2009年3月26日木曜日

大津由紀雄(編)『ことばの宇宙への旅立ち―10代からの言語学』『ことばの宇宙への旅立ち(2)―10代からの言語学』ひつじ書房

大学の本分は研究です。研究の中心は知的な喜びです。その知的な喜びを少しでも伝えようとするのが教育です--少なくとも私はそう思っています(このように当たり前のことを言わなければならないところに現代日本の問題はあるのかもしれません)。

理科の教師には、研究の喜びを生徒に伝えようとわくわくしながら教えている人が少なくないようにも思えます。教科内容であるサイエンスが日進月歩であり、教師自身も勉強しているからでしょうか。

英語の教師にも、日々英語に接して、小さいけれども具体的な知の喜びを生徒に伝える先生がいらっしゃいます。そういった先生はまずもって表情が生き生きとしています。こういった教師の姿こそが、教育の中でも最も大切なことなのかもしれません。

ですが英語教師は、もっとサイエンスに理解を示すべきかもしれません。サイエンティストによって使われる英語に興味をもつだけでなく、自らもサイエンティフィックに英語、日本語、そして「言語」を探究する姿勢をもつべきでしょう(これは自戒の言葉でもあります)。英語科で伝えられるのは、第一には英語を使ってのコミュニケーションの有用性であり喜びかもしれませんが、英語や日本語といった言語そのものに対する理解と洞察、そしてそれらを得る際の喜びも英語教師はもっと伝えるべきなのかもしれません。

教員の研修も、英語科はやたらと授業の方法やノウハウばかりに目がゆきますが、もっともっと教育内容に関して、英語教師は勉強をすれば、英語を教える喜びはもっと大きくなるかと思います。

この二冊の本は、日本の言語学者のインタビューをまとめたものです。読むと、言語を研究するということの広さ、深さ、そして喜びがよく伝わってきます。

現代社会はますます高度知識社会になっていきます。ですから高学歴化も進行します。しかし学歴を得るための受験準備では、ともすれば短期的成果(=受験問題での高得点)ばかりを求めて、知的な喜びを経験することが犠牲になってしまいます。その結果、せっかく進学しても、学ぶ喜びを感じなくなってしまい、社会に出て、カリキュラムもマニュアルもない状況で学ばなければならないとなると途方にくれてしまいます。これは人生として面白くないだけでなく、高度知識社会での生き残りにおいて苦労するということでもあります。日本の学校は、もっともっと学ぶことの喜び--そしてそれに必然的に伴う努力--を強調すべきではないでしょうか。

以下は、本からの抜粋です。これらの言葉に少しでも感じるものがあれば、ぜひ実際に本を読んでください。そしてサイエンスでもありながら、(少なくとも現時点では)サイエンスにとどまり得ないかもしれない言語の研究について、もっと興味をもちませんか?




30年前に比べて私の頭の中には知識が増えたけれども、わからないことも昔よりずっと増えました。以前は存在自体に気がついていなかった謎や疑問がいくつもある。解決した問題よりも新たに気がついた問題の方が多い。だから、やればやるだけ疑問は増えていくわけです。でも新たな問題、疑問に気がつくというのはとても愉快なことで、自分が一つ賢くなった気がします。ノーベル賞をもらうような人たちは、私たちよりも格段に知識の量が多いだろうけど、わからないことも私たちよりずっと多いんだろうなと思います。syこし逆説的かもしれませんが、人間の賢さというのはわからないことの量で決まるのではないでしょうか。
窪薗晴夫(『ことばの宇宙への旅立ち―10代からの言語学』 79-80ページ)



実は私自身、若い頃にとても悩んだことがありました。こんな言語学の勉強をして何になるんだろうと。自分で面白いのはいいけれども、それが社会に対して何になるんだろうと。そのとき偶然、横山大観だったか有名な日本人画家の回想インタビューを聞いたのです。「先生の芸術活動は社会でどういうふうに役に立つんでしょうか」というレポーターの質問に対してその画家は、「そんなことは考えたことがない。私は絵を描きたいから絵を描く。ただそれだけだ。世の中に役立つ、役に立たない、そんなことは才能のない人が考えることだ」と答えたのです。それを聞いたときには目からうろこという感じでした。自分がそれほど偉いとは思いませんが、才能というのはそんなものだろうと。
窪薗晴夫(『ことばの宇宙への旅立ち―10代からの言語学』 101ページ)



