2009年7月31日金曜日

NHK高校講座ベーシック10

NHK高校講座ベーシック10とは、学習につまづいている高校生のために、中学校までの学習をもう一度学び直すための番組です。

私は恥ずかしながら、さっきまで知らなかったのですが、この番組は非常によくできており、しかもウェブ上で無料公開されています。







生徒のとりあえずのやる気を引き出すためのエンターテイメントのセンスはとてもよく、アニメや俳優だけでなく、オードリーも出て、極めて多彩です。





英語に関しては、STEP1から10まで分れています。

STEP1では、bとdの違いにつまづく生徒のためのアルファベット再入門、「ヘビー」や「ホリデー」などの日本語化した英語の意味、STEP2では、「エ」の発音を表すeとea、「オー」の発音を表すaとauなどが扱われ、STEP10では現在完了進行形などまで扱われます。





この「さっそく学ぶ」を見ればわかるように、ビデオクリップの後には、練習・発展問題がついています。

もちろん、このウェブだけで、これまで英語につまずいていた生徒が急に英語ができるようになるとは言いませんが、教師がこのプログラムをうまく使いこなし、補充解説や習熟のための練習問題、さらには発展的課題などを補ってやれば、困難な状況での英語教育を進める一助にはなるかもしれません。


市場原理主義者なら、市場は必要なものはすべて供給してくれるとでも言うかもしれませんが、残念ながら市場は利益のないところに商品は供給しません。現在、とても悲しいことに、教育困難校向けの商品は非常に少ないありさまです(その背後にあるあからさまな社会的背景については、ここでは繰り返しません)。


宇沢弘文先生の『社会的共通資本』岩波新書の指摘を待つまでもなく、教育とは公共的な営みです。


学ぶことに多大な障害を感じている学習者、そしてそんな学習者を支援するために毎日精根尽き果てるまで働いている教師を、社会全体で応援する動きを加速したく思います。







追伸
「ベーシック」ではない通常の「NHK高校講座」はこちらです。こちらでもテレビ番組とラジオ番組(昨年度の再放送)が無料でウェブ公開されています。













2009年7月28日火曜日

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年、医学書院)があまりに面白かったので、この本、浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年医学書院)も買ってみました。上述書より前に出版された本で、べてるの家の関連図書としては代表的なものだそうです。


この本も深く、読みながら私はどんどんと自分の人間としてのあり方を問われました(しかしそれでも重くならないところが、べてるの家のすごいところだと思います)。


あり方を問われるのは、この本がさまざまな逆説を呈してくるからです。世間一般の固定観念とはおよそ逆の言葉が出てきますが、それがレトリック上の誇張ではなく、現実の、しかも長年の経験に基づいているだけに、読む人間を揺さぶります。

例えば、以下は「弱さ」に関する一節です。


弱さとは、強さが弱体化したものではない。弱さとは、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある ― このように、べてるの家には独特の「弱さの文化」がある。
「強いこと」「正しいこと」に支配された価値のなかで「人間とは弱いものなのだ」という事実に向き合い、そのなかで「弱さ」のもつ可能性と底力を用いた生き方を選択する。そんな暮らしの文化を育て上げてきたのだと思う。(向谷地生良「弱さを絆に」196ページ)


この他にも逆説は、ビジネスについて、能率について、過疎について、差別・偏見・誤解について、逆境について、病気について、精神障害についてなどなど、きわめて具体的に語られます。どうぞこれらについては同書を実際に読んで味わってみて下さい。



ここではこの本を、私の現在の研究テーマの一つである「語り」 (narrative) の観点からまとめてみることにします。そのまとめは、これまで私なりに考えてきた「ことば」、「ことばの関係性」、「ことばのpower (活力・力・権力)」、「コミュニケーション」といった概念を使いつつ、かつ、べてるの家が実践している「当事者研究」についてもまとめてみたいと思います。

まとめの概略を予め申し上げますと、べてるの家で行なわれている重要なことは、当事者(その多くは精神障害で苦しむ人間)が、(1) ことばを獲得することであるが、それは言語学的な意味での言語獲得とは異なり、(2) 他人との関係性を獲得することであり、それにより当事者は (3) 力を獲得するが、(4) そのプロセスはリハビリテーションというよりはコミュニケーションであり、(5) 当事者研究という方法はそのコミュニケーションを促進する優れた方法である、ということになるかと思います。


(1) ことばの獲得

べてるの家での言語使用の特徴は、「病名」を医者でなく、当事者自身が命名するということです。往々にしてその病名は、医者の学術的な病名を一部に含みつつも、当事者本人の生活実感やユーモアを込めたものになっています。これは実は当事者のアイデンティティを決定するのは誰かという問題です。


ワークショップでの「病名」はまさしく、その人たちの置かれた状況そのものだった。病気になって、病名がつく。このことは医師の専権事項ともいえる領域であり、従来から当事者の入り込む素地はまったくなかった。しかし浦河は、病名は、自分のいままでの生きた歴史と、これからの生き方に連なる大切なシンボルとしての意味をもっている。
「病名」は、医師が診断した医学的な事実やたんなる忌まわしい記憶としてでなく、一人の人間として賢明に生きてきた証としてある。精神病という病気の体験が誇りをもって紹介され伝えられるべきものとしての「病名」である。(向谷地生良「自分で付けよう自分の病名」108ページ)


こうして当事者は、医者に学術的病名でアイデンティティを外から規定される受動的な存在から、アイデンティティを自己選択する能動的な存在へと皮ってゆきます。

しかし、その前に当事者は、もっと身近なことばを獲得しておく(あるいは取り戻しておく)必要があります。精神障害に苦しむ当事者は、しばしば「寂しい」や「うらやましい」といったことばさえ自ら抑圧しているからです。

過酷な家庭環境などから、被害妄想に苦しむようになった下野勉さんは、次のように述懐します。


浦河に来た当初は、自分のなかの「寂しい」という気持ちにもまったく気がつきませんでした。 (中略) 「うらやましい」という感情は、自分のなかでは「禁句」だったのです。 (中略) しかし、浦河で人のあたたかさに触れたとき、ごく自然にまわりの人を「すごくうらやましく」思うようになりました。すると、自分も「人と話したい・・・」と思うようになってきました。
最近、川村先生からも「下野くん、日本語うまくなったね」と言われます。(下野勉「ことばを得るということ」127ページ)


前に述べたように、ここでのことばの獲得とは、音声学的獲得や統語論的獲得でもありません。意味論的な獲得でもないといえるでしょう。彼も「寂しい」「うらやましい」という語彙自体の辞書的な意味は知っていたはずだからです。ここでのことばの獲得は、言語使用の観点からの獲得です(そしてこれは現在の標準的な言語獲得観ではありません)。

