2009年11月30日月曜日

第2回「この日の学校」in福山 のお知らせ

武術家の甲野善紀先生と若き数学学究者森田真生氏が、先日の第一回に続いて広島県福山市で第二回のセミナーを開きます。


ある意味、何の権威や制度の後ろ盾もないセミナーですから、内容の真実性のみが勝負です。私は第一回で大いに裨益されましたし、沢山の知己も得ることができましたので、今回も参加します。セミナーだけでなく懇親会も参加します。武術や数学、およびそれらが交錯するところからの考察と直観が広がる喜びが得られるからです。




【この日の学校】
  日時   2009年12月13日(日)13時30分~16時30分

  場所   福山城 湯殿
        広島県福山市丸之内1-8
        (福山城内南側です)

  会費   5,000円

  駐車場 専用の駐車場はありません。
        近くの有料駐車場をご利用ください。

  申込締切  12月6日


詳しい情報および申込は


にアクセスして下さい。


なお事務局の「夢飛脚」 ―本当に温かい人たちです― によりますと、


さて、第2回「この日の学校」in福山では、講師と参加者とがより近くなり、座談会形式で開催できればと検討しています。
そこで、参加者の方々より講師の甲野善紀氏、森田真生氏に質問などありましたらあらかじめお聞きしたいと思います。
質問は何でもオッケーです。
数学や武術に関係ないことでも大丈夫です。
福山らしい温かい会になればと思っています


とのことです。問題意識のある方はどうぞ積極的に質問をお寄せ下さい。


学び・身体・近代などについて根源的に考えたい方はぜひご参加下さい。私は心からお薦めします。






「べてるの家」関連図書5冊

文学には人生と言語が凝縮されている。現実にはあり得ないほどの濃度で事態が展開し、日頃はとても聞けないような精妙さと大胆さで言葉が語られる。非日常的といえばまったくその通りである。だが非日常的だからといって文学から学ぼうとしないのは愚かである。文学こそ人生と言語を学ぶ題材の一つである。

同じように精神障害者の暮らしにも人生と言語が凝縮されている。特異な人間関係が繰り広げられ、世の中の常識と非常識がひっくり返る。単純な言葉で深い交感が行なわれ、私たちの言語観が揺さぶられる。「一般社会」なるものからすれば異例的であるといえばまったくその通りだが、珍しいからといって精神障害から学ぼうとしないのも愚かではないだろうか。

精神障害という「異常」にこそ人生と言語、あるいは世の中とコミュニケーションについて深く学べるのではないだろうか。そして「異常」という言葉の現代社会での使われ方についても学べるのではないだろうか。私たちが「正常」と思っていることに潜む「異常さ」に気づくことができるのではないだろうか。



今年の夏にふとした縁から読み始めた「べてるの家」関連の本は、私の人生観・近代観、言語観・コミュニケーション観を揺さぶり続けています。ここでは夏以降に私が読んだ関連書5冊を紹介します。「・」印はその本の中の印象的な箇所です。



■向谷地生良・浦河べてるの家 (2006) 『安心して絶望できる人生』生活人新書・NHK出版

『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院)の続編として書かれた読みやすい新書。向谷地生良氏の解説と、べてるの家のメンバーによる実際の当事者研究があり、特に当事者研究では西坂自然氏の「"人格障害"の研究 その1」(pp.103-119)が素晴らしい。


・「世界の抱える苦しみに自分はつながっている」。その感覚によって、人を活かすという実感をそのときに見出すことができました。それは、別な言い方をすると、人と人のつながり、つまり人間の生きた歴史を取り戻すということです。(p.37)

・回復や暮らしやすさの生活情報を持っているのは常に専門家であって、当事者はお金を払って専門家のところへ行って、指導を仰いだり情報をもらったりすることが当たり前になっています。しかし、浦河で大切にしてきたことは、あなたたちの中に知恵がある、その知恵を伝え合う。そこから場全体が豊かさを取り戻すということです。(p.39)




■向谷地生良(2006)『「べてるの家」から吹く風』いのちのことば社

向谷地生良氏の根幹にあるものと、浦河という地域の背景にあるものを包み隠さず語った本。通常こういった話題は正面切って語られることを避けられるが、やはり根幹と背景なくして実践を理解することはできない。「べてるの家」の理解を深めるためにどうぞ。


