2009年8月16日日曜日

杉原厚吉 『理科系のための英文作法』(1994年、中公新書)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]




英語の先生というのは、存外に不親切である。「きちんとした英語の文章を書くにはどうしたらいいのでしょう」と学習者が尋ねると、「多くの文例に接して、英語らしい文章というものを肌で感じ取れるようになるがよい」という精神論に下駄を預けることが多い (4ページ)。

だが世間の人間は、英語教師ほどに暇ではない。英語教師なら、英語を学ぶことが商売みたいなものだから一日中英語を読んでいればいいのかもしれない。だが、理系にそんな暇はない。教師ならば、学びの王道を筋道立てて教えるべきだろう。

本書は、「英語の不自然さを、身体で感じる代わりに、形式的基準に基づいて論理的に判断する方法と、それを利用してできるだけ自然な流れをもった文章を作る技術」(165ページ)を明らかにした本である。

著者は東京大学で教鞭をとる数理工学者 (2009年4月から明治大学)。自らの仕事を「理論の中から役に立つ部分をすくい取ること、および、役に立つ理論を作ること」と称し、この本では「この工学的態度を、そっくりそのまま英作文の世界へ持ち込んだ」(168ページ)と言う。依拠する理論は、ハーバード大学の久野の談話文法と、コンピュータに自然言語解析をさせる計算機科学。英作文の初心者を対象に、美文や文学的表現は目指さず、「道の中央を歩く方法を『原則』として示し、なるべくそれからはずれない歩き方」(11ページ)を、誰にでもわかるように示す。


誰にもわかるような示し方は、本書の構成と展開に端的に表れている。

構成は、導入の第1章を経て、ディスコース・マーカー(「話の道標」)としての接続詞・副詞を扱う第2章、文の階層構造の明示化を教える第3章、Hornbyの『オックスフォード現代英英辞典』を使いながら「安全第一」で動詞の使い分けることを教える第4章、情報の新旧と語順の関係を原則化する第5章、言語表現における視点の一貫性を説く第6章からなる。読み終えると、これほど役に立ち、またこれほど簡単な原則が、なぜ通常の学校英語教育では教えられていないのかが悔しいぐらいだ。

展開は、英文作成の原則を仮説の形で提示し、議論を積み重ねてゆくものだ。ゆっくりと論を追ってゆけば必ず納得できるように議論が展開される。これはたしかに理系の作法だ。


読者層は英作文の初心者と先に述べたが、どうしてどうして、この本の内容は深い。

例えば、


日本の経済の予測

あるいは

物体座標系とカメラ座標系間の関係

といった表現の曖昧性、およびその解消法を私たちは的確に説明できるだろうか。

英語だったら

pattern recognition of characters
recognition of character patterns


の違いが上と類例だし、さらには

Hoffmann was visited by Mary.
Hoffmann was visited by his student.

は問題ないが、

*Mary's professor was visited by Mary.

が奇異に感じられることを、私たちはうまく説明できるだろうか。

本書はこういった具体例も極めて明快に解説している。

また、日本語の例文が上に出てきたことからもわかるように、読者は本書の読解を通じて、日本語においても理路整然としてわかりやすい文章を書くことができるようになる。78ページの説明を読めば、いかに現行の学習指導要領が、悪文であるかもわかるだろう。

総じて言うなら、英語、日本語を問わず、明晰な文章を書く必要に迫られている人間や、言語教育に携わる人間は、読んで益するところの多い良書と言えよう。著者の日本語も明晰で模範的なので、高校生や大学生向けの教科書としても使える。

この本を理系だけの専有物にするのはあまりにももったいない。




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2009年8月13日木曜日

東條弘子「外国語教育における教室研究の展望と課題」

***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


***広報***


8/8-9の全国英語教育学会で, 東京大学大学院教育学研究科博士課程(学校教育高度化専攻教育内容開発コース)に在籍しながら研究を進める東條弘子先生と知り合いになれました。大学院では秋田喜代美先生のゼミに属し, 佐藤学先生らの指導も受けているそうです。


