2010年1月3日日曜日

C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房

ユングのこの自伝の翻訳にあたって、訳者は以下のような懸念を表明している。



[この本が] どの程度理解され、受け入れられるかについては、正直に言って、相当の危惧を抱いている。しかし、どれだけ多数の人が、ユングを理解してくれるかという点よりも、これによって少数でもユングの真の理解者が現れることの方を期待すべきであろう。(第1巻 289ページ)


私自身がユングを誤解している可能性をまず指摘した上で言うなら、自らの思考と観察をもって合理主義を得たのでなく、学校教育などで教条的に合理主義を受け入れただけの人はユングを拒否するだろう。他方で自らの思考と観察をもって合理主義を得るどころか、教条主義的な合理主義さえ受け入れる知的訓練すら経験していない人はユングを誤読し恣意奔放な教条に陥るかもしれない。要は ― 私はおそらく自分のことを述べているのだろう ― 頭の弱い人間はユングを誤解する。

いずれにせよこのユング自伝を適切に読解できるかどうかは、プロローグ冒頭の次の一節を適切に解釈できるかで判断できるだろう。この一節を感情的な拒絶または大げさな共感抜きに、冷静に理解できるならユング自伝は素晴らしい読み物となるだろう。以下は自然科学か人文学に進かを迷ったあげく医者として訓練を受け精神医学を選び、独自の途を切り開いたユングが自伝を開始する言葉である。


私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。私は、私自身のこの成長過程を科学の用語をもってすることはできない。というのは、私は自分自身を科学的な問題として知ることができないからである。

内的な見地からすると我々はいったい何であり、人はその本質的な性質において何のように思われるかを我々は神話を通してのみ語ることができる。神話はより個人的なものであり、科学よりももっと的確に一生を語る。科学は平均的な概念をもって研究するものであり、個人の一生の主観的な多様性を正当に扱うにはあまりにも一般的すぎる。

そこで今83歳になって私が企てたのは、私個人の神話を物語ることである。とはいえ私にできるのは、直接的な話をすること、つまりただ「物語る」だけである。物語が本当かどうかは問題ではない。私の話しているのが私の神話、私の真実であるかどうかだけが問題なのである。(第1巻 17ページ)


別の箇所でユングは次のようにも述べる。


すべての私の著作は私の内界から課せられたつとめであるとも考えられるだろう。つまり、それらの源泉は運命的な強迫である。私が書いたことは、私自身の内から襲ってきたことである。私は私に話させようとする精神 (スピリット) を許容した。私は自分の著作に対する強い反応や、強力な共鳴など当てにしたことはない。 (第2巻 30ページ)



ユングがこのような境地に立ったのは、彼が徹底的に臨床家として観察をし、観察を通じて直観を得て思考しなければならなかったからだ。彼は事実の人であった。

長年の臨床的事実に鍛えられたユングは「方法」について次のような見解を抱く。


心理療法と分析は人間一人一人と同じほど多様である。私は患者をすべてできるだけ個別的に扱う。なぜなら問題の解決はつねに個別的なものであるからである。普遍的な規則は控え目にしか仮定されない。(第1巻 191ページ)

もちろん医者はいわゆる「方法」に精通していなければならない。しかし彼は何か特殊な日常化された接近法におちこまないように用心しなければならない。一般に、人は理論的仮定に用心しないといけない。今日のところそれは妥当かもしれないが、明日は他の仮定が妥当だということになるかもしれない。私の分析では、理論的仮定は何の役割も演じはしない。私は故意にきわめて系統的でないのである。私の考えでは、個人を治療するさいには個別的な理解だけしかない。我々はあらゆる患者に対しちがった言葉を必要としているのである。ある分析では、私がアドラー派の対話を語っているのが聞かれるし、もう一方ではフロイト派のそれが聞かれることもあるのである。(第1巻 191-192ページ)