ですがそのような具体的で人格的なコミットメントを必要とする言語使用こそが、べてるの家の暮らしの核にあります。べてるの家(所在地名から以下しばしば「浦河」と呼ばれる)に関わる精神科医の川村敏明さんも次のように証言します。


いま浦河でやっているのは、病気であるかどうか以前に、本人の苦しい経験や思いを初めて人に伝えた、自分の言葉として発したということです。(川村敏明「病気ってなんですか?」231ページ)

下野くんに限らず、そういう人たちが何人も出てきて、ぼくたちも言葉の大事さということを思いますよね。だから、患者さんに対する見方も変わってきた。この人はまだ言葉を覚えていないなとか、病気を治すよりもまず言葉を覚えさせたいとか、それができるようになると全然変わっちゃうなとか。(川村敏明「病気ってなんですか?」247ページ)


別箇所で川村さんが言い切るように「言葉を獲得していくプロセスが大事なんだ」(川村敏明「病気ってなんですか?」247ページ)というわけです。

べてるの家について学ぶにつれわかるのは、いわゆる精神障害が、「普通」とされている現代生活の延長上にあり、私たちは―精神障害があろうとなかろうと―同じ地平に立っていることだということです。

川村さんも、ことばの獲得、コミュニケーションの成立が、「普通」の人にとっても大きな問題であることを指摘します。


だから精神病の治療の世界というのは、基本的には、日本語学校というか、コミュニケーション教室にみんなが参加しているようなものです。それは、病気している人でも、病気でない人でも同じですよ。
ぼくらも言葉を知らないんです。わかっているようでいて、大事な場面に大事な思いをきちんと出せるようなコミュニケーションを知らないっていうか。(川村敏明「病気ってなんですか?」248ページ)


べてるの家が提起している問題は、現代言語学の標準的な言語獲得観以外にも、じゅうような言語獲得観があるのではないかであると換言できるかと私は考えます。



(2) 関係の獲得

かくしてべてるの家の当事者は「ことばを獲得」するわけですが、それは同時に他人との関係性を獲得することでもあります。考えてみればこれは当たり前のことです。言語は、言語学的に考えれば自律した存在とみなすことも可能ですが、言語という記号は、その使用者と世界のありようを媒介するものであり、言語という記号は使用者をたえず何かと結びつけ、関係づけるからです。

べてるの家の当事者は、関係のなかでも、特に他人との関係に問題を抱えてきました。


そんな[べてるの家の]メンバーの過去の挫折や行きづまりを見ていると、彼らが「関係」に挫折してきたことがわかる。それは他者との関係であり、自分との関係だ。
だから関係に挫折し、自身をうしなってきた一人ひとりが、持てる力を発揮するためには、「関係」において回復し、関係のなかで自信をとりもどしていくしかない。その意味で「ミーティング」とは、問題を出し合い解決する場ではなく、傷つき、自信を失いやすい者たちがお互いを励まし合うプログラムとしてある。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」94ページ)


「三度の飯よりミーティング」という有名になったフレーズが示すように、向谷地さんは、「このべてるを支えてきたのはただ一つのことである。「ミーティング」をすることであり、「話し合う力」を育てることだ。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」92ページ)」と断言します。

このミーティングとは、仕事をやる中(あるいは暮らしを重ねてゆく中)で生じてくる事柄について語り合うことですが、このやり方についても、もちろんさまざまなノウハウがあります。そのなかでも大きなことは、語り合いを「問題解決」や「原因追求」あるいは「犯人捜し」にしないことかと思います。ミーティングは、(1)みんなで「今週の良かった点」を出し合い、次に(2)「今週の苦労人」で自分の苦労を語り、最後に(3)「さらに良くする点」で仕事を通じて感じたり気づいたことを出しあうことを主なプロセスとしています。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」96-97ページ)。なぜなら「『話し合う』ということは、大切な自己表現の場であると同時に、支え合いの場でもある。(向谷地生良「三度の飯よりミーティング」97ページ)」からです。

「ミーティング」といっても、近代社会が得意とする目的合理主義・目標合理主義に基づいての、原因の特定→原因の削除→問題解決という思考法はとらないものであるということは、強調しておく必要があるでしょう。目的合理主義・目標合理主義的な言語使用も、私たちは発展させてきていますが、べてるの家ではそれよりももっと原初的な関係性の構築と維持という言語使用を第一義においているわけです。




(3) 力 (power) の獲得

そうしてお互いが関係性において結びついた、しかし自由で開かれた空間で、ことばが人格的に語られると―ことばの表現に自分のあり方を委ね、そのことば=自らのあり方を他人に受け入れてもらおうとすると―、そこにはpowerが生まれるというのは、ハンナ・アレントが言うことでもあります。


アレントのpowerは日本語にある意味訳しにくいことばです。アレントが『人間の条件』で語っている文脈では、私は翻訳書のように「権力」でなく、「活力」と訳し、「自由で開かれた言論空間には活力が生じる」とでも表現した方が、日本語としては自然だと思っています。しかし、そのような活力こそが民主主義の権力の正当性・正統性の基盤であることからすれば、上記の文も敢えて「権力」と訳して、「権力」という日本語に、「制度的で強制的な力」以外の、「民主的で自発的な力」という意味を加える努力をした方がいいのかもしれません。ですが、ここではアレント的な意味でのpowerを「力」と表現して、べてるの家についてのまとめを続けたいと思います。

精神障害者として、行き場を失い、自暴自棄になっていた当事者が、ことばを獲得することで得るのは、関係性だけでなく力でもあります。その力によって当事者は「回復」を始めます―実はこの「回復」が意味するところも深いのですが、それは別の話とさせてください。

「回復は語ることからはじまる」というのが浦河[=べてるの家の所在地]の伝統でもある。(向谷地生良「所得倍増計画《プロジェクトB》」82ページ)と向谷地さんは語りますが、それは他人に向けて語り、その語りをどういった形であり他人に受けとめられ―たいていは病気や苦労を肯定的に受け入れられるが、常に語り手の言い分が無条件あるいは教条的に肯定されるわけではない―、そこからの「力」で語り手が、これまでどうしても変えることができなかった自分を変えるようです。

幻聴で苦しみ、現代社会に適応不良を起こす清水さんは次のように語っています。


ダメな自分を受け入れるきっかけは、なんといっても「人と話す」ことでした。自分以外の人の話を聴くことで自分ではどうしても切れなかった悩みの悪循環を断ち切ることができたように思います。(清水里香「諦めが肝心」117ページ)

仲間との出会いとともに、いままで積もり積もっていた思いを講演で話したり、自分の言葉にして話すようになって、誰にも言えなかった悩みのプロセスが少しずつ消化されるようになりました。(清水里香「諦めが肝心」118ページ)