お話を聞いて, その研究アプローチに非常に共感しましたので論文を送ってもらうようお願いしました。

そうして入手したのが,


東條弘子 (2009)
外国語教育における教室研究の展望と課題
― 日本の中学校英語科教室談話研究への視座からの検討 ―
東京大学大学院教育学研究科紀要第48巻 pp. 387-395


です。

海外の研究と国内の研究を的確にまとめた良い論文なので, 私としても多くの人に読んでもらいたく思い, PDFファイル公開をお願いしましたら, 快諾していただきましたので, ここに掲載します。




参考のため, 上記論文の一部を転載します。


■目的

本稿の目的は, 日本の中学校英語科における教室談話研究への視座から, 教室研究, 国内での授業研究,国内外の教室談話研究の系譜を概観することである。同時に,各領域における以下の2点:①研究における主眼点,理論的枠組みと方法論;②実践者による参加者主体型研究の志向性,を網羅しながら,今後の中等教育の(E)FL教室研究への提言を試みる。応用言語学と教育学という異なる分野における知見を比較検討し,学際的に結びつけ,研究の道筋を提示する。


■今後の展望と課題

本稿では,日本の中学校における英語科教室談話研究の視座より,教室研究並びに国内外の授業研究と教室談話研究が概観され検討された。各領域における研究の主眼も方法論も多彩であり,今日では実践者による授業の研究が求められている。以下に今後の教室研究の展望及び課題を二つ記す。

1点目は,研究主題や方法論が混在する今,主眼点と理論を整理することである。同時に実践者によって「参加者主体型」教室研究がなされる必要がある。「学習者共同体」の知見を援用し,研究者と教師が協働して「内側から」研究を手がける際の方法の一つが社会文化的アプローチである。談話を知的営為とみなし,多様な学習者の「声」を手がかりに,学習と談話の関係を探るのである。日本の教師たちが伝統的に培ってきた,子どもの名前が挙げられる授業研究の強みも発揮され,(E)FL教室研究が補強されるだろう。

2点目は, 日本の中等教育での教室研究が,より手がけられることである。SLA理論は無論のこと,教室研究での知見はほとんどが海外で生み出されており,結果として理論と実践の乖離のみならず, 日本の文脈においては困難が生ずる。従って,今後は授業研究や教室談話研究など他領域の知見を援用し,実践を起点とする学際的な教室研究の蓄積と理論の見直しが待たれる次第である。



英語教育研究が, 「英語教育学者」を自称する狭い範囲の人間だけでなされるのではなく, さまざまな分野からの有能な人材によってなされることを切に願っています。いわゆる「教育学」の分野の方々による英語教育研究が今後ますます発展しますように。


追伸
上記論文は今年3月に刊行されたものです。CiNiiの下記のURLからも, 近日中にダウンロードできるようになるそうです。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016524640




***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


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2009年8月12日水曜日

「日本のエリート」とは

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「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


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NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」は、見ていてやはりそうだったのかと落胆すると同時に、いくつかの場面では悔しさで涙が出そうになったドキュメンタリー番組でした。


やはりそうだったのか、と思ったのは、当時の日本のエリート中のエリートであったはずの海軍軍令部が、軍人としてひどく無能で、人間として怖ろしく無慈悲だったからです。やはり、陸軍だけが劣悪だったわけではなかったわけです。涙が出そうになったのは、そんな無能で無慈悲な人間の命令で、多くの人が無惨な死を遂げ、多くの人が苦しみを抱えたまま生き続けなければならなかったからです。


番組第1回「開戦 海軍あって国家なし」では、戦争を避けるべきだと考えながらも、組織の「空気」のために戦争回避ができなかった軍令部の姿が語られます。軍令部のエリート軍人は、海軍の体面やお互いの人間関係ばかり気にして、国家の利益を正面から考えることを怠りました。そして日本は太平洋戦争へと突入してしまいます(注1)。

その結果、300万人以上の日本人の命が奪われました。アジアでは更に多くの人命が失われました。

かつて鶴見俊輔は「いかなる悪人も、権力者以上の悪事を行なうことはできない」と述べたと私は記憶しています。個々人が凶行を起こすことができることは周知の通りですが、権力者、とくに国家権力者は、命令や法律により、個々人ではまったく不可能な大規模の事態を引き起こすことができます。戦争はその最たるものです。エリート軍人の蒙昧と浅慮は、国家権力で増幅され、取り返しのつかない悲劇を引き起こしました。


