2010年1月25日月曜日

指導要領を受け流し、骨抜きにするという戦略について

「授業は英語で行なうことを基本とする」について、組田幸一郎先生がブログ「英語教育にもの申す」で「反対するのであれば。正面から受け止めない方が、より戦略的です」と述べています。



なるほど、私も自分が高校教師だったらこの戦略をとるかもしれません。役所の言うことはまあ適当に受け流すというのが日本での知恵だからです。

私は、「制度の内と外の間でのコミュニケーション」で書いたような理由から、新学習指導要領推進者とその反対者が公開討論をする可能性は低いだろうと考えています。

もし開催されたとしても、反対者は批判の手を弛めてしまうかもしれません。社会的機能と個人的人格を峻別して、社会的機能に徹して議論をするという言語コミュニケーションは、日本文化では根付いていないからです。もっともどの国の文化でも個人の人格を尊重するということは大切に思われているでしょうが、日本では特に「人間関係を壊さない」ことが重視されていますから、反対者も相手の面子を配慮して自らの言動を抑制するかもしれません。あるいは徹底的な批判をした場合に自分に跳ね返ってくるかもしれない (暗黙の) 社会的制裁を怖れて言動を抑えるかもしれません。

しかしやはり学習指導要領は国レベルの公的文書です (注)。そのような規模での公的文書では文字通りの意味だけが通用します。菅先生や田尻先生などの業界内の有力者の言葉を引用して学習指導要領に解釈を加えようとしても業界以外の人には「何ですか、それは? それは私人の見解でしょう」と言われればそれまでです。国レベルの公的文書を、業界内の慣行で骨抜きにすることには無理が多いと思います。少なくとも英語教育界は、言語に関わる業界なのですから、きちんと言葉で理路を示さないと、業界外では不信感が増すだけですし、私たち自らも誇りを自分でも保てなくなりませんでしょうか。英語教育を業界内だけで考えることはもう止めにするべきでしょう。

また、私はある時、学習指導要領の英訳を手にしたヨーロッパ人から議論を吹きかけられたことがありました。応答の中で私は「学習指導要領は、曖昧な大綱にすぎず、現実世界ではかなり骨抜きにされている」といった説明もしましたが、そう言っていて何だか自国文化について情けない思いも感じてしまいました。日本の英語教育も、今は他国の研究者・実践者から観察されています(ちょうど私たちが他国の英語教育を観察するように)。もし英語が「グローバル」な言語だと言って英語教育を押し進めるなら、日本の英語教育関係者も、自国内だけで通用するような論理で英語教育を推進するのは止めるべきではないでしょうか


これまでの「日本的」なやり方でしたら、新学習指導要領も適当に受け流してしまうことが現場と英語教育関係者の現実的対応ということになるでしょう。「指導要領ではそう書いていますが、まあ現実は・・・・」といって文末を言い切らないで笑顔を示すのが日本での世間知というものでしょう。しかしそのような英語教育関係者の「ことばの教育」や「グローバリゼーション」あるいは「説明責任」という言葉からは、説得力が根源的に失われてしまうような気もします。

日本の英語教育関係者は、私も含めて、自らの仕事のもっとも大切なところにおいて、言語コミュニケーションが十分にできていないのかもしれません。




(注) 私はある時「皆さんは自分の感情や考えで赤信号を無視しますか? できませんよね、そんなこと。指導要領も同じです。従わなければならないんです」というレトリックを耳にしました。しかし指導要領は厳密な意味での法律ではありません。指導要領と道路交通法を同じものとして扱うレトリックは誤りであり、危険だと考えます。指導要領の法的性格については、(いわゆる「伝習館裁判」だけでなく)様々な判例などにも基づいたきちんとした法学的研究論文を読んで勉強したいと思います。どなたかそのような論文をご存知ありませんか。私は数年以上そんな論文を読みたいと思い続けています。






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