2009年10月26日月曜日

城田真琴 (2009) 『今さら聞けないクラウドの常識・非常識』洋泉社新書

1990年代後半からのインターネットは本当に情報革命を加速させている続けていると思えます。

「クラウドコンピューティング」(cloud computing)は、「Web.2.0」などと同じように流行語に過ぎないという見方もありますが、本書などを読めば、確実に知識やビジネスについての考え方が根本的に変わりつつあることが実感できるのではないでしょうか。

「クラウドコンピューティング」は一説によれば、2006年のEric Schmidt (Google's CEO)の発言に由来するそうです。



The internet is much more than a technology?it's a completely different way of organizing our lives. But its success is built on technological superiority: protocols and open standards that are ingenious in their simplicity. ...

Today we live in the clouds. We're moving into the era of "cloud" computing, with information and applications hosted in the diffuse atmosphere of cyberspace rather than on specific processors and silicon racks. The network will truly be the computer.

http://googlesystem.blogspot.com/2006/11/network-will-truly-be-computer.html



その「クラウド」は、一部の強力な企業によって作られているとも言えます。Financial Timesの記事 "How many computers does the world need?" によれば、全世界で売られているサーバーの約20%はMicrosoft, Google, YahooそしてAmazonといったごく一握りの企業によって購入されているそうです。




現在私たちがネット上で当たり前のようにして使うようになったサービスの多くが、この「クラウドコンピューティング」の波によって引き起こされ、その波はますます大きくなってゆきそうです。

この本はクラウドコンピューティングにまつわるたくさんのエピソードを伝えますが、その中でも笑ってしまうぐらい驚いたのが、グーグルがベルギーにつくったデータセンターのエピソードです。

クラウドコンピューティングを支えるのは巨大なデータセンターですが、その消費電力の約3分の1は冷却のために使われます。そこで電力節約のためにグーグルなどは外気を利用した冷却システム(「フリー・クーリングシステム」)を使える寒冷地にデータセンターを設置します。ベルギーもその理由で選ばれたのですが、それでも年間7日程度は外気温度が上がりすぎてしまうことがある。さあ、どうするか。

グーグルの解決方法は、それらの日々はベルギーのデータセンターの電源をすべて切り、そこで稼働していたワークロードをすべて他のデータセンターに移行してしまうというものです。

この発想の大胆さ。でかさ。これこそは「グローバルに考え行動する」一例といえるかもしれません。

世界はこのようにグローバルな合理性をもつ革新で次々に展開しています。

このことはグローバルな規模での合理性を実行できる超巨大企業だけが世界を革新し、他の人間はそのプラットフォームの上で生き残るだけの時代が到来しつつあることを示しているのかもしれません。マルクスの資本主義に関する予言はやはり当たっているのでしょうか。

それとも一部のプラットフォーム的超巨大企業を除くならば、個人や小企業が中企業や大企業と張り合う力を得られる時代―マルクスの予言を超えた時代―が到来しようとしているのでしょうか。Salesform.comの「SaaS (Software as a Service)と今後の展望」の宣伝文句をそのまま(無批判に)引用すれば、クラウドコンピューティングは


(1) 所有から利用へ
(2) 短期間で構築
(3) 企業規模や業種にとらわれない利用
(4) 投資対効果

といった点で、従来のハードウェア・ソフトウェアへの投資戦略に対して圧倒的な優位性をもちます。


とりとめなくなりましたが「情報革命」は、おそらくこれから数十年にわたって私たちのあり方を変えるものだと思わざるを得ません。


関連記事: ニコラス・G・カー著、村上彩訳 『クラウド化する世界』 翔泳社




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2009年10月21日水曜日

小学校英語教育の撤退戦略

掲示板「広場」で大津由紀雄先生が教えて下さった


WEDGE REPORT
それでもやるべき? 小学校英語
現場から見えた問題点
2009年10月21日(Wed) 木村麻衣子

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/570?page=1



は確かに面白い記事でした。ジャーナリストの方によるこのような報告・記述は非常に重要です。


私の印象に特に残ったのは次の一節です。


今回、文科省に今後の動向に関する取材を申し込んだが、「決定事項以外は話せない」と拒否の返答だった。世間に迎合する「小学校英語導入」というカードを切ってしまった文科省は、国民の反撃を受けた「ゆとり教育」の二の舞にならないためにも、今後の動きに慎重にならざるを得ないのだろう。しかし、そんな手探りの中での試みによって、大げさに聞こえるかもしれないが、犠牲となる子どもたちは増えている。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/570?page=5



制度の内と外の間でのコミュニケーション」で書きましたように、制度の内にいる人は、ある種のことをどうしても正面切っては話せなくなります。それはその人の罪というより、その人の職務上の機能によるというべきでしょう。



しかし責任ある組織というのは、正面切ってあることは言えないものの、そのことについては秘かに準備しておくべきものです。あるいはきちんとした組織は未来について、現在進行中の計画に基づくシナリオだけでなく、想定範囲の複数のシナリオについては準備を進めておくべきです。

例えば昭和天皇のご容体が悪くなったとき、誰も天皇崩御の際の準備を正面切って語ることははばかられました。しかし私が最近読んだ『わが上司 後藤田正晴―決断するペシミスト』 (文春文庫)で著者の佐々淳行氏は、秘かに粛々と準備を進め、崩御の際の混乱を避けた様を描き出しています。

あるいは太平洋戦争。この場合は、どうも日本軍は他の複数のシナリオに関する検討を怠り、戦争遂行というシナリオばかりで考えたため、日本に大きな損害をもたらしたように思えます。軍部組織の内部の面子を保つために組織の外の同胞を犠牲にするというのは、まともな組織人なら決してやってはいけないことですが、それがどうも当時の日本のエリートがやったことでした。


さてひるがえって、日本の英語教育のエリートはどうなのか。小学校英語教育がやがて本格的に始まろうとしています。文部科学省も当面はそのラインを崩すわけにはいけないでしょう。冒頭でも言いましたように、組織はある種のことを少なくとも当面は語れません。

しかし組織は、未来に関して複数のシナリオで準備をしておく必要があります。

シナリオの一つは、現行の計画の続行です。その際は現状での問題分析とその解決策が必要になります。問題分析には、上の記事が示すような計画遂行者が聞きたくないような事実も含めて客観的に記述する報告が必要になります。

別のシナリオは、小学校英語教育の教科化です。その際は、現行計画以上に何が必要なのか、その必要を充たすためにどんな準備が必要なのか、その準備をまかなう予算と人員は確保できるのか、そもそも教科化―現行計画のさらなる発展―を必要とする目的・目標とは何かを十二分に、そして何よりも徹底的に具体的に検討する必要があります。

さらなるシナリオは小学校英語教育の撤退です。組織というものは、あるいは人というものは、一度決めたことに固執することが多くあるものですが、大規模計画の場合、組織内部の固執が組織外の多くの人々の悲劇を招くことは、先の大戦を端的な例とする通りです。

今まさに全面実施しようとしている計画の撤退案について検討が始まっているなどと外に知られれば、関係者の士気にかかわる大問題になるので、撤退案の検討は秘密裏に行なわれなければなりません。しかし組織人は、特に公的組織で人々に奉仕する人間は、組織の体面や利害ではなく、人々の幸福を冷徹に検討しなければなりません。組織人は、計画の続行そのものを金科玉条とするのではなく、その組織の目的を達成するということはどういうことか、あるいはその目的を損なわないようにするにはどうしたらよいかということを、冷徹に考え準備をしておく必要があります。


文部科学省としては現状では小学校の英語教育を現行計画に基づいて実行してゆくことしか語れないでしょう。しかし組織内では秘かにこの現行計画の継続案、拡大案と共に撤退案を検討しておく必要があります。組織内にはこの撤退案もきちんと考えるだけの、現実主義、合理主義、公務意識、責任感、そして余裕があることを祈ります。

というより、これを文部科学省だけの問題とするべきではないのでしょう。私たち英語教育の研究者こそが、小学校英語教育の継続案、拡大案だけでなく、撤退案、あるいは大幅な修正案について考える必要があるでしょう。(大幅な修正案については、大津由紀雄先生らの長年にわたるご努力が少しずつ著作の形で実り、今年12/19(土)のシンポジウムでもさらに具体的な形で検討されます)。何度も言いますが、こういった試みが「英語教育学者」によってではなく、認知科学者・言語学者によってなされているということは皮肉な幸福です。


大切なのは、小学校英語教育の現行案の継続、拡大、撤退・大幅修正などが、組織の面子や組織内外での人間関係などの問題に矮小化されずに、お互い公教育に携わる者として、あるいは「研究」に携わる者として、虚心坦懐に分析を進めることでしょう。













2009年10月20日火曜日

寺島隆吉先生からの追記 + 備忘録

ナラティブ・シンポに関する先日のまとめに対して、寺島隆吉先生が追記を付してくださいました。大変にご多用なところに改めて文章をお寄せいただいた寺島先生には心から感謝します。





