2008年11月27日木曜日

ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社

なぜ人は、友情や愛情を感じ始めた他人には、進んで自らのことを語ろうとするのだろう。うぬぼれた時にあたりかまわず繰り返す定型の自慢話ではなく、友情や愛情を感じる人へは、新たに自分を語りだすのはなぜなのだろう。なぜその語りは万人向きの履歴書の記述のようではないのだろう。

アレントなら、「語り」(speech)の力からそのことを説き起こすかもしれない。バトラーは、アドリアナ・カヴァレロを引用する。


あたかも私たちの個性の内容を書き込むだけであるかのように、私たちは「何者なのか」と問うべきではない、とレヴィナス的な--おそらく、さらに明白にアレント的な--手法で、アドリアナ・カヴァレロは論じている。(55ページ)


「私」とは、私一人で完結した存在ではありえず、また無人空間で自存しているような存在でもないとバトラーはアドリアナ・カヴァレロに即して考える。


彼女[=アドリアナ・カヴァレロ]の見方では、私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、いわば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。もし私が呼びかけの条件を喪失すれば、もし私が呼びかけるべき「あなた」を持たないなら、私は「私自身」を失ってしまう。彼女の考えでは、人は他者に対してのみ自伝を語ることができ、「あなた」との関係でのみ「私」に言及することができる。「あなた」が存在しなければ、私自身の物語は不可能になってしまうのである。(57ページ)



「私」が存在するということは、「私が生きる」ということである。「私」が他者に関係することにおいてのみ、(生物学的な意味ではなく、精神的な意味で)生きることができるとすれば、「私」に呼びかけてくれる「あなた」、あるいは「私」が呼びかけることを許してくれる「あなた」は、私の生命である。


結局のところ、呼びかけられることなしには誰も生き延びることはできないのであり、呼びかけられ、何らかの物語を与えられ、物語の言説的世界に参入させられることで言語のなかに創始されることなしには、誰も生き延びて自分の物語を語ることはないのである。言語が課され、何らかのかたちで情動を分節するような関係の網目を言語が生み出した後にのみ、ただ事後的にのみ、人は言語のなかに自分の道を見出すことができる。人は呼びかけられ、その結果として呼びかける何らかの方法を学ぶような幼児、子供として、コミュニケーション環境に参入する。この関係性の初期パターンは、いかに自分を説明しようとも、そこに不透明性として現れる。(115-116ページ)


私の命とは、実は私とは他人であるあなたであるのなら、私は私自身にとっても不透明な存在であるにすぎない。「私」という存在は、自前の基盤を欠いている--これは近代的自律性概念からすれば噴飯ものの弱音なのだろうか。それとも近代的自律性概念というのが、不可能なフィクションなのだろうか。いや待て、カントが自律性を語ったとき彼は他者を必須の前提としていなかっただろうか--。


この「私」は語られ、分節されているのであり、「私」が私の物語る語りを基礎づけているように思われるにもかかわらず、それは語りのなかで最も基礎を欠いた契機である。「私」が語ることのできない物語の一つは、語るだけでなく自分自身について説明するような「私」として、自分自身が出現する物語である。(122ページ)


「私」は「あなた」を必要としている(願わくば「あなた」も「私」を必要としているように!)


始まりにおいて、私はあなたに対する関係であり、両義的に呼びかけられ、呼びかけており、「あなた」に託されているのであって、私は「あなた」なしでは存在しえず、生き残るために「あなた」に依存しているのだ、と。(146ページ)


かくして「私」は「あなた」を求める。しかしそこにエゴイズムが浸食してくるなら、「私」は「あなた」を「私」の中に取り込もうとする。「あなた」を「私」に同化させようとする。「あなた」を「我がもの」にしようとする。

だがそのようなエゴイスティックな試みは、「あなた」という他者を精神的に抹殺してしまうことである。そうして「あなた」が抹殺されてしまったのなら、「私」も精神的に消滅してしまう。エゴイズムは自己破壊につながる。だからエゴイストでさえ、倫理が必要なのだ。


おそらく最も重要なのは次の点だろう。私たちは、倫理とはまさしく非知の瞬間に自分自身を危険に曝すよう命じるものだ、ということを認められなければならない。非知の瞬間とはつまり、私たちを形成しているものが、私たちの目前にあるものとは異なるときであり、他者への関係において解体されようとする私たちの意志が、私たちが人間になるチャンスを与えてくれるときである。他者によって解体されることは根本的な必然性であり、確実に苦しみである。しかし、それはまたチャンス--呼びかけられ、求められ、私でないものに結ばれるチャンスでもあり、また動かされ、行為するよう促され、私自身をどこか別の場所へと送り届け、そうして一種の所有としての自己充足的な「私」を無効にするチャンスでもある。もし私たちがこうした場所から語り、説明しようとするなら、私たちは無責任ではないだろうし、あるいはもしそうであれば、私たちはきっと赦されるだろう。(248ページ)


倫理とは「私」が「あなた」のために保つものであり、その倫理によって「私」は赦され、生きることができる。


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