2009年1月14日水曜日

高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出

以下は、平成20年12月22日に公表された高等学校学習指導要領(外国語)案への私の意見表明です。

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/12/08121911.htm

に定められた方法で文部科学省に提出しました。


締切は1月21日(水)です。

日本国憲法は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第12条)と述べています。

皆さんも、ご意見があれば、ぜひ短くでいいから意見表明しましょう。


******

件名: 高等学校学習指導要領案(外国語)に対する意見表明

氏名: 柳瀬陽介

年齢: 45

職業: 教師

住所: ■■

電話番号: ■■

意見: 以下の通りです。




教育行政のための毎日のご努力に敬意を表します。

高等学校学習指導要領(外国語)に対して、

(1) 「理解」を軽視しないで下さい、
(2) 「授業は英語で行なうことを基本とする」の取り扱いは柔軟にしてください、
(3) 学習語彙数増加のための条件は整備されているか、
(4) コミュニケーションに関するきちんとした記述をして下さい、
(5) わかりやすい文章とコミュニケーションをお願いします、

の五点について意見表明をします。学習指導要領の改善、あるいは運用にあたっての方針の検討をお願いします。



1 「理解」を軽視しないで下さい

今回の学習指導要領では、言語の理解、文化の理解、および学習者自身の自己理解が軽視されているように思えます。理解を軽視し、英語教育を「英語という有用な道具の獲得」とだけ考えてしまうことは、人間教育の点だけでなく、国際競争力をつける点でもマイナスに働く浅薄な考えです。


1. 1 言語に対する理解の軽視は危険です

「第1款 目標」において見られる「言語や文化に対する理解を深め」という表現は、「第2 各科目」における具体的な表現では「情報や考えなどの理解」になってしまい、言語そのものに対する理解が教育目標として抜けております。

言語そのものに対する理解は、language awareness, critical language awarenessと呼ばれる教育目標の根幹部分であり、こういった言語に対する理解・意識・自覚なしに、言語をあたかも透明な道具のように考え無自覚に言語使用することは、現実世界のコミュニケーションにおいて、思わぬ弊害を招きます。自らの無自覚な言語使用により思わぬ誤解を受けたり、他人の言語表現に込められた含意を読み取れずに、いつのまにか不利益をこうむったりもします。言語に対する理解を深め、言語使用・言語表現の様々な可能性について言語の観点からメタ的にふり返ることができることは現実世界では非常に重要なことです。日本の国際的競争力をつけるためにも必要です。

外国語の学習指導要領は、言語教育の常識である(critical) language awarenessをきちんと教育目標として明示するよう意見表明します。


1.2 「ネイティブ・スピーカー」といった表現にみられる浅薄な文化理解も危険です

文化に対する理解についても、「第1款 目標」に教育目標として掲げられているものの、具体的な記述としては、「第4款 各科目にわたる指導計画の作成と内容の取扱い」で、「その外国語を日常使用している人々を中心とする世界の人々及び日本人の日常生活,風俗習慣,物語,地理,歴史,伝統文化や自然科学などに関するものの」と書かれているだけです。

これだけの記述では、世界各地で多様な使われ方をしている英語の使用実態、そしてその「英語使用文化」の特殊性が軽視されていると言わざるをえません。周知のように英語は、現在、第二言語として話される機会が非常に増えており、日本の学習者もほとんどは第二言語として英語を学習し、使用します。その第二言語としての英語コミュニケーションでは、それぞれの話者の背景文化、それぞれの言語使用領域での文化などが混交し新しい文化が生じることは、近年の応用言語学研究も明らかにしている通りです。ですが、学習指導要領の文化に関する表現は、ステレオタイプ的な文化理解およびその再生産といった、従来の古い固定観念にとらわれているように思えます。そういった固定観念およびその再生産は、不必要な文化対立を招きかねません。文化に関するきちんとした理解を学習指導要領自体が掲げ、教育目標として明示すべきだと意見表明します。