柳瀬先生は私の発言(その第1項目目)を次のようにまとめておられます。
・英語教師は生徒とも同僚・管理職とも「論争」していないのではないか。生徒
に英語教育について説得することもなく、同僚・管理職に英語教育のあるべき姿
について議論していないことが多い

私の「語り」が散漫だったが故に柳瀬先生に誤解を与えたのだろうと思うのです
が、しかし発表要旨の「4教師は『語り』『論争』の自由を与えられているの
か」にもあるように、私の本意は次の点にありました。

*「内での語り」において、「英語教師は論争していない」のではなく「今の教
育現場では英語教師は論争を許されていない」「実践研究の自由、自主教材・投
げ込み教材を授業で扱う自由、それをめぐって英語科の会議や職員会議で意見を
交換したり論争したりする自由を与えられていない」

(校長・管理職に権限を集中しようとする今の体制が「教師から『語りの自由』
『論争の自由』を奪っているのではないか」「そのような中で、英語の授業だけ
に『ディベート』を持ち込むことにどれほどの意味があるのか」というのが、拙
著『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』で松本茂氏を批判
する私の大きな論点の一つでした。)

これは生徒にとっても同じです。「教師は生徒に説得的な語りを展開している
か」という問いは、実は「教師は生徒に反論の自由を与えているか」と同義であ
ると私は考えているのです。教壇に立つと教師は無意識に「権力者」の立場に立
つことになり、それを裏から補強するものが「内申書」ではないか、それが生徒
から「反論や異議申し立ての自由を奪っているのではないか」「そのことを教師
は自覚しておく必要がありはしないか」というのが私の主張点の一つでもありま
した。





ナラティブ・シンポが終わる間もなく、次の大きな仕事に巻き込まれてしまい、私はこのシンポが何であったのかという振り返りをなかなかできないでいます。折をみて考えてまた文章化してゆきたいと思います。



取り急ぎ、他の方々のブログなどの記述で、広い意味で関連すると思われる事柄などをここに備忘録的に記しておきますと、




私のマイミクさん

UHのG. Crookesさんに勧められて入手。
その後ぐっすりと眠っていたこの書籍。

Research Conversations and Narrative: A Critical Hermeneutic Orientation in Participatory Inquiry

入手して10年経ってしまうけれど、
神戸の会が言わんとしていたことに
見事に対応する論点ばかりである。

今回のようなアジェンダは受容される
まで相当に時間がかかる、というのは
私だけなのかもしれぬが。


追記

Crookesさんの関連書目 CUPから

A Practicum in TESOL: Professional Development through Teaching Practice (Cambridge Language Education)


Values, Philosophies, and Beliefs in TESOL: Making a Statement (Cambridge Language Teaching Library)





松井孝志先生

ただでさえ懐が寒いのに、買ってしまったのが、

ホミ・K・バーバ 『『ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて』』 (みすず書房、2009年)
磯前順一・ダニエル・ガリモア両氏による翻訳。日本独自の企画である。私が、バーバの名前を知ったのは、『現代思想』 (青土社) の1999年6月号。「特集 大学改革」の中の、本橋哲也氏の論考、「応答するエイジェンシー」 (pp. 207- 217) が最初である。

るあはにいせんじもいがいらなよさ




寺沢拓敬さん

自然科学が「想定の範囲内」としてきたことは、「現場の経験」や「暗黙の常識」ではなく、「理論的帰結から当然想定されるべき仮説群」ではなかったのだろうか。この点は科学史・科学哲学の議論をきちんと点検する必要がある。今後の課題である。

「科学的英語教育」の誕生




山岡大基先生

・「授業力」を上げるには2つの要因。
 「指導技術」×「指導のperspective」
 同じperspectiveの中で指導技術を磨いても、向上はある程度のところで頭打ち。
 perspectiveそのものを更新、というより複線化していくことでしか壁を突破できないこともある。

英語教育についての備忘録








2009年10月13日火曜日

ナラティブ・シンポ (第1日目) の報告

10/11-12の「関西英語教育学会:KELES 第17回セミナー(兵庫地区) ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」を成功裡に終えることができました。会場にお越し下さった皆様に感謝します。主催者の1人として特に感謝したいのは、セミナーの裏方を全面的に支えてくださった関西英語教育学会の皆様です。事前準備から当日の会場運営までも丁寧にやってくださった関西英語教育学会の皆様の善意がなければ、今回のセミナーはありえませんでした。会長の吉田信介先生をはじめとした、本田勝久先生,泉惠美子先生,佐久正秀先生、玉井健先生、そしてその他多くの皆様に心から感謝します。


ここでは取り急ぎ私が担当した第一日目の「学校英語教師の語りのパワー」について簡単に報告します。それぞれの登壇者の発表の趣旨を私なりにまとめたら次のようになります。私の誤解が入ってしまっているかもしれないことを予めお断りしておきます。



■大津由紀雄先生 (慶應義塾大学)

・「ナラティブ」にしても「英語教育学」にしても、使う言葉の基本概念をしっかりと理解・定義することが必要なことは変わりない。また議論の合理的な展開も両者でそれほど変わらないはずだ。

・しかし英語教育においては「文法」や「コミュニケーション」といった基本用語についても誤解が多く、きちんとした理解・定義が共有されているとは考えがたい。

・基本概念がぐらついたままだと「ナラティブ」も単なる「茶飲み話」と変わらないものになりかねない。

・他方「英語教育学」が標榜している「理論」も自然科学での「理論」ではない。[柳瀬補注:反証命題仮説を演繹的に生み出す言説ではなく、単なる考え方の「枠」ぐらいのものに過ぎない。]



■寺島隆吉先生 (岐阜大学)

・英語教師は生徒とも同僚・管理職とも「論争」していないのではないか。生徒に英語教育について説得することもなく、同僚・管理職に英語教育のあるべき姿について議論していないことが多い。

・英語教師が「論争」するためには、議論の裏付けとなる「実践の理論的把握」が必要である。ただ実践をするだけでなく、実践を言語化し整理しておかなければならない。

・ところが英語教師は実践の理論化をする訓練を受けていないし、機会も与えられていない。

・英語教育研究者も、日本の現実に即した実践のための教育・研究が行なわれているとは思いがたい。未だに海外の動向を日本で紹介するだけか、誰でもわかっているようなことを数値化しているだけのように思える。

・英語教師も英語教育研究者も論争をタブー視しているように思える。少なくとも少し前までは、もっとお互いに論争をしていたのだが、現在は真剣な議論があまりにも少ない。

・英語教育関係者の語り合い、鍛え合い、自由な論争を行なう環境作りが必要である。



■中嶋洋一先生 (関西外国語大学)

・教師の「ナラティブ」で最も重要なのは、言うまでもなく学習者に対する語りかけである。

・さらに教師は、学習者自身が語ることができるように学習者を育てなければならない。

・語りの際に重要なことは、物事の本質を掴むことである。本質を掴むには経験を言語化することが大切である。



■寺沢拓敬さん (東京大学大学院博士課程)

・社会学とは「当たり前」を疑う学問である。

・「英語教育とは英語の教育であり、それ以上でもそれ以下でもない」といった表現は英語教育界で散見されるが、そのような「当たり前」を疑わない表現は外部者には通じにくいのではないか。

・日本の英語教育界で「当たり前」とされている専門的・学問的・科学的知識を、JACET紀要掲載論文(第1号[1970]から第38号[2004]の328本)を所定の分析枠組みで分類したら、明らかな傾向がある。その「当たり前」を疑うことは必要でないのか。



■松井孝志先生 (山口県鴻城高等学校)

・英語教育界の言説は「身内同士」のものが多すぎるように思える。

・英語教師にも実は発言するメディアはかなりあるのだが、論争が起きない。

・さらに英語教師も「進学校教師のことば」、「教育困難校教師のことば」、「専任教諭のことば」、「非常勤講師のことば」など分断しているように思える。

・そういった中、自分はブログで発言しているが、そこで留意しているのは、直言すること、すべてのものから等距離に自分を置こうとしないこと、引用出典を明記すること、自分で書いたことによって自分が前に進むこと、などである。



■山岡大基先生 (広島大学附属福山中・高等学校)

・自分が今まで授業実践をする中で、英語教育学の知見からは得られるものも多かったが、自分の授業作りの原理を虚心坦懐に見つめてみたら、それはむしろ、生徒や学校の現状に対応すること、目の前の生徒が何を受け入れてくれるか(望ましい授業の選択肢の中で、今の条件で適用できるのは何か)、であった。

・「英語教育学」は、授業を静的にとらえて、回顧的に整理して授業のやり方を呈示するが、実践者はそのやり方だけを学んでも、自分および自分の環境に適した授業のやり方にはならない。

・実践者は、自らの「悩み」を言語化し、試行錯誤することが必要である。借り物・既存の言葉ばかりを使うと思考停止に陥ることもある。

・しかし具体的状況にある自分の実践を言語化しようとすると、自分や学習者の人格的側面にも入る必要がしばしば生じる。この「怖さ」をどう考えるべきかはナラティブ研究の課題ではないのか。