ただ、これ [=当事者研究] はあくまでも"実験"ですから、効果がなくても落ち込む必要はありません。次の方法をまた、いっしょに研究しましょう。(p. 72)




■斉藤道雄 (2002) 『悩む力』みすず書房

TBS社会部・外信部記者の著者は「あとがき」で次のように書いています。「ジャーナリストが取材対象に同化して取り込まれてしまうというのは、一般的には力不足の証拠とされている。その意味では、私はまったく力がなかった。しかし32年間報道現場にいて、取材しながらこれほどまでに自分の生き方を考えさせられたこともない。やがて私はそこでジャーナリストとしての倫理だとか力量だとか、そんなものが意味をなさないほどに自分自身が問われていることに気づくのであった」(p. 240)。深い社会的分析を確かな筆力で描き出している作品です。


・[向谷地生良氏のことば] 私は、彼ら [=べてるの家のメンバー] によって自分の力の無さ、未熟さ、貧しさを知らされました。・・・べてるに行くと私自身、安心して弱く、ありのままであることが許されているような落ち着きに満たされることがあります。そして、弱いままで生き合える信頼なくして、人間は共に生きることはできないことを教えられるのです。 (p. 91)

・精神障害者とは、だれよりも精度の高いセンサーをもった人びとなのかもしれない。一方、健常者といわれる人びとはそのセンサーの感度が低いのだろうか。そのためにがんばってしまうのだろうか。あるいは感度の低さによって人間関係をあいまいにし、ごまかしているのかもしれない。病気になれない人びとは、たてまえと本音を器用に使いわけ、他人にたいして仮面をかぶり、いつしかよろいをまとっている。精神障害者は、そのような器用な生き方ができない人びとなのだ。上にのぼり、成功し、右上がりでありつづけることが当然とされるこの社会で、それができずに取り残され、下にとどまった人びとである。けれどその彼らがこの世にあることによって、しばしば上にいったもの、強いものを人間存在の疎外と荒廃から救い、和解させる力をもっているのはなぜだろう。 (p. 221)




■四宮鉄男 (2002) 『とても普通の人たち』 北海道新聞社

べてるの家のドキュメンタリーを撮った記録映画作家による本。著者が映像作家であるせいかエピソード記述が豊かで会話の採録も多く、本を楽に読める。読みやすくて深い本。


・自分で感じたり考えていることがはっきりと自分で分っていないと、相手に伝えたり理解してもらうことはできない。普通、コミュニケーションというのは、相手に向かって、いかに自分の気持ちや考えを伝えるのかという問題だと考えられている。しかし、言葉にして伝える前に、自分のこころの中が整理されていないと、つまり自分の世界がくっきり見えていないと、その思いや考えが言葉になってからだの外に出ていくことができない。 するとコミュニケーションのいちばんの基本的な問題は、いかにして自分自身で自分のことを知ることができるか、いかにして自分の中を整理できるかの手だての問題となる。 (p. 63)

・もっと根本的なことを言えば、べてるのミーティングは議決機関でもなんでもないということだ。話し合って、なにかを決めるのが目的ではない。この章の冒頭に、私は、「なんどもかんでもミーティングで決める」と書いている。しかしそれは間違い。「なんでもかんでもミーティングで話す」と改めなければならない。 私たちには、ミーティングは、話し合いでなにかを決めることだという思い込みがある。あるいは、何かを決めるための手続きとしてミーティングがあると思っている。だが、べてるでは違う。集まって、顔を合わせて、話をして、お互いの考え方が分ればそれで十分だった。話をすることだけが重要だった。実際、延々と話し合いをしながら、結局はなにも決まらないなんてミーティングも珍しくない。それで良しとしている。 (pp. 269-270)