浅薄で固定観念的な文化理解が端的に示されているのが「ネイティブ・スピーカー」といった表現です(例、第4款 2 (4)」)。英語教育の世界で例えば「ネイティブ・スピーカー」であることを雇用などの条件とはしないということは、国際的な常識となりつつあります。英語教育において大切なのは、英語を日常的に使用し、かつその英語使用を学術的にも理解した上で、適切に学習者に英語教育を行なうことができることであり、「ネイティブ・スピーカー」であることではありません。それにもかかわらず「ネイティブ・スピーカー」という表現を(「など」といった表現で意味合いを緩和しているものの)用いることは、第二言語として英語を使用し、理解し、適切な教育能力をもった人々の存在を黙殺し、英語教師としての資質を必ずしももたない「ネイティブ・スピーカー」を不当に優遇するといった意味で、国際常識に反すると言わざるを得ません。少なくともこの「ネイティブ・スピーカー(など)」という表現は、学習指導要領の他所でも使われている「その外国語を日常使用している人」などといった表現と換えるべきだと私は主張します。


1.3 学習者自身の理解が必要です

今回の学習指導要領に限らず、日本の教育目標記述からは、学習者が自らの学びを自覚的にふり返り、自律的な学習者として、高度知識社会=生涯学習社会に対応できるようになるための記述が欠けていると思います。この点に関する改善をお願いします。


以上、言語、文化、学習者の理解に対する学習指導要領の軽視について述べてきましたが、さまざまな側面における深い理解を欠いたまま、ある手段の獲得だけに邁進する営みは、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」(教育基本法第一条)であるべき教育の名前に値しません。言語、文化、学びなどについての自覚や理解を欠いたまま、とにかく--それが何を指すものであれ--「英語力」の増進ばかりを目指す行為は、学習者の人格、および平和で民主的な国家および社会のためにならない反教育的行為になりかねません。こういった意味も込めて、今回の学習指導要領の「理解の軽視」には強い懸念を表明します。



2 「授業は英語で行なうことを基本とする」の取り扱いは柔軟にしてください

「第4款」の「授業は英語で行なうことを基本とする」という表現が、世間の注目を最も集めたことは、各種報道からもわかる通りです。この表現には「その際、生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする」という表現が続いていますが、その留保があるにせよ、「授業は英語で行なうこと」というのは、このままでは今後の高校授業の大原則となるかと思います。教師が少しでも日本語を使えば、指導主事などが、この学習指導要領の表現を根拠に授業を「指導是正」することは容易に想像できます。

しかし「授業は英語で行なうこと」をむやみに是とすることは、(1)神話的な信念に過ぎないことであり、(2)現実の言語使用実態に即しておらず、(3)現場をかき乱す、という点で大変に危険なことです。

もし現状の高校現場の英語授業の大半があまりに旧態依然としており、なんらかの改革が必要だと考えておられるのでしたら、その意図には賛同します。しかし今回の「授業は英語で行なうことを基本にする」という学習指導要領の拘束は、あまりにも一面的であり、性急すぎるため、利よりも害をもたらすと予想されます。

この拘束は撤廃するべきです。もしそれが不可能でしたら、もっと緩和した表現に修正するべきです。それでも困難というのでしたら、せめてこの「基本」の取り扱いは柔軟にするよう、運用上の方針を明らかにしてください。


2.1 「すべてを当該外国語で行なう授業がよい」という神話をまき散らすのはやめて下さい

私の知る限り、よい外国語授業では、当該外国語が多く使われているものの、適切に学習者の第一言語が使用されています。それは学習者の心理的ケア、学習者の理解や思考や発言の促進などに及ぶものであり、日本のような状況では、英語教師が日本語を使って学習者の心理と認知に細かい配慮を示すことができることは、むしろ強みとみなされるべきです。

