2010年1月20日水曜日

情報収集ではなく情報凝縮に対価を払う

久しぶりに開封した雑誌The New YorkerでJohn CassidyによるAfter The Blowupという記事を面白く読みました。かつてソ連が崩壊した時、私は日本論壇で次々にマルクス主義が凋落してゆくのをある種の驚きとともに眺めていましたが、今は経済学のシカゴ学派Chicago school of economics)の衰退をちょっとした感慨とともに眺めているような気がします。


この記事は、法学の立場からシカゴ学派の経済学的思考をサポートしてきたリチャード・ポズナーRichard A. Posner)のケインズ評価という「変節」を中心に、原理的なシカゴ学派(例にあげられているのが、FamaLucas)がもはや「引退」すべき潮時にあると示唆しています。共産主義の没落とともに、規制緩和と経済的インセンティブを主張し全世界的に浸透するにいたったシカゴ学派の思考法も、金融業界においてまで規制緩和が行き過ぎるに至り近年の金融危機を招き、もうこのままでは立ちゆかなくなっているのではないかと言うわけです。

しかしシカゴ学派は新しい流れとしてRichard Thalerらによるbehavioral economics行動経済学)も生み出しており、ソ連の解体後もマルクス主義が死に絶えず再生しようとしているように、この金融危機以後もシカゴ学派が死に絶えるわけではないことも示唆しているようです。

マルクス主義やシカゴ学派の経済学的思考というのは、時代ごとの一種のイデオロギーとして働くように思えます。イデオロギーはとにかく私たちを支配しますから、私たちはその正体を見極め、その長所と限界をよく自覚すべきかと思います。



しかしそれとは別に、久しぶりに雑誌を開封した(汗)私が強く思ったのは、情報入手についてです。

私はこの記事を読んでなるほどと思い、興味に駆られてThe New Yorkerのウェブサイトを訪れました。そこにはこの記事の著者のブログがあり、この記事でも取り上げられたシカゴ学派の経済学者へのインタビュー記事も多数掲載されていました。これは無料で誰でも読めるものです。


RATIONAL IRRATIONALITY: John Cassidy on economics, money, and more.


読み始めたら面白いのですが、とても読みきれないほどの情報量があります。ちょっと考えたらお金を出してThe New Yorkerを買わなくても、この無料ウェブ記事を読んでいればいいようにも思えます。

しかしThe New Yorker本誌の記事を読むほどには、このウェブ記事は面白く読めません。本誌の方が情報が凝縮され、文体も洗練しており、短時間で質の高い読書が経験できるからです。私がこれからもThe New Yorkerを購読するとしたら、私はお金を払う理由をこの情報の凝縮に対して見いだすでしょう。

Googleの普及以後、情報収集の価値は劇的に下がりました。特に英語で検索すれば、もう処理できない分量の情報が手に入ります。以前は情報は紙媒体で探すのが中心で、情報収集には時間がかかりましたから、情報は希少資源でした。だから情報を多く収集するために私たちは進んでお金を払っていました。

しかしGoogle普及以後、情報はもはや希少資源ではありません。ですから単に情報を収集するために私たちはお金を払う気持ちにはなれなくなってきています。今、お金を払うとしたら、それは多くの情報のためではなく、精選された情報のためでしょう。希少資源は今や情報でなく、私たちの時間です。これから私たちがお金を払う価値を認めるのは、情報収集に対してではなく情報凝縮に対してではないでしょうか。

私はこうしてブログに駄文をたくさん書く人間ですが、そういった私にも時折英語教育でお金を頂いて原稿を書く場合があります。その時に私が心がけているのは―当たり前のことですが―読者がお金を払う価値があると思える原稿を書くことです。そのような原稿を書くことは、情報の多さによっては達成できません。雑誌や本には分量制限が厳しく設定されていますから私は思うような情報量を掲載できません。ですから私はできるだけ推敲します。推敲して、読む価値の高い項目だけを精選します。文章もできるだけ読んで心地よいものになるよう何度も書きなおします。ブログなどは、とにかく自分が書きたいことだけを、誤字脱字訂正以外の推敲はせず、ほとんど自分の備忘録として(あるいは自分の欲求不満の解消として)書き付けますが、紙媒体への商業原稿では読者にとって最適に情報を凝縮しようとしています。

情報の紙媒体と電子媒体での棲み分けはこれから大きな課題となってきますし、両者の違いも曖昧になってくるかもしれませんが、私は紙媒体の強みの一つは情報の凝縮であるような気がします。凝縮した内容と洗練した文体をもった文章を掲載できない限り、紙媒体はどんどんと縮小してゆくだけかもしれません。

もっとも内容の凝縮と文体の洗練は電子媒体の編集でも言えること―つまりはどの媒体にも共通する当たり前のこと―なのかもしれませんが。




【広告】 情報が凝縮した吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 (ひつじ書房)を買ってね (笑)







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