■柳瀬陽介 (広島大学)

[私は今回、コーディネートに徹し、冗談を言って場を和ませながらも、できるだけ本質的な話し合いを促進しようと思っていました。もし私が長く話すことを期待していた方がいらしたら―あくまでもいらしたらの話ですが―ごめんなさい。私は今回、自分が長く話すつもりはまったくありませんでした。しかし私が自制してできるだけ多くのさまざまな率直な声を引き出したのは、結果的には成功だったと自分では思っています。以下はシンポ最後の数分での私のまとめ、およびその時には時間が足りなくて言えなかったことの要点です]

・私は時に量的研究そのものを否定している人間と思われることがあるが、それはまったく誤解である。

・私は量的研究というアプローチをrespectしている。それだけに量的研究はきちんとやっていただきたい。そして量的研究をきちんとやろうとすれば、その研究対象と「実践への示唆」には明らかな限界があることがわかるはずだ。

・量的研究がその限界を超えた権威と権力を持っているのなら、その傾向は是正されなければならない。

・日本の英語教育研究が量的研究に傾斜しすぎているのは、他の教育研究や海外の第二言語教育研究や、本日の寺沢さんの分析を見ても明らかである。

・量的研究と質的研究は、教育研究にとって相補的に必要なものであり、一方の信奉者が他方を否定しようとするのは愚かなことである。

・本日は「英語教育学とはそもそも『学問』なのか」といった問い直しさえあったが、学問には本来このような根源的な問い直しが必要である。根源的な問い直しがされることは学問が生きている証拠であり、根源的な問い直しがないことは学問が惰性化して既得権益を守るだけの枠になっている証拠である。(自然科学においても根源的な問い直しはしばしば行なわれる。生命科学などは特に5年から10年で大きな変動がある。)

・根源的な問い直しは、もちろんナラティブ研究にもなされるべきである。「これからはナラティブだ!」と言ったスローガンは有害無益であり、ナラティブ研究は具体的な自己省察を行ないつつ進んでいかなければならない。



■アンケートのコメント

・参加者にコメントを書いてくれるように頼みましたら、22の回答がありました。参加者は事務局発表では170名ですから、回答率は13%ということになります。

・22の回答のうち、1つが徹頭徹尾否定的なもの、1つが賛否両論、残り20が肯定的なものでした。

・私が個人的に面白く思ったコメントの一部を少しだけ以下にご紹介します(表現の一部は趣旨を変えない範囲で修正しています)。コメント公開の許可はアンケートでいただいております。コメントを下さった方の氏名などは、用心のため略号かニックネームにすることにします


Narrativeが内容 (story) と語る行為 (act of narrating) の両方の側面を持つものだとしたら、 "I think ..." と主張して「何が正しいか」に向かう議論と違って、 "I think ..."と言った私・あの人・・・話し手は、なぜあの話を、あの時、あの人に対して、あの言葉を使って、あんな風に言ったんだろう。なぜ・・・については言わなかったのだろうと辿り直す気付きが大切になると思います。そういうプロセスを共有するためにはlistenersはsympatheticになり、話し手も語り聞く相互作用の中でlistenersに生まれるvoicesを自分の大きすぎる声で消してしまわずデリケートな共感を楽しめるといいと思う。Power of story tellingは「強いpower」ではなく「やさしさが持つpower」だと思います。(三 高校教師・学生)


プレゼンテーションを聞いて自らの思考の中に、気づきが生まれ、時には変革への糸口が生成される。しかしこういった変革の糸口が思考の中でさらに明確化されるには、ある程度の時間が必要ではないかと思う。時間の流れが途切れてしまうと思考も途切れてしまう。なんとかならないかといつも感じる。 (Paul 中学校教師)




以上を取り急ぎの報告とします。実は、寺島先生のこれまでの「実践記録」の営みについてはもっと書きたいのですが、それは改めて『英語にとって評価とは何か』を読んでからの課題にしたいと思います。

この他にも「ナラティブと『茶飲み話』はどう違うのか」、「Action ResearchとReflective Practiceの違い」、「ナラティブを扱うことは『研究』なのか『実践』・『探究』なのか」などについても後日書くつもりです。


改めて皆様に感謝します。ありがとうございました。






ナラティブ・セミナー (第2日目)の報告

第2日目は、ワークショップの人数制限ということもあり、第1日よりも参加人数は少なかったのですが、私も含めて第2日目の方をより面白く思った人は多かったです。

特に面白かったのは10人の現職教師によるポスターセッションであり、発表者と聞き手が親密に語り合う空間と時間がもてたことは素晴らしいことでした。多くの人が「これまでの英語教育関係の集まりでは経験できなかったことが生じた」とも言っていました。とにかく雰囲気がよかったです。

本日は時間がありませんので、ここでは午前中の吉田達弘先生 (兵庫教育大学)のパワーポイントスライドを公開するのみに留めます。




吉田達弘 (兵庫教育大学)



ポスターセッションから生じたものに関しては後日改めて書きたいと思います。この生じた「何か」をこれからぜひ育んでゆきたいです。









小野義正『ポイントで学ぶ英語口頭発表の心得』(2003年、丸善)『ポイントで学ぶ国際会議のための英語』(2004年、丸善)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


東京大学大学院工学系研究科・工学教育推進機構国際化推進機構特任教授によって書かれたこの2冊は、内容が非常に具体的で有益、説明が簡潔でわかりやすく、書物としては薄く廉価である。表紙は地味だが、非常に有用な本であり、およそ学術的に英語を使用する機関にはレファレンスとして備えておきたい本だ。

『ポイントで学ぶ英語口頭発表の心得』は、欧米での "public speaking"の文化伝統の奥深さを痛感する著者が口頭でのプレゼンテーションの原則とノウハウをわかりやすく説明し整理する。原則とノウハウはもちろん英語のプレゼンテーションを前提としたものだが、これらは日本語でのプレゼンテーションでも通用する。

プレゼンテーションの原理は簡単である。「IntroductionとBodyとSummaryの順で聴衆に3度同じ事を話す。つまりTell them what you will tell them. Tell them. Tell them what you told them.」である (ivページ)。

あるいは「プレゼンテーションは自分が言いたいことを一方的に言うことではない。すべては相手のためであり、相手の身になって話さなければならない」ことを徹底することだ。したがって「 (1) 結論を先に言え。 (2) 技術内容よりも、コンセプトを重視せよ。 (3) ロジックを明確に話せ。 (4) 内容は高く、表現はやさしく」ことを貫けばよい (1ページ)。

そのため口頭発表では、(a) 内容設計 (聴衆分析・目標設定・筋書き作り)、(b) 素材作成 (視覚素材・文章素材)、(c) 呈示技術の訓練 (体の動き・アイコンタクト・スクリーンの使いこなし・口調・ジェスチャー) の準備が重要となる (7ページ)。


学生に上のようなプレゼンテーションの原理を説明すると、馬鹿にするような顔をする者も少なくない。「そんなこと当然だ。言われなくてもわかっている」と彼/彼女らは言う。だが私の経験では、こういった原理をきちんと体現したプレゼンテーションを学生はできない。「わかっている」と口では言っても骨身に染みて理解していない。「当然」のことも、自分の発表内容に気を取られると、おろそかになり、一人勝手な振る舞いしかできない。上のまとめを読んで「それはその通りでしょう」と思った方々も、ぜひ本書を読んでこれらの原則を深く理解していただきたい。そしてレファレンスとして手元に置き、折に触れて参照して自分のプレゼンテーションのチェックリストとして使って欲しい。

さらに英語でプレゼンテーションをするとなると、日本語での習慣が邪魔になることがある。著者は『日本物理学会誌』 に掲載されたA.J. Leggett氏の一節を紹介する。


日本語では、いくつかのことを書きならべるとき、その内容や相互の関係がパラグラフ全体を読んだあとではじめてわかる ― 極端な場合には文章全部を読み終わってはじめてわかる ― ような書き方をすることが許されているらしい。
英語ではこれは許されない。一つ一つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書かなければならないのである。また英語では、一つの文に書いてあることとその次の文に書いてあることの関係が、読めば即座にわかるように書く必要がある。たとえば、論述の主流から外れて脇道に入るときには、脇道に入るところでそのことを明示しなくてはならない。(脇道の話を読み終わってから、その話と主流との関係がわかるのではいけない)。 (18ページ)


こういった思考パターンといった抽象的レベルに加えて、もっと具体的なレベルで英語表現に気をつける必要ももちろんある。著者はこれらのノウハウも、例えば「聞いてすぐわかる英語表現」の10の特徴 (17ページ)、「不必要な単語・句は省く」 (22-25ページ)などで具体的に示す。さらに口頭発表で質問者の英語が言い直してもらってもわからない場合はどうすればよいか (73ページ) などの助言も親切である。