自らの内的なものを尊重するユングは当然にして他人の内的なものも尊重する。


私は患者を何かに変えようとは決してしなかったし、何かの強制も行なわなかった。私にとっていちばん重大なのは、患者が物事について彼自身の見解をうるということである。私の治療のもとで、運命の命ずるままに、異教徒は異教徒に、クリスチャンはクリスチャンに、ユダヤ人はユダヤ人になるのである。(第1巻 201ページ)


ユングは、意味ある偶然 (=「共時性」 (英 synchronicity; 独 Synchronizität)) は信じても、機械的な偶然は信じなかったのかもしれない。少なくとも主体的に生きようとする人間にとっての「偶然」に関しては。


生き生きとした精神構造では、ただ機械的な仕方であらわれるものはなく、すべては全体と関連して、全体の理法に適合するものである。すなわち、すべてが目的をもち、意味があるということである。しかし意識は全体を見通していないので、ふつう意識はこの意味を理解することができない。(第2巻 66ページ)



ユングの生涯あるいは研究とは、彼が「無意識」と呼んだ領域に限りなく自分を開きながら、同時に意識 (およびその中心の自我) をおよそ明晰に保ち続けることだったとまとめられるかもしれない。だからこの自伝で散見されるのはおよそ強力な自我 (あるいはヨーロッパ人としての自覚) と臨床家としての徹底した現実感覚をもつユング像である。この強力な自我と現実感覚がなければユングは、ヘルダーリンニーチェのように自らの無意識に翻弄され狂気に陥っていたかもしれない。


心筋梗塞と妻の死を経験した後のユングは次のような心境を得ている。


病後にはじめて、私は自分の運命を肯定することがいかに大切かわかった。このようにして私は、どんなに不可解なことが起こっても、それを拒むことのない自我を鍛えた。つまりそれは、真実に耐える自我であって、それは世界や運命と比べても遜色がない。かくして、敗北をも勝利と体験する。内的にも外的にも、かき乱すものはないもない。それは自己の持続性が、生命や時間の流れに耐えているからである。しかしこれらはただ、運命の計らいに、出過ぎた干渉をしないときにのみ流れ去ってゆくのだ。 (第2巻 136ページ)


しかしこの耐える自我は、ユング自身から来るものでありながら、ユング自身を超えたものから来るものでもあったように思える。そういった「超人的」なるものについてユングは次のように言っている。


しかし、私には超人的な力があった。私がこれらの空想の中に経験しつつあることの意味を発見せねばならないということについて、最初から私の心の中には確信があった。無意識のこれらの襲撃に耐えてゆくとき、私は私よりもっと高い意志の力に従いつつあるのだという確固たる信念をもち、そのような感情は、私がその仕事を仕遂げるまで私を支え続けてくれたのであった。 (第1巻 253ページ)


こうして強力な自我と鋭敏な意識をもって、ユングは無意識に向かい合う。そして患者が、患者自身の自我と意識でもって自らの無意識に向かい合うことを支援する。この向かい合いから自我が経験する意識と無意識の統合は、まさに経験されるだけのものであり、それを「客観的」あるいは「科学的」に記述することはできない。それぞれの人格が強く絡む経験を、無人格的な言語で記述することは不可能あるいは不適切であるからだ。私たちは自分自身に対してあるいは他人に対して人格的であろうとするなら、自分自身や他人との出会いを人格的に生き抜くことができるだけであり、それをことさらに無人格化した科学の言葉で記述・説明してもそれは虚しいこと (あるいは退屈なこと) に過ぎない。