物理学教室にいながら徹底的に生物学の研究ができたなんて、今でも珍しいことでしょうね。堀田先生からの影響を強く受けたため、「この研究のどこが物理なのだろうか?」といった悩みは最初から全くありませんでした。サイエンスは一つのものです。どこまでが物理だとか、ここからが生物だ、などという境目は一切ありません。「科学的によく考えて実験する」、これだけがすべてです。突き詰めれば、言語学もサイエンスの一部なのです。
酒井邦嘉 (『ことばの宇宙への旅立ち〈2〉10代からの言語学』 67ページ)



言語学の人は文学の領域に踏み込むことはふつうしないようですが、残念なことです。文学も言語芸術といわれる通り、日常の言葉の使い方が昇華された形で成り立つものです。日常の言葉ではすぐ見てとれないことが文学の言語ではよく読み取れるということもあるのです。
池上嘉彦 (『ことばの宇宙への旅立ち〈2〉10代からの言語学』 146ページ)



視野を広げるべき高校生、大学生、大学院生はぜひぜひお読みください。もちろんみずみずしい心を失っていない社会人にもお勧めです。





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森茂『クイズで学ぼう!医学英単語』メジカルビュー社

大学で英語を教える方々と話をしていて私が個人的に面白いと思うのは、ESP (English for Specific Purpose)あるいはEAP (English for Academic Purpose)として英語を教えている方であることが多いです。彼/彼女らのプロフェッショナリズムが、教条的な考えや固陋な習慣から彼/彼女らを自由にし、その自由な精神と行動が話を聞く私にも自然な喜びを与えているのだと思います。同時に彼/彼女らがいわゆる「専門分野」に新たに分け入って勉強を重ねている姿が、自然な敬意の念を私にも引き起こしているのでしょう。

考えてみれば、研究者に「専門」はあっても、その「専門」は高い壁に囲われてはいません。研究者が中心とする研究対象、主に使う研究方法はあっても、それらは固定的なものでも排他的なものでもありません。生命を研究する生物学者は、当然のように化学に分け入ります。化学は電子の性質などに代表されるように物理学と連続したものです。また生物学者は例えば進化の研究で、進化の証拠を求めるために、プレートテクトニクス理論を勉強したりします。センター試験には「物理」「化学」「生物」「地学」という区分が設けられていますが、この複合的な世界を研究するサイエンティストにとってそのような区分はほとんど意味をもちません。自分が知らなかったら勉強するだけです。

ひるがえって人文・社会系は、ひょっとしたらサイエンスに比べて縄張り意識が強いのかもしれません。英語教育界でも、ちょっと議論の枠を広げたり、方法を変えたりしたら「それは教育学であって、英語教育学ではないのではないですか」などという(私からすれば馬鹿げた)「批判」がされたりします。ひどい場合には「それは英語教育方法学ですか、それとも英語教育内容学ですか」などという、その人とその人の取り巻き以外には何のことかよくわからないような「批判」がなされます。反面、いったん個人心理学的量的研究法が標準的とされると、今度はそればかりにこだわってしまって、それ以外の方法を認めなかったり、その方法と研究内容に齟齬があっても、そのことは語らないことが暗黙の了解になってしまったりもします。研究ばかりでなく、教育においても、教育の方法と内容がただ惰性的に続いているようにも思えます(注)。ひょっとしたら人文・社会系の研究者は、サイエンティストに比べると自由で創造的な勉強が足りないのかもしれません。

その点、ESP(あるいはEAP)で地道な実践を重ねる大学英語教師というのは、大学英語教師の中で、最も自由で、創造的であり、開拓的で、責任ある仕事をしている人たちなのかもしれません。姿勢において最もサイエンティストに近く、かつ最も学生の成長欲求に忠実であろうとする良心的な教師なのかもしれません。

