさゆえに大衆的人気を得ることがあるが、複雑な現場に携わるものは、それに警戒し、実践的にだけでなく、必要に応じて学術的にも単純な単一の知性に抵抗しなければならない。

主要参考文献

アレント著、高橋勇夫訳(2008)『政治の約束』筑摩書房

ネグリ、ハート著、、水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳(2003/2000)『<帝国>』以文社

ルーマン著、馬場靖雄・上村隆広訳 (1990) 『目的概念とシステム合理性』勁草書房

「現代社会における英語教育の人間形成について」のためのノート 1/5

以下の原稿は「現代社会における英語教育の人間形成について ―社会哲学的考察―」の予稿を補うノートである。以下の章番号は独自のもので、予稿の章番号とは対応していない。


1 人間概念の再検討


1.1 歴史的考察

1.1.1 ヨーロッパの歴史から
 ここでは近代的な人間観がヨーロッパでいかに作られてきたかを簡単に概説する。その総括を通じて問わなければならないのは、おそらくは地球上で最も理性的であったはずのヨーロッパの人々が、なぜ第一次世界大戦、第二次世界大戦、ファシズムとコミュニズムの全体主義国家という最悪の人災を起こしてしまったのかという問いである。

 哲学を時代の精神の表現とみるなら、私たちはデカルト(1596-1650)の哲学により近代的人間観の端緒を知ることができるだろう。デカルトは「真理」に到達するために「方法的懐疑」を行い、疑わしく思えるものはすべて排除していった。その時に疑い得ないものとして残ったのが、自分が何かを考えているという根底的な自己意識であった。かくして「精神」は物理世界とは異なるものと二元論的な枠組みが措定された。人間とは機械と異なり、心を持つとされた。

 カント(1724-1804)は、その人間の特性である心の中の「理性」(Vernunft)に着目し、人間のすべての経験を可能にしている条件(超越論的制約)が純粋理性(reine Vernunft)にはあるとした(この認識において自明で疑い得ないはずの自我を考察の対象とするという、認識論の「コペルニクス的転回」は現在チョムスキーにも引き継がれている)。逆に言うなら理性が備えていない事態を私たちは認識(erkennen)できず、ただ思考(denken)するのみである。自由や神などは、これらはみな証明されえず、認識の対象ではない。だが実践理性(praktisch Vernunft)はこれらの概念を前提し、人間は「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」という「定言命法」で、人間は道徳的に生きるという人間的な自由を得ることができるとした。かくして人間は「自分自身に責任を持ち、未成年の状態から抜け出ることである」ように啓蒙(Aufklärung)され、人間は自律(Autonomie)しながら他者に対しても適切に振る舞えるとした。

 しかし1789年に始まるフランス革命という世界史的な出来事において、啓蒙思想から始まったはずの動きが、人々の予想を超えて暴走し、暴動や内乱そして恐怖政治(Terreur)、粛清へと至ってしまった。

 ヘーゲル(1770-1831)は、このような混乱を「理性の狡知」と表現し、個々人が、情熱をもち、挫折し、落胆することも、また理想の敗退にしか思えないことも、すべては、人類の前進あるいは向上へのための、必要とも必然とも考えられる過程に過ぎないという発想をとった。彼は「理性が世界を支配し、したがって、世界の歴史も理性的に進行するという思想」を堅持した(『歴史哲学講義』上巻24ページ)。

ヘーゲルの影響を受けたマルクス(1818-1883) は、「哲学者たちは世界を色々な仕方でただ解釈してきた。しかし肝心なのは、世界の変革である」として共産主義・社会主義の創出の端緒となった。

 ニーチェ(1844-1900)は、カント的な哲学構想を「僧侶的」として徹底的に批判し、それに代わる「騎士的・貴族的」なるものを賞賛した。彼の文章はある意味哲学と言うよりは檄文だが、その中の副産物は、カントの「コペルニクス的転回」を見方を変えようと欲することとして評価し、複数の見方を持つことを客観性へ到るために重要なことであるという「遠近法」的認識を主張したことである。だが、ニーチェは、認識の複数性よりは、認識を変えようとする意志に重きをおいたため、彼の作品は、恣意性を容認するものとして読まれやすくなっていた。ナチスによるニーチェ作品の利用にもこのあたりが絡んでいるのかもしれない。

