2009年7月28日火曜日

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年、医学書院)があまりに面白かったので、この本、浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年医学書院)も買ってみました。上述書より前に出版された本で、べてるの家の関連図書としては代表的なものだそうです。


この本も深く、読みながら私はどんどんと自分の人間としてのあり方を問われました(しかしそれでも重くならないところが、べてるの家のすごいところだと思います)。


あり方を問われるのは、この本がさまざまな逆説を呈してくるからです。世間一般の固定観念とはおよそ逆の言葉が出てきますが、それがレトリック上の誇張ではなく、現実の、しかも長年の経験に基づいているだけに、読む人間を揺さぶります。

例えば、以下は「弱さ」に関する一節です。


弱さとは、強さが弱体化したものではない。弱さとは、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある ― このように、べてるの家には独特の「弱さの文化」がある。
「強いこと」「正しいこと」に支配された価値のなかで「人間とは弱いものなのだ」という事実に向き合い、そのなかで「弱さ」のもつ可能性と底力を用いた生き方を選択する。そんな暮らしの文化を育て上げてきたのだと思う。(向谷地生良「弱さを絆に」196ページ)


この他にも逆説は、ビジネスについて、能率について、過疎について、差別・偏見・誤解について、逆境について、病気について、精神障害についてなどなど、きわめて具体的に語られます。どうぞこれらについては同書を実際に読んで味わってみて下さい。



ここではこの本を、私の現在の研究テーマの一つである「語り」 (narrative) の観点からまとめてみることにします。そのまとめは、これまで私なりに考えてきた「ことば」、「ことばの関係性」、「ことばのpower (活力・力・権力)」、「コミュニケーション」といった概念を使いつつ、かつ、べてるの家が実践している「当事者研究」についてもまとめてみたいと思います。

まとめの概略を予め申し上げますと、べてるの家で行なわれている重要なことは、当事者(その多くは精神障害で苦しむ人間)が、(1) ことばを獲得することであるが、それは言語学的な意味での言語獲得とは異なり、(2) 他人との関係性を獲得することであり、それにより当事者は (3) 力を獲得するが、(4) そのプロセスはリハビリテーションというよりはコミュニケーションであり、(5) 当事者研究という方法はそのコミュニケーションを促進する優れた方法である、ということになるかと思います。


(1) ことばの獲得

べてるの家での言語使用の特徴は、「病名」を医者でなく、当事者自身が命名するということです。往々にしてその病名は、医者の学術的な病名を一部に含みつつも、当事者本人の生活実感やユーモアを込めたものになっています。これは実は当事者のアイデンティティを決定するのは誰かという問題です。


ワークショップでの「病名」はまさしく、その人たちの置かれた状況そのものだった。病気になって、病名がつく。このことは医師の専権事項ともいえる領域であり、従来から当事者の入り込む素地はまったくなかった。しかし浦河は、病名は、自分のいままでの生きた歴史と、これからの生き方に連なる大切なシンボルとしての意味をもっている。
「病名」は、医師が診断した医学的な事実やたんなる忌まわしい記憶としてでなく、一人の人間として賢明に生きてきた証としてある。精神病という病気の体験が誇りをもって紹介され伝えられるべきものとしての「病名」である。(向谷地生良「自分で付けよう自分の病名」108ページ)


こうして当事者は、医者に学術的病名でアイデンティティを外から規定される受動的な存在から、アイデンティティを自己選択する能動的な存在へと皮ってゆきます。

しかし、その前に当事者は、もっと身近なことばを獲得しておく(あるいは取り戻しておく)必要があります。精神障害に苦しむ当事者は、しばしば「寂しい」や「うらやましい」といったことばさえ自ら抑圧しているからです。

過酷な家庭環境などから、被害妄想に苦しむようになった下野勉さんは、次のように述懐します。


浦河に来た当初は、自分のなかの「寂しい」という気持ちにもまったく気がつきませんでした。 (中略) 「うらやましい」という感情は、自分のなかでは「禁句」だったのです。 (中略) しかし、浦河で人のあたたかさに触れたとき、ごく自然にまわりの人を「すごくうらやましく」思うようになりました。すると、自分も「人と話したい・・・」と思うようになってきました。
最近、川村先生からも「下野くん、日本語うまくなったね」と言われます。(下野勉「ことばを得るということ」127ページ)


前に述べたように、ここでのことばの獲得とは、音声学的獲得や統語論的獲得でもありません。意味論的な獲得でもないといえるでしょう。彼も「寂しい」「うらやましい」という語彙自体の辞書的な意味は知っていたはずだからです。ここでのことばの獲得は、言語使用の観点からの獲得です(そしてこれは現在の標準的な言語獲得観ではありません)。