■横川和夫 (2003) 『降りていく生き方』太郎次郎社

かつて共同通信の記者として文部省を担当し、日本の教育行政と学校教育のあり方に疑問を抱いていた著者による本。その意味で学校教育関係者でべてるに興味を持つ人は注目。著者の見解は「あとがきにかえて」で次のように述べられている。「当事者性を奪われているのが、統合失調症などの精神障害を抱えた人たちであると、向谷地さんは訴える。だが、よく考えてみると、私たちも日常生活のなかで、当事者性を無視されたり、ないがしろにされたりしているのではないだろうか。 受験戦争に乗り遅れたらたいへんだと、早期教育に力を入れ、塾に子どもを通わせる親たちがあとを絶たない。子どもの将来のしあわせを願って先手を打っているのだろうが、当の親自身が子どもの当事者性を奪っていることに気づいていない。小・中・高校での勉強の仕方も、よく考えてみると、児童・生徒がなにに関心をもって、なにを学びたいか、という当事者性を重んじているとは思われない。文部科学省がきめた学習指導要領に基づいて、興味や関心があるなしにかかわらず、教科書にもりこまれた内容を画一的に教え込む授業が進められている。 (p. 226)


・「私たちは近代化や合理化を通じて、人間として本来もっている基本的に大切なもののうえに、学歴とか経済力とか便利さとかを、オプションのようにプラスアルファの価値として身につけてきたわけです。回復するということは、人間が人間であるために、そういう背負わされた余計なものをひとつずつとり去って、本来の自分をとり戻していく作業なんです。何をしたらよいか、何をしてあげなければならないかではなく、何をしないほうがよいか、何をやめるか、つまり足し算ではなく引き算が、べてるの家のキーワードです。それが降りていくということでもあり、そうすることによって、人間が本来もっている力を発揮できるようになっていく、という考え方なんです」[向谷地生良氏のことば] (p. 67)

・「里香さんのすごいところは、いまも幻聴は消えていない、病気は治っていないけれど、こんなに楽になるとは思わなかったと言ったことです。それまでは、症状が傾斜をつけるようにだんだん軽くなっていくと思っていたけれども、そうではない。しあわせは自分の真下にあった、という言い方をしたんですね。同じマイナス状態にもかかわらず、自分がどう受け止めるか。これがぼくらのやり方のまさに真髄なんですけど、それを里香さんは体験者として、『真下にある』とわかりやすく表現してくれたんです」。 [川村敏明氏のことば] (p. 216)




べてるの実践が私に伝えてくる強いメッセージの一つは「下へのベクトル」の大切さです。

近代社会は進歩・発展・上昇などの「上へのベクトル」を非常に強調します。学校でも上へのベクトルを徹底的に叩き込みます。もちろん上へのベクトルは重要な者です。人間、そして社会は現に進歩・発展・上昇するものですから。

しかし人間は ―神ならぬ人間は― 至上の上には到達できません。上り続けることもできません。人間や社会の進歩・発展・上昇は、その人間や社会を囲む存在(環境)をしばしば乱します。進歩・発展・上昇の歪みは環境が被ります。近代社会の進歩は文字通り自然界の環境問題を生み出しました。高度資本主義社会の発展はその社会の外部におかれた他の人間・社会の貧困化をもたらしました。人間の上昇志向はしばしば周りの人間を犠牲にします(あるいはその人自身の心身の健康を損ないます)。

社会については断言を控えますが、そもそも人間とは死にゆくものです。上昇するにつれ得たお金も地位も力も、いや知恵さえもやがてはすべて失います。人間は衰え、死にます。それが神ならぬ「死すべきもの」としての人間の定めです。

つまり人間とは上を目指しながらもやがては下に降りなければならない存在です。上へのベクトルばかりで生きているのではありませんし、もちろん下へのベクトルばかりで生きているものでもありません。

ですが近代社会は上へのベクトルを強調するあまり、下へのベクトルを見ないようにしないでしょうか。上へのベクトルばかりで人間は生きることができるといった幻想を振りまこうとしていないでしょうか。

そういった上への幻想は、人間には下へのベクトルしかないという思い込みと同様、危険なものかとも思います。私たちは、上昇できない者、ただ留まるしかない者、さらには降りてゆくしかない者への理解と共感を必要としていないでしょうか。

若い人を主な対象とする学校が上へのベクトルを強調することはある意味当然です。しかし同時に私たちは下へのベクトルを忘れてはいけないような気もします。


悪い癖で、私の乱雑な思考を抽象的で未整理な言葉で書きつけました。

まあ口直しにベテル関係の本でも読んでください。





関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html






2009年11月20日金曜日

George Gopen & Judith Swan "The Science of Scientific Writing"