要するに、このように決然と見方を変えること、見方を変えようと欲することは、知性が他日その<客観性>にたっするための小さからぬ訓練であり準備なのだ。--ここでいう<客観性>とは、<関心なき直観>と解されてはならず(こういうものは没理にして背理である)、むしろ知性の向背を意のままに左右し、これを自在に懸けたり外したりできる能力と解されるべきであり、それによってこそ人はさまざまな遠近法や情念的解釈の差異を認識のために役立てることができるのだ。(信太正三訳『道徳の系譜』第三論文12節、ちくま学芸文庫519-520ページ)


 かくして「理性」を堅持しようとしたヨーロッパであったが、第一次世界大戦(1914-1918)によって以前には考えられなかった規模の破壊が他ならぬヨーロッパの人々同士によってなされた。この戦争中にロシア革命(1917)も起こり社会主義国家が誕生し、ヴェルサイユ条約(1919)によるドイツへの莫大な賠償要求は、ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の政権奪取の一因となった。ここにおいて二十世紀の全体主義国家の動きは大きなものとなる。

ハイデガー(1889-1976)は、西洋哲学の伝統に精通したきわめて優秀な講壇哲学者であり、彼の『存在と時間』 (Sein und Zeit) (1927)は20世紀哲学の中で最も重要な書の一つと今でも考えられている。その中で彼は、人間の存在を分析し、それを世界に投げ込まれた「世界内存在」 (In-der-Welt-sein / Being-in-the-world)であり、世界との「関わり」(Sorge/care)によって人間は「現存在」(Dasein)であると規定された。彼の分析に他人は「共現存在」(Mitdasein)として登場するが、これらの複数の存在は「共現存在」としてひとくくりに捉えられている。さらに「世人」(das Man)という概念では、人々がひとくくりにされているだけでなく、それがいわば非自律的存在として描かれている。ハイデガー哲学では、複数の異なる人々という概念がほとんど出てこないように思える。

現実世界でのハイデガーにとって決定的だったのは、彼が非常に優秀な西洋哲学者であったにもかかわらず(あるいはそのゆえにこそ?)、ナチズムへ傾倒し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に入党したことである。彼はナチス入党直前の、フライブルク大学総長就任演説でも、ヒトラーの政策の礼賛ともとれるようなことを述べている。この政治的判断の愚かさは、西洋哲学の一つの帰結であるというのが後に述べるアレントの診断である。

 やがて1935年にヒトラーのナチス・ドイツはヴェルサイユ条約を一方的に破棄し、1939年にポーランドに侵攻して、ヨーロッパにおける第二次世界大戦(1938-1945)が始まる。この戦争で原爆を頂点とする無差別爆撃、ドイツのホロコーストなどの民族大量虐殺がなされた。これらはそれまでの戦争と異なり、高度な合理性をもった人間のみが引き起こせる災厄であった。理性による啓蒙で、近代をリードしてきたはずのヨーロッパの人々は、その理性の暴走になんども苦しめられた。ひょっとすると近代ヨーロッパの理性的な人間観には、構造的な問題があったのではないだろうか。

 戦後のヨーロッパの思想家は、当然のごとくこの理性の暴走の問題と向き合った。ハイエク(1899-1992)は、経済学者としてソビエトの中央集権的計画経済の問題を指摘した。彼はその後、思索を深め「進化的合理主義」((evolutionary rationalism)に通底する「自生的秩序」(spontaneous order)の概念を明確にした。理性の暴走は、一人あるいは少数者の限定的な知性が「構築者的合理性」(constructivist rationality)の発想によって、大規模な秩序を設計しようとすることに始まる。その結果、すべてが一様な全体主義社会が生じてしまう。複合性(complexity)の高い事象は、単独(あるいは少数)の人間の知性で統御できるものではない。彼は、デカルト以来の理性観と袂をわかち、心(mind)は単独で世界の外に存在するものではなく、環境および他の心との間の相互作用性と、その連続による発展の中に存在するものであるとした。ここにおいて、心は個人の枠組みを超えて、社会的-歴史的に考えられるべきものという発想が見られる。人間とは、一人で人間になるのではなく、社会的な関係において人間になる。

