2008年6月10日火曜日

教育からことばの力を奪うな

菅野覚明先生の『武士道の逆襲』(講談社現代新書)というのは素晴らしい本でした。

この本については改め私自身の勉強のために整理したいと思いますが、本日はまずそこで紹介された『今昔物語集』(巻二十五)のエピソードを紹介します。


ある時、藤原親孝という武士の家に強盗が入り、その強盗が親孝の子どもを人質にとって立てこもった。我が子を殺されそうになり困り果てた親孝は、近くに住む源頼信に涙ながらに相談に行く。だが頼信は笑って言う。「子どもぐらい突き殺させてしまえ。そういう覚悟があってこそ兵(つわもの)である。だが、まあ、私がちょっと行ってみよう」。頼信は強盗の立てこもる倉庫に行った。

強盗は頼朝の姿を見てやや怖じ気をなしたが、それだけいっそう刀を幼子に突きつける。かまわず頼信は強盗に告げる。「お前が人質を取ったのは、自分が生き延びたいためか、それとも子どもを殺すのが目当てか。はっきり答えろ」。強盗はもちろん命が惜しいためだと答える。頼信は言う。「それなら刀を捨てよ。この頼信がこう言うのだから、捨てぬとはいわせぬ。子どもを突き殺させて、黙ってみている俺ではない。俺がどんな男かは、お前も知っているだろう」。強盗はこれを聞いてあっさり投降した。
(菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書)54-64ページの記述を要約)


我が子が殺されそうになっている親孝への、頼信の「子どもぐらい突き殺させてしまえ」ということば、あるいは強盗への「この頼信がこう言うのだから、捨てぬとはいわせぬ」という頼信のことば、これらはもちろん頼信という強烈な人格と、武士としての友人(親孝)、あるいは彼の世評を知る強盗との関係があってこそ活きる台詞です。

このエピソードから「人質事件の時には、家族には『人質は諦めろ』、犯人には『言うことを聞け』と言え」などといった無人格的なマニュアルを作るのは噴飯ものの愚の骨頂です。ことばの力とは人格と人格の間で生じるものだからです(ご賢察の方も多いように、私はここでアレントの言う"power/Macht"概念を念頭においています)。

ですが、このようなことばの力の性質をわきまえない、言葉厳しく言うなら、愚かな言語観が教育界ではしばしば見られます。

ブログ「英語教育にもの申す」も次のように主張しています。


 「静かにしなさい」「黒板を見なさい」と注意したところで、そんな空気がなければ、根本的な解決になっていないのに、「静かにしろ」「授業を聞け」というのはどうして? 「勉強しない」「集中しない」のであれば、そこを乗り越えていく過程の中で、生徒と教師の成長があるのにね。「正しいこと」「筋を通すこと」で全てが解決できるなら、世の中はもっと楽になっているのになぁ。生徒(子ども)にだけそれを押しつけるのは、教育なのでしょうかね。
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2008/06/post_a25d.html


ことばというのも、ことばを発する者と聞く者のこれまでの履歴と関係がなければ、力をもちません。相変わらず私は自分のことを棚に上げて駄文を重ねておりますが、教師の力量がなければ、またその力量が生徒に素直に感得されていなければ、ことばはむなしく浪費されるだけです。そして教師の力量は、生徒とのことばのやり取りから生じる力によってその教師の評判として周りに認められるものです。ことばに力を持たせるには、ことばに関わる人々に人格的関係を許さなければなりません。その人格的関係の中で、はじめてことばの力は生じるのです。

しかし、私の元に寄せられたある方からの私信メールは次のような教育現場の実態を報告しています。


「少人数指導なので、2人の教師の指導が一致するよう、教科書とワークブックしか使ってはいけない」
「ワークシートを勝手に作ってはいけない。基本的にプリント禁止」
「もし作るなら、前日までに作成し、伺い書を添付して管理職の許可を受けなければいけない」
「板書を必ずおこない、文法説明をする」
「週1回、指導教諭が授業指導に来て、予め決まった授業案通りに授業をやってみせなければいけない」「指導教諭は英語ではなく他教科の教師。その時間は、冗談も無ければ、生徒に合わせての授業多少の変化も、一切無し」


一瞬絶句してしまうような状況ですが、私にメールを下さった方は嘘や誇張を言う人ではありませんから、本当なのでしょう。

ここでは授業での教師のことばが何と考えられているのか。教師が生徒とのそれまでの流れから発する授業中ことばの力というものを何と考えているのか。

もちろん教師が発することばの力が意図したように働かないこともある。しかしそれは生徒からのことば、さらに教師からの応答のことばで修復できるではないか。ことばには力がある。人格的関係の中で発せられる限りにおいて、ことばは身体的暴力にも制度的強制力にも代替できない独特の力を持つ。教育からことばの力を奪うな。

授業のことばとは、上の教室ではまるで工業製品のようです。設計図通りに同じ製作をすれば、同じ製品ができるとでも言いたいのでしょうか。そうやって同じ製品を作ることが、教育の公平性だとでも言うのでしょうか。このような製品管理が生徒と教師を育てるものだと思っているのでしょうか。


ブログなどの開かれたメディアでは表現は控えめにするべきでしょう。


しかし私にはこの指導教諭は馬鹿にしか思えない。

この指導教諭にこのような指導を指示する上級管理職も馬鹿にしか思えない。

このような馬鹿に教育を牛耳らせてはいけない。


教育からことばの力を奪うな。

ことばから力を奪うな。
ことばから人格を奪うな。
人格からことばを奪うな。
人格から力を奪うな。

教師を人間として、ことばを自由と責任を持って使う者として扱え。


間接的にしか聞いていない話なので、コメントは控えておこうかとも思いましたが、もしこのような事態が全国各地で行われているならと思い、ここにこの文章を書きました。

私はここに私が「馬鹿」と面罵した方々と何時でも議論する用意があります。このような「指導」に理があるというのなら、ぜひその理を公衆の前でつまびらかにしていただきたい。その理が納得できるものであれば、私は私の罵倒を撤回し謝罪します。しかしそうでなければ私はそのような人々を馬鹿と呼び続けます。

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