番組第2回の「特攻 やましき沈黙」こそは、本当に見ていて無念を感じました。軍令部は、「神風特別攻撃隊」の1年以上前から、組織的に計画、特攻兵器を作り続けてきたことが赤裸々に語られたからです。

日本海軍のエリートは、戦局が悪化するはるか以前から、同胞の兵士に対して自殺攻撃をさせる作戦を立てており、そしてそれを実際に実行したのです。しばしば「志願者」を半強制的に作り出しながら。


なぜ日本のエリートは仲間の兵士に対してこれほど冷酷(というより非人道的)になれたのか。


おそらく個人としては極悪非道の人間でもなく、家族や周りの人々にはよき人であったかもしれない軍令部のエリートは、なぜ、同じ日本人であり、海軍の仲間でもあった兵士に、これほどに酷い命令を出せたのか。

戦争時の非人道的行為に関しては、しばしばヒトラーやアイヒマンのユダヤ人虐殺が引き合いに出されます。私は彼らを弁護するつもりは一切ありません。しかし彼らの虐殺は、ユダヤ人という「他者」を創り出して、その他者を抹殺することで「我々」を肯定しようとするものでした。

日本軍上層部の特攻命令およびバシー海峡への出撃命令など(注2)が、ヒトラーやアイヒマンのユダヤ人虐殺と異なるのは、死に追いやった人間が「敵」ではなく、同胞の兵士だったということです。

日本のエリートにとって、前線で戦う兵士は、仲間ですらなく、切り捨てることによって自分たちの存在を確保する「他者」だったのでしょうか。日本のエリートは、日頃会議室などで出会う目に見える人間関係だけしか懸念できなかったのでしょうか。彼らは、会議室を越えた場所、そしてそこにいる人間をまともに想像できる知性を持ち合わせていなかったのでしょうか。

遠い場所にいる自軍の兵士すら「同胞」と考えなかったとしか思えないような日本軍エリートの知性とは何だったのか。身辺の「空気」ばかりを気にして、抽象的な思考をせず、目に見えず会うこともない人々の経験を想像することもできなかった彼らを育てた軍部の教育とは何だったのか。彼らをエリートとしてしまった日本とは何だったのか。

同胞にすらこれほど冷酷である人間が、他国の人々に対して残虐であることは理の当然と言えるかもしれません。

番組第3回の「戦犯裁判 第二の戦争」では、東京裁判で、海軍という組織を守るため、水面下で海軍トップの裁判対策を組織的に行っていた海軍の姿が描かれます。「上をかばい、下を切り捨てる」体質です。同時に番組は、海軍が戦時中に他国の人々に対して行なったことを描きます。見ていて息を詰めざるを得ないシーンが続きます。

私は英語を使う人間として、何度か太平洋地域の人々と、過去の日本について語る際に緊迫した瞬間を経験したことがあります。日本国民がこういった過去を知ることは、決して「自虐的」ではありません。むしろこうした事実から目をそらしたり、「悪いことをしたのは日本軍ばかりではない」と子供じみた弁明をし続けるネウヨのような人たちこそが「自虐的」とはいえませんでしょうか。過去の否認や責任回避は、日本国民の成熟を妨げます。それこそが自らを卑しめ、侮り、愚弄することではないのでしょうか。




しかし番組の中で、取材デスクの小貫武氏が繰り返し言っていたように、この問題は当時の軍令部の特定の人間だけを断罪すればいいという問題ではありません。

現代の私たちも、組織の「空気」を気にして、言うべきことを言わず、行なうべきことを行なっていない文化を引きずっているからです。


私自身にしても、軍令部の個々人を批判するよりも、

「なぜ日本は、そのようなエリートを育ててしまったのか」、

「側近の人間関係の維持と既得権益の確保と増大ばかり考え、目に見えないところにいる人間を平気で切り捨てる人々を、組織の上層部に上げてしまう文化を、私たちはなぜ今も持ち続けているのか」、

「なぜ日本の教育文化は、目の前の時空を越えた超越的な思考力と想像力を育てられないのか」

といった問いの方にはるかに切実感を感じます。

組織の会議室にいる人間の体面と権益を保つ事ばかりに長けた人間が、組織の上に上ってゆくことを私たちが今なお許しているとするのなら、私たちの組織に対する考え方というのは根本的に変えられなければなりません。そういった人間を「お上」として威張らせてしまうことの責任の一端は、私たち自身にもあります。そういった文化を断ち、組織に組織本来の仕事をさせるためにはどうしたらいいのか・・・。


私はブログという媒体を、取りあえずの思考を書き留めるために使っています。ですから考えはしばしばまとまらないままになってしまうのですが、今回は特にまとまりません。

ただ、この日本の組織文化―狭い人間関係の「身内」に優しく、目に見えない人間を「他者」として冷酷に切り捨てて、身内の利権を確保・増大する人間を重用する文化―だけは何とかしなくてはならないと思います。

権力者は、いかなる個人がなしうるよりも、大きな災厄をもたらしうるからです。





(注1)
もちろん海軍だけが太平洋戦争開始の責任を負っているわけではありません。陸軍はおろか、その当時のマスメディア、文化人、政治家、国民一人一人がそれぞれの責任を担っていたと考えるべきでしょう。


(注2)
現代日本を考えるための新書5冊+α(2005/12/23)」の記事をどうぞお読み下さい。


追記 (2009/08/13)

今朝の毎日新聞の記事「子どもは見ていた―戦争と動物(4)」は、特攻隊関係の証言を掲載していました。

それによると特攻機の整備をしていた兵士(証言者)が、特攻の見送りの際に涙を流したら上官に殴られ、「おまえの命は1銭5厘(召集令状のはがき代)。馬の方が高いんだ」と怒鳴られたそうです。

このエピソードは、軍令部のエリートだけでなく、前線の「上官」―どの階級なのかはこの記事からはわかりません―さえも、同胞兵士を人間扱いしていなかったことを示しています。

そういえば、こういったエピソードはよく聞くものでした。私は上の記事で、軍令部などのエリートだけが非人間的な態度をもっていたように書きましたが、それは正確でなく、思考力と想像力の極度の貧困は、日本の軍隊のかなりの範囲まで蔓延していたと言うべきでしょう。


そもそも組織というものは、(1)特定の仕事を遂行し、(2)自らの存命を確保するという2つの大きな機能をもっています。

(1)の特定の仕事は、特定の価値観に基づいていますが、その価値観が極度に固定化したり、曲学阿世の徒によって歪められたりしたら、組織は「仕事」の名の下に巨大な悪をなしえます。

(2)の自己存命も、組織の存命が組織構成員(特に上層部)の私的権益を増大させるようなシステムができてしまえば、組織は組織外の社会に奉仕するのではなく、組織内の構成員(特に上層部)の利益に奉仕するようになります。そうしますと上層部には、(1)の仕事と価値を組織の権益確保につなげるように言葉を巧みに、そしてしばしばヒステリックにがなりたてる人間が居座り、そういった人間の周りには「うん、うん」と権力者にうなづくことしかしない茶坊主が集まり、組織の公的性質を消滅させてしまいます。

このような組織の腐敗は、日本の軍隊で極度に進行していたのでしょうが、こういった腐敗は戦後日本にも見られることです。

そうしますと、(1)組織の仕事の硬直化・価値の歪曲化、(2)組織構成員の自己利益誘導をいかにして防ぐかということは、現代的な問題でもあると言えます。

今の私にはこれらに対して快刀乱麻の答えはありませんが、戦前の軍隊とまではいかぬとも、組織が―特に官僚的な組織が―暴走することは、現代の私たちにとって切実な問題ですから、問題意識だけは常に保っていたいと思います。





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「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


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2009年8月5日水曜日

「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」

「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ―EBMとNBMからの考察」という研究発表を、2009年8月8日(土曜日 13:05-13:30)に鳥取大学(第4室)で行ないます。


趣旨は以下の通りです。


研究背景: ナラティブに関する理解は英語教育界では乏しい。ナラティブとエビデンスに関する再考が必要である。 

研究方法: Evidenced Based Medicine (EBM) と Narrative Based Medicine (NBM) の考えから英語教育研究を再考する。 

研究結果: 英語教育研究の「エビデンス」は過大評価されており、「ナラティブ」は過小評価されている。



現時点での「序論」は以下の通りです。


1 序論
背景 従来質的研究に対しては、「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」といったコメントが投げかけられていた。このコメントは、量的研究 (特に無作為抽出標本から母数への統計的推測) の考えに基づく再現可能性や検証可能性の認識論だけに依拠した理論的偏見であり、質的研究のエピソード記述が提示する「可能的真実」が読者に与える理解・洞察について考察することを怠っている (鯨岡 2005, pp. 45-48) 。幸い、平山(1997: I-V)も報告するように、日本教育方法学会、日本教育工学会、教育心理学会などの教育研究諸分野では、1990年代中頃に方法論上の論争が激しく行なわれ、以来、質的研究は、量的研究とならんで、教育研究の一つの柱となった。しかし日本の英語教育学界では、ジャーナル投稿論文の傾向を見る限り、日本の他の教育研究界と比較しても、海外の第2言語教育研究界と比べても、質的研究は非常に少ない。質的研究に関する理解は日本の英語教育学界では遅れているといえる。

問題 フーコー (Foucault 1980)も言うように、ある種の言説(discourse)の圧倒は、他の種の言説の抑圧と封殺につながりかねない。これは言説だけの問題でなく、権力 (power) の問題となる1。言説は、「真理」を標榜することを通じて権力につながるからである。
フーコーは、権力に関する旧来の考え、すなわち「国家などの制度的実体が固定的に所有し使用する強制的支配力」を斥け、権力を「社会関係の中で循環し、さまざまな事柄を抑圧すると同時に、他のさまざまな事柄を生み出すもの」として考えた (Foucault 1980, p. 119) 。その権力関係を強化するのが、それぞれの社会がもつ「真理の体制」(regime of truth)である。「真理の体制」は、何が真で何が偽かを確定する手続きを定め、真理を語る者の地位を確かなものにする (ibid. p. 131) 。この権力関係生成システムである「真理の体制」は、絶対善でも絶対悪でもない。権力はそれ自体が「絶対」的な「善」でも「悪」でもなく、真理は―少なくとも価値が絡む人文・社会系の論考では―「絶対」ではなく、もちろん「善」でも「悪」でもない。
「真理の体制」に関して気をつけるべきは、ある者がある言説に対して「それは科学ですか?」と問いかけるときに―その者が意図しているにせよしていないにせよ―どのような知識を真理に値しない、つまりは権力が与えられるべきでない、不適格なものとしようとしているのか、ということである (ibid. p. 85) 。もとよりある種の言説が「真理」として主張されるとき、他の種類の言説が「非-真理」と含意されることは避けがたいことである。また啓蒙主義の洗礼を経た近代社会が今更、真理と権力の共生の軛から脱することは容易ではない (ibid. p. 93) 。だが私たちは、「真理の体制」がもつ抑圧性に対して少なくとも自覚的でなければならない。
したがって私たちが行なうべきことは、「真理の体制」の破壊ではなく―破壊は反啓蒙的退行に連なる怖れがある―、現行の「真理の体制」を分析的に自覚しながら、その部分的変革を検討することである。逆に言うなら、言説の生産メカニズム (「真理の体制」) である学界が、英語教育研究のあり方を、他分野研究との比較などから、客観的に把握しなければ、ある種の支配的言説による権力関係の固定化が悪化するおそれがある。現代日本の英語教育学界において、質的研究、特にその中心となる「ナラティブ」 (やまだ 2007) についての適切な評価と判断を怠ることは、現在支配的な量的研究の言説を語る者と、現在等閑視されているナラティブを語る者の権力バランス―支配と制御の関係―を歪なものとする可能性がある。これが現代日本の英語教育界の問題の1つである。

Research Question 上述の問題を受けて、本研究では、現代日本の英語教育研究におけるエビデンス (量的研究の指標) とナラティブ (質的研究の指標) の扱われ方の比較を行なう。具体的な問いは、他分野研究と比較した場合、英語教育研究は、エビデンスとナラティブの扱いに関してどのような特徴を示すか、である。

意義 この研究は、潜在的な英語教育界の言説の偏向を理論的かつ客観的に検討し、これまで英語教育研究が抑圧していた (かもしれない) 言説の権力関係の是正を行なうことが期待できる。

提示する表は、以下の通りです。

1 医療実践と英語教育実践の比較

医療実践

英語教育実践

(1) 対象

患者は、特異的な1名として扱われる。

学習者は、本来個別的存在であるが、通常は集団の中の1名としてしか扱われない。

(2) 分業制

医師は、手法や臓器別で専門化される。さらに看護師・薬剤師・理学療法士などとも分業される。

通常、学年や教科別に専門化されない。生活指導、クラブ指導などの各種校務分掌という教科専門以外にも多くの時間を注がなければならない。

(3) 協働体制

「カンファレンス」の制度化により同僚との協働体制が確保

英語科会議は必ずしも制度化されていない。

(4) 介入

薬剤投与が中心で、介入手段が標準化されている。

介入手段としての授業は、個人的技能・個性の役割が大きい。

(5) 相互作用

他の疾患や薬剤との相互作用に関しては知見が集積し、データベース化されている。

教員の個性、学習者個人の個性、クラスの個性などがあり、相互作用は複合的で予測が非常に困難。

(6) 診断

薬剤の効能は一般に強力であるので、慎重な診断が必要。

授業中のフィードバックにより診断の誤りを正すことが比較的容易。

(7) 効果と

リスク

生死にかかわるため、非常に重要で、短期的(数日~数ヶ月)で顕在的になる。

重要度は劣り、長期的(数ヶ月~数十年)で潜在的であることが多い。

(8) 基礎科学

生命科学を中心に急速に進展中。かなりの知見は標準化されている。

質・量ともに、自然科学・生命科学と比べるなら、後進的。


2 数的処理に関する医学と英語教育研究の比較

医学

英語教育研究

(1) 被介入者の分類

患者の分類は、病理診断で標準化され、厳密。

学習者の分類は、「初級者」「日本人学習者」など非常に曖昧。

(2) 評価項目

多数のoutcome (介入から得られる結果) endpoint (outcomeを評価するための項目) が標準化。

研究独自の指標か、いくつか資格試験の合計スコアが用いられるだけ。

(3) 統計

有意差検定だけでなく、信頼区間を明示することが義務化されている。感度と特異度2が区別される。

有意差検定だけで、信頼区間が示されず3、有意差も5%が機械的に適用されるだけ。

(4) 適用に関する指標

オッズ比・ハザード比、(絶対・相対)リスク減少率、NNT、費用効果分析などで、研究結果の適用が現実的かをチェックする手段4が複数存在する。

ほぼ皆無。

 

3 実験計画に関する医学と英語教育研究の比較

医学

英語教育研究

(1) 実験統制

介入手段(薬剤投与)が標準化されているので、実験要因(独立変数)の統制が比較的容易。

介入手段(授業)が、介入者と非介入者の個性的かつ複合的な相互作用に大きく依存するので実験要因(独立変数)の統制が事実上困難。

(2) 研究

対象は個人なので多数の調査協力者が得られ、ランダム化比較試験実施が比較的容易。二重マスク試験 (二重盲検) 実施も比較的容易で、剰余変数・交絡因子の制御が可能。

対象は集団であり、総人数が多数であっても、集団ごとのランダム割付けを行なうので、十分な数の割付けによる剰余変数・交絡因子の制御が非常に困難。介入が介入者の個人的実践である以上、介入者へのマスク化が不可能。


4 エビデンスに関する医学と英語教育研究の比較

医学

英語教育研究

(1) レベル

確立 (5を参照)

不明瞭

(2) 適用法

問題の定式化→情報の検索→得られた情報の批判的吟味→得られた結果の臨床場面での適用→実行された医療行為の評価、の5ステップがEBM教育で確立

不明瞭

(3) 利用促進

データベース化と系統的レビューが計画的に勧められている。

データベース化が遅れている。メタ分析5がようやく萌芽状態。

(4) ガイドライン

エビデンスに基づく診療ガイドラインが年々更新される。

ガイドラインは少数の専門家の意見によるもの。



5 オックスフォード大学EBMセンターのエビデンスレベル

レベル

エビデンスの種類

1a

ランダム化比較試験の系統的レビュー (均質性あり)

Systematic Review (with homogeneity) of Randomized Controlled Trials

1b

個々のランダム化比較試験 (信頼区間の狭いもの)

Individual RCT (with narrow Confidence Interval)

1c

治療群以外全例死亡か、治療群全例生存の結果を示す研究

All or none

2a

コホート研究の系統的レビュー (均質性あり)

SR (with homogeneity) of Cohort Studies

2b

個々のコホート研究 (追跡率80%未満などの質の低いランダム化試験を含む)

Individual Cohort Study (including low quality RCT; eg., <80%>

2c

アウトカム研究・生態学的研究

“Outcomes” Research; Ecological Studies

3a

症例対照研究の系統的レビュー (均質性あり)

SR (with homogeneity) of Case-control Studies

3b

個々の症例対照研究

Individual Case-control Study

4

症例集積 (および質の低いコホート研究と症例対照研究)

Case-Series (and poor quality Cohort and Case-Control Studies)

5

明確な批判的吟味のない専門家の意見、生理学、基礎実験や「第一原則」に基づく専門家の意見

Expert opinion without explicit critical appraisal, or based on physiology, bench research or “first principles”



6 英語教育研究のエビデンスについて考察するためのレベル分類

レベル

エビデンスの種類

1a

多くのランダム化比較試験を包括的・批判的に吟味して、ほぼ同じ結論となった結果

1b

標本が多いなどの理由で、母集団でも同じ結果が出ることが期待できる、ランダム化比較試験の結果

1c

ある介入をしないと全員悲惨な結果となるか、その介入があると全員悲惨な結果は回避できるという結果

2a

介入群(実験群)と対照群(統制群)を定めて、その結果を検討した多くの研究を包括的・批判的に吟味して、ほぼ同じ結論となった結果

2b

介入群(実験群)と対照群(統制群)を定めて、その結果を検討した結果

2c

アクション・リサーチ

3a

ある結果の有無で分けた2群を過去に溯って検討する多くの調査結果を、包括的・批判的に吟味して、ほぼ同じ結論となった結果

3b

ある結果の有無で分けた2群を過去に溯って検討する調査結果

4

ある共通の実践経験に関する報告集

5

「有識者」の推奨、あるいは言語学者や心理学者などの現場に関する知識・経験の乏しい「専門家」の推奨



7  NBMでのナラティブ

(1) 関与者

(a) 語り手: 研究の「対象」ではなく、個性ある個人として扱われる。

(b) 聞き手: 独自の解釈をしつつ、語り手と相互作用的にナラティブを構築する協働者として扱われる。

(2) 物語

(a) 時間縦断的に語られるが、複数の事象の相互作用を重視し、非線形的な発展を容認し、複合性 (complexity) に対応しやすい。

(b) 物語の複数性を認め、唯一絶対の真理を想定しない。

(c) 語り手自身のことばが尊重され、学術用語などが押し付けられないよう配慮される。

(d) 語られる物語は、語り手の人生というより大きな物語の中の物語であると認識されている。

(3) NBM実践のプロセス

(a) 患者のナラティブを聴取する (listening)

(b) 患者のナラティブについてのナラティブを医者と患者で共有する (emplotting)

(c) 医者がナラティブに対する、適切な仮説を考えつこうとする (abduction)

(d) 患者と医者が互いのナラティブをすり合わせ、お互いに「腑に落ちる」新たなナラティブを創発させる (negotiation and emergence)

(e) これまでの語り合いをふり返り、評価する (assessment)

(4) NBMEBMの関係

(a) EBM実践は患者の問題の定式化、エビデンスの患者への適用などでナラティブを必要としている。

(b) EBMNBMは相互補完関係にある。





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なお、当日の実際の発表では、上のスライドにはない冗談スライドを入れて、笑いの勝負に出ます(笑)。昨年の高田純次ネタ以上の大胆なネタを仕込みました。研究者生命をかけています(汗)。

お笑いのお好きな方はぜひ会場にお越しください(爆)。