話はずいぶん大きくなってしまいましたが、この本は大分医科大学(現・大分大学医学部)に着任以来、ABC, CNN, PBS, BBCなどの一般媒体での医学ニュースを教材にするだけでなく、NIH, CDC, FDAなどのメール配信やJAMA, Johns Hopkins PodMed, Lancet, NIH, NEJM, NPRなどのポッドキャストで勉強を重ね、今では日本語メディアよりも早く医学の話題を授業で取り上げ、何よりも自らそのような勉強を楽しんでいる良心的な大学英語教師によって書かれたものです。

自戒をこめていうならば、大学英語教師はもっともっと「専門」の英語ニーズに敏感であるだけでなく、実際に「専門」で使われている英語、そしてその「専門」そのものの理解に力を注ぐべきかと思います。もちろんそれは容易なことではありませんが、それが高度知識社会の実態だと思います。

大学でESP(あるいはEGP)を積極的に推進されている方々にエールを送ります。


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(注)あるいは逆に大学経営陣によって、大学英語教育が「英会話」「海外研修」「資格試験」などに流れてしまうことも多々見られることですが、私は教育が世間の声に迎合しすぎるのも危険なことだと思っています。大学は大学の本質の不易の部分と流行の部分をきちんと考える必要があることは言うまでもありません(私のような愚者が言うことではありませんね 笑)。




2009年3月24日火曜日

教育研究のあり方について

3/24に広島大学附属三原中学校での校内研修会で「教育研究のあり方について」というタイトルでお話しをさせていただく機会を得ました。現職教員による研究、現職教員のための研究はどうあるべきかについて私なりにまとめさせていただきました。

その際のパワーポイントスライドを公開しますので、ご興味のある方はここをクリックしてパワーポイントファイルをダウンロードしてください。






論文を書くということ

学部卒論ゼミ生、あるいは論文を書くことになった現職教員の方に私が最初に読むことを薦めるのは、酒井聡樹 (2007) 『これからレポート・卒論を書く若者のために』 共立出版です。高校生でもわかるように易しく書き起こされ、しかも本質的な議論と適切な例を提示しているので、良書として私は多くの人に買って何度も読み返すことを薦めています(注)。

以下に公開するレポートは私のある学部ゼミ生が上掲書を読んでまとめたものです。短くうまくまとめていますので、皆さんのお役に立つかと思い、ここに掲載します。ご興味があれば、ここをダウンロードしてPDFファイルを入手してください。



(注)ただし一カ所だけ私が同意できないのは、この本が「論文が書けない場合は一気にとにかく書いてしまいなさい」というアドバイスを与えている箇所です。ロジックがストレートに立てられる自然科学の論文でしたらそうでしょうが、概念が複雑で錯綜し一筋縄ではいかない人文系の論考を行う場合は、一気に書き上げてしまうと、わけのわからないものができあがってしまい、結局時間を無駄にしてしまう場合が多々あることを私は直接・間接の経験から学んでいます。

こういった意味で人文系の論文を書く場合は、自然科学系とは少し異なる用意周到さが必要かと思いますが、そういった論文作法を学ぶには戸田山和久(2002)『論文の教室―レポートから卒論まで』 (NHKブックス)が格好の入門書となると私は思っています。









2009年3月22日日曜日

これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ。これ知れるなり。

以下は3月23日の卒業式に、講座の卒業生・修了生に語る予定の原稿です。私の講座ではこういった機会に二分以上話をしますと叱られますので、以下の全文を言えないかもしれません。また、一部を省略した版ででさえ早口で語らなければならないかもしれませんので、ここに私が本来は言いたかった全文--これでもずいぶん端折った言い方をしています--を書いておきます。

*****

孔子の『論語』の一節に「これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ。これ知れるなり」というものがあります。私は高校生の時に、まあなんと当たり前の面白くないことを孔子は言っているものだと短絡しましたが、卒業論文・修士論文・博士論文を書き終えて卒業・修了する皆さんには、この言葉の深い意味がわかるのではないでしょうか。

自らの主張が妥当性のある「知識」であるということを示す論文を執筆する中で、私たちはしばしば自らの論証の弱さ、不安定さ、不完全さ、矮小さなどの限界に気づきます。論文発表では論証の限界よりは妥当性の方を強調しますが、人間としては自らの知の限界を明確に自覚することが、自らの知を誇ることよりもはるかに大切かもしれません。

