2010年2月1日月曜日

「英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化している」という主張に対して寄せられた疑問について

江利川先生のブログ記事 (2010/01/14) ―あるいは 「コミュニケーション重視」という誤ったスローガンで退化した英語教育について ―」の記事に関して、efさんという方が質問をしてくださいました。答えがある程度の長さになりそうなので、答えはここに掲載します。元々の記事およびefさんの質問の原文は、上記記事をクリックしてお読み下さい。

ここでは私なりにefさんの質問を簡単に再構成して、それに答えます。元々の記事の主張は「高等教育で第一に重要な英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化していると言うべきでしょう」というものです。


Question 1: 「大学生がきちんとした英語の文章 (論文) を読めなくなっている」の論拠は何ですか?

Response 1: 直接の学術的証拠はありませんので、間接的な学術的証拠、および関連するエピソードをあげます。

間接的な学術的証拠としては、山森光陽・荘島宏二郎(2006)『学力―いま、そしてこれから』ミネルヴァ書房などがあげられます。

この本の第五章 (「英語学力の経年変化」) で吉村宰先生は、1994-2004年のセンター試験第二問のデータを使って、学習指導要領が易化してからの1997年受験生から英語学力が大きく下がっていることを実証しています (詳しい研究方法論はこの本を読んでください。他の章もとても面白いです)。これは非常にしっかりとした研究ですが、直接的に論文を読んだりする英語学力を扱った研究ではないので私にとっては残念ながら「間接的」な学術的証拠としか言えません。

間接的な学術的証拠より、厳密な意味での証拠能力は下がるかもしれませんが、関連するエピソードとしては、例えば以前は受験英語の定番といわれていた伊藤和夫『英文解釈教室』 (研究社出版) や原仙作『英文標準問題精講』 (旺文社) が、現在では「難しすぎる」「今の大学入試にはここまで必要ない (だが本当に英語を読もうとするなら必要)」といった評価を受けていることをあげたいと思います。アマゾンレビューにはいろいろな人が書込み、極端な見解に対しては反論が加えられることが多いですから、それなりに信頼できると思います。どうぞお確かめください。(私は『「みんなの意見」は案外正しい』という見解に妥当性を感じています)。

また、元々の記事でも述べましたが、残念ながら私の勤務校でも英語を読み書きする力は落ちていると感じています。もちろんこの場合「昔は良かった」という見解の偏りや、自分のことは良く思い他人 (特に若者) のことは悪く思う中高年の偏見を注意深く排除する必要がありますが、それにしても昔なら読めていた英文が読めない (そもそも授業でも読まされることがほとんどない)ことや、英英辞典を使いこなせないことなどの事例からすれば、力は落ちたと言わざるをえません (勤務校の学生をこのように悪くいうことに対しては異論もあるかもしれませんが、私は必要最小限の思いやりを充たした後は、できるだけ事実を冷徹に提示する方が、お互いのためによいと信じていますのでこのような記述を敢えてしています)。

また理系の教員からも「最近の大学生は英語で論文が読めなくなった。物理学などがわからないからではなく、英語の構文の知識がないから読めない」という発言はしばしば聞かれます。(実際、私は進学校で、教員がペラペラ英語をしゃべるものの、生徒に尋ねているのは表面的な、見たらすぐにわかる文字通りの意味だけのような、いわゆる「オール・イングリッシュ」の授業を見る度に「この学校ではどうやって進学できる英語学力をつけているのだろう? 他の授業ではまったく違う授業をしているのだろうか。それとも生徒は塾や予備校で学力をつけているのだろうか」と思わざるをえません。)

以上の、間接的な学術研究、多くの人の自由な意見表明による経年変化の観察、大学・高校現場での個人的観察などから私は「英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化している」と主張しています。



