2008年10月5日日曜日

私はなぜCritical Applied Linguisticsを教えるのか

今年度の後期の授業(大学院)より、私はAlstair Pennycook先生によるCritical Applied Linguistics: A critical introduciton (Lawrence Erlbaum Associates)を使った授業を始めます。いきなりテキストを読み始めても難しいかもしれないので、まずはウェブリソースを使ってキーワードを確認して、それからテキストを一章ずつ読んでゆきます。

ここではなぜ私がCritical Applied Linguisticsを教えることを決めたのかを簡単に説明します。


■日本の英語教育研究の現状

日本の英語教育研究では、量的心理学(対象は個人内認知)が主流になってしまっていることは前に述べた通りです(ちなみにこの記事に関しては「女教師ブログ」が面白い記事を書いています)。しかし対抗勢力も日本でも無いわけではなく、質的研究法に習熟し、「量的か質的か?」といった二項対立的な発想にとらわれず、両者をそれぞれの限界をわきまえながら使いこなす若手の研究者も少しずつ出始めました。またナラティブ研究に従事する吉田達弘さん(兵庫教育大学)などの優れた研究者もいます。


■海外での社会文化的アプローチ

上記のような新しい流れの背後には、社会文化的アプローチ(sociocultural approach)があり、例えばJames Lantolf先生、Claire Kramsch先生、Leo van Lier先生といった優れた研究者が、言語学習や言語教育を、個人内認知の枠組みにとらわれない形で研究しようとしています。

これらの流れに関する感受性は、日本では英語教育研究者よりも、むしろ日本語教育研究者の方が高く、その一端は、佐々木倫子、他編『変貌する言語教育』くろしお出版といった優れた本に見ることができます。

こういった社会文化的アプローチは、日本の英語教育界でももっと研究され、現実をより的確に捉えるためのパラダイムをものにする必要があります(言うまでもなく、これはそれほど簡単なことではありません cf. 「社会的構築主義による脱構築」)。

ですが、このアプローチの先には、社会や政治をより本格的に考察する必要が待ちかまえているように思えます。


■社会的・政治的研究の重要性

言うまでもなく、英語教育(特に学校英語教育)というのは、社会的な営みであり、それは政治的な流れの中で方向や制度が決定されています。さらにその政治的な動きの根底には、また経済的な考慮があることも、現代資本主義の社会で否定することはできないでしょう。英語教育研究も、個人認知の枠組みを超えて、学びの共同体に着目するだけでなく、「共同体」よりも大きな「社会」(あるいは「世界」)を考えなければ、現実を的確に捉える研究にはなりません。

もちろんそのようにいわば「マクロ」の視点を取る研究もこれまでなかった訳ではありません。量的(個人)心理学が80年代中頃から隆盛する以前の70年代の日本の英語教育研究では、英語教育制度の国際比較が活発に研究されてきました。90年代からの日本における津田幸男先生、中村敬先生、大石俊一先生らによる「英語帝国主義」の告発は、国際的に見ても重要な価値を持つものでした。さらに近年は、英語教育プロパー以外の研究者によるマクロな視点からの重要な著作も多く刊行されています(例えば「女教師ブログ」のまとめに従うならこれらの著作)。

最近で注目すべきは、江利川春雄先生の研究で、例えば先日行なわれた慶應義塾大学でのシンポジウムでも江利川先生の発表は、その政治的感覚の鋭敏さにおいて秀逸でした(PDFファイルはここ )。

さらにこれらの研究の全てをしのぐようなスケールの大きさと実行力で、独自の研究活動を続けていらっしゃるのが寺島隆吉先生(寺島研究室 および別館)であり、その知的スケールと実行力、そして教育の現実に根ざした実に地道な活動の組み合わせは、日本人研究者にはあまり見られないほどです(私には、日本の英語教育界の「本流」あるいは「本丸」は、寺島先生のこれらの多様な統一性を扱いかねているようにすら思えます)。

こういった研究の流れを見て、私は、このような研究をさらに社会変革のために有効なものとするには--学問が社会的に中立であるべきだというのは、最も狡猾なイデオロギーにすぎません。また変革を必要としない社会などありません--、「近代」をもう一度きちんと問い直すべきであり、さらに「批判的」であるということは、どういうことかという「批判的であることに関する批判的な考察」が必要であると考えるようになりました。以下、その二つの論点について簡単に説明します。


■近代の問い直しの必要性

近代の問い直しとは、もちろん80年代からの「ポスト・モダン」においてもテーマとなっていました。もちろんこのテーマは例えば戦前京都学派による「近代の超克論」でも扱われていたものであり、江戸から明治への急速な近代化を図り、それがいったん暴走した後、GHQにより再度の急速の近代化を迫られた日本にとっては未だに重要な問題です。

ところが現在の日本の英語教育界において「ポスト・モダン」と発言すれば、ほとんどの聴衆に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をされるだけでしょう(私がこの状況をある教育学者の友人に語った時の、彼の驚きの表情は忘れられません)。しかし現代の社会、経済、政治を分析しようとすれば、どうしてもスパンを大きく取り、(それが何を意味するものであれ)「近代」を再考察しなければならないと私には思えます。

私がそう強く思うようになったのは、今年の春にアレントの『人間の条件』を再読した時である。今春、私は今年限りの特別授業で、英語・国語・日本語の大学院生(M1)の一部と『人間の条件』を読んだ。その下調べの過程で痛感したのは、近代理解の重要さであり、またマルクスの著作を理解しておくことの重要さでした。英語教育において「人間」を考えるためにも、近代を批判的に理解しておくことは重要であると私は考えるようになりました。


■「批判的」研究の重要性

しかしこの「批判的」という言葉がくせ者です。古今東西、「批判的」と称する人が、最もイデオロギーに凝り固まった者であったり、最も自分に批判が向けられるのを嫌がる者であった例には枚挙に暇がありません。「批判的であることに関する批判的な態度」とは単なる畳語表現でなく、知的に非常に重要な態度です。

この点、Alstair Pennycook先生によるCritical Applied Linguistics: A critical introduciton (Lawrence Erlbaum Associates)を読みながら考えることは、近代を問い直し、批判的であるということはどういうことかも問い直す格好の機会になるかと思います。そうやってこそ、英語教育という営みの社会的、政治的分析も現実的な力を持つものと私は信じています。

以上が、私が大学院でCritical Applied Linguisticsを教える理由です。

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