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


国立のある研究所で自ら生命科学の研究を進めながら、同僚・後輩の英語指導をする役割も担っているある科学者の方と先日、数時間にわたって理系の方々のための英語教育について語り合う機会をいただきました。私は自然科学(生命科学)での英語使用・学習についての情報を頂き、その代わりに日本の英語教育の現状をお伝えし、私がこれまで読んで面白かった本も紹介しました。この語り合いに結論めいたものがあるとすれば、それは残念ながら現在の日本の英語教育は科学者に対して十分に貢献していないということです。

しかし悲観論ばかり言っていても始まりませんから、少しずつ問題点を解明してゆきたいと思います。

以下は、その方からいただいたメールの一部です。皆さんにとっても貴重な情報かと思い、ここにその方の承諾を得て、掲載します。


柳瀬さん
先日はありがとうございました。

ご紹介いただいた本をいくつか読んでみました。もしかして参考になるかもしれませんので、一科学者からの感想を書きます。上の3つが良かった物で、特に『理科系のための英文作法』がよかったです。

杉原厚吉 『理科系のための英文作法』(中公新書)
とても面白かったです。最も科学者に役だつ本だと思いました。前にご紹介したGeorge Gopenの理論に匹敵するものがあると思います。物理系の研究者は、ちょっと不思議な特徴的な日本語を書く人が多いのですが、そういった人に人気が出そうな本です。

戸田山和久 『論文の教室』(NHKブックス)
面白かったです。論証のところは英語でも、理系でも役にたつと思います。しかも私の読んだことがある論理学の本よりはずいぶん読みやすいです。ただ文章の書き方の教えの部分は、日本語に特化しているので、残念ながら英語で論文を書かなければならない理系大学院生には使えないと思います。

開米・森川 『ITの専門知識を素人に教える技 』(翔泳社)
これは良かったです。個人的には、これまで聞いたことがない情報がいろいろあり、なるほどというのも多くて楽しめました。ドラマチックパターンなどは、特に、プレゼンテーションにも使えると思います。

佐藤健 『SEのための「構造化」文書作成の技術』(技術評論社)
上の3つには負けますが、けっこうおもしろかったです。ただ日本語に特化している部分がほとんどなので、英語論文が必須の理系大学院生には使えないと思いました。

これ以降はほぼ互角という感じです。

(中略)

いろいろ読んでみて、工学系の人がいう「技術文書」というのと、理学系の人が書きたい「科学論文」というのは、かなり違うものだと感じ始めました。誤りがない明解さというのはもちろんどちらにも必要ですが、理学系の科学論文では、それに加えて、読者を洗脳して納得させるストーリー展開というのが、より重要になってきます。そこが、最も学生たちに教えたい部分で、どの本でも見つからない部分のような気がします。

(後略)



このメールで印象的だったのは、理学系の科学論文ではストーリー展開が大切だということです。これはカーネギーメロン大学で20年以上研究生活を続けられ、ロボット工学の分野で最先端の研究を行なっている日本人科学者が強調していることでもありました。

金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する』(PHP文庫)

理系の方々に資するため、文系の人間はもう少し自らの本丸である「語り」についてきちんと研究をするべきなのかもしれません。

語りの構造として有名な本としてはケネス・バーグの『動機の修辞学』がありますが、恥ずかしながら私は持っているだけで未読です。比較的新しいところではジェローム・ブルーナーの『ストーリーの心理学』でしょうか。これは一度読んだだけになっていますので、再読したいと思います。


その文系的課題はともかく、上記の生命科学研究者が何度も強調したのがGeorge Gopenの書き方指南です。幸いこの人の考えの概要はネット上で知ることができます。


The Science of Scientific Writing
http://www.americanscientist.org/issues/feature/the-science-of-scientific-writing/



著者(George Gopen & Judith Swan)自身は彼らの主張を7つの原則に凝縮しています。ここではそれらを私なりにわかりやすいように意訳して掲載します。原文は下のURLでご確認下さい。
http://www.americanscientist.org/issues/feature/the-science-of-scientific-writing/9