英語授業を日本語ばかりで行なうことがよいというのは、少なくとも現代では通用しない神話です。しかし英語授業を英語だけで行なうことがよいというのも、同様に、根拠や証拠を欠く神話です。文部科学省がそのような神話をまき散らすことはやめて下さい。

私はある時に、「当該外国語使用だけしか許さない外国語授業」の妥当性について研究している世界的に著名なイギリス人研究者と懇談する機会を得ました。彼はこういった通俗的な神話にいかに根拠や証拠がなく、それでいてそれが権力をもつことにより、どれだけ現場をかき乱しているかを語る際に、怒りを禁じ得ない様子でした。

神話に権力をもたせることは、権力者が決してやってはいけないことです。この神話的方針のこの時点での撤廃、修正こそが文部科学省が行なうべき事だと私は考えます。もし「学習指導要領ではまあこう言っても、現実はそんなに変わらないから、このくらいの表現を使ってもいいだろう」などと万が一にも考えていらっしゃるのでしたら、それは学習指導要領という言語を使ったコミュニケーションに対する冒涜であり、言論に基づく民主主義の愚弄です。何らかのアクションをお願いします。


2.2 英語テクストの理解のためのメタ言語としての日本語の役割を十分認識して下さい

従来の英語教育批判の定番は「英文和訳」です。たしかに機械的に英文和訳を行なうだけの授業では、英語を使ったコミュニケーションのための力がつかないだけでなく、肝心の英語テクストの理解さえままならないことは英文和訳批判論者の言う通りです。

しかしある種のテクストをきちんと理解する力を育てるには、学習者が自分のテクスト理解を自分なりに表現することによって、その理解が妥当であるかを教師および他の学習者によって吟味される必要があります。英語テクストという「対象言語」の内容について語る「メタ言語」が必要です。

「授業を英語で行なう」というのは、この「対象言語」と「メタ言語」の両方を英語とすることです。しかし対象言語のテクスト内容が難しい場合、その内容理解を表現するメタ言語(の使用)も複雑なものになります。対象言語の文字通りの意味だけでなく、行間などに隠れた話者の意味などもきちんと理解したことを示すために使用するメタ言語は、原理的に対象言語よりも複雑で精妙なものであることが必要となります。

しかし学習者のメタ言語を、不如意な第二言語である英語に固定した場合、学習者は、教師の問いにYesかNoだけで答えたり、テクストの表現を表面的に抜き出しただけの反応しかできません。せいぜい英語の選択肢の中から「正しいものを選ぶ」ぐらいでしか、学習者は英語だけの授業では、自らの理解を表現できません。このように限定的で、受け身的な授業が、学習者の表現力どころか思考力さえ奪っていることはもはや明白なことではないでしょうか。

私がこれまでに見た「100%英語だけの授業」では、その多くが表面的な英語のやり取りだけで、学習者の読解力や思考力が育っているとはとても思えないものでした。英語の表現力にしても決まり文句に多少習熟しただけといえるでしょう。なぜならばその英語表現は自らの理解や思考にほとんど基づかないものだからです。

私はそのような授業を見る度に「読解力は塾や予備校が養成しているのだろう。塾や予備校に行く経済的余裕のない家庭の子はどうすればいいのだろう」と思っていました。現実問題として、一部の大学入試問題には英文の日本語訳あるいは日本語要約があります。大学教育の重要な部分が、必ずしも容易でないテクストをきちんと理解することにある以上、英文テクスト理解の判定手段として、日本語を使うことは、上に述べました対象言語とメタ言語の観点からも、極めて正しい選択です。この正しい認識に基づく英語入試における日本語使用を全廃する理論的根拠も現実的手段もない以上、「授業は英語で」を徹底することは、大学進学予定者の英語授業を、きわめて非現実的なものにすることです。そのような愚挙はやめて下さい。

