2009年5月2日土曜日

梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る』中央公論新社

小学生の頃に指しただけで、今ではかろうじてルールを覚えているにすぎない将棋についての本を読もうと思ったのは、ひとえに梅田望夫氏がこの本を書いたからです。

私は常に何人かの方々に私淑しており、その方々が薦める事柄は、たとえその時点の私が納得できないことであれ、ほぼ無条件に試みてみることにしています。

ある見方からすればこれは極めて権威主義的で自主性を放棄したやり方なのかもしれませんが、私からすれば(へそ曲がりな考え方ですが)常に自分を最終判断基準とすることこそが、自分を権威としてしまう危険な権威主義のようにも思えます。

私は自らの自主性を、自ら私淑する対象を決め、少なくともしばらくはその方々の言葉に黙って従うことを自らの仮説として、その仮説の有効性を長期にわたって検証することによって発揮しようとしています。

もちろん私淑をやめる場合もあります。また、どのような判断も私は最終的には私個人の責任で下します。ですがそれは私が最終判断基準であるというのではなく、私は私の責任で仮説を提示するということにすぎません。

前置きが長くなりすぎました。同書で羽生善治氏は、時間をかければいい手が指せるというわけではないと述べて、次のように語ります。




どうして時間が関係ないかというと、将棋が持っている特徴の一つで、何か・・・どこかやっぱり、他力本願的なところがあるんですよ。つまり、自力でなんとかしようとしちゃ、ダメなんです。他力[ママ:自力の誤りか?]で指して、まあ一応、ベストは尽くしたけど「あとはよろしくお願いします」と手番を渡す。一人で完成させるのではなく、制約のある中でベストを尽くして他者に委ねる。そういうものだと思いますね。(250-251ページ)


「あとがき」で梅田氏も次のように述べます。


羽生は、きっと若き日に七冠を制覇する過程で、一人で勝ち続けるだけではその先にあるのは「砂漠の世界」に過ぎず、二人で作る芸術、二人で真理を追究する将棋において、「もっとすごいもの」は一人では絶対に作れないと悟ったのだ。そして「もっとすごいもの」を作るには、現代将棋を究める同志(むろんライバルでもある)が何よりも重要だと確信した。「周りに誰もいなければ(進むべき)方向性を定めるのがとても難し」いからである。そして、同志を増やすという目標を達成するための「知のオープン化」思想が、そのとき羽生の中で芽生えたのだと考えられる。(285-286ページ)



孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」というものがあります。深い言葉だと思いますが、これをさらに発展させれば次のようになるのかもしれません。

「これを一人楽しむ者はこれを共に楽しむ者に如かず。これを共に楽しむ者はこれを共に楽しむ社会に如かず」


⇒アマゾンへ




0 件のコメント: