2008年10月28日火曜日

現代の「常識」を問い直そう

批判を許さない権威や権力に対して、理性的な「個人」がそれぞれに考え判断し、その意見をそれぞれの個人が自由に、しかし他の個人の意見に敬意を払いながら表現して、公共的空間を作り、その空間に--つまり誰か特定の個人や集団によって占められない、人々の間の空間に--権力(power)の正統性を見出すという民主主義の原理は、おそらく私たち人類の最大の文化遺産の一つと言っていいでしょう。

こういった民主主義において「個人主義」は大切です。しかしその個人主義とは、上にも書いたように、常に自らとは異なる他者を考慮に入れ、そういった異なる複数の人間が共生するという公共性を、その本質的な前提条件に含むような個人主義です。

しかし1980年代以降の新自由主義と市場原理主義の流行と跋扈により、この「個人主義」が暴走し、歪められているように思います。他者と共に生き連帯することができない孤立した個人は無力です。そして無慈悲で暴力的になりうる存在です。孤立した個人が社会的な紐帯なく存在する市場社会などは非人間的な想定です。なるほど一定の前提下では市場は、特定個人ではとても下せないような「賢い」判断を結果的に下すことができます(私はこういった意味でのハイエクの主張はきちんと評価すべきだと思います)。市場という理想的状況では、商品の生産・交換・消費は孤立した個々人の自己利益最大化行為によって、もっとも効果的に行なわれるはずでしょう。

しかし人間のすべての営みを、結局は金額というメディアに還元できる商品の生産・交換・消費の枠組みだけに還元して考えるのは知的倒錯か、怖ろしい想像力そして思考力の欠落です。

人間の多様な営みを、市場に商品を出荷する生産者、市場で商品を交換する商人、商品を購入する消費者のどれかとしてしか考えず、さらにはそれらの人々が、社会的な紐帯など考えず自己利益の最大化ばかりを考える(いや「神の見えざる手」が働くためにはそう考えるべき)孤立した個人だと考えることは、近代資本主義の進展の結果とはいえ、歴史的にはここ数十年に猛威をふるった非常に特殊で、非人間的で、反社会的で、政治を無化するイデオロギーと考えるべきではないでしょうか。

非人間的というのは、このイデオロギーが、人々のつながりを断つ反社会的なものだからです。反社会的というのは、このイデオロギーが、人々のつながりから生まれる活力を奪い、人々が連帯することによってより人間的な暮らしを創り出そうとする私たちの政治の営みを無化してしまうからです。

社会的な力と政治的な力を奪われた、孤立した個人など、繰り返しますが本当に無力なものです。しかし現代は、どんどんと人々をそのように孤立した個人として扱い、「個人の責任」を問おうとしています。ですが、それは社会的・政治的強者(「勝ち組」)のおためごかしではないのでしょうか。強者はしばしば自らの苦労を語り、人々にも自分のように奮闘することを要求します。しかしその強者ですら、社会的・政治的サポートがあったからこそここまでやってこれたはずです。さらには個人的な才能や健康や幸運などに恵まれたからこそ強者になれたはずです。なぜ一部の強者は、そういったことを完全に自らの意識から欠落させることができるのか。私は彼/彼女らの想像力の欠如が心底怖ろしいです。彼/彼女らは、強者となり、他のすべての人々も強者になるべきだと主張することによって、無慈悲で暴力的な存在になっているのではないでしょうか。

サッチャーは確かに70年代のイギリスの停滞に風穴を開けたかもしれません。その功績は認めるべきでしょう。しかし彼女の考えや行動は、時代や状況を超えた真理ではありません。"There is no such thing as society."とはまあ、すごいレトリックでした。しかしこのレトリックや彼女の言葉を金科玉条のように崇める人々が私は怖い。

内田樹先生の昨日のエッセイに続いて、本日のエッセイでも、こういったことを強く感じたので、10/26の小文と同じように、衝動的にこの小文をまとめました。一気呵成に書いたので、わかりにくい文章になっているかと思います。今後共に勉強を重ね、もう少しクールにまとめられるようにしたいと思います。お口直しに内田先生の本日のエッセイからの一節を引用します。





以前、品川区のある公立学校の校長が「保護者生徒はお客さまである。お客さまに選択される教育商品を揃えるのが教育の仕事だ」と豪語したことがある。

学校選択制はこのようなタイプの「ビジネスのワーディングでしか教育を語れない人間たち」を組織的に生み出すはずであるし、現にそうなりつつある。

このような人間たちの手によって学校教育はいま日々殺されているのである。

繰り返し言うが、教育はビジネスではない。

教育は資本主義が登場するより以前から存在する。

だから、教育の意味や価値を資本主義市場経済の用語で説明することはできない。

教育の目的はこどもたちを「成熟」させることにある。

子どもたちを成熟させるための装置として「学校」という制度は存在する。

それは株主に配当をもたらすために存在する株式会社という制度とは成り立ちも存在理由もまったく異なるのである。

子どもの成熟は「換金」できない。

「成熟すると、いくらもらえるんですか?」
というような問いをしているかぎり、ひとは成熟とは無縁である。

この当たり前の知見がいまだに共有されていない。

http://blog.tatsuru.com/2008/10/27_1055.php







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