2009年7月21日火曜日

保守派の皆様、含羞を取り戻して下さい

最近の「ネウヨ」(自称「右翼」あるいは「保守」)が、実は社会的には不幸で、周りからあまり相手にされていない「ナショナリスト」ではないかというのは、最近、内田樹氏が、「ナショナリストとパトリオット」で示唆している通りです。


「パトリオット」は、家庭にせよ職場にせよ、小集団にせよ地域社会にせよ、そこに帰属し、そこへの義務・職務を黙々と果たすことに喜びを見出し、そうして他人にかけがえのない人たちとして認められています。かくして「パトリオット」は、その帰属愛を、郷土、国家へと拡張します。また愛は自然と広く豊かなものになるものですから、「パトリオット」が「国際社会」や「人類」といったより大きな単位を愛することにはなんの矛盾もありません。

一方「ナショナリスト」は、家庭、職場、友人関係、地域社会などで不全感を感じ、そこで相手にされない孤独感から、現実逃避的に、幻想的な「ネイション」(国民、国家)に所属する者として(そしてそこへの幻想的な所属にしかリアリティを感じられない者として)自己同定します。そして自らの「ネイション」(国民、国家)の正しさ・清らかさ・美しさ叫び続けます(あるいは叫ぶことを選ばない「ナショナリスト」は、聖人君子のような口調で、しかし不気味なほどにネチネチと自らの正しさと清らかさを訴え続けます)。そうして自己と同一視した「ネイション」の正しさ・清らかさ・美しさを「証明」するために、他の「ネイション」をけなし続け、それに同調しない人々を誹謗し続けます。


そういった「ナショナリスト」については、上述の内田氏のブログ記事を読んでいただきたいのですが、私がここで取り上げたいのは、そういった浅薄なネウヨ的ナショナリストの大量発生の一因は、重厚たるべき保守の人々が近年劣化しているからではないかということです。



私は以前、よく一般論として、自分が理論的に共感するのはどちらかというと左翼的な思想であることが多いが、人間的に共感できるのは右翼の人間であることが多い、と思っていました。右翼あるいは保守派の人たちには、理屈優先の左翼人には見られない、奥の深さ、懐の深さ、寛容さ、清濁併せ呑むことができる器量を感じることができることが多かったように思います。

ところがネウヨは論外にせよ、最近の右翼、保守派の人々の多くに関して、私はそういった人間的敬意を感じることができません。最近は右翼、保守派の方が、固陋で狭量、短絡的で単純、教条的で党派的、官僚的で形式的、未熟で小児的であるように私には思えます。昔はそういった批判は、主に左翼の人に向けられるものだったのに・・・


そういった懸念は、もちろん保守層の中からも出てきています。

ウェブマガジン「魚の目」は様々な意味で注目するメディアですが、その企画の一つとして、『月刊日本』と『情況』、という左右両極を代表する雑誌の注目論文を紹介する「双眼」というコーナーがあります。

以下はそこで紹介された『月刊日本』2008年3月号の佐藤優氏と山崎行太朗氏の対談「憂うべき保守思想の劣化」からの一部です。



ぜひ全文を読んで欲しいのですが、ここでは私にとって印象的だった箇所を2つ、私なりの(蛇足)タイトルをつけて引用します。




ニセモノの敵を作ることでしか自己規定できない堕落した最近の保守


山崎 保守思想は、何らかの強力なテーゼに対して「否」を突きつける、否定神学的方法論であると佐藤さんが指摘しましたね。これは逆に言えば、好敵手としての強力なテーゼに対するアンチ・テーゼとしてしか保守思想は存立しえないという宿命を背負っているということです。保守思想は個別の事象について言及する必要に駆られて、やむなく言葉を探りながら紡いでいくものです。従って保守思想は、敵が見えなくなると、しばしば自分達の思想こそホンモノだという自己欺瞞に陥り、いつのまにか油断しているうちに、通俗的な流行思想に後退・堕落するという危険性を常に内包しているということです。その結果、常に安易なニセの敵を作り、その敵に向かって批判や罵倒を繰り返すということになる。ニセの敵と戦う思想はそれ自体ニセモノでしかありえない。最近の保守論壇の言説を見ていると、ほぼそういうニセモノの保守思想ばかりという感じですね。
http://uonome.jp/sougan/gekkannippon/488/5




本来保守が警戒し、批判すべき構築者的合理主義 (constructivist rationalism, Hayek)を身にまとってしまった最近の保守



佐藤 伝統というような、言葉で明示できないものをめぐって、ああでもない、こうでもない、と否定神学的に否定辞を重ねていく。だけれども結局、到達することはないから、保守思想は無限に思考を重ねていくことになるわけです。そうすると、現在の保守思想の問題点は明らかで、本来停止してはいけないはずなのに、思考が停止してしまっているのです。今の保守論壇での言説は、最初に結論を設定して、そこに至るためにどのような論理を構築すればよいか、という発想になってしまっています。まさに左翼的構築主義、設計主義です。プロットをかっちり固めて、そのためにどのような資料を集めてくるか、というような発想では駄目なんです。
http://uonome.jp/sougan/gekkannippon/488/6





ある二項対立に拘ってしまうのは愚かで危険なことですが、革新vs保守、左翼vs右翼という対立図式は、私は現実的に結構有効なものだと思っております。この対立を、社会全体でも、個人の意識の中でも保っておくことが健全なことだと考えているからです。

保守・右翼の曖昧な感覚と微妙な思考を、単純な「正義」の理屈で抑圧した革新・左翼がどれほどグロテスクなことをしうるかということに関しては、私たちは20世紀で多くのことを学びました。保守・右翼を自称する方々には、ぜひ本来の保守らしさ、右翼の良さをきちんと保っていただきたく思います。

私は社会や自分の中のバランスを保つため、保守・右翼を尊敬していたい。しかし、現代日本の保守・右翼には失望するばかりです。


保守・右翼本流の皆さん、「ネウヨ」のような人々に、保守・右翼の名を語らせておいていいのですか?

それともあなた方ご自身が、「ネウヨ」と同レベルになってしまったのですか?

それがあなた方の、保守・右翼の先達への敬意を示すことなのですか?




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