もちろん例えば多言語国家での第二言語としての英語授業は、事実上英語だけで行なわれている場合も多くあります。しかしそれは理解の対象言語と、理解したことの表現のメタ言語の発達のバランスが、長期間にわたって適切に保たれているからです。簡単に言いますと、やさしい英語テクストを少しずつたくさん理解しつつ、その度ごとにその理解を学習者なりの英語で表現しお互いにコミュニケーションを図る機会が潤沢にあったからこそ、英語だけでの授業が可能になっているわけです。

後の語彙のところでも述べますが、日本の英語教育は、学習者のレベルからすれば「難しい英語を少量だけ学ぶ」という文化が強く、学習者のレベルからすれば「簡単な英語を大量に学ぶ」という文化が根づいていません。そんな中に、「授業はすべて英語で」を強行することは、控えめにいっても拙速、端的にいえば現場の破壊です。


2.3 単一の行動目標管理で現場をかき乱すのはやめて下さい。

教育現場は様々な要因とそれらの複雑で微妙な相互関係から成り立っています。システム理論といった学問を引き出すまでもなく、これは実践者なら誰でも熟知していることでしょう。現場のそういったいわゆる「生態系」の中で、ある特定の目標だけを取り出して、その管理ばかりを強行することは、現場の現実のバランスを壊すことにつながり、現場は往々にしてずたずたになります。

しかしせいぜい古典的な「科学的管理法」を表面的だけにしか理解しない浅薄で単純な知性の持ち主は、しばしばこういった生態学的な理解を、学術的にも、現実的にもできず、自らの一元的な「管理」で、現場の教師だけでなく、生徒、あるいは周りの環境までもかき乱してしまいます。そうしてそういった管理に従えない現場の人間を「努力不足」などと切り捨てます。

「授業は英語で」というのは俗耳に入りやすいスローガンだけに、これが乱用され、管理の手段として使われることは容易に想像できます。指導主事などの管理職ばかり鼻息が荒くなり、現場の人間は理不尽な管理に従わなければならないことで疲弊してしまう現実はこれ以上見たくありません。

「現場のエコロジー」を理解した上で、単一の行動目標(あるいは数値目標)だけを振り回すことで現場を破壊することだけはやめて下さい。



3 学習語彙数増加のための条件は整備されているか

今回の学習指導要領で、学習する語彙数は最大約1.4倍になると私は理解しています(計算が間違っていたらお許し下さい)。

一般にテクストの中の未知語数が多くなると、テクスト理解は困難になります。未知語率がある一定を超えると、学習者は急速にそのテクストを理解できなくなるとも言われます。

現在の高校のテクストは、その未知語率の観点からするなら、少々高すぎる(=学習者がテクストを難しすぎると思うレベルになっている)のではないかと私は懸念していますが、この観察はそれほど間違ったものではないと思います。

もし現行の教科書の厚さ(=分量)をほとんど変えないまま、新出語彙だけ増加させたならば、教科書は一層学習者にとって学習しにくいものになります。現行の未知語率を保つためだけでも、教科書は分厚いものにしなければなりません。もし現行の未知語率が高すぎるのでしたら、既出語をもっと使用し(つまりはわかりやすい英語のテクスト記述をもっと増やし)、未知語率を下げなければなりません。それは教科書の分量は大幅に増えることになります。

このように教科書の分量を大幅に増やすことをしなければ、学習者の学習困難度は、現状維持すら難しく、学習困難度を改善することなどはとても望めないと考えられます。

しかし高校現場に、そして教科書会社に、そのように教科書の分量を大幅に増やす覚悟と準備はあるのでしょうか。現状の多くの授業の方法論でしたら、多くの教師は「今の分量でさえ大変なのに、これ以上教科書の本文が増えたらとてもやってゆけない」と思うでしょう。もし多くの教師がそのように感じているとすれば、教科書会社も、所詮教科書は商品ですから、思い切った分量増加はできず、教科書は新出語彙だけ増えて、全体の分量は変わらないという、未知語率が現在以上に高い、学習しにくい教科書となってしまうでしょう。

