2008年12月1日月曜日

学会言説という権力を活かす(1)

ある地方学会に参加しました。教師としてのセンチメンタルな思いを語れば、私が指導してきた大学院生(M2)が二人、どこに出しても恥ずかしくない学会発表をしてくれたのが個人的な大きな喜びだったのですが、ここでは、学会に参加し質問者として振る舞う自分を省みて考えたことを書き連ねてみます。

学会発表とは大学・大学院教育のいわば集大成です。大学・大学院のために費やした長い年月と多くのお金、そしてなによりも努力が、社会でも通用するかを、その学問に興味をもつ者なら誰にでも開放された空間で試されるわけですから。

そういう意味で発表を吟味する学会の質問者は、大学・大学院という制度で教えられている学問と呼ばれる知識の作法を体現した者でなければなりません。私も今回、及ばずながら、その知識の作法に即していろいろな発表に質問を投げかけました。

今回の学会は量的研究ばかりでしたので、私の質問も、統計に関するものばかりになりました。およそ数字を操って推論をするならば、どうしても守っておかなければならない作法(というより思考法)は「統計学」という形で制度化されています。私は、私なりにその制度化された知識を身につけた限りで、それに則さないと思われる解釈や結論に対して疑義をぶつけました。

もちろん質問をする私とて、最低限の人間的・社会的な配慮はしていますが、学会でのコミュニケーションは基本的に「知識」の作法(だけ)に則ったものです。ハーバマスのいう「理想的発話状況」に近いものといっていいでしょう。重要な主張には根拠と証拠を示し、その妥当性によってのみどちらの主張が「良い」かを定め、そういった理性以外の要因--例えば論争者間の社会的地位--などは一切排除してコミュニケーションを続けるといった状況です。

しかしこの「理想的発話状況」で発言をするために「知識」の作法を身につけるのにはたくさんの時間とお金と努力が必要であることは先ほど述べた通りです。学部においても大学院においてもこの「知識」の作法を習得してもらうのはそれほど容易なことではありません。ですがこの「知識」は「権力」(power)につながります。

フーコーの知識/権力概念を持ち出すのが恥ずかしくなるぐらいに、学会での知識の作法--以下、「学会言説」と呼びましょう--は、権力と結びついています。卒業論文として認められるぐらいの学会言説の作法を学ばなければ、日本では教壇に立つことすらできません。修士論文として認められるぐらいに学会言説に慣れれば、教員としての処遇の点で有利になります。博士論文という学会言説を生産できる能力は、現在、大学教員となるにはほぼ必須の要件となっています。大学教員であり続けるには、事実上、学会言説を論文の形で生産し続けることが必須の条件となっています。私は日々、この権力を行使し、この権力関係の中に生きています。

大学教員であることは、時に、教育行政での権力を行使するための重要な条件となっています。例えば来年から本格実施される教員の免許更新制ですが、その講師となるには基本的に大学教員であることが求められています(大学教員以外が免許更新制の講師となるには特別な書類が必要となります)。

教員免許更新制度(あるいはその他の教員相手の講座)の講師であるということは、ちょっとした権力行使です。といっても講師ががっぽりお金を儲けるとかいうことではありません(たいていの場合、謝金はほんのわずかなものです)。そうでなく、各地の小中高の教師を集め、各種校務で忙しい教師を所定の時間座らせ、さらにはその間に講師が聞いた話をレポートなどにしてまとめなければ、最悪の場合、教師であり続けることができないシステムの中で話をするということは、制度化された強制力を伴う行為であるという意味です。

しかしその講師というものが存外にくだらない話をするというのはよく知られたことです(もちろん優れた例外は多くありますが、まだ少なくとも英語教育界で、大学の研究者の話を小中高の教員の過半数が聞きたがっているとは私には思えません)。

私はここで「すべての大学研究者はくだらない」とか「すべての権力は悪である」とかいう安っぽい難詰に荷担しようとしているのではありません。

私が言いたい第一の点は、ある優れた実践者であり研究者でもある高校教員も述べたことです。「なぜ大学の研究者の多くは、小中高の授業について語るときに、常識的、あるいは印象的なことしか語らず、自分の専門の研究の観点から語らないのだろう。もっと自分たち現場の人間は、学術的にもきちんとした話で、現場の実践に関して切り込んで欲しいのに」というのがその高校教員が私につぶやいたことです。学会言説と、現場で実際に権力を行使している言説の間にギャップがあるというのがこの第一点です。

私が述べたい第二の点は、なぜそういった現実を捉えきれていない学会言説が、現場教員を縛るシステムの中でなかなか崩れずに再生産されているのだろうということです。なぜ学会言説の権力構造が、現場が求める力(power=権力)につながらないままに保たれているのだろうということです。

とりあえずこの二点を考えることにより、どうやって学会言説という権力を活かす--肯定的に使いこなす--かを考えてゆきたいと思います。

しかし、なんだか疲れましたので、本日はここで論を切り上げておきます。おそまつ。

[続く]







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