プレゼンテーションについて説明する本書は、この本自体がプレゼンテーションの素晴らしい例となっており、第1章で要点を明確に述べ、第2-10章で具体的内容を語り、第11章の「チェックリスト」でまとめを行なう。大学院生だけでなく大学生にも読ませたい。いや、英語で発表をする機会があるのなら高校生にもぜひ読ませたい。わかりやすくて、いつまでも手元に置いておきたい深さをもった良書だ。






もう1冊の『ポイントで学ぶ国際会議のための英語』は、国際会議 ― 最近は日本国内でも国際会議は頻繁に開催される ― で発表することに関する、会議出席の手続き、英文手紙の書き方、論文投稿の手続き、国際会議後の大学研究室・研究所訪問、Eメールや電話での英語について具体的に指南する。

私の知る限り、こういった英語使用に関しての日本人の評判は概して悪い。書かれた手紙は証拠になり、人を招待する時などには契約書を書くつもりで条件を明示するべき (13ページ) なのに、ビジネスレターの5C原則 (Clear, Complete, Concise, Correct, Courteous) を守らず、後々のトラブルを招く。レターヘッドのないただの白い紙に書かれた手紙は私信とみなされるのが普通 (15ページ) なのに平気でコピー用紙で手紙を書く。大学研究室・研究所訪問は、研究上の有益な情報の "fair exchange"が原則 (57ページ) なのに、空港で買った安物の日本趣味みやげを渡して、30分要領を得ない話をして記念写真を撮って帰る。そして「彼/彼女らは何をしに来たのか。観光旅行のついでにここに来たのか?」 といぶかしがられる。こういった悪評を払拭するためにも本書はきちんと読まれなければならない。

また、ますます国際誌での業績が求められるようになっている昨今、本書が解説している論文投稿の手続きは、研究者にとって貴重な助言である。大学院生や若い研究者には必携の本だと言えるだろう。

私の極めて限られた経験の範囲での臆断に過ぎないが、理系の中でも特に工学関係者の書く本にはわかりやすいものが多い。内容を標準化し、それを誰にでもわかり、誤解されないようにまとめることに慣れているからだろうか。ともあれ、これら2冊は良書として広くお薦めしたい。




⇒『ポイントで学ぶ英語口頭発表の心得』


⇒『ポイントで学ぶ国際会議のための英語』






2009年10月9日金曜日

「声の力」あるいは声の人格性について

ブログ「服従するが果たさない」は、縦横無尽のの知性行使で私を大笑いさせてくれる私のお気に入りのブログですが、時に真面目な記事で読者の思考をゆさぶります。最近の記事「声の力 (お口の恋人問題に寄せて)は、特によかったので、ここに紹介させていただきます。


この記事は、ロッテの西岡選手が、最近のヒーローインタビューでお立ち台から降りて、ファンに語りかけた語りを取り上げています。YouTube動画もその記事から見ることができますのでぜひアクセスして下さい。




ブログ『服従するが果たさない』




ブログの著者はこう述べています。



今回私が一番強く感じたのは「声の力」についてです。先にも触れたように、西岡選手はつとめて冷静に、過度に感情的にならないように語っています。しかし、映像をご覧になっていただくと分かるのですが、その声は、一貫して、微妙に震えているのです。私たちはその微妙な声の震えから、西岡選手の覚悟、緊張、怒り、悲しみ、ファンへの愛、チームへの思いなど膨大な情報を読み取ることができます(もちろん誤読を含めて)。



たしかに声の力というのはあります。あるいは声の表情というべきでしょうか。一人の人格が、その社会的生命をかけて語る時の声には「何か」があります。計測しがたい「何か」が。私たちは「何か」を感じ取ります。

もし近代というものが計測至上主義の愚から、こういった語りの声の力や表情を軽視し、数量的なエビデンスばかりに力をもたせようとするなら、それは私たちの社会が非人間化している証左と考えていいのではないでしょうか。

それぞれが生身の身体と感情をもち、人と人との間に計測できない「何か」を感じ、それを共感すること。そのつながりを人格的な発声でつくりあげること―これが民主主義社会そして人間社会の根源ではないでしょうか。

それを「何か」とか「共感」など、主観的で実証できないものを社会の基盤に考えることはできないと主張する「合理主義的」な人がいるなら、その人は合理主義の適用についてどこか誤解しているのではないかと思います。

もちろん「何か」は演技で悪用されることもある。私たちはだまされることもある。だから合理主義的な態度は一方で必要です。計測が可能かつ必要な事柄は計測して、私たちの判断の裏付けは取っておくべきでしょう。ですが社会が合理主義・計測至上主義一色に染まり、声の人格的側面を相手にしなくなったら、その社会は怖ろしいものとなるでしょう。


英語教育にしても、現在の小学校は "Big voice" を "Big smile" と共に児童に求めます。中高生には「大きな声ではっきりと」教科書を読むことを求めます。時にシャドーイングや速音読で高速での発声を求めます。その結果、一部の学習者は一分間あたりで驚くべきほどの語数を発話できるぐらいになります。

しかし一方で英語を人格的に使うこと―その人の人となりを自分の英語の発声に込めること―はどれだけできているでしょうか。

多くの学習者は自分の文法や発音がネイティブスピーカーに文法や発音から逸脱していることばかりまだまだ気にしていませんでしょうか。一部の学習者は逆にネイティブスピーカーの言い回しばかりを真似して、見る人が見れば哀しいぐらいに自分を失っていませんでしょうか。少なからずの学習者は英語学習に自分の人格が関係しているなんて思いもしないのではないでしょうか。


私が田尻実践に注目した(アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析)1つの理由は、田尻先生が指導した中学生が、見事に自分の人格を英語で表現していたからです。DVDの6-wayで見ることができる3人の中学生の英語は私にとって本当に感動的でした。「英語が上手」などという次元でなく、英語で人間が伝わってきたからです。


また近江誠先生も、以前からずっと英語での声の力や表情について論考なさっています。斎藤孝先生の『からだを揺さぶる英語入門』も声についての洞察を示しておられます。

ですから日本の英語教育界でも「声」の重要性について考えられていないわけではありません。しかし英語教育界の多数派は、まだまだ声は大きく、発話は速く正確であることばかり求めて、ことばの根幹である人格性を等閑視しているように思えます。




話が脱線しましたが、どうぞ上記ブログをごらんになり、今一度語りにおける声の力や表情、声の人格性について考えてみませんか?


10/11-12のシンポジウムとセミナーでも声について考えられるといいのですが。










2009年10月8日木曜日

「現実に対する理論の抵抗」

ある方から10/11のシンポに関するコメントをいただきました。その中で言われていたことの1つは「理論に対する現実の抵抗」でした。

私なりにその方の意見を言い換えますなら次のようになるかと思います。教育実践がたとえばある特定の理論だけで「実証的に説明」されてしまい、その理論に基づいて実践をすればよいだけだとなってしまう。あるいは、ある実践家が自らの迷いなども忘れてしまったままに自らの実践を理論化してしまい、誰もがその理論どおりに実践すれば教育はうまくゆくはずだと主張してしまう。そういった「スマート」な理論に対して、教師は目の前の現実と共に抵抗しなくてはならない。きれいな理論で現実を片付けてしまわずに、理論に対して自分が直面している現実をぶつけて、理論に挑戦しなければならない―私はそのように理解しました。

私も賛同します。教育実践という現象をあまりにも単純化してしまう「理論」は、当たり前すぎて退屈かお説教口調になってしまっているものが多いと思います。実はそれは現実をきちんと説明している理論ではなく、それなりに理論の体裁を整えた主張でしかないようにも思えます。

そのような主張を押し付けているだけの「理論」には断固抵抗しなくてはならないでしょう。なぜならその「理論」の専横的な押し付けは、その「理論」の網の目からこぼれ落ちる教育現象を見ることの障害となり、その「理論」の枠組みに当てはまらない教育実践を否定しかねないからです。「理論」が現実を理解する助けではなく邪魔になるからです。その「理論」が前提とする状況を前提としない教育実践を、「正しい理論を実行しない愚かな教育実践」として切って捨てかねないからです。



しかし考えてみますに、英語教育界の「理論」はそれほど強力なものでしょうか。制度的権力を背景にした文部科学省などの言説はともかく、英語教育界に流布する「理論」は、正直ほとんどの実践者に相手にされていないようにも思えます。特に量的研究が「実証」する教育実践理論は、教師に影響を与えるほどのpowerをもっていないように思えます。

この状況認識が正しいなら、今重要なのは「理論に対する現実の抵抗」ではなく「現実に対する理論の抵抗」であるようにも思えます。


現在の日本の英語教育界の理論の多くは一面的であまりにも視野が狭く、現実に影響を与えるだけの力をもっていません。せいぜいが現実のごくごく一部を適当に数値化して、自らの理論の正当化を図っているだけです。その正当化はしばしば実践者にとって当たり前のことか、状況次第でいくらでも変わりうるものです。ですからそういった理論には抵抗するだけの価値も意義もありません。