 アレント(1906-1975)も複数性(plurality/Pluralität)を人間(men/Menschen)が人間であるための条件であるとした。人間を"Man/Mensch"という個人単位でしか考えないなら、私たちは公的領域(public sphere/Der Raum des Öffentlichen)を作り上げることが困難になってしまう。彼女は、カントの『判断力批判』(Kritik der Urteilskraft)の議論を拡充し、自分自身で考えること(啓蒙の格率)、首尾一貫性の格率(自分自身と一致して考えること)に加えて、他のすべての人々の立場にたって考えること(拡大された心性の格率)という判断の働きを重視した。これは一つの立場をすべてに拡張するのではなく、複数の異なる立場を想像力の働きによって、いわば他者の立場から吟味してゆくことである。ホロコーストが、アイヒマンといった悪人でもないような凡庸な人間が自分自身で「考えなかった」ことによって粛々と執行されたことに戦慄を覚えるアレントは、一人一人の人間が、それぞれに自分とは異なる立場のことを可能な限り想像しながら考え、それを自由に表明し合う公的領域の複数性を重視した。

 ハーバマスは(1939-)は、目的合理的行為(zweckrationalem Handeln)とコミュニケーション行為(kommunikativem Handeln)を区別することで、私たちの生活が前者によって支配されることを防ごうとした。目的合理的行為は、ある目的達成を究極の価値とし、その達成を技術的な規則の適用でなそうとする。目的が固定されている限り、私たちはその論理演繹的行為を否定することも止めることもできない。しかし目的を問い直すことができるのがコミュニケーション行為である。これは複数の行為主体が理解と合意を相互に承認することで、複数的存在である私たちの針路を決めうる行為である。彼は目的合理的行為における目的合理性とコミュニケーション行為におけるコミュニケーション的合理性を区別し、後者に複数の人間の判断による賢慮を担保しようとした。

 しかしハーバマスのコミュニケーション的合理性は、複数の人間から始まるものの、複数の人間が一致することによって成立するものであった。このように合意をコミュニケーションの前提とするハーバマスに対して、ルーマン(1927-1998)は差異をコミュニケーションの前提とした。ルーマンは、私たちの発話の中の「情報」(Information)と、その情報が示すもの「告示」(Mitteilung)の差異が私たちのそれぞれ独自の「理解」(verstehen)を生み出すことを明らかにした。コードモデルが前提とするようにコミュニケーションの参加者が同じ意味を共有すると考えるのではなく、私たちはコミュニケーションによって常に互いの差異を見出し、その差異がさらなるコミュニケーションを生み出すと考えるべきであろう。コミュニケーションという接続が社会という関係を創り出す。それは一致による合意というよりは、差異による接続を動因として、世界を編み上げる。コミュニケーションが社会を構成するという点で、社会は国境などの地理的要因によって規定されず、コミュニケーションの接続によって規定する。そうなるとどこかで何かがどのようにかしてつながっている現代において、社会とは世界社会のことである。

 このルーマンの発想に強い影響を受けたネグリ1933-とハート1960-)は、<帝国>(Empire)という概念で現代をとらえようとしている。<帝国>とは、アメリカもどの国民国家も中心に立てないまま、経済・政治・社会・文化にわたるグローバルな連結が、私たちのあり方を強く規定している、という認識を示す概念である。旧来の「帝国主義」(imperialism)概念は、一つの国民国家が他の国民国家を支配統治する概念であったが、脱中心的・脱領土的に私たちがつながり合い、そのつながりが大きな力をもつ現代ではもはや適用できない概念である。コミュニケーションは、ネットワークを介して相互接続を多数多様化し構造化することによって、グローバル化の動きを組織化している。アメリカという国家も英語いう言語も、地球を支配しているわけではないし、その力も持ち得ない。なぜならば差異こそがコミュニケーションを生み出すからである。この<帝国>の住人は、ある国民国家の「国民」(nation)でもなく、一般的意志を共有する「人民」(people)でもなく、まとめてコントロールされうる「大衆」(mass)でもなく、無秩序な乱衆(mob)でもなく、烏合の群衆(crowd)でもない。<帝国>においては、「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」、「多数多様性」、つまり「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」を持つ「マルチチュード」(multitude)が、自らの特異性を肯定しながら、様々につながりあい、社会をグローバル化しているというのがネグリとハートの見立てである。