1. 英語では主語を提示したら、できるだけすみやかにそれを受ける動詞を提示せよ。
2. 書き手が強調したい「新情報」は文頭でなく文末の「強調箇所」 (the stress position) に置け。
3. 文の話題である人・物は文頭の「トピック箇所」 (the topic position) に置け。
4. トピック箇所に「旧情報」(既に述べられた情報)を置き、前とのつながりを明示し、旧情報に続く新情報に関する状況を明確にせよ。
5. 英語では可能な限り、文の主語が行なう行為・行動・作用 (action) は名詞でなく動詞で表現せよ。
6. 読者に何か新しいことを考えさせる前には、そのための状況を明示することを原則とせよ。
7. 情報量と構文を対応させ、簡単なことは簡単な構文で、複雑なことは複雑な構文で表すことを原則とせよ。



さらに私がこの論文を読む中で重要と思った点を以下に箇条書きします。



A 情報提示に関する読者の期待には一定のパターン(「旧情報→新情報」)がある。そのパターンを守って情報を提示せよ。
B 書き手はしばしば次から次に頭に浮かぶ新情報をとりあえず文頭に書き留めてそれを読者にそのまま提示するが、そういった文章はしばしば「旧情報→新情報」のパターンに沿っていないものである。書き手の都合でパターンを崩すことは避けよ。
C 「旧情報→新情報」の提示パターンが崩れると、たとえ文の統語や単語が簡単でも読者は書き手の強調したいことがわからなくなり混乱する。
D 多くの科学的書き物は「旧情報→新情報」の提示パターンの乱れにより不必要に難しいものになっている。たとえ専門用語が多く出現しても、書き方の原則に適っていればわかりやすい文章になる。
E 文頭に新しい情報を満載しながら、それを受ける文末でたいしたことを言わなければ読者は読む気を失う。
F 文頭ではトピックが提示されるが、それはしばしば読者に文を読むための視点 (a perspective)や状況 (context) を示すものである。
G 文であろうが段落であろうが、一つのユニットには一つの機能しかない。それはポイントを一つだけ提示することである。ポイントの提示箇所は末尾の強調箇所である。
H 文全体の長さ、特に文頭部分と中間部分の長さを決めるには読者の思考の負担に配慮せよ。読者の「思考の呼吸」 (mental breath) の長さに合わせて文頭でトピックを提示し中間部分で説明を補え。
I 読者が丁度「息」を吐きたくなる頃に文末 (強調箇所) を作り新情報を提示せよ。そうすれば読者は報われた気持ちになるだろう。
J 強調箇所は文末で形式的に明確にで示される。文末を示すにはピリオドだけでなくセミコロンやリスト形式もある。思考の流れが続きながらも一文で表現することが難しい場合はセミコロンやリスト形式を使え。
K 一つの文の中に強調箇所が複数あるように読者に思われたら、それはその文が長すぎるということである。
L 書き手の考えは必ずしも書き手の期待通りには伝達されない。書き手は注意深く書いて、多くの読者を書き手の意図に沿った解釈に導くことができるだけである。「うまく書くこと」抜きに科学という文化は成立しない。科学者の仕事はデータの発見と報告だけではない。
M 「うまく書くこと」に規則はないが、原則はある。機械的に考えず柔軟に対応せよ。



多くのポイントは上記の7つの原則から導き出せるものかもしれませんが、BやCは十分頭に入れておくべきでしょう。またEやFも、文頭文を書く際に覚えておくべきことです。さらに「読者の呼吸」を考えたHとIそしてJは具体的な助言かと思います。

このThe Science of Scientific Writingは長いものではありませんので、どうぞ読者の皆さんもご自分でお読み下さい。





山田雄一郎『モジュール式英語の基礎』 "Build up your English! 1&2" 金星堂

「英語教育学」なるものが制度化された後に英語教育に携わるようになった人間 ―私もその1人だ― の特徴の一つは、英語そのものについての素養と実力に欠けるようになったことである。