人類がここ数百年で成し遂げた自然科学の知識の量はまさに驚嘆すべきものですが、それでもその知識の限界は明らかです。人間は、他の動物と同様、自らの認知能力をはるかに超えた複雑性をもつ世界を生きてゆかなければなりません。しかし人間は他の動物と違って、言語をもち知識を集積しますので、しばしば自らの知を過信し、自らの知識の限界を知らないまま知識を適用し応用し、しばしばこの世界のバランスを崩し、自らの人生の調和も乱してしまいます。

人間は知れば知るほど傲慢になるのではなく、知れば知るほど自らの知の限界を知り謙虚になるべきかと思います。

知ることにより謙虚になる。謙虚になることにより、こうして世界が成立していることに対する畏敬の念をもつ。畏敬の念により、この世界にいる人々、自然、そして自ら、つまりはすべての存在を愛する。これが学ぶことではないでしょうか。

これからも皆さんは多くのことを学ぶでしょう。願わくはその学びが皆さんに傲岸さでなく、存在への愛を与えますように。

皆さんの幸福な人生を心よりお祈りします。





道面和枝著『中2で楽しく会話が続く!「2分間チャット」指導の基礎・基本』明治図書

実力ある英語教師であり、良き母(そして祖母!)であり、音楽を愛してやまない広島県が誇る中学英語教師--道面和枝先生が著書を発刊されましたので、ここにお知らせいたします。

私は道面先生と達人セミナーなどでお会いし、その授業理念・技術に圧倒されてきました。また広島県の「エキスパート教員」研修制度では一年間にわたって月に一度、道面先生と一対一でお会いし、道面先生が実践論文をまとめるお手伝いもすることができました。現場で地道に実践を重ねて来られた方の知性の深さを改めて感じることができる機会でもありました。

その道面先生の実践をわかりやすい形にしたのがこの本です。私は上記のご縁からこの本の序文を書く光栄に恵まれましたので、ここにその序文を掲載し、中学校・高校で生徒の英語の基礎力をつけるために日々努力を重ねられている皆さんにこの本を心からお薦めする次第です。





序文-わかりやすく、共感できて、深い--

 この本を手にとってくださった皆さん、よい本を見つけられましたね!この本は私が最も敬愛する英語教師の一人によって書かれた、わかりやすくて共感できて、おまけにとても深い実践の書です。

 「わかりやすい」のは、著者の道面先生が自らの実践を、きちんと概念的にも整理した上で記述しているからです。そして実践全体をも構造的に理解して私たちに提示してくれるからです。実は時々、実践は素晴らしくて、お話しもとても面白いのだけれど、あとで振り返ったら「すごかった。よかった」という気持ちだけしか残らない教師の発表もあります。教師とは第一に実践者ですから、実践を語ることに習熟していなくてもそれは責めるべきことではありません。ですが、道面先生は実践を語ることに関しても研修を深められ、この本のわかりやすい記述に結実しました。計画性という全体構造の中での具体的で細かなステップが展開されています。ぜひ皆さんもお読みください。

 「共感できる」というのは、道面先生がよく生徒を観察しているからです。道面先生は日頃から実に生徒をよく観察しています。生徒のパフォーマンスはビデオ録画して繰返し見ます。生徒と対話し、生徒に驚いています。そうして生徒の変容を的確に捉えています。この生徒との尽きない関係こそは皆さんの共感を呼ぶことと思います。

 「深い」のは、道面先生と彼女の生徒が、学校を超えて社会を見つめているからです。この本は単なる英語指導技術のノウハウ書を超えています。社会でことば(英語)を使うということはどういうことか、コミュニケーションとは本当のところ何だろう、という思索があります。さあ、道面ワールドへどうぞ!