 このようなグローバル化する現代社会においてあるべき言語教育の価値を明示しているのが欧州評議会(Council of Europe)の複言語主義(plurilingualism)である。英語のもつ強大な力を一方で認めながらも、言語そして文化における多様性を保つことこそが、社会の健全な維持と発展を導くものであるとして、複言語主義は、個々人が複数の言語を、それぞれに異なる習熟度でもって使い分け、使いこなし、社会的紐帯を紡ぎ出す力を重んじる。グローバル化した社会は、単一言語によって結びつけられたものでもなく、またそうなるべきでもなく、少数の強力な言語がありながらも(そして英語が現在最強の言語であるにせよ)、様々な言語がマルチチュードを多種多様に連結させている社会である。

 ここまでの流れをまとめてみよう。デカルト、カント以来の理性概念は、ヨーロッパに「近代」をもたらした。しかしその理性が単一者の理性であると誤解されたときに理性概念は暴走し、数々の人間的災厄をもたらした。第二次大戦後のヨーロッパは、その反省を受けて、単一者の理性の限界を指摘し、人間が複数性においてはじめて人間であることを強く打ち出した。それは複数の人間の間のコミュニケーションの重視であり、しかも合意よりは差異を前提とするコミュニケーション観が表明された。差異によるコミュニケーションの多種多様な接続が、グローバル化しようとする社会の新たな紐帯である。言語教育も複数主義(pluralism)を前提とする複言語主義によって進められるべきであるというのが現代ヨーロッパの判断である。

「現代社会における英語教育の人間形成について」のためのノート 2/5

1.1.2 日本の歴史から

 それでは日本において人間形成はどのように考えられてきたのだろうか。ここでは教育勅語と教育基本法を概観しよう。

 教育勅語は、幕藩体制から急速に近代的な国民国家を形成しなければならなかった明治政府が明治天皇の言葉として語らせた教育方針である。大日本帝国憲法発布の翌年である1890年(明治23年)に発布された。明治の日本は、一方で西洋的な価値観そして制度に対応しなければならないという課題を持っていたものの、他方で儒教的な伝統を強く残していた。この緊張の中で国民国家を安定したものにすることが山県有朋ら明治の為政者の発想であった。

 したがって教育勅語も「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ広メ世務ヲ開キ、常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」と近代的な価値観を提示しながらも、儒教的な「爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ボシ」という価値観を堅持していた。だがなんといっても教育勅語の基本は冒頭の二文で、天皇が日本国を作ったのであり、「臣民」は天皇に忠孝を尽くし、心を一つにすることが「国体の成果」であり「教育の淵源」であるという部分であろう(朕惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。我ガ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々厥(そ)ノ美ヲ済(な)セルハ、此(こ)レ我ガ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源(えんげん)亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス)。

 この教育勅語は昭和に入り神聖化され、国家総動員法(1938年、昭和13年)に代表される軍国主義を支える一種の聖典として利用されるようになった。第二次大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP:General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers)は教育勅語の影響を懸念し、1948年(昭和23年)に衆参両院で、教育勅語は排除され失効になった。

 教育の方針に関して新たに制定されたのは教育基本法であり1947年(昭和22年)に施行された。それは前文において「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と宣言し、第一条(教育の目的)で「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」であると定められた。

 教育基本法は2006年(平成18年)に改正施行された。主な違いは前文に「公共の精神を尊び」や「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」という文言が入り、第二条(教育の目標)で、「豊かな情操と道徳心を培う」ことや「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が法律で定められたことである。旧法の「個人の尊厳」に「公共の精神」がつけ加えられ、同じく旧法にあった「世界の平和と人類の福祉」のための努力は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに」なされるべきことがつけ加えられたと言える。