※ちなみにこの「諦めが肝心」はすばらしい語り(narrative)です。ぜひお読みください。


同じように統合失調症の幻聴(自己命名では「悪魔」)に苦しんでいた本多さんも、「自分のことを人に話すことがこんなに気分のいいことだとは思いませんでした」((向谷地生良「所得倍増計画《プロジェクトB》」82ページ)と語っています。

前述の下野さんも、語ることの力はクスリの力よりも大きいと語ります。


ぼくは人に話せないぶん、クスリに対する依存度が他人よりも多くなったにすぎません。話のできる人は、クスリなんか必要ありません。話すだけで気持ちよくなれるはずです。((下野勉「ことばを得るということ」124ページ)


この「力」は、ことばを単なる形式的記号体系としてではなく、人格の表現として、他人との関係の中で、そして自分自身との関係の中で使用し続けて、そのことばを成熟させることにより生じているとも言えるでしょう。

精神科医の川村さんも次のようにまとめています。


どこかで聞いた言葉を、一回自分のからだを通して、フィルターを通して、洗練させた言葉というか、自分の生きた言葉につくりかえていく。そして自分の言葉にできたときに、やっと自分が、こう、力が湧いてくるような、そんなことをしているんじゃないかなと。本当に言葉が、みんなで使って交わる言葉が、本当に生きた言葉としてみんなが使えるようになってきているんじゃないかと思うんですね。(川村敏明「病気って何ですか?」245ページ)


べてるの家での「ことばの獲得」とは、まさに話し手と、聞き手(および話し手自身)との関係性の中での人格的言語使用―つまりはコミュニケーション―であり、そのコミュニケーションこそが言語使用の時空に力を与えるのだとまとめられるかと思います。



(4) コミュニケーションをリハビリテーションとの違いから考える

こうして私たちは、べてるの家での営みを通じてコミュニケーションについて考えを深めましたが、このコミュニケーション観は本書の185ページの表(「リハビリテーション」と「コミュニケーション」の違い)に簡潔にまとめられています。ここではそれを部分的に再掲します(「具体的な対応」と「地域に対する働きかけ」の項目は割愛しました)。まとめは的確ですが、この表だけではわかりにくいところもあるかもしれません。その場合は、ぜひ本書をご自身でお読みください。

リハビリテーション
コミュニケーション
理念
▲トータルリハビリテーション(医学的リハ・職業リハ・社会的リハの統合)
▲精神障害者の全人間的復権、回復
▼トータルコミュニケーション(心・身体・自己・他者・地域・社会・歴史との和解、共生的関係の創出)
▼「場」全体の拡幅
▼精神障害者、家族、地域等のつながりの回復
理念の
イメージ
▲右上がりに段階的に回復していく
▲障害になっている部分の改善をはかる
▲専門家による専門的介入
▲障害になっている部分や問題に着目する
▼右下がりに降り、深まっていく
▼もろさや弱さを人間の要素として受容する
▼非専門家による常識的関与を促す
▼健康な部分や良いところに気づく
▼否定的な現状のなかにも可能性を感じることができる
対象
▲精神障害者を治療・援助の対象とする
▼援助の対象は障害者と固定せず、常にその場で一番困っている人、励ましや支援を必要としている人
人間関係
のレベル
▲コミュニケーションにおける二重の基準(職員と当事者との人間関係を別な次元でとらえる)
▲公私の区別の明確化(専門職としての役割を職場に限定)
▲精神障害者を対象にSocial Skills Training; SSTを実施し、生活技能の向上に努める。
▲精神障害者の自立を促す関係づくり
▼コミュニケーションの一元化(職員と当事者との人間関係を一体的にとらえる)
▼公私一体の関係(専門職としての知識や経験を公私で活かす)
▼コミュニケーション技能の向上を全体の課題と考え、職員もProfessional Skills Training; PST [精神障害者が受けるSocial Skills Trainingの職員版]を実施する
▼相互に自律的な人間関係づくりを大切にする

べてるの家でのコミュニケーション観からすると、私たちの近代生活的コミュニケーション観は、むしろリハビリテーション観に近いのではないかとも思えてきます。学校にせよ何にせよ、私たちはもう少し支配・制御・権力について敏感に考えるべきなのかもしれません。



(5) 当事者研究という語り

このようなコミュニケーションを通じて、べてるの家のメンバーは自らの生き方を見出したのですが、このコミュニケーションあるいは語りにおいては当事者研究の方法が有効なようです。

ここでは向谷地さんの「なぜ<研究>という形をとるのか」(158-161ページ)の論考を私なりに、自分の言葉も加えつつまとめます。

従来「研究」とは、「客観的な研究方法」を学術的に身につけた専門家(研究者や医者)が行なうものであり、「当事者」とは、「被験者・被検者」(subject=支配下にあるもの、従属している者)、あるいはせいぜい「調査協力者」(participant)でしかありませんでした。

しかし前の記事でも書きましたが、もし人間科学が「意味」を扱うものなのだとしたら、その「意味」の解明には当事者が不可欠です。当事者研究はそこを一歩進めて、当事者を研究の主体として、当事者でしかわかりえないような解明を行なうと同時に、その当事者=研究者という主体の解放を目指します。私はこれまでExploratory Practiceについて、Action Researchなどと対比させながらいろいろ考えてきましたが、当事者研究とExploratory Practiceについて比較検討してもいろいろと意義深いことがわかるのではないかとも思っています。




当事者研究は(Exploratory Practice同様)、孤独な空間で、プライベート(私秘的)に「自分の内面を見つめ直す」とか「反省する」とかひいては「自分を責める」ことを意味しません。そういった閉ざされた営みは、当事者をさらに追い込み、症状の悪化にしばしばつながるからです。

ですから、この自己探究をあえて「研究」と名付けて、自分自身と距離を取ります。


彼[=河崎寛さん]は自分を見つめ反省しすぎることで、爆発してしまう。だからこそ、自分自身の爆発してしまう「つらさ」をいったん自分の外に出し、研究対象として見つめる(「外在化」する」というスタンスに意味があったのです。(向谷地生良「なぜ<研究>という形をとるのか」159ページ)


さらに、当事者研究は共同研究のスタイルをとることにより、より一層当事者が自分自身との距離感を保つこともできます(同160ページ)。

加えて、「研究」という形をすることによって、当事者は個人の問題を離れて、広く社会に存在する似たような問題に苦しむ人たちに語りかけることができます。これが当事者に一層の開放感・自由そして連帯感と力を与えているように思えます。


もうひとつに彼[=河崎寛さん]に<研究>を勧めるときに言ったのは、「研究という形をとることで、生きづらさをかかえて爆発している多くの仲間たちを代表して、そういう仲間たちと連体詞ながら、自分のテーマに迫っていけるのではないか」ということです。<研究>として爆発のメカニズムを理論立てて考えることで、内容が普遍化・社会化され、河崎寛さんがおこなった自分自身の研究でありながら、河崎寛さんを超えた研究となれるからです。(向谷地生良「なぜ<研究>という形をとるのか」159ページ)


当事者研究という研究スタイルを、「際物」として扱うのではなく、人間科学の有効な方法論の一つとして考えるべきなのかもしれません。「科学」という言葉が重すぎれば、人間研究でも結構です。いずれにせよ科学・研究という営みが、誰のためになされるのか、という問いを真剣に考えれば、当事者研究は看過できない研究方法だと私は考えます。



以上のまとめは、本書の一部についてであり、かつ私の偏見や歪みが入ったものです。ご興味をもった方はぜひご自分でゆっくり本書をお読みください。




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2009年7月24日金曜日

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)

この本は,ここ数年間で私が読んだ本の中で,最も深い本かもしれません。人間についていろいろと考えさせられました。そして読後,自分がずいぶん自由になっていることに気がつきました。

「べてるの家」とは,1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点です。この本はそこで暮らす人々が,医療関係者やソーシャルワーカーの協力を得ながらも,あくまでも「当事者」として,自らの症状を研究するものです。

べてるの家のホームページ「べてるの家とは
ウィキペディアの解説「べてるの家


この「当事者研究」は,べてるの家のソーシャルワーカーである向谷地生良氏のまとめに従えば,5つの特徴をもちます(4-5ページ)。その特徴は,私なりに言い換えますと--私なりのまとめですから,正確を期すためには必ず実際に本を読んで下さい!--,次のようになります。



(1) 症状と人間を,切り離し可能なものとして考える: 症状と人間を不可分なものとしてみるのではなく,症状が,たまたま現在(あるいは長年)その人にやってきたものとしてみなす。

(2) 症状に自分でぴったりと思える名前をつける: 学術的な名前ではなく,自分が経験している症状の意味や状況をうまく取り入れた名前を症状につける(例,突然どこからともなく聞こえてくる声は「幻聴さん」,突然わきおこってくる否定的思考は「お客さん」,「幻聴さん」や「お客さん」の訪問により強迫的に繰り返される行動は「くどうくどき」など。63ページ)

(3) 症状にまつわる一連の出来事のプロセス・構造の解明: 反復されるプロセスの構造を幅広い視野から明らかにして,その症状がもつ「可能性」や「意味」を探る。

(4) 自分が自分を助けるにはどうするかを考える: 他者(専門家や仲間)に助けてもらうのではなく,自分が自分のために何ができるかを具体的に考え,練習する。

(5) ふり返る: 以上の分析と対応を実践し,その結果を検証し,仲間と共有する。



「精神障害者が,自分の症状について考える」などと言いますと,それは「科学」とは最も縁遠い行為のようにも思えますが,私はこれは,人間を研究する「人間科学」としては,極めて「科学的」なアプローチだとさえいえると思います。

私はここで「科学」の前に「人間」という言葉を追加して「人間科学」という用語を使っていますが,この言葉の追加によって,「科学」はどのように変わってくるのでしょう。「科学」と「人間科学」はどう違うのでしょう。

まずは人間科学は,科学を否定するものではないことを確認しておかねばなりません。べてるの家で活躍する精神科医の川村敏明氏も,精神医学における分子レベルでの医学研究の大切さを第一に認めます(263ページ)。

ですが川村氏はこう続けます。


精神病に限らず,病気にはある意味で人間が根源的に抱えている,人間としての弱さなりから生まれてくる,とても大切な安全装置みたいな意味をもった部分があります。そんなものまでなくしてしまうような技術というのは,少し行きすぎているのではないか。「病気になってはいけない」という,否定的な捉え方に基づいた治療方法は,人間の存在を妙なかたちでコントロールするものになるのではないかと思います。 (263ページ)

※同書のこの箇所は,医学書院のホームページでも読むことができます。この他にも非常に深い言葉がちりばめられていますので,ぜひお読みください。


向谷地氏も,従来の医療の偏りを指摘します。

従来の医療は,「この患者さんの抱えているこの苦痛を,いま取ってあげなくてはならない」という急性疾患への対処を中心に組み立てられたモデルのなかにあります。一方,いわゆる慢性疾患の場合,患者さんたちは病を抱えながら生きていかなければならないわけです。278ページ


「病を抱えながら生きる人間」は,その経験に「意味」を見出そうとします。これこそ単なる物理的・生理学的対象として捉えた「ヒト」とは異なる,「ヒト」以上の,現実世界の「人間」ではないでしょうか。もし「人間」に対して,特定の価値観にしばられずに,虚心坦懐に分析をしようとするなら--つまりは「科学的」にアプローチしようとするなら--,分析者は「ヒト」を越えて,その「人間」が感じ取っている「意味」を分析の対象にしなければならないでしょう。

本書の「当事者研究」は,まさに当事者が中心となって,症状に苦しみながらも,一方でできるだけ症状と症状に苦しむ自分を突き放して考え,その病の「意味」を解明するという点で,「人間科学」であるといえると私は考えます。

「人間科学」という言葉がお嫌いでしたら,「精神の生態学」と言ってもよいかと思います。この当事者研究は,精神つまりは心の有様を,その心がおかれた状況・環境の中で正確に理解しようという"ecology of mind"とも言えると私は思うからです。

精神の生態学」というのは,もちろんベイトソンの著作のタイトルでもあります(原題はSteps to an Ecology of Mind)。

この本の中でベイトソンは,アルコール依存症などに関する卓越した分析をしていますが,べてるの家の当事者研究も,その分析に通じる見解を多く示していました(ですが,私はこのベイトソンの著作をまだまだ十分に読みこなしていないので,今後機会を見つけて丁寧に読んで,その読書を通じてきちんと考えようと思っています)。


「精神障害者が自分の病気について考える!」という,世間の常識をひっくり返すような方法は,実は至極まっとうな方法であり,その知見の一部は20世紀を代表する知性でもあるベイトソンとも重なるのではないかというのが,私の正直な読後の感想です。「当事者研究」というのは,「人間科学」として注目すべき方法の1つかと思います(実際,私が「当事者研究」という用語を初めてしったのは,ある質的心理学の本を読んでのことでした)。


他方,現代社会で標準的とされている,分子レベル研究により生成された薬剤投与中心の医学的アプローチの方にこそ,若干の問い直しが必要なのかもしれません。

医学の「標準的」アプローチは,幻聴にせよ,摂食障害にせよ,被害妄想にせよ,逃亡癖にせよ,自己虐待にせよ,それらの症状は,とにかく投薬によって消滅させるべきものとしてたいていの場合考えます。

ある意味,それももっともなことです。このような症状は,世間的に考えれば,とても歓迎されるものではないからです。しかし,当事者研究によって,これらの症状にも次のような「意味」が見出されました。


「自分自身の感情」を(意識上にあらわれる前の時点で)封殺・封印することで生き延びてきたヒトが,実はその感情が生々しく蓄積されていること,それがじわじわと溢れ出していることに気づいて大混乱に陥り,自分という存在を守るためになんとかそれを封印しなおそうと必死で獲得した「生きるための技術」--それが摂食障害である。(渡辺瑞穂「摂食障害の研究」22ページ)


[買い物依存からの]金欠の研究をしてみて,これは,コミュニケーションの技がなければできない技であることがわかった。とくにぼくが共同生活で生活を始めて仲間の部屋をまわって金策を重ねた結果,住居全体のコミュニケーションが活発になり感謝された。じつは,ぼくが入居している共同住居は入居者の交流が乏しく,それが課題となっていた。(坂雅則「生活の"質"(しち)の研究」54ページ)


幻聴と被害妄想は,「空虚さ」というわたしのこころの隙間を埋め尽くし,「生きていることの虚しさ」という現実からわたしを避難させるという役割を果たしていたといえるのではないか。(清水里香「被害妄想の研究」98ページ)


したがってこのテーマは,精神科医に頼んで「被害妄想という症状を治してもらう」というような単純なものでは決してない。なぜならば,それは自分が被害妄想にまみれた「幻聴の世界」で生きることを選ぶのか,それとも,人間関係の苦労をともなう生々しい「現実の世界」で生きることを選ぶのかという「選択の仕方」なのだと考えるからである。つまり,幻聴は時としてさまざまな不快でつらい体験をもたらすが,一方では,先にも述べたように私たちが「依存」している部分もあるからである。(清水里香「被害妄想の研究」106ページ)


じつはわたしの「逃亡」は,巷に蔓延している「引きこもり」や「ネット集団自殺」などにも通じるような気がしている。逃げるということは,何かに追われているということでもあるが,その一方では何かに見切りをつけていることでもあるだろう。(荻野仁「逃亡の研究I」145-146ページ)


自分のプロフィールを明らかにしてゆくなかで見えてきたのは,先にも述べたように,自分は「自己演出」をしてきたのではないかということだった。たとえばぼくは,パフォーマンスがエスカレートして保護室に入る際に,「いかにしたら出られるか」とはいっさい考えなかった。目的は一つ,「どうしたら退屈をしのぎ,かまってもらえるか」だけである。そこに全エネルギーをかけるのが毎日の日課だった。(藤田卓史「マスクの研究」216ページ)


「自己虐待」とは,自分に対する精神的・心理的・身体的な暴力である。そこにはつねに他者へのコントロール欲求がある。つまり,注目してほしかったり,かまってもらいたかったりする「想い」を言語化できず,自分の思うとおりの反応が相手から返ってこないと,ストレスが溜まっていく。そのような状況が続いていくと,自己破壊的手段でしか自分を救えなくなるのである。(吉井浩一「『自己虐待』の研究」223ページ)




ある精神障害者の息子を抱える母親は,こういった「意味」の発見に驚き,実は正さなければならなかったのは,母親である自分の価値観ではなかったのかと省察するにも至っています(中山周「『当事者』としてのわたしは,何に悩み,苦しんできたのか」243-251ページ)。

こうした,「世間的な常識」という固定観念から自由な考察を前にすると,むしろ精神障害の症状をとにかく薬で消滅させてしまおうという医学的アプローチの方が,一定の価値観に固定されたイデオロギー的であるとも思えてきます。ひょっとしたら精神障害の症状を消滅させてしまおうというアプローチは,「科学」というよりは,現代の支配的価値観に基づく"social engineering" (a concept in political science that refers to efforts to influence popular attitudes and social behavior on a large scale, whether by governments or private groups.) --支配のための工学--ではないかとも思えてきます(フーコーもきちんと読まなくっちゃ 汗)。


いずれにせよ当事者研究で,「精神障害者」と呼ばれる人たちは,「問う」という営みを獲得しました。これこそが当事者研究で大切なこと,と向谷地氏は考えています(3ページ)。

またこの本では,「精神障害者」が一人の人間として,実名と写真を堂々と出して,自分の研究の文章を公開しています。この本によって,精神障害がずっと身近なもの--私や世間一般の人々とつながった存在--として見ることが容易になったことは,この本を読んだことの思わぬ副産物でした。


医学書院のホームページにはこの本の詳しい解説もあります。決して悲壮な本でも堅苦しい本でもありません。むしろ当事者の,自らを客観的に見ようとする中で示すユーモアに何度も笑ってしまう本です。ぜひ皆さんも,手にとって,ゆっくり考え,感じながら読んで下さい。







浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)

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2009年7月21日火曜日

石川遼選手のタイガー・ウッズ選手評

毎日新聞 (2009年7月20日) 朝刊は、全英オープンに出場した石川遼選手(17)の、タイガー・ウッズ選手(33)についてのコメントを次のように報じています。


姿勢がきれいなのが印象的だった。
頭から腰まで一直線で、足だけが前へ進んでいく。
あんなに美しい歩き方をする人を見たことがない。


私もこれまで何人かの人の立ち居振る舞いに見ほれたことがあります。すっとした姿勢に、自分の心と頭まですっきりさせてもらったように思ったことがあります。その方達は、いずれもそれぞれの道を極めた人でした。

私はこういった観点を、高岡英夫氏の著作から学ばせていただきましたが、身体作法というのは本来、日本文化が誇ってきたものかと思います。せめてこれ以上、先達の文化を劣化させることのないよう、まずは自らの心身を整えなければと思いますが、それより先に研究室の掃除をしろ、オマエは(←自己ツッコミによる自爆)。





保守派の皆様、含羞を取り戻して下さい

最近の「ネウヨ」(自称「右翼」あるいは「保守」)が、実は社会的には不幸で、周りからあまり相手にされていない「ナショナリスト」ではないかというのは、最近、内田樹氏が、「ナショナリストとパトリオット」で示唆している通りです。


「パトリオット」は、家庭にせよ職場にせよ、小集団にせよ地域社会にせよ、そこに帰属し、そこへの義務・職務を黙々と果たすことに喜びを見出し、そうして他人にかけがえのない人たちとして認められています。かくして「パトリオット」は、その帰属愛を、郷土、国家へと拡張します。また愛は自然と広く豊かなものになるものですから、「パトリオット」が「国際社会」や「人類」といったより大きな単位を愛することにはなんの矛盾もありません。