ですがそのような具体的で人格的なコミットメントを必要とする言語使用こそが、べてるの家の暮らしの核にあります。べてるの家(所在地名から以下しばしば「浦河」と呼ばれる)に関わる精神科医の川村敏明さんも次のように証言します。


いま浦河でやっているのは、病気であるかどうか以前に、本人の苦しい経験や思いを初めて人に伝えた、自分の言葉として発したということです。(川村敏明「病気ってなんですか?」231ページ)

下野くんに限らず、そういう人たちが何人も出てきて、ぼくたちも言葉の大事さということを思いますよね。だから、患者さんに対する見方も変わってきた。この人はまだ言葉を覚えていないなとか、病気を治すよりもまず言葉を覚えさせたいとか、それができるようになると全然変わっちゃうなとか。(川村敏明「病気ってなんですか?」247ページ)


別箇所で川村さんが言い切るように「言葉を獲得していくプロセスが大事なんだ」(川村敏明「病気ってなんですか?」247ページ)というわけです。

べてるの家について学ぶにつれわかるのは、いわゆる精神障害が、「普通」とされている現代生活の延長上にあり、私たちは―精神障害があろうとなかろうと―同じ地平に立っていることだということです。

川村さんも、ことばの獲得、コミュニケーションの成立が、「普通」の人にとっても大きな問題であることを指摘します。


だから精神病の治療の世界というのは、基本的には、日本語学校というか、コミュニケーション教室にみんなが参加しているようなものです。それは、病気している人でも、病気でない人でも同じですよ。
ぼくらも言葉を知らないんです。わかっているようでいて、大事な場面に大事な思いをきちんと出せるようなコミュニケーションを知らないっていうか。(川村敏明「病気ってなんですか?」248ページ)


べてるの家が提起している問題は、現代言語学の標準的な言語獲得観以外にも、じゅうような言語獲得観があるのではないかであると換言できるかと私は考えます。



(2) 関係の獲得

かくしてべてるの家の当事者は「ことばを獲得」するわけですが、それは同時に他人との関係性を獲得することでもあります。考えてみればこれは当たり前のことです。言語は、言語学的に考えれば自律した存在とみなすことも可能ですが、言語という記号は、その使用者と世界のありようを媒介するものであり、言語という記号は使用者をたえず何かと結びつけ、関係づけるからです。

べてるの家の当事者は、関係のなかでも、特に他人との関係に問題を抱えてきました。


そんな[べてるの家の]メンバーの過去の挫折や行きづまりを見ていると、彼らが「関係」に挫折してきたことがわかる。それは他者との関係であり、自分との関係だ。
だから関係に挫折し、自身をうしなってきた一人ひとりが、持てる力を発揮するためには、「関係」において回復し、関係のなかで自信をとりもどしていくしかない。その意味で「ミーティング」とは、問題を出し合い解決する場ではなく、傷つき、自信を失いやすい者たちがお互いを励まし合うプログラムとしてある。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」94ページ)


「三度の飯よりミーティング」という有名になったフレーズが示すように、向谷地さんは、「このべてるを支えてきたのはただ一つのことである。「ミーティング」をすることであり、「話し合う力」を育てることだ。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」92ページ)」と断言します。

このミーティングとは、仕事をやる中(あるいは暮らしを重ねてゆく中)で生じてくる事柄について語り合うことですが、このやり方についても、もちろんさまざまなノウハウがあります。そのなかでも大きなことは、語り合いを「問題解決」や「原因追求」あるいは「犯人捜し」にしないことかと思います。ミーティングは、(1)みんなで「今週の良かった点」を出し合い、次に(2)「今週の苦労人」で自分の苦労を語り、最後に(3)「さらに良くする点」で仕事を通じて感じたり気づいたことを出しあうことを主なプロセスとしています。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」96-97ページ)。なぜなら「『話し合う』ということは、大切な自己表現の場であると同時に、支え合いの場でもある。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」97ページ)」からです。

「ミーティング」といっても、近代社会が得意とする目的合理主義・目標合理主義に基づいての、原因の特定→原因の削除→問題解決という思考法はとらないものであるということは、強調しておく必要があるでしょう。目的合理主義・目標合理主義的な言語使用も、私たちは発展させてきていますが、べてるの家ではそれよりももっと原初的な関係性の構築と維持という言語使用を第一義においているわけです。




(3) 力 (power) の獲得

そうしてお互いが関係性において結びついた、しかし自由で開かれた空間で、ことばが人格的に語られると―ことばの表現に自分のあり方を委ね、そのことば=自らのあり方を他人に受け入れてもらおうとすると―、そこにはpowerが生まれるというのは、ハンナ・アレントが言うことでもあります。