それに対して現実は過酷です。そして私たちはしばしば、その過酷な現実に対する理論をもちあわせていません。

たとえば中高生の少なからずは、英語を学ぶことに意味を見いだせていません。「これからの時代に英語は必要だ」という英語教師の言葉は、虚しく響くだけです。学校を卒業しても、低賃金の仕事しか得られそうもない現状で、海外旅行や留学での英語使用など絵空事にしか思えません。英語力があれば大学受験に有利だし年収が上がるという言説も、そもそも大学進学や正規雇用される見込みが少ない生徒にはまったく説得力をもちません。

英語教育が、究極のところで資本主義競争での成功につながるという功利的な価値だけしかもっていなかったら、そんな資本主義競争からは底辺層に追いやられ、またそんな過酷なだけの競争には関わりたくもないと思い、またその能力も育ててこられなかった生徒にとっては、英語教育なんてまっぴらです。そしてこの信念を覆すだけの価値に関する理論を英語教育は持ち合わせません(注1)。


あるいは小学校では、十分な準備もないまま英語教育がスタートしようとしています。理念はまだ明らかとはいえません。理念が不明確ですから、具体的な準備もできません。私をはじめとした英語教育関係者は、賛成か反対といった大まかな意見は言っても、理念をなかなか明確にできていません(注2)。

理念が不明確ですから、具体的にはどのような教員研修を、どのくらいの量必要なのかということがわかりません。ですから効果的な計画が立てられません。とはいえ英語教育が始まるという現実は来ますから、多くの関係者は仕方なく知り合いの人に教員研修を任せたりします。それぞれの人は良心的に教員研修に関わっているのでしょうが、国全体としてはむしろ混乱状態にあるのかもしれません。もちろん国は学習指導要領を出していますが、残念ながらあの曖昧な書き方ではこれから始まる小学校英語教育に関して明確なビジョンが持てません。今日小学校英語教育に関しては(あるいは関しても)、理論がないと端的に言えるのかもしれません。


さらに大学英語教育では、おそらく理系の学生の英語力をつけることが英語教育の最優先事項かと思いますが、それに関しての理論がまだまだ少ないです。もちろん私は個人的にも、理系の英語力養成について実践している方を多く知っていますし、理論的にアプローチしようとしている人も知っています。ですが、この(私の意見では)大学英語教育最優先事項である理系の学生の英語教育には理論がありません。心理言語学の理論をミリ秒単位の実験で「実証」しようとする英語教育研究者は多いですが、理系英語の問題について取り組む研究者は多くありません。(注3)


そもそも教員がおかれている状況についての理論的把握がまだまだなのかもしれません。教師にとって辛いことの1つは忙しすぎて、睡眠時間や家族との時間を削っても授業準備がきちんとできないことです。授業準備が不十分だと、授業が面白くなりません。授業が面白くないと生徒が荒れます。生徒が荒れると教室や学校がすさみます。そうしてすさんだ環境の中で、教師は授業準備ができない自分をますます嫌いになってしまいます。これは悪循環です。

もちろん授業準備は、教師個人のタイムマネジメントの工夫でいくらかは改善できます。しかし現在、多くの教員は、個々人の工夫や裁量ではどうしようもないぐらいに仕事に追われています。本当に管理職が読むのかどうかもわからないような些末な書類作成。次々に要求される教科指導以外の仕事。参加を強制されるが、役に立つとはとても思えないいくつかの研修―教師がまともに仕事をし、成長してゆくということはどういうことかを、私たちは理論的に把握しなければならないのではないでしょうか。そしてその理論的理解を吟味し、少しずつ教員の労働環境を改善してゆかなければならないのではないでしょうか。


総じて私は英語教育界は、過酷な現実に対抗するだけの理論をもっていないと思います。持ち合わせている「理論」は重箱の隅をつつくようなものが多く、現実をうまくとらえていないようにも思えます。

今必要なのは、現職教師が研究者などが提示する理論に対抗することではなく、現職教師が研究者などと共に、過酷な現実に対して理論で対抗することではないでしょうか。現状を「仕方ないこと」として諦めず、理論で「他のありよう」を想像し、その実現を構想し、未来を構築することではないでしょうか。


あえて「理論に対する現実の抵抗」ではなく「現実に対する理論の抵抗」を訴えるゆえんです。






(注1) 私の「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」はそんな現実に対する私なりの小さな抵抗の1つです)。



(注2) 私は『日本の英語教育に必要なこと』に寄稿させていただいたときに、自分が小学校英語教育の理念をいささかももちあわせていないことに愕然としました。『危機に立つ日本の英語教育』の私の原稿はそんな情けない自分への回答でした)。


(注3) 我田引水が続きますが、「理系に学ぼう」の連載は、私なりに少しでも理系の方々のニーズを理解しようとする試みです。






「声の力」あるいは声の人格性について

ブログ「服従するが果たさない」は、縦横無尽のの知性行使で私を大笑いさせてくれる私のお気に入りのブログですが、時に真面目な記事で読者の思考をゆさぶります。最近の記事「声の力 (お口の恋人問題に寄せて)は、特によかったので、ここに紹介させていただきます。


この記事は、ロッテの西岡選手が、最近のヒーローインタビューでお立ち台から降りて、ファンに語りかけた語りを取り上げています。YouTube動画もその記事から見ることができますのでぜひアクセスして下さい。


ブログ『服従するが果たさない』



ブログの著者はこう述べています。



今回私が一番強く感じたのは「声の力」についてです。先にも触れたように、西岡選手はつとめて冷静に、過度に感情的にならないように語っています。しかし、映像をご覧になっていただくと分かるのですが、その声は、一貫して、微妙に震えているのです。私たちはその微妙な声の震えから、西岡選手の覚悟、緊張、怒り、悲しみ、ファンへの愛、チームへの思いなど膨大な情報を読み取ることができます(もちろん誤読を含めて)。



たしかに声の力というのはあります。あるいは声の表情というべきでしょうか。一人の人格が、その社会的生命をかけて語る時の声には「何か」があります。計測しがたい「何か」が。私たちは「何か」を感じ取ります。

もし近代というものが計測至上主義の愚から、こういった語りの声の力や表情を軽視し、数量的なエビデンスばかりに力をもたせようとするなら、それは私たちの社会が非人間化している証左と考えていいのではないでしょうか。

それぞれが生身の身体と感情をもち、人と人との間に計測できない「何か」を感じ、それを共感すること。そのつながりを人格的な発声でつくりあげること―これが民主主義社会そして人間社会の根源ではないでしょうか。

それを「何か」とか「共感」など、主観的で実証できないものを社会の基盤に考えることはできないと主張する「合理主義的」な人がいるなら、その人は合理主義の適用についてどこか誤解しているのではないかと思います。

もちろん「何か」は演技で悪用されることもある。私たちはだまされることもある。だから合理主義的な態度は一方で必要です。計測が可能かつ必要な事柄は計測して、私たちの判断の裏付けは取っておくべきでしょう。ですが社会が合理主義・計測至上主義一色に染まり、声の人格的側面を相手にしなくなったら、その社会は怖ろしいものとなるでしょう。


英語教育にしても、現在の小学校は "Big voice" を "Big smile" と共に児童に求めます。中高生には「大きな声ではっきりと」教科書を読むことを求めます。時にシャドーイングや速音読で高速での発声を求めます。その結果、一部の学習者は一分間あたりで驚くべきほどの語数を発話できるぐらいになります。

しかし一方で英語を人格的に使うこと―その人の人となりを自分の英語の発声に込めること―はどれだけできているでしょうか。

多くの学習者は自分の文法や発音がネイティブスピーカーに文法や発音から逸脱していることばかりまだまだ気にしていませんでしょうか。一部の学習者は逆にネイティブスピーカーの言い回しばかりを真似して、見る人が見れば哀しいぐらいに自分を失っていませんでしょうか。少なからずの学習者は英語学習に自分の人格が関係しているなんて思いもしないのではないでしょうか。


私が田尻実践に注目した(アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析)1つの理由は、田尻先生が指導した中学生が、見事に自分の人格を英語で表現していたからです。DVDの6-wayで見ることができる3人の中学生の英語は私にとって本当に感動的でした。「英語が上手」などという次元でなく、英語で人間が伝わってきたからです。

また近江誠先生も、以前からずっと英語での声の力や表情について論考なさっています。斎藤孝先生の『からだを揺さぶる英語入門』も声についての洞察を示しておられます。

ですから日本の英語教育界でも「声」の重要性について考えられていないわけではありません。しかし英語教育界の多数派は、まだまだ声は大きく、発話は速く正確であることばかり求めて、ことばの根幹である人格性を等閑視しているように思えます。




話が脱線しましたが、どうぞ上記ブログをごらんになり、今一度語りにおける声の力や表情、声の人格性について考えてみませんか?






2009年10月6日火曜日

コミュニケーション・言説の社会性・権力性・歴史性についての関連記事リスト

10/11のナラティブシンポに向けて今、細々とした準備をしていますが、気がついてみたら私は2008年と今年2009年で、コミュニケーションあるいは言説の社会性、権力性、そして歴史性といったことを主に考えて、それが今回のナラティブシンポにもつながっているのだと思え始めました。


以下は、2008-9年の関連記事です。とりあえず自分の整理のために作ったリストですが、このブログにも掲載することにします。


■言語コミュニケーション論の社会的展開

言語コミュニケーション力論の構想
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_01.html

末田清子・福田浩子(2003)『コミュニケーション学』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/02/2003.html

私はなぜCritical Applied Linguisticsを教えるのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/critical-applied-linguistics.html

大学・大学院で身につけるべき教養とは
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/04/blog-post_03.html



■日本の英語教育の制度的権力を問い直す

教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_4057.html

ある工場の話
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_04.html

Checks (and balances)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/checks-and-balances.html

浅野博先生のエッセイ:「中学指導要領解説(外国語)」のこと
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post.html

学会誌のあり方について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post_04.html

佐野正之先生への感謝と回答 (アクションリサーチについて)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/04/blog-post_21.html

佐野正之先生からのお返事
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/blog-post_01.html

単純な因果法則について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_14.html

日本社会の小役人化?
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_26.html

郷原信郎『「法令遵守」が日本を滅ぼす』、『思考停止社会』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/blog-post_03.html

「日本のエリート」とは
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/08/blog-post_12.html



■教育現場から考え直す

岩本茂樹『教育をぶっとばせ --反学校文化の輩たち--』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/blog-post_27.html

ある卒業生 (高校教師) とのメール交換
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

「英語教育にもの申す」での理論と実践の関係に関するエッセイ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/blog-post_06.html




■英語教育研究の再生を目指して

「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/08/blog-post_05.html

教育からことばの力を奪うな
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_10.html

全国英語教育学会に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/08/blog-post_16.html

若い力を育てよう
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post.html

学会言説という権力を活かす(1)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/12/1.html

学会言説という権力を活かす(2)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/12/2.html

寺島隆吉『英語教育原論』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post_9698.html

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/2009.html

高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/01/blog-post_14.html

制度の内と外の間でのコミュニケーション
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/blog-post.html



■アレント哲学から人間を問い直す

アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post.html

人間の条件としての複数性
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_8473.html

「政治」とは何であり、何でないのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html

この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post_24.html

世界を心に閉じこめる近代人
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_1835.html

「現代社会における英語教育の人間形成について」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html




■20世紀思想の遺産を活かす

中山元『思考のトポス』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_15.html

「文化」に関する脱臼的駄文
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_4099.html

ノーマン・フェアクロー著、貫井孝典他訳 (2008) 『言語とパワー』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/12/2008.html

M・フーコー著、中村雄二郎訳『知の考古学』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/m.html

ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2004.html

ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』

レヴィナス著、熊野純彦訳『全体性と無限(上)(下)』

ヴィヴィアン・バー著、田中一彦訳『社会的構築主義への招待』川島書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post_28.html

佐藤俊樹・友枝敏雄(編)(2006)『言説分析の可能性』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2006.html



■改めて歴史を問い直す

岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』

イマニュエル・ウォーラーステイン著、山下範久訳(2008)『ヨーロッパ的普遍主義』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/12/2008_05.html

ウォーラーステイン著、山下範久訳『入門・世界システム分析』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_13.html

的場昭弘『超訳「資本論」』、『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_27.html

池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_8776.html

ロバート・B・ライシュ(2008)『暴走する資本主義』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/b2008.html



■改めて現代を問い直す

現代の「常識」を問い直そう
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_28.html

信田さよ子『依存症』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_5155.html

ジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』、および甲野善紀氏・森田真生氏による教育の問い直し
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_08.html



■未来に向けて行動するには

ジャック・アタリ著、林昌弘訳 『21世紀の歴史』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/21.html

仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2009.html

E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/e-2008.html

ジョン・ホロウェイ著、大窪一志・四茂野修訳 『権力を取らずに世界を変える』

江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_07.html



■改めてコミュニケーションを問い直す

コミュニケーションに関する断片的思考
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_417.html

二項対立の間でデイヴィドソンを考える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_13.html

言語使用の倫理?
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_9982.html

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html




■ナラティブ研究へ向けて

人はなぜ物語を必要とするのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_04.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「書く」というナラティブ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_8701.html

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/exploratory-practice.html

やまだようこ編 『質的心理学の方法』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/06/blog-post_03.html

佐藤郁也『質的データ分析法』新曜社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post_25.html

矢守克也 (2007) 「アクションリサーチ」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/2007.html



■終わりに

柳宗悦『民藝とは何か』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_23.html







2009年10月4日日曜日

ニコラス・G・カー著、村上彩訳 『クラウド化する世界』 翔泳社

かつて電気は、水車で起電することが常識だった。やがて専用の発電機が普及するにつれ、工場主は水車の替わりに発電機を自らの工場に設置し、そのことによって競争力を高めた。

しかしテクノロジーは発展し、電力伝達が容易になった。中央発電所で起電し、それを各地に送電するという社会が当たり前になった。もはや誰も(非常用を除いては)自らの工場に発電機を設置しようとは思わなくなった。また電力の普及は、様々な生活の変化をもたらした。--停電したときに私たちはようやく私たちの「普通の生活」が電気に依存しているかを知る--。

アナロジーとして考えれば、上記のような「大転換」のスイッチが今入ろうとしている(この本の原題は"The Big Switch"である)。

少し前まで、私たちは自宅に高性能のPCと高価なソフトを導入することに懸命だった。だがPCがインターネットで結ばれ、そしてその通信環境が高速になるにつれ、新しい環境、そして社会が出現した。無数のサーバーとPCが高速常時接続で結ばれた社会である。このテクノロジー発展が私たちのあり方を大きく変えるかもしれない。

小さい話で言えば、私はこのブログのサーバーがどこにあるか知らない (そもそもこのサーバーに私は金すら払っていない)。文章を書く際のネット検索は私にとってもはや不可欠だが、グーグルにヒットしたサイトの作者やウィキペディアの作者を私は直接は知らない (彼/彼女らのサーバーのありかなど気にもしていない)。これはある意味おそろしく無責任なシステムである。だが使いこなしによっては、この不定形ネットワークから私はしばしばDVD版のEncyclopedia Britanicaよりも詳しい情報を得る。この不定形ネットワークは「クラウド」(cloud 雲)とも呼ばれる。

クラウド(雲)の力に私たちは大きく頼り始めている--ネット不通になれば私たちはどれだけ「普通の生活」がネットに依存しているかに気づく--。

しかしこのクラウド依存社会はユートピアではない。

クラウドからのニュース提供は、ジャーナリズムのあり方を根本的に変えようとしている。最も懸念すべきは、ニュースがジャーナリストの判断でなく、クリック数に基づく広告収入によって編集提示されることだ。クラウドの中のアルゴリズムは資本主義には忠実だが、民主主義にも同様に忠実かどうかは疑わしい。何がニュースであるかという判断は、広告収入に基づくアルゴリズムで決定されてゆく。

かつては「地球村」という言葉がはやった。ネットにより緊密に編まれたグローバル社会は一層「地球村」に近づいたようにも思える。しかし一方で私たちのネット上での行動は、自己回帰的にフィードバックされるため、ますます個々人の選好が強化されているという研究報告もある。早い話がネウヨはネウヨ記事ばかりを読み、サヨはサヨ記事ばかり読むようになる。もちろん「類は友を呼ぶ」のは昔からのことだが、それが電子的に大幅に強化されるという事態はもしかすると新しいことなのかもしれない。


コンピュータが人間を補完するのではなく、コンピュータが人間を補完するという考えも強くなっている。この考えを最果てまで延長したら「ターミネーター」や「マトリックス」といったSF世界に到達するが、カーネギーメロン大学ロボット研究所のハンス・モラベック (Hans Moravec) はそういった未来の可能性について真剣に考えている (私はかつて彼の『電脳生物たち』という本を読んだ時の衝撃を今でも覚えている)。





実際グーグルやアマゾンに私たちが無自覚に私たちの判断を伝達している時、私たちはアルゴリズムがやりにくい判断に関するをコンピュータに提供する存在になっているのかもしれない。高度グローバル資本主義社会はコンピュータが私たちに奉仕している社会なのだろうか。それとも私たちがコンピュータに、そして究極的には高度グローバル資本主義社会というシステムに奉仕しているのだろうか。


クラウドコンピューティング」(cloud computing)は例えば既存のソフトウェアを駆逐してしまうのだろうか。職業としてのジャーナリズムは消滅するのだろうか。グローバル社会は分断化された無数の共同体の闘いの場になるのだろうか。コンピュータシステムは人間との共生を越えて、人間を支配するのだろうか。わからない。


わからないのだが、何かとてつもないスイッチ (The Big Switch) がもう入ってしまったようにも思える。



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2009年10月3日土曜日

制度の内と外の間でのコミュニケーション

昨日、寺島隆吉先生の『英語教育が亡びるとき』(2009年、明石書店)の紹介記事を書きながら心配していたのが、批判という行為が、個人間の対立に歪曲化されてしまうことでした。


従来、日本では、学説においても批判行為が、人格攻撃だと誤解され、批判から有益な結果がなかなか得られないという状況があります。(また、批判を人格攻撃だと誤解して、大声で糾弾したり、慇懃無礼にネチネチと責めたりして、その結果、歪曲した自己優越感を充たそうとする残念な人もいまだ存在することも事実です)。

さらに、英語教育界では、特にそういった傾向が強いのではないかということを、Tom Gally先生は『Web英語青年』の「ブログ ことばのくも」で述べておられます。







こうしてみますと、日本の英語教育界ではきちんとした議論がなかなか醸成されず、しばしば感情的な対立が引き起こされているのではないかという懸念は、まんざら的外れのものではないように思えます。

他方で私は、数多くの尊敬する友人・知人から「なぜ英語教育の学会では、みんなお利口さんのいい子で、議論が発展しないのだ」とこれまで何度も尋ねられてきました。学会内で議論が発展しないのは、ひょっとして上記の感情の爆発を恐れるがゆえ、みんな、きちんとした立論をすることを自制しているのかもしれません(そしてきちんとした立論をする少数者を少しずつ巧妙に排斥しているのかもしれません)。


そういった中、寺島先生は今回の本で、きちんと引用をした上で、可能な限り丁寧に立論をされているように思えます。私はこういった本の出版を契機に、ぜひ英語教育界でも良質なコミュニケーションが生じることを願っています。感情的対立でもなければ、体裁のいい黙殺でもない、議論が生じることが、日本の英語教育の健全化には必要だと思っています。というより、きちんとした議論をすることが、少しでも「知識人」と呼ばれる立場にある人間の社会的義務でしょう。



しかし、その際に確認しておきたいポイントがあります。それは制度内にいる者のコミュニケーションと、制度の外にいる者のコミュニケーションは、構造的な理由からしばしばかみ合わないということです。そしてこのコミュニケーションの齟齬は、制度内外のどちらかの者を悪者にすることによっては決して解決しないということです。以下、その「構造的な理由」を可能な限り説明してみます。


制度内の人間とは、たとえば大きな国家プロジェクトの推進責任者です。彼/彼女らには、個人的信念がどうであれ、そのプロジェクトを遂行する義務を負っています。彼/彼女らはその立場上、プロジェクトを否定することは言えません。

つまり制度内の人間は、個人として語っているのでなく、制度上の機能の一環として語っています。もちろん個人の信念と制度の要求がまったく乖離してしまえば、その人はその制度から辞任します。あるいはその人が個人の信念を制度の要求よりも大事なものとして行動すれば、組織はその人を解任します。ですが、そういった辞職や解任は、常識的に考えて頻繁に起こるものではなく、人はある制度内の役割を引き受けたら、通常はその制度の論理を前提として言動します。

そういった制度内の人間にとって、制度の外から制度を批判する者は、時におよそ勝手で無責任な人間であると思えてきます。そうして制度内の人間は、しばしば制度の外の人間からのコミュニケーションの試みを、黙殺したり、体良くかわしたりして無効化します。


これは制度の外にいる人間からすれば、およそ非人格的な行為に思えます。コミュニケーションの試みに、まともに向かい合ってくれないからです。しかし、制度内の人間は、一人の人格的存在としてではなく、制度上の機能として語っているわけですから、制度自体を否定する意見には、どうあっても賛成できないわけです。制度の外の人間は、そういった制度の内にある人間の制約を理解する必要があると私は考えます。


ですから、外からの制度批判と内からの反論というコミュニケーションは、原理的には人格的なコミュニケーションではありえません。制度の内と外の間でのコミュニケーションは、話題が制度の存廃に関するものである場合は、異なる言説の論理(コミュニケーション・システム)の間で交わされる、原理上折り合うことのできないコミュニケーションです。つまり合意に至ることのないコミュニケーションと言えましょう。


そこを下手に人格的な配慮で、「まあまあ」とやっていると制度の論理と批判の論理が崩れてしまいます。批判者が制度に懐柔されてしまいます。もし批判者の影響力が強ければ、制度が本来の目的からずれたものになってしまいます(あるいは内部者は二枚舌を使うようになります)。


それでは合意できないコミュニケーションを行なうことには意味がないのか? つまり、制度内の者はあくまでも制度を存続させようとし、制度の外の者は制度を壊そうとして、それぞれがそれぞれの立場から出ることができないのなら、コミュニケーションは無意味ではないのか、という疑問が生じます。


制度内の者が、制度否定に同意すれば、制度は壊れます。しかし制度内の者は、その機能的制約から、そういったことはできません(制度を否定する制度内の人間は辞職するか解職され、制度から出てしまいます。制度から出た人間は、その制度を内から止める権能を失ってしまいます)。

他方、制度の外の者は、制度存続が必然であるという前提を受け入れることができません。その前提を受け入れるなら、その人はラディカルな批判能力を放棄してしまうからです。それは自らの存在理由である自らの理性の否定です。


繰り返しますが、話題が制度の存廃にある場合、原理的に、制度の内と外の間でのコミュニケーションは合意に至りません。合意は、それぞれの存在の論理の否定です。合意することは、それぞれの言語ゲームのレパートリーにはありません。

ここでかえって合意しようとすれば、それは時に、制度外の人間の変節と豹変、制度内の人間の職務義務違反にしか終わらないのではないかというのが、私の見解です。それは制度外の人間の人格にとっても、制度が果たすべき機能にとっても残念な結果に終わりかねません。


かといって、合意できないなら、片方が他方をつぶすだけだと思い込むなら、制度の内と外の間のコミュニケーションは、お互いに負けられない立場同士での壮絶な闘いになり、コミュニケーションが理性的なものから逸脱し、いつしか醜い権謀術数の争いになりかねません。


それならどうすればいいというのか。


私の考えは、話題が制度の存廃である場合の、制度の内と外の間のコミュニケーションは、どちらかが「勝つ」こともお互いが同意することも目指さないままに、それぞれの立場から主張をし続けることが妥当な選択だというものです。


ですが、その際に二つのことが必要です。

一つは、制度内外の者が、それぞれに自分の立場や論理では決して受け入れることができない相手を、「他者」として尊重した上で、コミュニケーションを続けるということです。つまり制度内の人間は、制度外の人間を、自分の立場からすれば決して受け入れられないが、実は非常に重要なことを言っているかもしれない人間として、自らのシステムの外に存在することを歓迎するということです。自らを苛々させるしかない人間を、制度の外部に存在することが必要な人間として認めるということです。逆に制度の外の人間は、制度内の人間を、自分の理性からすれば決して容認できないが、社会をなんとか存続させるためには必要な仕事をしている人間だとして敬愛することです(これは何らかの秩序が保たれている状態は、無政府状態よりも好ましいという前提に基づいています。本日の議論ではこの前提を疑うことは割愛します)。自ら理解できない制度を運営している人間も、社会の存続のためには必要な人間として認めるということです。

これは制度の内外の人間にとっての倫理的な要請かと思います。しかし、制度内の人間もいつか制度外に出ることもあるでしょう。制度の外の人間が制度の内に入ることもひょっとしたらあるかもしれません。ですから、この倫理的な要請は、それぞれの人間の思考の幅を広げるという利点ももっていることは強調されるべきでしょう。


必要なことの二つ目は、勝敗も合意もないコミュニケーションを、熱心に見続ける観衆の存在です。このコミュニケーションにおいて、直接に発言しない観衆こそが真の自由を有しています。その自由が、適切な判断を可能にします。観衆は、発言しないからといって無力な存在ではありません。観衆こそが適切な判断を下しうる者であり、観衆の一人一人が各々の判断を語り始め、観衆の中でコミュニケーションが始まるときに、powerが生まれます。そしてそのpowerこそが民主政体の権力であり、民主主義ではその権力こそが現存制度の修正や廃止、新制度の創出を行なうことを許されているわけです。

制度の存廃は、制度内外の間でのコミュニケーションの勝敗によっては決定されません。なぜならそのコミュニケーションには、片方が他方を抹殺してしまわない限り、原理的に勝敗はあり得ないからです。制度の存廃は、そのコミュニケーションを見守る観衆の判断と、その判断に基づく観衆の間でのコミュニケーションにより行なわれます。観衆は無力な存在ではないのです。観衆が判断し、語り合ってこそ制度を改変する権力が生じるのです。新たな権力を生むのは制度存廃について議論する制度内外の人間ではありません。