Question 2: コミュニケーション重視を「会話重視」と読み違えているのは、教育指導要領を読み違えた教員の方々ではないでしょうか。

Response 2: 教員の方々にもコミュニケーションに関して極めて浅い理解しかしていないというのは事実だろうと思います。ここにおいて中高の教員は、大学教員や教育行政関係者と大差ないと思います。

(ここで思い出しました。金谷憲 (2009) 『英語教育熱 ― 過熱心理を常識で冷ます』研究社出版はぜひお読み下さい。この本の72-73ページなどの記述を読むと、「日本の教育行政はこんなにいい加減に決定されているのか」と驚きと怒りを感じられると思います。私はこの本のここの記述は非常に大切なものと考えていますので、これまでウェブではページ数などは述べても直接引用はしていません。まあ、読んでみてください。)

ちなみに言葉尻を捉えるわけではありませんが、「文科省」というのは統一した人格的存在ではありません。「文科相自身」が言っていることがあるとすればそれは学習指導要領のような公式文書に書かれていることだけです。文科省の関連の方々は様々なコメントをなさいますが、それぞれ大小様々な論点で異なることを述べていらっしゃることは多くの事情通が知っていることです。ですから「文科省」の見解や方針は公式文書で判断するしかありません。この意味で、新しい学習指導要領においても、コミュニケーションに関する記述が浅いと私は考えるというのは2009年1月14日の記事 (「高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出) でも書いた通りです。


新指導要領に関しては、とにかく寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店を読んでください。非常にきちんと書かれた本で、私は多いに啓発されました。



Question 3: 「言語使用者の心を読む力」も退化したとありますが、この力は語用論的能力でしょうか。

Response 3: いいえ、違います。いわゆる「語用論的能力」は、話し言葉中心で議論されていることだと私は理解しています。またBachman (1990, 1996) においても語用論的能力は組織的能力 (Organizational competence/knowledge = grammatical competence/knowledge + textual competence/knowledge) の基盤があって初めて存在するといった見解を示しています(いわゆる「コミュニケーション能力論」に関しては、拙著『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』をお読みいただければ幸いかと思います。最低、資料集としては使える本かとは思っています)。

私が記事で述べた「言語使用者の心を読む力」は、大津由紀雄編 (2009) 『危機に立つ日本の英語教育』慶應義塾大学出版会で自分なりにわかりやすく説明した (つもりの) 「心を読む力」 (mindreading ability) を意味しています。ぜひ同書をお読み下さい。 (わかりにくい論述で良ければ、日本言語テスト学会で発表した原稿をお読み下さい。なおこれら二つの論文では若干用語が異なったりしています。私としては新しい『危機に立つ日本の英語教育』の所収論文を現時点での見解としています)。



以上を私からの回答といたします。

日本の英語教育には改善すべき点が多々あります。efさんのような若い方々が古い考えや変なしがらみから自由に、抜本的に英語教育について考え行動していただけたらと思います。ブログのプロフィール欄を拝見しますと心理学科に所属されているそうですね。私は英語教育界には、どんどん心理学、社会学、教育学、言語学、文学等々の様々な方々が参入してくださればと常に願っています。どうぞこれからもご研究を大成させてください。コメントありがとうございました。









【で、しつこく広告w】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。





2 件のコメント:

ef さんのコメント...

柳瀬先生、
お忙しい中ご丁寧なお返事、本当にありがとうございました。
先生からご紹介頂いた本を読んでまた知識を深めて行きたいです。

また、先生から頂いたお返事を受けて私もブログエントリを書かせて頂きました。
http://etream-of.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-5f18.html

またお時間がある時に是非お読み頂けると嬉しいです。これからもより一層努力しますのでまたよろしくお願い致します。

柳瀬陽介 さんのコメント...

efさん、
コメントならびに興味深いブログ記事をありがとうございました。

efさんのブログ記事を読んで、私もまた書きたくなったのですが、今は時間がありませんので、またいつかにします。

どうぞefさんのようによく勉強をする若い世代が日本の英語教育界をどんどん引っ張っていってください。

ありがとうございました。