 これら三つの告示を比べると、教育勅語においては文明開化と伝統文化の共存が目指され、終戦直後の教育基本法では、おそらくは戦前への反動として、個人と新たな国家建設という進歩主義的な特徴が強くなった後、新教育基本法で公共性、国と郷土、およびそれらの伝統がつけ加えられたとまとめられる。

 前節でのヨーロッパの検討が主として思想の検討であり、本節での検討が国からの告示であることは、両者の比較がカテゴリーを異にする比較であることを意味する。思想が時代を先取りしがちなのに対して、公的告示は保守的にならざるをえないことは一般的な傾向であろう。ここで今までの概説からヨーロッパの先進性と日本の後進性を結論づけるのは凡庸であるというよりは誤りであるというべきであろう。

 しかし、これまでの検討から、日本の教育が、日本という「民主的で文化的な国家」の発展だけでなく、「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献すること」を願い、「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊」ぶことを期して、「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」のならば、ここで私たちは国家/世界、個人/公共性、伝統/新しい文化といった一見する限りの対立概念を発展的に理解する必要がある。

「現代社会における英語教育の人間形成について」のためのノート 3/5

1.2 現代における人間をどのように考えるか

 国家/世界の対立に関しては、情報革命の後の現代では、地球が多様なコミュニケーションによって網のように結ばれている以上(ルーマン、ネグリ・ハート)、国家と世界の問題は切り離して考えられないことが言える。これは環境、経済、戦争といった国境をまたぐ問題によっても明らかであろう。

 個人/公共については、人間は複数性において人間であり得ること(アレント)、しかしその公共空間は、一人(あるいは少数)の人間によって設計されてはいけないこと(ハイエク)、私たちはコミュニケーションによって公共性を創り上げるのであり(ハーバマス)、そのコミュニケーションは合意よりも差異を前提とすべきであること(ルーマン)、さらにそのコミュニケーションは複数の言語の使い分け、使いこなしによって、柔軟に行われるべきであること(複言語主義)が明らかとなった。

 伝統/新しい文化については、グローバル化された社会においては、私たちは「国民」であるというより(法律によって「国民」とされない隣人は私たちの周りにすでにたくさんいる!)、様々に異なりながらも連なり合っている「マルチチュード」として、言い換えるなら「多にして一、一にして多」である「多様性において統合している」存在として考えられるべきであろう。マルチチュードにとって単一で固定的な伝統はない。あるのは様々な伝統であり、その様々な伝統が新たな文化に変容することだけである。

 日本においては、日本は「単一民族・単一言語」であるという言説が、事実との相違にもかかわらず、今なお強く生き残っている。発言の最近の一例としては、文部科学省初等中等教育局国際教育課の手塚善政氏が雑誌『英語展望』に示したものがある。ここで氏はこの見解を声高に主張しているのではなく、文章のつなぎのなかで短く触れているだけであるが、それだけにこの見解は氏のような人々に自明視されているとも考えられる。


「筆者は国際理解を深めるためには異なる文化・価値観の摩擦が大きな役割を果たすと考えている。しかし、同一民族・同一言語で構成される日本ではこのような異なる文化・価値観の摩擦を経験することが極めて少ない (p.29)。」
(手塚義正 (2007)「今後の英語教育と国際理解教育 21世紀の日本を見据えて」『英語展望』No.114 : 22-29.)


 このような言説が文部科学省の「国際教育課」から私的な意見としてにしても出される日本においては、「伝統」の強調には注意であろう。もちろん伝統の否定というのは、まったくに愚かなことであり、私たちはこれまでの履歴なくしては何事も果たし得ないことは忘れてはならない。


1.3 現代社会における英語教育の人間形成
 ここまでの論考から、現代社会における英語教育の人間形成についてまとめてみよう。

現代社会について

現代社会とは、多種多様なコミュニケーションの網の目が地球規模で広がっている社会である。このコミュニケーションが促進されることが現代社会の進化であり、コミュニケーションの網の目が次々に切断されるのが社会の破壊である。私たちは多種多様なコミュニケーションを促進しなければならない。