一因は英文学や英語学からの離脱にあるかもしれない。「英語教育学」が制度化される以前の英語教育関係者は英文学や英語学をそれらを専攻する者と変わらぬぐらいに勉強した上で英語教育についての考察や研究をしていたように思う。だから英語に関する素養と実力は英文学者や英語学者にひけを取らない者も多かった。ところが「英語教育学」が制度化されると、同時代の関連諸科学の発展もあって、「英語教育学」の枠組み内で学ぶことが多くなり、英文学や英語学を勉強する割合が低下した。英語に対するこだわりも低下した。

別の要因として日本語文献が増加したこともあるかもしれない。私が学部生・大学院生であった頃はまだ英語教育に関する日本語文献は少なく英語文献を読むことが当たり前であった。参考文献に日本語文献をあげることなどほとんどなかった。ところが日本語で英語教育に関して論じた書き物が多くなった。それ自体は喜ばしいことなのだが、副作用は学生などが日本語を優先的に読み、英語を読まなくなったことである。必然的に英語力は落ちる。(その反面日本語で深く考えられるようになっていればいいのだが、これについてはどうあっても楽観できない)。

もちろん最近の若い研究者は海外学界の動向に敏感だから、彼/彼女らは凡庸な学部生と違って英語論文をどんどん読む。だが論文というのは存外に限られた文体しか使わないものだから、英文学・英語学を縦横に勉強していた世代と比べ英語力の間口が狭い。

悪口ばかり言っているようだが、これは第一に自分に対する悪口だ。いくらごたくを述べたとしても、英語教師は英語ができなければならない。さらに、広く深い理解をもって、浅薄な知識の者ではとてもできないように鮮やかに初学者に英語を教えることができなければならない。しかもその理解とは地に足のつかない舶来の知識披露ではなく、日本の風土と日本語の思考枠から考え抜いた自前の知恵になっていなければならない。そうでないと初学者にも納得できる説明などできない。

要は、英語教育関係者は英語ができて当たり前、英語をきちんと教えることができてナンボのものという、ごくごく当たり前のこと。英語学習の技能的側面の重要性を認識することにおいて私は人後に落ちないが、ストップウォッチを持って「英語に理屈はない」とトレーニングをさせるだけが英語教師の仕事ではない。自らの豊かな英語力を背景に、英語の勘所をずばりと説明できる能力が英語教師には不可欠だ。

だが現在の「英語教育学」制度はその能力開発に十分な力を注いでいるだろうか。心理学化か脳科学化か知らないが、どんどん英語そのものから離れていっていないか。さらに昨今の学会事情を聞くと、英文学や英語学関係の学会に英語教育のセッションや分室を設けることが流行っているようだが、必要なのは英文学や英語学の英語教育学化ではなく、むしろ英語教育学の英文学化・英語学化ではないのか。



***

話が長くなりましたが、「英語教育学」が本格的に制度化される前に学生時代を過ごされ、その後も「英語教育学」という制度からいい距離を取って独自の研究と実践を進められてきた山田雄一郎先生(広島修道大学)が、英語を基礎からやりなおしたいと思っている人のために参考書と問題集を刊行されました。『モジュール式英語の基礎』と"Build up your English 1 & 2" です(金星堂:教科書扱い)。ご興味のある方はどうぞご覧下さい。私はまだ入手しただけで所用に追われゆっくり読んでいませんが、英語教育関係者は英語教材に関する具体的で地味な考察と実践にもっと時間を割くべきかとも反省しています。


⇒金星堂ホームページへ






2009年11月4日水曜日

金谷憲 『重ね読み式3(トリプル)ループ・リーディング 基礎』アルク

金谷憲先生が大学入試問題を使って、読解力・文法力・語彙力をつけるための本(音声CD付)を刊行されましたのでここでも紹介します。

本はLOOP1からLOOP3の3パートにわかれ、同じ48英文を違う角度から「読む」ようになっています。LOOP1ではいわゆる「和訳先渡し」方式により英語の表現法に気をつけ、2では語彙に注目し、3では簡単なパラフレーズをするようになっています。CDをつかって音読やシャドーイングを行なうことも勧められています。これは「英文を和訳すること」に徹してしまうと英語よりも日本語の訳文ばかりが頭に残るという状況に陥りがちであることから立てられた原則のようです。

幕末・明治においては「近代文明」を日本語では十分に学習できませんでした。ですから外国語文献を五里霧中の中から訳出する(その典型は『解体新書』です)ことが学習の重要な要素でした。文法訳読式はその点で時代に最適の学習方法だったといえるでしょう。

しかし訳出・翻訳の蓄積により、現代では多くの分野で日本語だけでかなりの学習ができるようになりました。そうなりますと外国語文献を読むのは最先端の研究を知るためとなります。最先端の研究ですから新しいのは一部だけで、その文献の中核部分は日本語でも知っている既知のものです。さらに外国語使用としては読解だけでなく発信(書くこと・話すこと)が重要になってきました。本書のような教材はこのような時代のニーズにかなった方針で作られているといえるのかもしれません。

英語教育研究が実践に少しでも貢献することを目指すのなら、このような形で具体的な教材を作り上げることは重要なことだと思います。学習参考書・問題集にもっと英語教育研究者の注目が集まることを願います。


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仏陀のことば

『ブレイクアウト!』とは、ハーバード・メディカル・スクール教授が人間のパフォーマンスに関して書いた科学的でもあり宗教的でもある本ですが、その中でヘルマン・ヘッセの『シッダールタ 』の一節が引用されていました。いい言葉だと思いますので、ここでも『ブレイクアウト!』の翻訳でその一節を紹介します。


何かを求めているとき・・・自分が求めているものだけを見るのは簡単である。自分が求めているものだけしか見ていないから、何かを見つけることも吸収することもできない。なぜなら彼は目標があるからである。なぜなら自分の目標にとりつかれているからである。求めることは、目標をもつことである。しかし、見つけることとは、自由になり、受動的になり、目標をもたないことである。あなたは、ああ、大切な人であるあなたは、自分の目標に向かって努力しているのかもしれない。だから、自分の身近にある多くのものが見えていないのである。(288ページ)



私は『知的仕事のABC』に見られるような分析的で直線的な方法論の有効性を確信していますが、同時にその限界も理解しているつもりです。「西洋的思考」と「東洋的思考」というのは乱暴な二分法なのかもしれませんが、いずれにせよ自分の思考法は複数もっておきたいと思います。










2009年11月1日日曜日

江利川春雄先生のブログ誕生

現在最も注目すべき英語教育研究者の1人である江利川春雄先生(和歌山大学)がブログを開始されましたので、ここでも紹介させていただきます。

江利川先生がブロガーとしてデビューされたことを、ブロガーの1人としてとても嬉しく思うと同時に、他にも多くの方々がブログで良質な情報発信をしてくれることを切に願っています。


江利川春雄先生(和歌山大学)のブログ
「希望の英語教育へ (江利川研究室ブログ)」



マウスカーソルの位置を照準用の十字線で明確に示すフリーソフト

コンピュータ画面で一瞬マウスカーソルの位置を見失って作業が中断してしまうことがあります。もちろんマウスを少し動かせば位置はわかるはずなのですが、案外マウスカーソルの位置というのはわかりにくいことも多く、私などは苛々してしまいます。

そういった不便を解決するのが、マウスカーソルの位置を照準用の十字線で明確に示すフリーソフトであるCrossHairです。

インストールすれば [Ctrl] + [@] でマウスカーソルが通常の矢印などから、画面一杯に広がる十字線に変わります。その十字線が交差するところがマウスカーソルの位置です。十字線は縦横に広がっていますから、マウスカーソルの位置は非常にわかりやすいです。特にエクセルで作業をする場合は行と列の確認がすぐにできますから重宝します。

最初はこの十字線が目立ちすぎるように思えるかもしれませんが、作業を進めてゆくとマウスカーソルを探すのにまったく苦労がいらないので非常に快適に作業を進めることができます。私はこれからこれを常用にします。22インチ画面をデュアルで使い、トラックボールマウスで操作することに加えて、このCrossHairを使うことにより、コンピュータ作業は非常に快適になり高速で仕事ができます。

十字線については変更を加えられますから、私は線幅をやや細めの2、線色を赤、透明度を60%にして、目障りにならないながらもしっかりと目立つようにしています。

この情報をくれた学生さんに感謝します。





※ただしインストールは個人の判断と責任で行なって下さい。インストールから生じるいかなる障害に対しても柳瀬は責任を取ることはできません。