アレントのpowerは日本語にある意味訳しにくいことばです。アレントが『人間の条件』で語っている文脈では、私は翻訳書のように「権力」でなく、「活力」と訳し、「自由で開かれた言論空間には活力が生じる」とでも表現した方が、日本語としては自然だと思っています。しかし、そのような活力こそが民主主義の権力の正当性・正統性の基盤であることからすれば、上記の文も敢えて「権力」と訳して、「権力」という日本語に、「制度的で強制的な力」以外の、「民主的で自発的な力」という意味を加える努力をした方がいいのかもしれません。ですが、ここではアレント的な意味でのpowerを「力」と表現して、べてるの家についてのまとめを続けたいと思います。

精神障害者として、行き場を失い、自暴自棄になっていた当事者が、ことばを獲得することで得るのは、関係性だけでなく力でもあります。その力によって当事者は「回復」を始めます―実はこの「回復」が意味するところも深いのですが、それは別の話とさせてください。

「回復は語ることからはじまる」というのが浦河[=べてるの家の所在地]の伝統でもある。(向谷地生良「所得倍増計画《プロジェクトB》」82ページ)と向谷地さんは語りますが、それは他人に向けて語り、その語りをどういった形であり他人に受けとめられ―たいていは病気や苦労を肯定的に受け入れられるが、常に語り手の言い分が無条件あるいは教条的に肯定されるわけではない―、そこからの「力」で語り手が、これまでどうしても変えることができなかった自分を変えるようです。

幻聴で苦しみ、現代社会に適応不良を起こす清水さんは次のように語っています。


ダメな自分を受け入れるきっかけは、なんといっても「人と話す」ことでした。自分以外の人の話を聴くことで自分ではどうしても切れなかった悩みの悪循環を断ち切ることができたように思います。(清水里香「諦めが肝心」117ページ)

仲間との出会いとともに、いままで積もり積もっていた思いを講演で話したり、自分の言葉にして話すようになって、誰にも言えなかった悩みのプロセスが少しずつ消化されるようになりました。(清水里香「諦めが肝心」118ページ)

※ちなみにこの「諦めが肝心」はすばらしい語り(narrative)です。ぜひお読みください。


同じように統合失調症の幻聴(自己命名では「悪魔」)に苦しんでいた本多さんも、「自分のことを人に話すことがこんなに気分のいいことだとは思いませんでした」((向谷地生良「所得倍増計画《プロジェクトB》」82ページ)と語っています。

前述の下野さんも、語ることの力はクスリの力よりも大きいと語ります。


ぼくは人に話せないぶん、クスリに対する依存度が他人よりも多くなったにすぎません。話のできる人は、クスリなんか必要ありません。話すだけで気持ちよくなれるはずです。((下野勉「ことばを得るということ」124ページ)


この「力」は、ことばを単なる形式的記号体系としてではなく、人格の表現として、他人との関係の中で、そして自分自身との関係の中で使用し続けて、そのことばを成熟させることにより生じているとも言えるでしょう。

精神科医の川村さんも次のようにまとめています。


どこかで聞いた言葉を、一回自分のからだを通して、フィルターを通して、洗練させた言葉というか、自分の生きた言葉につくりかえていく。そして自分の言葉にできたときに、やっと自分が、こう、力が湧いてくるような、そんなことをしているんじゃないかなと。本当に言葉が、みんなで使って交わる言葉が、本当に生きた言葉としてみんなが使えるようになってきているんじゃないかと思うんですね。(川村敏明「病気って何ですか?」245ページ)


べてるの家での「ことばの獲得」とは、まさに話し手と、聞き手(および話し手自身)との関係性の中での人格的言語使用―つまりはコミュニケーション―であり、そのコミュニケーションこそが言語使用の時空に力を与えるのだとまとめられるかと思います。



(4) コミュニケーションをリハビリテーションとの違いから考える

こうして私たちは、べてるの家での営みを通じてコミュニケーションについて考えを深めましたが、このコミュニケーション観は本書の185ページの表(「リハビリテーション」と「コミュニケーション」の違い)に簡潔にまとめられています。ここではそれを部分的に再掲します(「具体的な対応」と「地域に対する働きかけ」の項目は割愛しました)。まとめは的確ですが、この表だけではわかりにくいところもあるかもしれません。その場合は、ぜひ本書をご自身でお読みください。