英語について
多種多様なコミュニケーションは、単一言語のみによっては達成できない。英語は全地球を覆い尽くしているわけでもないし、おそらくはそうなるべきでもない。仮に英語が今よりさらに普及するとしても、それは他の言語を抑圧排除する形でなく、他の言語によるコミュニケーションと英語コミュニケーションの差異を利用する形で、複言語主義的にコミュニケーションがより豊穣に進められることによってである。英語は世界にとっての唯一の言語ではない。また日本にとっての唯一の外国語ではない。日本においても英語教育は、日本語教育、他の外国語教育、地域言語、古典語、手話などの大きな言語教育の枠組みで進められるべきである。母国語としての日本語と「グローバル言語」としての英語が修得されれば言語教育は完結するのではない。日本において英語教育は、多種多様な言語への入り口への教育としてなされるべきである。様々な言語への入り口としての英語教育で、目標を「ネイティブの英語」と思い込み、学習者の英語使用と、他言語学習を抑圧することは反教育的とすら言える。言語教育はいつか完結、集結するものでなく、生涯を通じて広がり深まり続けるものであると認識することが重要である。

人間形成について
人間は知性的で理性的な存在であるが、誰も一人の知性と理性だけでは十分でない。むしろ理性と知性が孤立した場合の危険性をテクノロジーに満ちた現代人は自覚するべきであろう。人は、他の異なる人々と共に複数で存在し、かつその複数の他者とコミュニケーションで接続できる限りにおいて人間になりうる。そこでは合意は目指されるが前提とはされない。前提とされるのは差異であり、差異に促されるコミュニケーションは終結地点(end)を持たない。多種多様な他者とコミュニケーションを接続でき、その度毎に新たな自分と他者を見出し、社会を更新できることが現代社会の人間形成とはいえまいか。もちろんコミュニケーションにも銃弾と爆弾の応酬という最悪の形から、非暴力的な言語コミュニケーション、さらには創造的・創発的なコミュニケーションという優れた形の様々なものがある。コミュニケーションは「よりよい」ものを目指さなければならない(とはいえこの「よりよい」という概念にも私たち一人一人は、それぞれに入り込み、私たちはこの概念においても合意よりも差異を期待するべきなのではあるが)。孤立せずに、複数の他者との間で、理性的であり知性的であり、「よく」あろうとすることができるコミュニケーションを図れる人間が私たちの目指すべき人間形成だと私は考える。


現代社会における英語教育の人間形成について
現代社会における英語教育の人間形成とは、地球規模で広がる多種多様なコミュニケーションの網の目をより密にするために、その手段の一つとして英語を、他の様々の言語や媒体と共々に使い分け、自らと他者の差異を前提として、よりよい社会を目指して、自分の立場から自分なりにコミュニケーションを続けることができる人間を育てることである。

「現代社会における英語教育の人間形成について」のためのノート 4/5

2 目的概念の再検討

2.1 目標概念と目的概念の区別
2.1.1 アレントの論からの抜き書き
■政治について
・政治は人間の複数性という事実に基づいている。(Politik beruht auf der Tatsache der Pluralität der Menschen. -Politics is based on the fact of human plurarility) (Arendt, 1993, p. 9) (Arendt, 2005, p. 93)
・哲学と神学が関心を持つのはつねに人間一般(Mensch, man)であり、それらの主張が正しいのは人間が一人か二人しかいない場合(Einen Mensche oder nur Zwei Menschen)や、人間がどれもそっくり同じ場合(identische Menschen, only identical men, only one or two men)に限られる。したがってそれらは「政治とは何か?」という問いに適切な哲学的回答を与えることはなかった。あらゆる科学的思考にとって、存在するのは人間一般だけなのである。(Arendt, 1993, p. 9)
・政治は差異を有する人間たちの共存と結合に取り組む。

Politik handelt von dem Zusammen - und Miteinander-Sein der Verschiedenen. (Arendt, 1993, p. 9)
Politics deals with the coexistence and association of different men. (Arendt, 2005, p. 93)

・単数形で理解された人間(man)は非政治的(apolitical)である。政治は複数形で理解された人間の間(between men)に生じるものである。政治は複数形で理解された人間の間にあるもののうちに発生し、関係性(relationship)として確立する。

der Mensch ist a-politisch. Politik entsteht in dem Zwischen-den-Menschen, also durchaus außerhalb des Menschen. Es gibt daher keine eigentlich politische Substanz. Politik entsteht im Zwishcen und etabliert sich der Bezug. (Arendt, 1993, p. 11)
man is apolitical. Politics arises between men and so quite outside of man. There is therefore no real political substance. Politics arises in what lies between men and is established as relationships. (Arendt, 2005, p. 95)

・世界史という理念において、人間の多数性は融解して単一の人間的個体性になり、さらにそれは人類=人間性と称されるようになる。これこそ歴史が怪物的で非人間的な側面を持つに到る起点であり、それは政治において、最初の全面的で野蛮な結末を迎えるに到る。

Durch die Vorstellung einer Weltgeschichte wird die Vielheit der Menschen in ein Menscheninddividuum zusammengeschmolzen, das man dann auch noch Menschheit nennt. Daher das Monströse und Unmenschliche der Geschichte, das sich erst an ihrem Ende voll und brutal in der Politik selbst durchsetzt. (Arendt, 1993, p. 12)
In the idea of world history, the multiplicity of men is melted into one human individual, which is then also called humanity. This is the source of the monstrous and inhuman aspect of history, which first accomplishes its full and brutal end in politics (Arendt, 2005, p. 95)


アレント著、高橋勇夫訳(2008)『政治の約束』筑摩書房
アレント著、佐藤和夫訳(2004)『政治とは何か』岩波書店
Arendt (2005) The promise of politics Schocken Books, New York,
Arentd (1993) Was ist Politik? Piper, München,


■アレントによる「目標」「目的」「意味」

●目標、指針目標(Ziel, goal)
・目標は政治的活動(politisches Handeln, political action)が追求するもの
・政治の目標は指針(Richtlinien, guidelines)や指示(Direktiven, directives)を超えるものではない。
・目標は私たちを方向づける(orientieren, orient)が、決して石のように硬直することはない。
・目標としての指針や指示が実現される形は不断に変化し続ける。なぜなら私たちは私たちと同様に目標を有する他の人々(anderen, other people)を相手にしている(verhandeln, deal with)からである。
・目標は、本来強引な強制力(Gewalt, brute force)を欠く「政治的」なものだが、目標は達成されずとも、それによって「的外れ」(Zwecklos, pointless)にも「無意味」(sinnlos, meaningless)になるわけではない。政治的活動(politisches Handelen, political action)は、目的の達成(verfolgen, pursue)を目指すものではなく、目標を目指す(richten, direct)ものであるからである。無意味でないのは、語り合い(Hin- und Widerreden, exchanged speech)--個人やら、民族、国家やら国民の間での--のための空間(Raum, space)が創られ維持されるからである。
・政治用語としての「関係の破綻」(Abbruch der Beziehungen, breakdown in relations)とは、人々の間の空間(Zwishenraum, inbetween space)が捨て去られる(abandon, preisgeben)のことである。
・目標は私たちの方向づけ(orientieren, orient)を行い、私たちが行うことが判断(beurteilen, judge)される標準(Maßstäb, standards)を設定する(erstellen, set)。
・目標は、活動も活動の意味の終わりも乗り越えて持続する。
・目標の本性(Wesen der Ziele, the nature of goals)とは目的(Zweck, ends)と手段(Mittel, means)に制限を加え、活動が極端に走る危険を封じ込めることである。

●目的、最終目的(Zweck, end)
・強引な強制力(Gewalt, brute force)が、言論がやりとりされていただけの人間と人間の間の空間に持ち込まれたときに目標は目的になる。
・目的は堅固に規定され、手段を選択し、手段を正当化したり、神聖化すらもする。
・目的は、それを作り出した営みが完結して、初めて現実のものになる(Wirklichkeit, reality)になる。


