2010年1月29日金曜日

技術・哲学・物語

[以下は学部三年生の授業の最後のまとめで言うつもりだったのに、時間不足で言えなかったことです]

皆さんは、本日のDVD(6-way Street ライブ盤 蒔田守 「蒔田の授業改革:その手の内幕の内 ~生徒・実習生・同僚に耳を傾ける~」)を見て様々なことを感じ、考えたことと思います。本当はいつものようにグループとクラスで話しあって理解を深めたいのですが、今回は残念ながら時間がありませんので、私なりのまとめを提示するだけにします。


私のまとめの骨子は、英語教師の「技術」は、その教師の「哲学」に直結しており、さらにその哲学はその教師がもつ「物語」に根ざしているということです。

私が英語教師の教員養成に関わるようになってすぐに感じたことは、大学で「研究者」と称している人には、海外研究や文部(科学)省の動向以外の知識はあまりなく、実践にとって本当に大切な知恵は現職教師が持っているということでした。(少なくとも当時の私には実践の知恵はまったくといっていいほどありませんでした)。

以来、英語教育達人セミナー(メールマガジンで開催日程などを知ることができます)などの「自主セミナー」に積極的に参加したり、現職教師と話し合える会にはできるだけ足を運んだり、その他にもできるだけ現職教師の方々の生の声を聞くように努力してきました。

そんな私が最初に魅了されたのは、現職教師がもつ「技術」の素晴らしさでした。配慮が細やかで、緻密にデザインされ、効率的で効果的で、ユーモアがあって、知らない間に生徒が勉強しているような技術の数々に私はただただ驚き、私は旧ホームページを始めてからしばらくはそういった技術をできるだけ報告するようにしてきました。

しかし私だけでなく自主セミナーの参加者・講師共に次第に気がつき始めたのは、技術をそのまま真似するだけではうまくゆかないことが多いということです。講師と参加者のおかれた状況は時に大きく異なります。学習者の学力・意欲・態度・生活習慣・価値観等々。保護者や地域の経済的状況・社会的状況・文化的状況等々。学校の価値観・狙い・文化等々。教員集団の考え方・チームワーク状況等々。なにより教員自身のパーソナリティ・英語力・分析力・マネジメント力等々。リストはどんどん続くでしょう。

通常こういった要因を、各人は当たり前の前提としてしまって、分析しません。まあ、転勤などで大きく環境が変わったりした時に、必要に応じて半ば無自覚的に調整するぐらいのことでしょうか(時に環境が変わっても頑強に自らの前提を変えない人もいますが)。

複雑に絡み合う諸要因を整理することが必要です。自分あるいは所属する学校や地域がもっている諸要因を整理して言語化することを、ここでは仮に「哲学」と呼んでおきます。すぐれた講師は技術を紹介・提示しながら、自らの哲学を語ります。その哲学により参加者は技術の特性や限界などを理解し、技術を鵜呑みにせず調整し変化・進化させることができるようになります。また自主セミナーなどに参加しない実践者も、しばしば小手先の技術では教育実践は改善されないことを痛感した後、自らの諸前提を吟味し分析し、自らの状況にかなった哲学をつくりあげます。その新しい哲学は実践者に新しい見方・認識・理解をもたらし、学習者のことがよく理解できるようになります。目の前の学習者に即した教育方法を自ら考案することもできるようになります(「リフレクティブ・プラクティス」と呼んでいいでしょう)。

しかしその哲学が生成される間に、実は「物語」も育ってきます。哲学が冷静な分析の言語化だとしたら、物語は血の通った理解であり、その理解の表現です。実践者は、学習者や学校や地域の事情をより深く知るにつれ、さまざまなエピソードに接します。というより自らさまざまな事件に巻き込まれ、深く感じさせられ考えさせられ、自らエピソードを語り始めるようになります。哲学の整理が、そのようなエピソードにより肉付けされたものをここでは「物語」と呼んでいます。とはいえ、この物語は哲学の論点の単なる例証ではありません。物語は哲学に基づきながらも、より現実の多様性・複雑性に対して開かれていますから、複数の解釈を許したり、答えがないまま私たちを宙ぶらりんにさせたりもします。しかし私たちはそんな物語により、しばしば哲学に接するよりも深く感じさせられ考えさせられます。複雑な現実をより豊かに理解出きます。

「技術は哲学に基づき、さらに物語に根ざしている」ということで、私は上記のようなことを意味しています。逆に言うなら、哲学に基づいていない技術は、しばしばその場限りのものに過ぎず、状況が変わるとまったく役立たないものになります。物語に根ざしていない哲学は、しばしばその時代の知的流行や自分が偏愛する理論の焼き直しに過ぎず、人々の共感を得ません。実践者は、実践の当事者のさまざまな物語に耳を傾け、自らもいくつかの物語を紡ぎ出し、それらの物語を自らにも他人にも開いて、さらに深い感性的理解と知的理解を得られるようにすること―これこそが実は「技術」を改善し、教育実践を確かなものにするために必要なことではないかと私は最近強く思っています。「第二言語教師のナラティブ(語り)」というテーマで私は科研を頂いておりますが、こういった問題意識で研究を進め、わずかながらでも日本の英語教育の実践に貢献したいと考えています。

皆さんもいい実践に接したら、それをただ真似たりするのではなく、またただ「凄いなぁ、凄いなぁ」と憧れるだけでなく、実践を知的に整理し、自他の体験で肉付けして語ってみてください。そういった哲学や物語が皆さんの技術向上に役立つことと私は信じています。






というわけで『リフレクティブな英語教育をめざして』をぜひお読み下さい(笑)。図書室に置いています。さまざまな物語に接することができます。私もブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(爆)。












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