学習する語彙を現状より増やすという方針には私も賛成です。ただ学習指導要領の語数を変えれば、現状は改善されるという単純なものではありません。逆に急激な改革が、逆効果を招くことがあることは、世間の様々なところで観察されている通りです。

学習語彙数をこれまでの趨勢から大転換して増やすのでしたら、文部科学省はその政策転換の責任を担い、この政策転換がプラスに働くように最大限の配慮を具体的にしていただくようお願い申し上げます。



4 コミュニケーションに関するきちんとした記述をして下さい

外国語の学習指導要領に「コミュニケーション」という用語が登場して久しいですが、この用語および関連用語(「実践的コミュニケーション能力」「コミュニケーション能力」など)はこれまできちんと解説されてこなかったのではないでしょうか。

それでも今回の学習指導要領には若干の具体的記述があります。例えば「速読したり精読したりするなど目的に応じた読み方」や「能力を更に伸ばし、社会生活に置いて活用」、「伝えたい内容を整理して論理的に話す」、「書いた内容を読み返して推敲する」、「発表の仕方や討論のルール」、「相手の立場や考えを尊重し、互いの発言を検討して自分の考えを広げる」、「課題の解決に向けて考えを生かし合う」などの表現が見られます。また「言語の使用場面の例」、「言語の働きの例」も挙げられています。

しかし上記の記述レベルを超えて、具体的な指導にまでもってゆこうとすると少なからずの英語教師が現状ではとまどうのではないでしょうか(そもそも私たち自身がこれらの「コミュニケーション」に成熟しているのか疑わしく思える時さえ私にはあります)。

指導のためには、逆に抽象度を上げた理解をして「コミュニケーションとは何か」について深く考えておくことがしばしば重要です(「抽象的な理論理解ほど現実的なものはない」という逆説的表現はしばしば聞かれる通りです)。ですが学習指導要領には、そのような(良い意味での)抽象的表現に長けた記述もなく、曖昧な記述が多用されているようにも思えます。

これまでの言語教育が、言語学サイドから進展することは多くとも、コミュニケーション論サイドから進展することは少なかったということから考えますと、こういった現状は仕方ないのかもしれません。しかし、もしコミュニケーションのための英語教育が本当に必要で、それを推進しなければならないのなら、今後学習指導要領のコミュニケーション概念に関する記述は、具体性と抽象性の両面で改善されなければならないと考えます。



5 わかりやすい文章とコミュニケーションをお願いします

最期に、外国語ではなく、学習指導要領一般についてのコメントを申し上げます。それはわかりやすい文章によるコミュニケーションをお願いします、ということです。

学習指導要領は「章-節-款」という階層構造をもっていますが、「款」という表現は一般的でなく、読者を遠ざけてしまうものではないかと思います。単純な「1. 1. 1」などの表記ではいけないのでしょうか。

また今回の学習指導要領の「第1章 総則」の「第1款 教育課程編成の一般方針」は、学習指導要領全体に関わる重要な部分ですが、その第2段落などは悪文の見本のような長い文であり、そのような文章で「生徒の言語活動を充実する」ことが勧告されているのは悪いジョークのようにも思えました。

文部科学省は全国の教育関係者とコミュニケーションを取らなければならず、その労苦は大変なものだと思います。その労苦を軽減するよい方法は、文部科学省が出す文書がわかりやすく、読者がコミュニケーションを取りやすいものであることだと思います。学習指導要領の表現は、もっとわかりやすく、かつ具体的であることが求められるかと思います。このあたりの改善もぜひお願いします。しばしば学習指導要領の文言の解釈を巡って現場が混乱し、「文部科学省サイド」の人たちが言うことも結構人によって違ったりして事態がますます混乱することは残念ながらしばしばあります。今回の学習指導要領が全体として「言語に関する能力」を育成し「言語活動」を充実することを目指しているとするなら(第1章 第5款)、文部科学省と私たち教育関係者の間での言語使用とコミュニケーションの質を高めるべきかと思います。

