2009年2月28日土曜日

技能/理解と定型的/創造的の次元による小中英語教育の整理

ある作業部会で仕事を進めるうちに、小中の英語教育についての概念的理解が必要になってきたので次のような表を作って整理しました(私にとって現実的場面こそは理論的に考える状況の一つです)。

 

定型的

創造的

技能

1

4

理解

2

3


一見してわかりますように、この表は、英語教育を技能/理解の次元と定型的/創造的の次元の二つの次元で四つの類型に分類したものです。技能/理解とは、英語教育が技能中心になっているか、理解中心になっているかというものです。定型的/創造的とは、英語教育が定型的な表現を主に扱うか、創造的な表現(=必ずしもこれまでには使われていなかったような表現を文法によって作り出した表現)になっているかというものです。

小中の英語教育に関する私の考えは、小学校から中学校への英語教育は、極めて単純化していうなら、上の図の1→2→3→4のように進むべきだというものです。すなわち、小学校ではまず定型的な表現の技能(といってもリスニングとスピーキングのみ)をさまざまな活動を通じて開発しながら、少しずつその定型的な表現の理解を始める。中学校では文字と文法を導入することにより定型的な表現の理解もきちんと行ない、さらに創造的な表現も理解できるようにして、最終的には創造的な表現も扱える技能(リスニングとスピーキングだけでなくリーディングとライティングにおいても)を身につけるというものです(注)。

1→2→3→4のように進むべきというのは、私なりの現実理解に基づいた考えです。私が見る限りの小学校の英語教育は、やはり子どもを引きつけようとするからか、活動的なものが多いです。活動といっても英語に関するものですから、どうしても英語の定型表現に関わるものになります。しかしその定型表現をきちんと理解するだけの手だて(=文字表現や文法など)を小学生は知りませんから、定型表現ですらきちんとは理解しないまま小学生は中学校へ入学します。しかしきちんと理解してはいないとはいえ、何度も耳を通し、口を通した表現ですから、定型表現はそれなりに身についています(あるいは身につきかけています)。それを基盤にして中学校では文字表現と文法を導入し、定型表現を十分に理解します。その理解に基づき、中学生はこれまで見たことのない「創造的な」英語使用にも対応できるようになることを目指します。そうやって創造的な表現の理解を十分にして、創造的な表現を難なく扱えるような技能を目指すというのが1→2→3→4の流れです。

もちろんこれには異論もあるでしょう。「小学校英語教育を技能中心にするのはよくない」といった根拠からは、流れは1=2→3→4、あるいは2→1→3→4であるべきだというものです。これらの流れに私もそれなりに共感するのですが、私の懸念は現時点で、定型表現に関する「理解」が、伝統的な文字・文法に関する理解を除いてどれだけ教師に提供されているだろうか、というものです。学習者にあることを理解させるためには、(当たり前のことですが)教師は学習者以上の理解をしていなければなりません。そのような教師の理解を支えるのは、教師自身の経験的な理解と研究者による学術的な説明です。現時点では小学校の先生方の多くは英語使用の経験を十分には持っていませんから、頼るべきは研究者による学術的な説明です。この説明は書籍などの形で潤沢に供給され、教師に咀嚼されていなければなりません。しかし小学校英語に関するそのような学術的な説明は、管見の限りでは、大津由紀雄・窪薗晴夫『ことばの力を育む』慶應義塾大学出版会などを除いてはあまり普及していないように思えます。これが1=2→3→4や2→1→3→4の流れに対して私が懸念を持っている理由です。

もちろん1→2→3→4の流れに対して批判的な人、あるいは「小学校英語教育を技能中心にするのはよくない」と考える方々の理由の一つは、現時点での小学校教師の英語力が十分でないからというものです。しかしこれはこれから数年(多くとも10年)以内にはなんとか片がつく問題でしょう。これからの小学校教師養成・採用の制度整備がきちんとすればなんとかなるはずです。

