2008年9月4日木曜日

レヴィナス著、熊野純彦訳『全体性と無限(上)(下)』岩波文庫

西欧哲学は全体性の概念によって支配されている、とレヴィナスは語る。


「西欧哲学にあって、諸個体はさまざまな力のにない手に還元される。その力が、知らず知らずのうちに個体に命令を下すのである。個体は、だからその意味を全体性から借り受けていることになる(つまり、個体の意味はこの全体性の外部では不可視である)。それぞれに唯一のものである現在が、未来のために絶えず犠牲にされ、未来は唯一性から客観的な意味をとり出すために呼び出される。究極的な意味だけが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ自身へと変換するからである。」(上 15ページ)


この、あらゆる個体を内部に閉じ込めてしまい、究極の意味だけからすべての個体を規定しようとする「全体性」は、戦争において顕著であるともレヴィナスは言う。彼は全体性とは異なる超越-無限-を要求する。


「全体性とは別の概念-無限なものの概念―が、全体性からのこの超越を、全体性のうちには包含されず全体性とおなじように本源的なものである超越を、表現すべきなのである。」(上 17ページ)


この「無限」とは、どこかに客観的に存在し、その存在が私や他の者にも一様に示されるものではない。「無限」とは、<私>という同一性に固定され分離された存在が、その存在の中に含みこむことのできない<他者>を迎え入れようとする、ある意味不可能なことを可能にしようとする驚くべき「主体性」のうちに現れる。<他者>が啓示として現われ、そうして<私>の中に無限を生起させるのである。


「無限なものの観念は存在することの様相であり、つまりは無限なものの無限化にほかならない。無限なものは存在し、そのあとで、啓示されるのではない。無限なものの無限化が啓示として生起し、<>のうちに無限なものの観念を植えつけることとして生起する。無限なものの無限化が生起するのは、およそありえそうもない状況にあってであって、そこではじぶんの同一性のうちに固定され分離された存在、すなわち<同>、《私》が、にもかかわらず自己のうちに、ただじぶんの同一性のはたらきによるだけではそれが含みこむことのできないもの、受け入れることもできないものを含みこむことになる。主体性によって実現されるのは、この不可能な要求である。主体性とはつまり、含みこむことが可能である以上のものを含みこむという、驚くべきことがらを実現するのである。本書は、こうして、<他者>を迎え入れるものとして、他者を迎え入れること(オスピタリテ)として主体性を提示することになるだろう。他者を迎えいれる主体性において、無限なものの観念が成就されている。」(上 26ページ)


かくして<私>は<他者>を渇望する。しかしこれはその<他者>を所有しようとすることではない。この渇望は無限なる善さを求めることであり、この渇望の中で<私>の否定的な権能と支配は停止される。<私>は自分が所有している世界を「顔」として現前する<他者>に贈与しようとする。


「<無限なもの>の観念によって実現する、有限のうちなる無限、最小のうちなる最大は、<渇望>として生起する。<渇望されるもの>を所有することによって鎮められるような<渇望>としてではない。渇望されるものがそれを充たすかわりにむしろ引きおこすような<無限なもの>への<渇望>としてなのである。その<渇望>は完全に利害を脱した<渇望>であって、つまりは善さである。けれども<渇望>と善さは一箇の関係を具体的に前提している。<渇望されるもの>が、<同>のなかで遂行される《私》の「否定的なふるまい」(ネガティヴィテ)を停止し、権能と支配を停止してしまうような関係を前提としているのである。このことは、積極的にいえば、私が所有している世界を<他者>に贈与することが可能であること、言い換えるなら向かい合った顔が現前することとして生起する。」(上 79ページ)


かくしてレヴィナスは倫理を語っている。訳者の熊野純彦氏の秀逸な解説を引用すればこうなる。


「他者はこの私を超越している。そのことをみとめる以外に倫理の出発点は存在しないように思われる。他者が私に対する超越でなく、言い換えるなら他者が私になんらかの意味で内在しているならば、他者は私の意のままになり、したがってどのような意味でも倫理が問われる余地が存在しないからである。」(下 337ページ)


レヴィナスの語る倫理は、形而上学的な語彙で語られていたとしても、彼が語ろうとしているのは私たちの日々の営みに他ならない。再び解説を引用する。


「レヴィナスが本書で語るのは、かくして、息をすること、食べること、ものをつかむこと、たち上がること、世界のうちで住まうこと、はたらくことである。また顔を見ること、殺すことであり、愛撫し、性交すること、親となり子となることにほかならない。」(下 341ページ)。


内田樹氏の「師」ということで興味が再燃し、読んだこの本ですが、出張の移動中に一気に読めました。20世紀後半の哲学の大きな動きは、ハイデガーを理解した上で、超えることかとも思いますが、その意味でも面白く、また何より、私たち、いや<私>が生きることについて語りかけてくれているようでいい読書となりました。

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