かつて無意識内容だったものを意識に統合する場合、その人自身の内部でなにが起こっているか、言葉で記述することはほとんどできない。それはただ経験されうるだけである。それが主観的出来事であることは論をまたない。われわれは自分自身について、自己の存在様式について、ある特有の感じを抱き、そしてこのことは疑うことのできない、疑ってみても意味のない、事実なのである。それと同様に、われわれは他者に対しても、独特の感じを抱き、そしてこのこともまた疑いえない事実である。われわれの知るかぎりでは、これらの印象と意見のすべての間にありうる不一致を排除できるような、より上位の権威は存在しない。変化が統合の結果として生じたのかどうか、その変化の特質がどのようなものであるかといったことは、相変わらず主観的確信の問題のままである。確かに、それは科学的に立証できる事実ではなく、したがって公認の世界像からはもれ落ちたものである。けれども、実践的には非常に重要な、成果のある事実であることには変わりがなく、現実的な心理療法家や、少なくとも、治療に関心のある心理学者にとって、この種の事実を見過ごすことはできないはずである。 (第2巻 121ページ)


医者として自然科学の訓練を受けながら、心の不可思議さに正面から向かい合い、その葛藤をくぐり抜けたユングにとって浅薄な合理主義は ― 自らを批判することを忘れた合理主義は ― 批判されるべきものであった。


合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。しかし、多くのことが未だ見出されるだろうに、それを、われわれの限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ。 (第2巻 138ページ)


かくしてユングは統合失調患者についても患者を切り捨てた態度を決して取ることなく、患者のそのような人生に意味を見出そうとする。(「べてるの家」によって統合失調症について最初に学んだ私のような人間にとってこの見解は (すくなくとも机上では) すぐに受け入れられるものであった)。


私は精神医学は最も広い意味で、病めるこころと正常と思われる医者のこころの間の対話であると主張した。それは、病める人格と治療者の人格との間に深いかかわりをもつようになることであり、両者ともに原則として等しく主観的なものである。私の狙いは妄想や幻覚が精神疾患に特異な症状ではなく、人間的な意味をも持っていることを示すことにあった。 (第1巻 164ページ)

我々は精神病者の中に何ら新しく、未知なものを発見しはしない。むしろ、我々は我々自身の性質の土台に出会うのである。 (第1巻 186ページ)



以上の私のまとめは、あまりにも量的研究方法に教条的に拘る日本の英語教育界に対する私の強い不満から主として「方法」に関したものだけになってしまった。だが伝記の面白さはもちろん具体的な記述にある。この自伝も数々のエピソードは圧倒的に面白い (私は特にユングの非ヨーロッパ圏への旅行の記述を非常に面白く読んだ)。もしユングに興味が出たら、ぜひこの本を、強力な批判意識と、その批判意識すら超える無意識の力の両方のバランスを保ちながらご自身でお読み下さい。

最後にユングが学生時代に見た象徴的な夢とユング自身によるその夢の解釈を引用してこの拙いまとめを終わります。


ほぼこのころに、私を驚かしまた勇気づけもした夢をみた。どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進を続けていた。深いもやがあたり一面にたちこめていた。私は手で今にも消えそうな小さなあかりのまわりをかこんでいた。すべては私がこの小さなあかりを保てるか否かにかかっていた。不意に私は、何かが背後からやって来るのを感じた。振り返ってみると、とてつもなく大きな黒い人影が私を追っかけてきた。しかし同時に私はこわいにもかかわらず、あらゆる危険を冒してもこの光だけは夜じゅう、風の中で守らなければならぬことを知っていたのである。目が覚めた時、私は直ちにあの人影は、「影入道」つまり私のもって歩いていたあかりで生じた、渦まくもやに映った私自身の影だとわかった。私はまた、この小さなあかりが私の意識であり、私のもっているただ一つのあかりであることもわかった。私の自分についての理解は私のもっている唯一の宝物であり、最も偉大なものである。暗闇のもっている力に比べると、きわめて小さくかつ弱いけれども、それはなおあかりであり、私だけのあかりである。

この夢は私には重大な啓示だった。その時私はNo1 [若きユングはいわゆる自我をこのように呼んでいた] が光の運搬人であり、No2 [これは若きユングがいわゆる無意識を指すために使っていた言葉である] はNo1に影のように従っていることがわかったのである。私の仕事はあかりを守り、透徹した生命力の方を振り返ってみないようにすることだった。 (第1巻 135ページ)



⇒『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)』

⇒『ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)』





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