ちなみに申し上げておきますと、「小学校英語教育を技能中心にするのはよくない」と考える方々の中には、「技能中心」ということばが「理解軽視」を含意しかねないからという理由でそう考えていらっしゃる方々がいらっしゃいます。私もその懸念には共感します。「英語習得など、単なる技能習得なのだから、訓練だけやっておけばいいのだ!」などといった主張は時に聞かれますが、そういった主張からするなら、英語教育とは、上の図の数字でいうなら、1だけをやればよく、それを徹底すれば1→4となるというものなのでしょう。しかしそれは、おそらくは理解力に恵まれた人が、自分が受けた学校英語教育の恩恵を忘却して主張していることではないかと私は考えています。

さらに脱線しますと、これまでの英語教育は2ばかりにとどまっていたことが多いように思います。パターン・プラクティスを重んずる方は2→1と英語教育を拡張し、受験対策を重んずる方々は2→3と拡張したかもしれませんが、英語教育が4まで拡張されることはほとんどなかったといえるのではないでしょうか。また1がなく2からいきなり入るので、中学一年生の中には、ずいぶん英語は難しいものだと考える人も多かったかもしれません。

と、私は上の表を使って1→2→3→4という流れで小中の英語教育を整理しましたが、その流れの是非はさておき、英語教育を大局的・概念的に理解することは重要だと考えます。皆さんの思考を促す素材としてこの拙文をブログ掲載する次第です。



(注) ちなみに高校英語教育は、中学校までの「話しことばの英語」 (=文脈や話者間の相互作用に大きく依存する英語使用) 加えて、少しずつ「書きことばの英語」 (=特定の文脈や読者ではなく、一般的な文脈や読者層でも十分に理解できるほどに使用される英語の精度を高めた英語使用) を導入することだと考えています。大学・大学院の英語教育は、「書きことばの英語」を本格的に扱い、Information Communication Technologyで結ばれた状況で専門的で高度な英語使用を可能にすることを目的にするべきだと考えています。




2009年2月18日水曜日

田邉祐司、ティモシー・ライト『1日3分 脱「日本人英語」レッスン 』(朝日新書)

英語力という点でも人間性という点でも私が尊敬してやまない先輩である田邉祐司さんが著書を出版されたのでお知らせします。

この『1日3分 脱「日本人英語」レッスン』は『Asahi Weekly』で現在も連載中である「Mind the
Gap」という記事が好評であることを受けて出版されたものです。


この本は、文法的には間違っていないものの、どうも社会的には奇異な感じを与えてしまうし、時には深刻な誤解さえ生み出しかねない日本人の英語表現を具体的に指摘し、どこをどう修正すればよいかを明確に示してくれます。日本人英語学習者のこういった語用論的な理解不足に関しては、多くの識者が指摘する通りですが、本書はそれらを1コラム3分(あるいはそれ以下の時間)で読める楽しくてためになる読み物にして、語用論的な能力の育成を支援するものです。


高校生から大学生・大学院生はては英語教師まで、存外にこのような語用論的な知識あるいはセンスが欠けている場合があります(私も人のことは言えませんが)。どうぞ本書をお読みください。

なおこれは学生さんへのアドバイスですが、こういった本を読んだら、ぜひぜひ英語のテレビ番組や映画も熱心に見るようにしてください。本で読んだ知識や観点がきっかけになってさまざまなことに気づくことができます。できれば同じ番組を何度も見たら(しかも二回目からは日本語字幕を消してみたら)とてもいい勉強を楽しみながらすることができます。



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2009年2月15日日曜日

信じること

以下は、2/15の卒業生・修了生「追いコン」でする予定の挨拶原稿です。

******

教育学部で教えるべきことは、結局二つのことに尽きるのではないかと最近思い始めました。

一つは「知ること」です。

知るといっても、それは「単に情報を得る」といったことでなく、「根拠や証拠をもち、他人と共有することによって、よりよい社会を作るのに役立てることができる客観的な知識を得る」といったことです。こういった意味での「知ること」は、卒業論文と修士論文で特に鍛えることができます。私は及ばずながらもこの「知ること」に関しては、皆さんのお手伝いが多少はできたのかもしれません。

しかしもう一つの大切なことに関しては、皆さんの方が私の先生だったのかもしれません。


それは「信じること」です。


私の尊敬する蒔田守先生は、かつてある講演会で、教師として大切なことを次のようにまとめました。

それは

信頼すること 

任せること 

待つこと 

そして、賭けてみること 

です。

これは「信じること」とまとめることができるでしょう。


「信じること」は「知ること」と対照的です。

「知ること」は、根拠や証拠を得られた限りにおいて成立すること、言い換えるなら、根拠や証拠が得られない限りは、決して成立しないし、また成立させてはいけない心の働きです。


ですが「信じること」は、根拠や証拠がないところで、あることを確信することです。


これは「知ること」のマナーからすれば、全くの誤りであり、科学では決して認められないことです。

ですが、私たちが生きるこの世界は、科学がこれまで解明してきた知識よりも、はるかに広く、深く、そして複雑なものです。そんな世界で生きるためには、人間は「知ること」だけでなく「信じる」ことも必要とします。

この点、友人同士お互いを信じ、自らの可能性も信じていた皆さんに私は多くを学ぶことができました。

どうぞ大学・大学院で学んだ「知ること」と、皆さんが周りから自然に受け入れ、自ら育ててきた「信じること」をバランスよく人生の中でブレンドさせ、幸せな人生をお過ごしください。

ありがとうございました。





2009年2月13日金曜日

末田清子・福田浩子(2003)『コミュニケーション学』松柏社

私も含めた英語教育関係者の多くは、言語学・応用言語学から勉強を始めた人間が多いせいか、「コミュニケーション」をもっぱら「言語」の極から考えがちです。

しかしコミュニケーションは言語以外の媒体も多く使うものであり、言語をまったく使用しないコミュニケーションも実際に存在する以上、言語の極からだけでコミュニケーションを考えるのは明らかに偏っていると言えましょう。その点、私などにとっては常識的な意味での言語の存在に根源的な疑いさえかけるデイヴィドソンのコミュニケーション論などは刺激的でした。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/GlobalError.html
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/DComComp.html

しかし私のような英語教育関係者にとっての関心事は、あくまでも言語を主な手段として使ったコミュニケーション(以下、言語コミュニケーション)です。そうなりますと、言語コミュニケーションを、言語にも、(言語抜きの)コミュニケーションにも偏らずに捉える枠組みが欲しくなります。

末田清子先生と福田浩子先生によるこの『コミュニケーション学―その展望と視点』松柏社は、言語コミュニケーションをバランス良く概説した格好の教科書といえるでしょう。この本に書かれているようなことは、一応まんべんなく知っておくことが、言語コミュニケーションをきちんと考えるためには必須のことと言えるかもしれません。私はこの本を「言語コミュニケーション力論と英語授業」という授業、および私のゼミの副読本として指定しようかと今考えています。


この本は「コミュニケーションの四つの視点」として


機械論的視点
心理学的視点
相互作用的視点
システム論的視点


あげ、コミュニケーションを理論的にも包括的にとらえようとしています。

また「コミュニケーションの要素」としてこの本が掲げている枠組み(20ページ)を私なりに(少しだけ変えて)再掲しますと次のようになります。


1 Verbal messages

1.1 Verbal-vocal messages (spoken languages)

1.2 Verbal-nonvocal messages
1.2.1 Written languages
1.2.2 Sign languages


2 Nonverbal messages

2.1 Nonverbal-vocal messages (vocalics)
2.1.1 Prosodic features
2.1.2 Paralanguage

2.2 Nonverbal-nonvocal messages
2.2.1 Appearance (objectics)
2.2.2 Body touch (haptics)
2.2.3 Body movement (kinesics)
2.2.4 Smell (olfactics)
2.2.5 Space (proxemics)
2.2.6 Time (chromemics)



言語コミュニケーションといった非常に総合的な現象を考える際には、このような枠組みは非常にありがたい。これらの枠組みに即してコミュニケーションを概説する本書は、学部生・院生のみならず、言語コミュニケーションを考えようとする人は手元に置いておきたい本かと思います。


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追伸、
最近は忙しくてブログにも記事が書けませんが、2009年3月6日(金)の10:00-18:00に開催される慶應義塾大学言語文化研究所の言語学コロキアムでの講演だけは成功させなければと思っております。興味のある方はどうぞご参加ください。