リハビリテーション
コミュニケーション
理念
▲トータルリハビリテーション(医学的リハ・職業リハ・社会的リハの統合)
▲精神障害者の全人間的復権、回復
▼トータルコミュニケーション(心・身体・自己・他者・地域・社会・歴史との和解、共生的関係の創出)
▼「場」全体の拡幅
▼精神障害者、家族、地域等のつながりの回復
理念の
イメージ
▲右上がりに段階的に回復していく
▲障害になっている部分の改善をはかる
▲専門家による専門的介入
▲障害になっている部分や問題に着目する
▼右下がりに降り、深まっていく
▼もろさや弱さを人間の要素として受容する
▼非専門家による常識的関与を促す
▼健康な部分や良いところに気づく
▼否定的な現状のなかにも可能性を感じることができる
対象
▲精神障害者を治療・援助の対象とする
▼援助の対象は障害者と固定せず、常にその場で一番困っている人、励ましや支援を必要としている人
人間関係
のレベル
▲コミュニケーションにおける二重の基準(職員と当事者との人間関係を別な次元でとらえる)
▲公私の区別の明確化(専門職としての役割を職場に限定)
▲精神障害者を対象にSocial Skills Training; SSTを実施し、生活技能の向上に努める。
▲精神障害者の自立を促す関係づくり
▼コミュニケーションの一元化(職員と当事者との人間関係を一体的にとらえる)
▼公私一体の関係(専門職としての知識や経験を公私で活かす)
▼コミュニケーション技能の向上を全体の課題と考え、職員もProfessional Skills Training; PST [精神障害者が受けるSocial Skills Trainingの職員版]を実施する
▼相互に自律的な人間関係づくりを大切にする

べてるの家でのコミュニケーション観からすると、私たちの近代生活的コミュニケーション観は、むしろリハビリテーション観に近いのではないかとも思えてきます。学校にせよ何にせよ、私たちはもう少し支配・制御・権力について敏感に考えるべきなのかもしれません。



(5) 当事者研究という語り

このようなコミュニケーションを通じて、べてるの家のメンバーは自らの生き方を見出したのですが、このコミュニケーションあるいは語りにおいては当事者研究の方法が有効なようです。

ここでは向谷地さんの「なぜ<研究>という形をとるのか」(158-161ページ)の論考を私なりに、自分の言葉も加えつつまとめます。

従来「研究」とは、「客観的な研究方法」を学術的に身につけた専門家(研究者や医者)が行なうものであり、「当事者」とは、「被験者・被検者」(subject=支配下にあるもの、従属している者)、あるいはせいぜい「調査協力者」(participant)でしかありませんでした。

しかし前の記事でも書きましたが、もし人間科学が「意味」を扱うものなのだとしたら、その「意味」の解明には当事者が不可欠です。当事者研究はそこを一歩進めて、当事者を研究の主体として、当事者でしかわかりえないような解明を行なうと同時に、その当事者=研究者という主体の解放を目指します。私はこれまでExploratory Practiceについて、Action Researchなどと対比させながらいろいろ考えてきましたが、当事者研究とExploratory Practiceについて比較検討してもいろいろと意義深いことがわかるのではないかとも思っています。




当事者研究は(Exploratory Practice同様)、孤独な空間で、プライベート(私秘的)に「自分の内面を見つめ直す」とか「反省する」とかひいては「自分を責める」ことを意味しません。そういった閉ざされた営みは、当事者をさらに追い込み、症状の悪化にしばしばつながるからです。

ですから、この自己探究をあえて「研究」と名付けて、自分自身と距離を取ります。


彼[=河崎寛さん]は自分を見つめ反省しすぎることで、爆発してしまう。だからこそ、自分自身の爆発してしまう「つらさ」をいったん自分の外に出し、研究対象として見つめる(「外在化」する」というスタンスに意味があったのです。(向谷地生良「なぜ<研究>という形をとるのか」159ページ)


さらに、当事者研究は共同研究のスタイルをとることにより、より一層当事者が自分自身との距離感を保つこともできます(同160ページ)。

加えて、「研究」という形をすることによって、当事者は個人の問題を離れて、広く社会に存在する似たような問題に苦しむ人たちに語りかけることができます。これが当事者に一層の開放感・自由そして連帯感と力を与えているように思えます。


もうひとつに彼[=河崎寛さん]に<研究>を勧めるときに言ったのは、「研究という形をとることで、生きづらさをかかえて爆発している多くの仲間たちを代表して、そういう仲間たちと連体詞ながら、自分のテーマに迫っていけるのではないか」ということです。<研究>として爆発のメカニズムを理論立てて考えることで、内容が普遍化・社会化され、河崎寛さんがおこなった自分自身の研究でありながら、河崎寛さんを超えた研究となれるからです。(向谷地生良「なぜ<研究>という形をとるのか」159ページ)


当事者研究という研究スタイルを、「際物」として扱うのではなく、人間科学の有効な方法論の一つとして考えるべきなのかもしれません。「科学」という言葉が重すぎれば、人間研究でも結構です。いずれにせよ科学・研究という営みが、誰のためになされるのか、という問いを真剣に考えれば、当事者研究は看過できない研究方法だと私は考えます。



以上のまとめは、本書の一部についてであり、かつ私の偏見や歪みが入ったものです。ご興味をもった方はぜひご自分でゆっくり本書をお読みください。




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