なおそういった率先垂範という点では、もし文部科学省が「授業は英語で行なう」ことを本気で強行するのでしたら、その説得も英語教師などには英語で行なってはいかがでしょうか。学習指導要領および関連文書も、英語を理解する世界の多くの言語教育研究者の関心と協力をえるために、ぜひ公式の英語版も作成されたらよいと思うことを付言しておきます。

最後までお読み下さいましてありがとうございました。
教育に強い関心をもつ市民の一人としての意見表明でした。

以上









2009年1月13日火曜日

2009年の研究目標

年が明けて二週間が過ぎてしまいましたが、今年の研究目標を立てたいと思います。



■2008年の総括

昨年2008年は、input目標、output目標ともに、7-8割は達成できましたが、集中した長時間を要する大切な目標のための仕事が後回しになってしまいました。タスク管理を徹底しなければと反省しています。

(1) input目標
2008年のinput目標のうち、critical applied linguisticsの勉強と実践者との対話はそれなりに実現することができましたが、ルーマンの読解(特にドイツ語原典を参照しながらの精読)は駄目でした。

(2) output目標
日本言語テスト学会研究集会での口頭発表、JALT北九州地区での英語講演、中国地区英語教育学会での口頭発表、全国英語教育学会での口頭発表、日本言語テスト学会全国大会での口頭発表などは予定通り行なうことができました。また、懸念だった英語教育実践者に関する本の刊行も目途がつきました。ですが肝心の「田尻科研」のまとめがまだです。(ただこれに関しては共同研究者の横溝紳一郎さん(佐賀大学が現在鋭意原稿執筆中ですので、横溝さんの原稿は一足早く出版されるかもしれません)。



■2009年のinput目標

(1) 基礎的な理論の勉強
ルーマンをきちんと読みたく思います。並行して、差異やシステム論においてルーマンと重なるところの多い理由から去年から読み始めたデリダとベイトソンの勉強も続けたいと思います。これらは数年後の具体的な考察のための基礎的な勉強とします。毎週一回定期的に時間を取ります。

(2) 海外応用言語学論文の読解
私はこれまで自分で哲学などの文献を読んでは日本の英語教育について考えるといったアプローチを主にして、海外の応用言語学論文を軽視していましたが、これは明らかな間違いでした。まったくもって不面目ですが、ここにこれまでの間違いを認めます。これまでの不勉強を取り返しつつ、最新論文をきちんと読む習慣をつけたく思います。読む論文の種類はやはりcritical applied linguistics, ecological linguistics, sociolinguistic approachを中心とします。これも毎週一回定期的に時間を取ります。


(3) 実践者との対話
これは従来通り続けます。私は広島市の小学校英語科のプロジェクト、および現職教員教育に関する広島県と広島大学の提携プロジェクトに関わっていますのでそれらをメインにします。その他は、昨年7月に体調を崩したこともありますから、無理しない範囲で行ないます。



■2009年のoutput目標

私には過分な機会を得ましたので、是が非でもこの講座だけはいい発表をしたいと思います。皆様、もしよろしければ2009年3月6日(金)に慶應義塾大学言語文化研究所までお越し下さい。10:00-18:00まで講義と質疑応答をする予定です。


(2) 過去の研究の英語論文化
昨年の日本言語テスト学会での発表(Indeterminacy in Communication)と、これまでさまざまな機会に日本語で書いてきて部分修正を重ねてきた「言語コミュニケーション力の三次元的理解」を再整理して英語でそれぞれ論文にしたく思います。これは4月を締切とします。


(3) 田尻科研の成果の出版
「田尻科研」を通じて考えたことを、もっと練り直して、もっともっと整理して読者の皆さんに読んでいただけるようなものにまとめたく思います。これは6月末を締切とします。