一方「ナショナリスト」は、家庭、職場、友人関係、地域社会などで不全感を感じ、そこで相手にされない孤独感から、現実逃避的に、幻想的な「ネイション」(国民、国家)に所属する者として(そしてそこへの幻想的な所属にしかリアリティを感じられない者として)自己同定します。そして自らの「ネイション」(国民、国家)の正しさ・清らかさ・美しさ叫び続けます(あるいは叫ぶことを選ばない「ナショナリスト」は、聖人君子のような口調で、しかし不気味なほどにネチネチと自らの正しさと清らかさを訴え続けます)。そうして自己と同一視した「ネイション」の正しさ・清らかさ・美しさを「証明」するために、他の「ネイション」をけなし続け、それに同調しない人々を誹謗し続けます。


そういった「ナショナリスト」については、上述の内田氏のブログ記事を読んでいただきたいのですが、私がここで取り上げたいのは、そういった浅薄なネウヨ的ナショナリストの大量発生の一因は、重厚たるべき保守の人々が近年劣化しているからではないかということです。



私は以前、よく一般論として、自分が理論的に共感するのはどちらかというと左翼的な思想であることが多いが、人間的に共感できるのは右翼の人間であることが多い、と思っていました。右翼あるいは保守派の人たちには、理屈優先の左翼人には見られない、奥の深さ、懐の深さ、寛容さ、清濁併せ呑むことができる器量を感じることができることが多かったように思います。

ところがネウヨは論外にせよ、最近の右翼、保守派の人々の多くに関して、私はそういった人間的敬意を感じることができません。最近は右翼、保守派の方が、固陋で狭量、短絡的で単純、教条的で党派的、官僚的で形式的、未熟で小児的であるように私には思えます。昔はそういった批判は、主に左翼の人に向けられるものだったのに・・・


そういった懸念は、もちろん保守層の中からも出てきています。

ウェブマガジン「魚の目」は様々な意味で注目するメディアですが、その企画の一つとして、『月刊日本』と『情況』、という左右両極を代表する雑誌の注目論文を紹介する「双眼」というコーナーがあります。

以下はそこで紹介された『月刊日本』2008年3月号の佐藤優氏と山崎行太朗氏の対談「憂うべき保守思想の劣化」からの一部です。



ぜひ全文を読んで欲しいのですが、ここでは私にとって印象的だった箇所を2つ、私なりの(蛇足)タイトルをつけて引用します。




ニセモノの敵を作ることでしか自己規定できない堕落した最近の保守


山崎 保守思想は、何らかの強力なテーゼに対して「否」を突きつける、否定神学的方法論であると佐藤さんが指摘しましたね。これは逆に言えば、好敵手としての強力なテーゼに対するアンチ・テーゼとしてしか保守思想は存立しえないという宿命を背負っているということです。保守思想は個別の事象について言及する必要に駆られて、やむなく言葉を探りながら紡いでいくものです。従って保守思想は、敵が見えなくなると、しばしば自分達の思想こそホンモノだという自己欺瞞に陥り、いつのまにか油断しているうちに、通俗的な流行思想に後退・堕落するという危険性を常に内包しているということです。その結果、常に安易なニセの敵を作り、その敵に向かって批判や罵倒を繰り返すということになる。ニセの敵と戦う思想はそれ自体ニセモノでしかありえない。最近の保守論壇の言説を見ていると、ほぼそういうニセモノの保守思想ばかりという感じですね。
http://uonome.jp/sougan/gekkannippon/488/5




本来保守が警戒し、批判すべき構築者的合理主義 (constructivist rationalism, Hayek)を身にまとってしまった最近の保守



佐藤 伝統というような、言葉で明示できないものをめぐって、ああでもない、こうでもない、と否定神学的に否定辞を重ねていく。だけれども結局、到達することはないから、保守思想は無限に思考を重ねていくことになるわけです。そうすると、現在の保守思想の問題点は明らかで、本来停止してはいけないはずなのに、思考が停止してしまっているのです。今の保守論壇での言説は、最初に結論を設定して、そこに至るためにどのような論理を構築すればよいか、という発想になってしまっています。まさに左翼的構築主義、設計主義です。プロットをかっちり固めて、そのためにどのような資料を集めてくるか、というような発想では駄目なんです。
http://uonome.jp/sougan/gekkannippon/488/6





ある二項対立に拘ってしまうのは愚かで危険なことですが、革新vs保守、左翼vs右翼という対立図式は、私は現実的に結構有効なものだと思っております。この対立を、社会全体でも、個人の意識の中でも保っておくことが健全なことだと考えているからです。

保守・右翼の曖昧な感覚と微妙な思考を、単純な「正義」の理屈で抑圧した革新・左翼がどれほどグロテスクなことをしうるかということに関しては、私たちは20世紀で多くのことを学びました。保守・右翼を自称する方々には、ぜひ本来の保守らしさ、右翼の良さをきちんと保っていただきたく思います。

私は社会や自分の中のバランスを保つため、保守・右翼を尊敬していたい。しかし、現代日本の保守・右翼には失望するばかりです。


保守・右翼本流の皆さん、「ネウヨ」のような人々に、保守・右翼の名を語らせておいていいのですか?

それともあなた方ご自身が、「ネウヨ」と同レベルになってしまったのですか?

それがあなた方の、保守・右翼の先達への敬意を示すことなのですか?




2009年7月18日土曜日

学習指導要領についての浅野博先生の記事

英語教育の明日はどっちだ! TMRowing at best」が紹介していたのは、浅野博先生による記事です。リンクと記事の抜粋をここに掲載しますので、興味があればクリックしてください。


「なぜ指導要領批判か?」について
http://blog.livedoor.jp/cpiblog01676/archives/51216484.html


 もう 30 年以上も前のことだが、ある県の英語研究会の講演で、「指導要領(英語)」の問題点を批判的に指摘したところ、後で、その会の会長から「先生は指導要領に恨みでもあるんですか」と言われて、返答に困ったことがある。会長は、文部省が決めたことは批判の余地などないと信じているようだった。こういう考えは現在でも根強く残っているように思われる。



「なぜ指導要領批判か?」(その2)
http://blog.livedoor.jp/cpiblog01676/archives/51219610.html


あらゆる場面で、格差が問題になっている現在では、指導要領は、A Course of Study の英名にふさわしいように、法的拘束力などない「指針を示すだけのもの」にすべきだというのが私の主張である。




私の蛇足コメントを加えます。

日本の英語教育関係者の中には、指導要領が変わる度に自分の意見をすっかり変える人がいます。

そのような人は「これからの英語教育はこうでなければいけません」と勇ましく現場を「指導」します。そのくせ、過去との整合性の説明を求められると「指導要領が変わったのですから、仕方ありません」などと恥じる様子もありません。まるで自分の思考力の欠如を誇っているようです(まあ、そういう人たちからすれば、「自分の頭で考えたい」という「我執」を捨てられない私のような人間の方こそ愚かなのでしょう)。