●意味(Sinn, meaning)
・意味は、目的と異なり、つねにその事柄(Sach, thing)自体に含まれている。
・営み(Tätigkeit, activity)の意味も、その営みが続く限り存在する。
・活動(Handeln, action)の意味も、それが続く限り存在する。活動が目的を追求しているかどうかは関係ない。

アレント著、高橋勇夫訳(2008)『政治の約束』筑摩書房(224-231ページ)
アレント著、佐藤和夫訳(2004)『政治とは何か』岩波書店(106-113ページ)
Arendt (2005) The promise of politics Schocken Books, New York, 193-200
Arentd (1993) Was ist Politik? Piper, München, 125-133


2.1.2 諸外国の目標設定
(省略)

「現代社会における英語教育の人間形成について」のためのノート 5/5

2.2 システム合理性による目的合理性の再検討
(以下は、ルーマンの『目的概念とシステム合理性』からの抜き書き的なまとめである。( )の中の数字は邦訳のページ数を指しているが、このまとめには柳瀬の言葉もかなり混じっているので注意されたい。このまとめは同書の正確な要約では決してないない。またこの時点では柳瀬はドイツ語原典を参照していない)


■古典的組織科学について

・古典的組織科学では、組織は、特定の目的を実現するために整えられたシステムとして把握されてきた(37)

・古典的組織科学では、目的/手段図式とハイアラーキーの構想が結びつけられ、システムはあまりにも単純な環境のイメージを抱くようになる(50)

・しかし目的概念は今や、特殊な機能をもった変数として、組織された社会システムについてのより包括的な理論のなかに組み込まれるべきである(57)


■システム理論について

・システムとは、複雑で変動する環境の中で内/外の差異を安定化することにより自己を維持するような同一性である(123)

・世界は常に、世界のなかにあるどんなシステムよりも複雑である。世界のなかではシステムの内部におけるよりも多くの出来事が可能である(123)

・システムは世界より、自分自身に振り分けられる可能性をより強く制限しなければならない。複雑性を縮減し、わずかの可能性でもってより高度の秩序を確立しなければならない(123)


■目的概念とシステム合理性

・目的設定の機能もやはり複雑性と変動性の吸収にあると考えられる(126)

・目的思考は、複雑性と変動性の吸収という根本に関して機能的に等価な、いくつかのシステム戦略としてとらえることができる(127)
(a)主観化:客観的な状況のかわりに主観的な状況を用いることによってシステムは環境の状況を根本的に単純化する(128)
(b)制度化:主観化において、体験処理の特定の形式(知覚の習性、現実解釈、価値)を制度化し、システムの可動性を限定し、自律性を制限する(129)
(c)環境分化:環境に境界を形成し、環境の断片と関係をつくることにより、多くの環境変動から影響を受けないようにする(129)
(d)内的分化:内的にも分化し、環境から来る攪乱的効果をシステムの部分へと局所化し、他の部分への波及を押さえる。部分では学習能力が高まる(130)
(e)システム構造の無規定化:システムには定常的に保持された視点としての構造が必要だが、そこに未規定の側面を残しておき、環境において生じる複雑性と変動性を、構造を変動させることなく吸収させる(131)

・システム戦略としての目的を次のように言い換えることもできる
(a)目的は未来の結果についての主観的な観念である(131)
(b)目的は行為の基礎あるいは結果として制度化される(132)
(c)目的は環境分化に適合するように特殊化することも可能である(132)
(d)目的は内的分化の原理としても働く(132)
(e)目的がもつ規定性の程度は可変的である(132)

・これらのシステム戦略は常に組み合わせて用いられる(131)

・目的は、システムの環境における複雑性と変動性の吸収という問題に関して、多くの相を媒介する機能を担っている。それゆえに目的は調整する一般化と見なされうる(132)

・目的モデルと存続モデルを包括する複雑性縮減の手続きにおいては、存続モデルが出発点と基礎を形作り、その上で問題が特定の構造を獲得し、複雑性が大幅に吸収された場合に目的モデルが持ち出される(107)

・目的は変数である。目的の明確さ、および目的の抽象性の設定は変化しうる(154)

ルーマン著、馬場靖雄・上村隆広訳 (1990) 『目的概念とシステム合理性』勁草書房