(4) 社会的コミュニケーションとしてのライティングに関する論文
ルーマンの読解から、直接に時空を共有しないままでの「社会的コミュニケーション」を、直接に時空を共有する「相互作用的コミュニケーション」と区別して考察しなければならないと思い至りました。

「社会的コミュニケーション」の典型例は書類や論文のライティングです。私は日頃(自分のことは棚に上げての話ですが)、日本語や英語ならそれなりに書ける学生さんに「こんな書き方ではわからない」と難癖をつけています(汗)。それは、知識や興味をかなり共有する仲間に伝える書き方と、知識や興味を必ずしも多くは共有しない他人に伝える書き方は自ずから異ならなければならないという考えから来ています。

恥ずかしながら最近知ったことですが、この社会的コミュニケーションとしてのライティングに関する考えは、techinical communicationあるいはtechnical writingという用語で語られているようです。日本語文献でも「テクニカルライティング」という表現は散見されます。

英語教育研究を行なう者として、私は理論研究ばかりするわけにもいきませんので、今年はこのtechinical communication / technical writingについて勉強し、それを論文にしたく思います。これは8月の全国英語教育学会での口頭発表を取りあえずの目標とします。



■終わりに

年末年始に少しずつ考えてきた今年の研究方針を、こうして恥をさらすようにして文章にすることによって、今更ながらにタスク管理の重要性を知りました。文章をまとめながら、ガントチャート形式のタスク管理表(月別)を作成することによって、いくつかのプロジェクトは少なくとも今年は断念しなければならないことがわかりました。

私は特に好奇心が強く、次々に興味が拡張しがちです。その悪いところは、目新しいものばかりを追って、本当に大切なことが後回しになってしまうことです。今年は好奇心という我欲をできるだけ抑えて、できるだけ丁寧な生き方をしたく思います。


「どれだけ多くの仕事をしたかでなく、どれだけ丁寧に仕事をしたかが大切だ」というマザー・テレサの言葉を今年こそ、わずかなりとも自分のものにしたく思います。

というわけで今年も様々な方々に不義理をしてしまうことになるかと思います。どうぞお許し下さい。





2009年1月4日日曜日

理想と現実の脱肛、じゃなかった脱構築

不幸で幸福なベートーベン!

彼の中には誰よりも高い理想があったのでしょう。だからこそ彼はまさに人類遺産としての音楽を残すことができた。


その理想の追求こそは彼の幸福だったのでしょう。

しかしそれは同時に不幸の連続だったに違いありません。


なぜなら理想とは、定義上、現実の否定であり、理想を追い続けるというのは、現実を否定し続けることなのですから。だから彼の生涯は、幸福の追求であり、不幸の連続だったのかもしれないと思うわけです。


それでは理想を捨てれば、現状を丸ごと肯定できて人間は幸福でありうるのか(あるいは、不幸ではあり得ない状態になるのか)。

そういうわけにもいかないでしょう。どこからか根付いた理想というものは、もう既に現実に入り込んでしまっている。理想抜きの現実などは、ベートーベンのような人間にはもはやありえない。理想が現実の否定であると同時に、現実が理想の否定となっている。理想抜きの現実は考えられない。そして現実抜きの理想もありえない。


理想と現実は互いの尻尾をかみ合った二匹の蛇のように絡み合い、もはや二つを分かつことができない。無理矢理二つを離せば、それぞれが喪失した尻尾の痛みを覚え、不全感にさいなまされてしまうでしょう。だからといってそれぞれが相手を食い尽くすことはできない(食い尽くしたとき、二匹はどこへいってしまうのだろう)。


言語を使い、思考を重ねることによって人間は、他の動物に見られない想像力を得た。現実にないもの、すなわち理想を想像することだ。

理想を現実に創造しようと、人間はまるで神のような試みを行なう。人間も動物である以上、なすべきことは生命の再生産とゆるやかな進化による環境との調和だけなのかもしれないのに、理想に取り憑かれた人間は創造を目指す。