2008年10月
柳瀬陽介





  
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三浦省五・深澤清治編著『新しい学びを拓く英語科授業の理論と実践』ミネルヴァ書房

私が敬愛する三浦省五先生と深澤清治先生のリーダーシップで、広島大学大学院修了生の一部がまとめた英語科教育法のテキストです。

テキストとして標準的な知識を包括的にまとめましたので、大学での教科書としてはもちろんのこと、教員採用試験や大学院入試の対策本としても有益かと思います。(ちなみに私も「コミュニケーション能力」について短く寄稿させていただきました)。

どうぞご活用ください。

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2009年3月18日水曜日

井上英晴先生による「愛を形に」

ふとしたことで知己を得た井上英晴先生という方の文章「愛を形に--ボランティアと愛」にとても共感しました。一人でも多くの方に読んでいただきたく、私のブログ掲載の許可を井上先生にお願いしましたところ、引用箇所などの調整・交渉をした上で、掲載ができるようになりました。

以下は「愛を形に----ボランティアと愛」からの抜粋ですが、ぜひ皆様、ファイルをダウンロードして全文をお読みください。

英語教育においても、今一度「教育」あるいは「生きること」について深く考えておかないと、思わぬ暴走を私たちはしてしまうのではないかと危惧します。


以下、抜粋

遊んでいる子供たちの中に、一人の泣き虫がいた。幼い男の子なのだが、転んで泣きだした。幼い女の子が駆け寄った。どうするのかな、と見ていると、自分もそばに行って転んだ。そしてニッコリ笑う。すると、泣き虫も笑った。いっぱい目に涙をためて。そのかわいらしいこと。そこで言った。「さあ起きようか」と。すると、泣き虫は「うん!」とうなずいて起き上がった。なんとすばらしいやり方であろう。同じ世界へ入りながら・・・

あるボランティアが病気がちの独り暮らし老人の家庭を訪間して爪を切っていたら、深爪のために出血した。思わず自分の口の中にその老人の指をくわえた。その時、老人の眼から涙がこぼれ、「自分の娘でもない人が・・・」と・・・


ゼゼ少年は父親に打ちのめされ気絶したあと、介抱してくれている母親に「母ちゃん、おれ生まれてくるんじゃなかったんだね。あの風船みたいに生まれる前につぶれればよかったんだ」と訴える。そのゼゼの頭をなでながら母親がいう。
「いまいる人はみんな生まれなくちゃならなかった人ばかりだよ。おまえも」・・・

以上、井上英晴「愛を形に----ボランティアと愛」より



続き(全文)を読みたい方はここをクリックしてPDFファイルをダウンロードしてください





小学校英語教育導入に伴い、中学校英語教育は何を目指すのか

3/18に広島市の英語教師の方々を対象に、「『ひろしま型カリキュラム』における中学校外国語科の目指すもの」というお話をさせていただきます。

小学校英語教育導入により、中学校英語教育をどうとらえ直し、また再構築してゆくべきかということを私なりに整理して話します。

以下は、その際のパワーポイントスライドです。「ひろしま型カリキュラム」という特殊性はありますが、ひょっとしたら他の地域の方々にも参考になるかもしれません。ご興味があればダウンロードしてください。

ここをクリックしてダウンロード




2009年3月4日水曜日

慶應義塾大学言語文化研究所言語コロキアム講演のパワーポイント資料

慶應義塾大学言語文化研究所言語コロキアム講演のパワーポイント資料

2009年3月6日(金)の10:00-18:00に開催される慶應義塾大学言語文化研究所の言語学コロキアムでの講演の資料を以下にダウンロードできる形で公開します。ご興味のある方は下の該当箇所をクリックしてダウンロードしてください。

題目: 言語コミュニケーション力論の展開

第1講: これまでの言語学・応用言語学での議論とその問題


第2講: 言語コミュニケーション力の三次元的理解


第3講: 言語コミュニケーション力論の社会的展開





2009年3月3日火曜日

図解 アレント哲学のあらまし

現在、2009年3月6日(金)の10:00-18:00に開催される慶應義塾大学言語文化研究所の言語学コロキアムでの講演の最終準備をしている最中ですが、その過程で、アレント哲学のあらましを図解したエクセルファイルを準備しました。

なぜかエクセル⇒PDF⇒JPEG変換がうまくゆかず(エクセルの罫線の一部がPDF化で失われてしまう)ので、パワーポイントスライドに掲載できないので、このブログで公開し、講演当日にもこのダウンロード資料を使おうと思います。

なお講演当日のパワーポイントスライドは3/5までにこのブログでも公開する予定です(ただし公開するバージョンにはお笑いスライドは含めていません(笑))。講演では多くの方々とコミュニケーションを取りたいと思っています。

それではアレント哲学に興味ある方はここをクリックしてダウンロードしてください。