かといって最初から観衆が権力をもっているというものでもないでしょう。制度外からの批判がなければ、観衆は制度の問題の存在にすら気がつかないかもしれません。また制度内からの反論がなければ制度の利点も理解できないかもしれません。なにより観衆が考え判断することを止め、語り始めなければ権力は発生しません。

つまり権力とは人々の「間(あいだ)」にあるといえます。コミュニケーションが、勝敗もつかず、合意も得られないままに継続することによって、言説は循環します。その循環の中で、数々の判断が形成され、その判断に一定の傾向が見られるようになったとき、私たちはそれを具体的な政治制度にします。


制度内の者だけが権力をもっているのではありません。制度の権力は、制度の外の人間に支えられているからです。制度外の者だけが権力を有しているのでもありません。制度内の人間が現行の制度を維持していなければ無政府状態となり、権力ではなく、むき出しの強制力や暴力がこの世を支配してしまうからです。基本的に沈黙を守る大多数の人も、その存在ゆえに権力をもっているわけではありません。数々の言説を聞き、考え、語り合わなければ、権力は生まれてこないからです。

権力は、自由な言説空間で、コミュニケーションが継続される中で発生します。発生した権力はやがて制度の形をとりますが、その制度が健全さを保てるのは、制度の内と外の間のコミュニケーションを許し、かつ他の人間にそのコミュニケーションを公開し、さらにはその観衆が自らの判断を下し、その判断を口にするというコミュニケーションがある限りにおいてです。

つまり権力は、常にコミュニケーションと共にあらねばなりません。コミュニケーションを許さない権力はしばしば恣意的な強制力そして暴力に転じてしまうことは歴史が教える通りです。


英語教育においても、自由で良質なコミュニケーションを通じて、健全な権力が発生し、修正されながら循環してゆくことを願う次第です。



*****

悪癖というのはなかなか治らず、本日も衝動的に文章を書き連ねました。これをもとに、もう少し自分で考えを整理したいと思います。

なお、誤解される方もいないと思いますが、上の論考は一般的なものであり、具体的に特定の誰かを指したりしているものではありません。

今回の論考では、異なるシステム間でのコミュニケーションは合意に至らないという点でルーマン、理解不能なものを「他者」として受け入れる点でレヴィナス、「観衆」の判断の重要性を訴える点でアレント、言説が循環する点でフーコーの影響を受けましたが、これらの理解も、私の誤解に満ちたものかもしれません。現実をより的確に理解するために、抽象的な理論をこれからも学び続けてゆきたいと思います。

また今回の試みは、「差異を前提としたコミュニケーション」が必要であることを訴える上で、以前に書いた拙論「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」とつながっていることも付記させていただきます。



10/11のシンポジウムでお会いできたら幸いです。



追記

以上を書き終えて、自分なりに、わかりやすく要約を試みました。おそまつ。


要約

■制度内の人間は制度を否定するようなことは決して言わない。

■したがって制度の存廃に関わる議論では、決して制度内の人間は負けるわけにはいかず、負けないためにはあらゆる手段を使う。

■他方、制度外の人間は現行制度を新制度に変えるための制度的権限も具体的ノウハウももたない。

■したがって制度外の人間が、制度の存廃に関わる議論に勝ったとしても、それはその場かぎりの勝利に終わる。

■ゆえに制度の存廃に関わる議論は基本的に勝ち負けがつかない構造になっているし、仮に制度外の人間が勝っても、それが制度改革にはつながるとは限らない。

■しかし制度内外の者がお互いに議論をしなければ、制度の改廃の検討すらできない。

■重要なのは議論を見聞きする観衆である。観衆こそはもっとも自由な立場にいる。その立場からの判断を観衆が語り合えば、そこから自然なpowerが発生する。そのpowerこそが制度の改廃を実行できる権力になりうる。

■民主主義制度においては、権力は常に人々の間の自由な議論と共にあらねばならない。













2009年10月2日金曜日

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店

***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


***広報***





この本は読み始めるや、他のやらなければならない仕事もさておき、一気に読んでしました。時期的に非常に重要な英語教育の問題を、具体的に、しかも広い視野から指摘しているからです。

この本は現在、多くの英語教育関係者によって読まれ、この本が提起している問題をきちんと検討するべきだと私は強く思いました。

したがって、この本の内容を少しでも伝えるため、私は以下に、私なりのこの本の内容の再構成を試みました。再構成は、理解しやすいように論文の書き方(背景-問題-方法-結果-結論-課題)に基づきました。

とはいえ、再構成は、本書の内容の中で私が重要と思った論旨に限ったもので、なおかつ、再構成の際に私自身の解釈や言葉遣いが混入していますので、私はこの再構成をこの本の忠実な要約とは考えていません。私なりの内容紹介とお考え下さい。



本書の主内容の再構成


背景
高校英語の新しい学習指導要領の「授業は英語で行なうことを基本とする」に関しては、各種の懸念が表明されているが、英語教育有識者はこれが騒がれたのは「マスコミの誤解」によるものであり、「授業は英語で行なうことを基本とする」というのは新指導要領の主眼ではないとして、事態の沈静化を図っている。


問題とリサーチ・クエスチョン
しかし新指導要領を検討する限り、「授業を英語で行なうこと」はやはり新指導要領の重要部分であり、むしろマスコミはきちんと報道したと言える。このことからすれば、逆に英語教育有識者の言説の方こそが批判的に検討されるべきである。はたして英語教育有識者の言説および新指導要領は、日本の現状を的確に捉えたものであろうか?


方法
英語教育の有力メディア2つにそれぞれ掲載された、英語教育有識者の記事(1つはインタビュー、もう1つは座談会)および新指導要領を、各種データや文献が示す日本の現状によって精査し、かつ記事と指導要領自体の整合性を検討する。


結果
(みなさん、それぞれにお読みになって確かめて下さい)


結論
新指導要領は矛盾にみちたものである。「英語で行なう授業」を前面にふりかざした指導要領が、生徒の知的レベルや知的関心に合わない教科書を生み出し、その結果、生徒の学習意欲を削ぎ、ますます英語学力を低下させることが懸念される。


今後の課題
今回の検討は、制度化された権力によるメディア・コントロールへの批判的抵抗の一つとしてとらえることができる。チョムスキーが言うように「俗説に賛成するには5分で済むが、それがなぜ間違っているかを説明するには50分(あるいはそれ以上)が必要」であり、ことばの教師としての英語教師は、英語教育という自らの専門分野で、自ら批判的に読み書きする能力を高め、学習者にもその能力を伝授する必要がある。







私のコメント

以上の内容再構成に即して、私の個人的見解を述べます。

背景は、目から鱗であった。私も「授業は英語で行なうことを基本とする」に関してはパブリックコメントで懸念を表明し、事態を注視していたつもりだったが、その後の英語教育有識者の見解を聞くにつれ、これは新指導要領の柱ではなく、取り立てて問題視する必要もないと信じるようになった。しかし寺島氏の指摘により、公式文書としての新指導要領を改めて読むなら、「授業は英語で」は新指導要領の柱であることが明らかであることが判明する(私は自らの不明を恥じる次第です)。


このように関係者の懐柔的なコメントと、公式文書の文字通りの意味が異なる場合、事態はいつのまにか公式性の高い公式文書が文字通りに示すようになり、耳障りのよいコメントはいつしか消えてしまう前例はある。

したがってこの『英語教育が亡びるとき』の議論は重要な意味をもち、多くの読者によりその妥当性が検討される必要がある。


方法は、英語教師の教育環境・労働条件・教員養成なども入れた広範囲の背景から事実検証が行なわれ、かつ丁寧な引用に基づき論理的整合性を検討しており、妥当性および信頼性において適切であると考えられる。


結果は、私は数点の留保点を除いてはおおむね寺島氏の分析に賛同できた。このあたりはぜひ読者1人1人がよく考えながら読んで検討していただきたい。


結論について述べるなら、新指導要領の問題点を指摘する以上に重要なのは、私たちが確かな英語教育の学力観を持ち合わせていないこと、あるいは共有していないことを(再)認識することである。日本の英語教育が地に足のついた思考によって支えられていないことが、英語教育の最大の問題の一つである。


今後の課題のメディア・コントロールも教育上の大きな論点であるが、日本においては「政治的配慮」からこういった論点について思考停止になることがしばしば推奨されている。だがこれは民主主義の放棄であり、本格的政権交代を目の当たりにした現在、私たちは政治を敬遠するのではなく、身近なものとして語る術をこれまで以上に学ばなければならない。とはいえ、これまで培われた私たちの政治的偏見を払拭することは容易ではない。したがって、本書を読む順番としては、英語教育を扱った第2章と第3章を先に読み、英語教育というトピックでの具体的な問題を十分認識した上で、メディア・コントロールを扱った第1章を読むという順番が、多くの英語教育関係者にとっては適切かもしれない。



⇒『英語教育が亡びるとき』


⇒寺島隆吉先生の著作


⇒寺島隆吉先生のホームページ(英語教育関連)


⇒寺島研究室「別館」(平和研究関係)