繰り返すが、それは幸福の追求であると同時に、不幸を絶えず招くことである。

仮に一つの理想が到達できたと(達成の陶酔感から)思い込むことが出来たとしても、我らがベートーベンはそこでは満足できないだろう。なぜなら彼の現実には理想が食い込んでしまっているからだ。

理想と現実のどちらか一方を消滅させることはできない。かといって両方を消滅させることもできない。

さりとて理想と現実を調停するような弁証法的解決とて、新たな現実が生まれ、それが新たな理想を招き寄せ、葛藤が始まるだけだろう。


理想と現実の二項対立を、どうにかずらすこと--脱構築すること--はできないのか。


イメージ的にしか語れないのだが、二つの対立する軸をずらして、二つをグラグラにしてしまう。もはや理想がどこにあるのか、現実がどこにあるのか、二つは固定した場所をもたない。二つの揺動は時に激しく、場合によってはどっちがどっちだったかわからなくなる。かといって二つが無くなっているわけでもない。



わけのわからない言い方につきあわせてしまってごめんなさい。

しかし私はそんなイメージのあり方を本当に欲しています。


かつてベートーベンは、弦楽四重奏第十六番の楽譜に "Muss es sein?" (Must it be?)"と書込み、それに対して自分で "Es muss sein!" (It must be!)と書いたと言われています。私たちが過剰に解釈しているだけなのかもしれないけれど、いかにもベートーベンらしい言葉かと思います。

しかし「こうでなくてはならないのか?」という問いかけに「何のことだい?」と答えられないものか。

ベートーベンの最後のピアノソナタ第三十二番の第二楽章は、「何のことだい?」という彼の理想と現実の脱構築であったのではないか?

誰よりも不幸で幸福であったのかもしれないベートーベン。


ストラビンスキーのオペラ『オイディプス王』で、これまた誰よりも英雄的でかつ悲劇的だったオイディプス王の最期に、コーラスは「オイディプス、私たちはあなたを愛していた」と歌いかけます。私はこのオペラ(小澤征爾指揮)をDVDで見たとき、不覚にもこの場面で泣いてしまった。


幸福であり不幸であったオイディプス、そしてベートーベン。

神のように理想を見出したが、自らは動物であるという現実から逃れられなかった二人、そして私たち。


理想と現実の二項対立に絡め取られてしまうのは愚かなのか、それとも人間的なのか。


私たちは理想と現実を脱構築できるのか。

それともこんな問いは、禅僧がかつて「喝」の一言で無効にしてしまっていたことではなかったのか。


私たちは歴史から学んでいるのか、学んでいないのか。




新春に聞いたBeethoven: Complete Works for Solo Piano, Vol. 6 [Hybrid SACD]

彼のフォルテピアノによるベートーベン演奏は好きで、私はリリースされる度に買い足しているのですが、この作品も良かった。収録作品が、

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』Op.53
第22番 ヘ長調 Op.54
第23番 ヘ短調 『熱情』 Op.57
第24番 嬰ヘ長調 『テレーゼ』 Op.78
第25番 ト長調 Op.79


という有名どころだから、クラシックをあまり聴かない人に入りやすいだろうし、かといって底が浅いなどというのではまったくなく、いろいろな感情や思考がこの演奏から想起される。中期というある意味、最もベートーベンらしい時期の作品がこのCDでは堪能できます。


このような文章は本来は「音感」という私の独りよがりなブログ(アクセス少ねぇ!)に掲載するのですが、そこでは「脱構築」はわかってもらいにくいだろうし(ましては脱肛・・・のジョークもわかってもらえないだろうし)と思い、ここにも掲載しました。

でもこのブログの読者の多くの皆さんにとって、ベートーベンやストラヴィンスキーも「あ、もちろん知ってるけど何か?」でしょうね。

というわけでどこに掲載しても理解してもらえない文章を私は書き続けるのでした。(←てか、仕事しろ)


おそまつ。








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