政府が言うことは何もかも反対という態度は愚かですが、政府が言うことには何もかも従うという態度も同様に愚かです。

いや、それぞれの思考放棄が引き起こしうる災厄という点では、前者よりも後者の方が深刻かと思います。

さらに生き方の姑息さという点でも、前者よりも後者の方に私は否定的な判断を下さざるをえません。

一人一人が独立して考え、その考えを互いに表明し合うことにより、批判的に連帯するという民主主義の方法は人類の遺産だと考えます。

少なくとも他のどの分野よりも正確さを必要とする科学という分野では、民主主義による真理追究を是としています。科学には権威主義は似合いません。

おそらくは他のどの分野よりも複合的で微妙な判断を必要とする政治という分野では、世界の多くの国が民主主義を選択し、発展させようとしています(日本もその途中の段階です)。政治は権威主義から民主主義へ移行しようとしています。

日本の英語教育にも権威主義は必要ないと思います。





2009年7月16日木曜日

大津 由紀雄 編著 (2009) 『危機に立つ日本の英語教育』慶應義塾大学出版会

一説によるなら、この本は、目立つ黄色の表紙が示しているように、「危機に立つ『日本の英語教育』」および「『危機に立つ日本』の英語教育」に対する編著者からの「イエローカード」です。

世論や政財界の声に振り回される「英語教育」、そしてヒステリックに数字に追われ・数字を追いかけている「日本」--これらの「危機」を、計13名の論者が、それぞれの視点とそれぞれのスタイルで論じます。その概要は、「はじめに」と「目次」からある程度推測することができるでしょう。


この本を、私は9月中旬に発売される『英語教育 増刊号』(大修館書店)の年間書評で取り上げさせていただきましたので、このブログでは完全な好みで私のお薦め所収論文を紹介することにします。それは


主権「財界」から主権「在民」の外国語教育政策へ (江利川春雄)

言語教育リテラシーの政策とイデオロギー (佐藤学)


です。

江利川論文は、具体的データに基づいての社会的・政治的・経済的分析であり、今後の日本の英語教育界での必読論文となると思います。とにかく時流に乗ること、役人の先棒を担ぐことこそを行動規範としているような人が多い日本の英語教育界においてはこのような論考を読むことを欠かしてはいけません(その点で同じく本書に掲載されている斎藤兆史先生の「日本の英語教育界に学問の良識を取り戻せ」という訴えも痛切です)。

佐藤論文は、次の冒頭の文章をお読みいただければ私がこの論文を重要と考える理由もわかってくださるのではないでしょうか。


この30年来、毎週のように学校をまわって、現場の先生たちと一緒に研究授業をしてまいりましたが、近年になればなるほど、英語が最も難しい教科になってしまい、英語の授業を改革することがいかに困難かを痛切に感じています。なぜ難しいのかという理由はとてもはっきりしています。英語の授業に内容(コンテンツ)がないからです。 (240ページ)


佐藤論文は2008年12月21日の慶應義塾大学講演に基づくもので、発表資料(パワーポイントスライド)はここからダウンロードすることもできますが、やはり今回このようにその講演が活字化されたのは、体制迎合的で無批判的な日本の英語教育界にとって大きな意味をもつのではないでしょうか。





ちなみに抜け目なく自己宣伝をしておきますと(笑)、私は本書で、現時点での私の英語教育の考え(特に言語コミュニケーション力論と複言語主義)を一般読者にわかりやすい形で書き下ろしました。これまで言語コミュニケーション力論に関しては、いろいろな方から「もっとわかりやすい形で説明して欲しい」と言われて、いくつかの機会では口頭でそのリクエストに応じてきましたが、今回の原稿でそのリクエストに活字である程度お応えできたのではないかと思っております。


ちなみに私の論考のリード文は次のようになっています。


この論考では、小学校から大学・大学院に至るまでの学校英語教育の全体像を描き出すことを試みます。論拠とするのは、これまでの応用言語学の蓄積に基づいた言語コミュニケーション力論と、欧州評議会での複言語主義の議論、および社会学者ルーマンによるコミュニケーション論です。論考は次の順番で進んでゆきます。

(1) 言語コミュニケーション力の三次元的理解
(2) 義務教育で特に重要な複言語主義的態度
(3) 高校から大学・大学院にかけての社会的コミュニケーションの導入

これらの分析枠組みによって、小学校から大学・大学院に至るまでの英語教育の見通しを得ることがこの論考の目的です。



⇒というわけで買ってね(笑) ←結局は商売かよ!






上田秀樹『英文技術文書の書き方』(2006年、工業調査会)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


日本の学校英語教育者は、これまで良い意味でも悪い意味でも、小説や詩などのクリエイティブライティングを好んできた。

クリエイティブライティングは、読者を感動させたり楽しませたりすることを目的とする。読者は最初のページから順追って最後のページまで読み進める。著者は読者が飽きないように、しばしば個性的なスタイルで書く。

クリエイティブライティングと異なるジャンルの一つに、テクニカルライティングがある。テクニカルライティングは、読者がある行動や判断を行なうのに必要な説明や情報を与えることを目的とする。読者はしばしば自分の必要に応じて、とばし読みをする。著者は読者の迅速な情報処理のために、簡潔で平易な表現を使う(本書 17-18ページ)。理系の人々やビジネスパーソンが必要としているのは、明らかにテクニカルライティングである。

テクニカルライティングは、無味乾燥で機械的なライティングではない。テクニカルライティングは、読者の心を的確に読み取り(注)、読者の期待・予想に即して書かれる。この意味で、テクニカルライティングは、きわめて人間的なライティングである。


本書は、日本人が英語でテクニカルライティングをする際に注意すべき40のポイントを説明・例証し、さらに報告書・提案書・手順書の構成について概説する。説明は簡潔であり、例は短くわかりやすく、文系の読者でもまったく問題なく読み進めることができる。英語テクニカルライティングの入門書としての良書で、英語教師だけでなく学部生・大学院生にも薦めたいと私は思っている。

注意すべきポイントの中には自明に思えるものもある。例えば「10 知られている情報のあとに新しい情報を伝える」、「11 同じ種類の情報は、同じ形で並列する」、「13 主語を文頭近くに用いる」、「14 動きは動詞で表し、かつ、動きの主体を主語にする」などである。だが10や13でさえも、本書にあげられている英文例を見れば、「うん、こんな英文よく見る!」と思わず言ってしまうだろう。11の並列構造については、筆者が指摘するように、日本人の英文はしばしば無造作な並列構造で書かれ、順番に何の意味もなかったりする。14についても、日本人の英語はしばしば、There構文の多用や、「原因+結果」(「原因が結果を引き起こす」という他動詞構文)でない、「結果+原因」(「結果が原因と共に生じる」という自動詞構文)の多用、などで、確かに英語常用者には少々わかりにくい表現を多用したりしている。40のポイントはぜひ例文を参照しながら確認したい。

中には学校英語教師が驚くようなポイントもある。例えば「26 It isで始まる構文は用いない」。もちろん絶対の禁止ではないのだが、この構文を重要構文として教える英語教師は、この忠告にちょっとびっくりするだろう。だが、冒頭の主語という、注意喚起の点で重要な位置に、形式的なだけの主語をもってくることは、確かに迅速な情報処理の点では好ましくない。本書の例をあげるなら、


(1) It is very important that you always back up your work in a reliable storage medium.
(2) You should always backup your work in a reliable storage medium. (99ページ)


の2つを比べてみると、(1)は冗長であり、わざわざIt is構文を使うには及ばないことがわかる。些細なことのようにも思えるし、(1)も文法文なのだから、いいではないかとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。だが、冗長な英文がダラダラ続く学生の英語論文を読むことの多い私などは、著者の見解に賛同する。

技術文書の基本構成に関しては、報告書 (Introduction, Method of obtaining facts, Facts, Discussion, Conclusions, Recommendations)、提案書 (Introduction, Problem, Objectives, Solution, Method, Resources, Schedule, Qualifications, Management, Costs)、手順書 (Introduction, Safety precautions, Description of the equipment, List of materials and equipment needed, Directions, Troubleshooting)についてわかりやすく説明される。

認知科学の知見を活かしたコラムも面白いし、参考図書を見てもこの本がアメリカのテクニカルライティングの伝統に基づいていることがよく示されている。

技術者だけが読むのはもったいない本だ。



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(注)
私は、言語コミュニケーション (linguistic communication) の力を、(1) 相手の心を読む力、(2) 物体・身体を使う力、 (3) 言語を使う力の3要因が合成したものであるという「言語コミュニケーション力の三次元理解」で説明することが適切だと考えています。この考えは最初に、日本言語テスト学会で発表し論文を公刊させていただきましたが、最近、大津由紀雄編『危機に立つ日本の英語教育』(慶應義塾大学出版会)の中の1つの章で、この考えをわかりやすく解説する機会を得ました。もしご興味があれば、お読みください。






2009年7月7日火曜日

「大学で何を学ぶのか」

これは2009年7月8日に、柳瀬が「教英」1年生を対象に行なう「教養ゼミ」の授業で使う資料(「大学で何を学ぶのか」)です。

授業受講者ならびにご興味のある方は、下記をクリックしてパワーポイントスライドをダウンロードして下さい。

※授業受講者にのみダウンロード許可を与えるワード文書をダウンロードするには、ここをクリックして下さい(パスワードは口頭でお知らせします)。



「小・中・高英語科連携と授業改善」

2009年7月8日に広島市教育センターで行なう講演「小・中・高英語科連携と授業改善」のパワーポイントスライドを公表します。

本来は受講者が講演後に復習をするためのものですが、もしご興味があればどうぞ他の皆さんもダウンロードして下さい。(ただし今回のスライドは、これまでのスライドを統合・再編集したものですから、新しい情報はほとんどありません)。











2009年7月6日月曜日

「英語教育にもの申す」での理論と実践の関係に関するエッセイ

「わが意を得たり!」という文章に出会えることは幸福なことです。

ブログ「英語教育にもの申す」の「『はず』などないよ」は、私にとってそのような文章です。

「理論家」が「実証的研究」でもってズカズカと、実践の微妙な領域に土足で入ってくるような感覚には、私は違和感を覚えざるを得ません。というより、端的にそれは実験研究の過剰使用・拡大解釈だと考えています。

まあ、私の意見はともあれ、ブログ「英語教育にもの申す」の文章をどうぞ。

http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2009/07/post-9ecf.html




長岡鉄男先生の思い出

大修館書店『英語教育増刊号』の年間書評をようやく脱稿した。(脱肛じゃないよ、脱稿だよ←まあ、お下品)

書いて、読み返してみたら、自分がオーディオ評論家の(故)長岡鉄男氏の文章にかなり影響を受けていることを痛感した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/長岡鉄男


長岡氏の文章は、簡潔で具体的。文章のリズムとテンポが快適だった。

自己を笑い飛ばすユーモアと、かなりラディカルな社会論評をちりばめるスタイルも私は好きだった。

評論する対象もおざなりな選択でなく、自分が良いと信じるもの、あるいは世間で過小評価されているものは、積極的に選んで評価していた。

主観的な言葉や紋切り型の表現を嫌い、即物的な記述と斬新な表現を好んでいた。

さらに論評の中で、オーディオ業界やレコード業界の構造にも言及し、提灯記事は決して書かなかった。

プラグマティズムに徹し、コスト・パフォーマンスや、趣味・目的の違いに配慮した論評をしていた。

最も有名なのは次々にスピーカーを自ら設計・自作し、それをどんどん公開していたことだ。

バックロードホーンがお好みだったが、それにはこだわらず、実際、晩年は共鳴管スピーカーを常用機にしていた。

合理性を追求した、でもそれまで誰も試したことのない設計(代表例、MX-1、スワン、ヒドラ等)は本当に驚きだった。通常のスピーカー設計でも、サブロク合板一枚での合理的な板取は、毎回見事だった。

複雑なネットワーク構成のマルチウェイを嫌い、シンプルなフルレンジ構成を好んだ。(私が一度聞いたことがある長岡氏のセミナーでの20cmフルレンジ片チャンネル8本+ヤマハのホーンツィーター・システムは本当に鮮烈な音を出していた)。

以来、私もフォステクス製のバックロードホーンを作ってしばらく愛用していた。現在も(長岡氏の設計ではないが)16cmフルレンジの後面開放型フェルトボックス・スピーカーをテレビ再生用に使ったりしている。


さばさばした性格で、面倒なことを嫌い、坊主頭に裸足のスタイルを好んでいた。

高度なオーディオ再生を自ら試みる一方、執筆中はテレビをかけっぱなしにして好奇心のチャンネルも開いているような人だった。

人嫌いではないがかなりシャイな人で、太宰治の「トカトントン」が好きだとも言っていた。含羞を知る人だったと言うべきか。


私は今でも長岡氏の出版物をかなりをもっているはずだが、今でもたまに読み返すことがある。漱石の『猫』と同じように、読んで、本の文章を頭の中で響かせることが純粋な快感だからだ。

中学生の頃から私は『週刊FM』を愛読していたが、それはほとんど長岡氏の文章を読むためだった。

やっぱ、中高生の頃の影響って大きいや。



文化勲章を受けるような人ではないけど、私は好きでした。


長岡先生、天国でいかがお過ごしでしょうか。

私はあなたのような文章も書けませんし、あなたのようなスタイルも貫けていないヘタレですが、あなたを今でも愛しています。


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