2010年2月3日水曜日

「先生、その『評価』はどうやってやったらいいのですか?」

大学で授業をしていて、教育実践について触れるとよく学生に「先生、その『評価』はどうやってやったらいいのですか?」と聞かれます。学生が言いたいのは「その教育実践は大変に面白く意義深いのだが『客観的』に評価する方法が思いつけない。『客観的』に評価できない活動は、学校教育では扱いに困るからその教育実践は現実には実行困難だと思う。しかしこの教育実践は捨てがたい。だからどうしたらいいんでしょう。教えてください」といったことなのでしょうか。

このような質問をする学生はたいてい真面目な学生なので答えに困ります。私の正直な答えはしばしば「このような教育実践では『厳密で客観的な評価』は可能でも適切でも必要でもない。だから評価を求められたら断るか適当にやっておくべきではないか」というものです。でも「評価を断るとか適当にやる」とかいう対応は昨今の学生さん(特に真面目な学生さん)にとって法外のもののようです。ですから短い応答で学生さんを困惑させることもはばかられ、私は答えに困るわけです。

もう少し詳しく述べますと、私の考えは、「『厳密で客観的な評価』というが、それはそもそも可能なのか。あるいは適切なのか。さらには必要なのか。『厳密で客観的な評価』を行おうとすることで教育の営みそのものが歪んでしまうことはないのか。そういった吟味抜きに形式的に『厳密で客観的な評価』を行うことに私たちは警戒しなければならないのではないか」といったものです。

あわてて付け加えますと私は「厳密で客観的な評価」のすべてを否定しようとしているのではありません。よくできた資格試験などはそれぞれのテスト設計において「厳密で客観的な評価」でしょう。しかしその厳密性と客観性はそのテスト設計の理念にかなう限りのものです。テストがテスト本来の使い方を離れて使われる時に、テストの厳密性と客観性は誤用されます。

例えば北米大学への留学において奨学生選考をする場合TOEFLはその場合の「英語力」といった観点においては妥当な厳密性と客観性をもったものといえるでしょう。しかし(極論に聞こえるかもしれませんが)私は中学校英語教師にTOEFLの高得点は必要ないと思います。もちろん高得点が取れれば素晴らしいですが、それよりも中学英語教師にとって大切な「英語力」は、中学生にわかる語彙と文法の範囲ででゆっくりとわかりやすく英語を話す力であったり、生徒の想像力をかき立てることができるぐらいに英語での音読が豊かにできる力であったり、中学生にわかりやすく英語の知識項目を関連づけ整理したりする力等々であったりするからです。いかなる英語テストにせよ、そのテストが想定している理念を越えた「一般的な英語力」を測定するものはありません。「英語力」といった力は構成概念(construct)であり、それは私たちの概念構成が妥当である範囲においてのみ成立するものです。ですから「厳密で客観的な評価」というものは場所を選ぶものです。

というわけで、私は教育活動のすべての側面において「厳密で客観的な評価」が可能・適切・必要とは思いません。私からすれば「厳密で客観的な評価」を振りかざす人は、イデオロギーあるいは時代精神としての「教育改革」に振り回されている人、あるいは振り回されている状況を利用して小権力を得ようとしている人のようにすら思えます。(こういった人が多いというのがイデオロギー・時代精神の怖いところかと思います。いつものように異論・反論を歓迎します)。



こういった点で内田樹先生の記事「甲野先生の最後の授業」は大変面白いです。あの甲野善紀先生が大学の授業でどういった教育方法と教育評価を行ったか。以下は一部の抜粋ですが、どうぞリンクをたどってオリジナルの記事を最後までお読みください。


甲野先生の講習会はだいたいこういうかたちで、「全級一斉」という指導法はなされない。
ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。だいたい数人のグループになって教え合ったり、批評し合ったりする。そのグループも固定していない。甲野先生が何か違うことを始めると、自然に解体して、また違う人たちとのグループが出来る。
自分の身体の内側で起きていることを「モニター」するというのが、稽古の基本であるから、外的な規制はできるだけ行わず、ひたすら自分の内側の出来事に感覚を集中させるというのが、おそらく甲野先生の方針なのであろう。
だから授業なのだが、点数はつけない。
もちろん教務的には成績をつけていただかないと困るのだが、甲野先生の授業の成績は「自己申告」制である。
遅刻早退しても、でれでれさぼっていても、自分で成績表に100点と書き込めば100点をつける。
ただし、と先生は笑いながら告知していた。
「そういうことをすると、あとで別のところで『税金』をきっちり取られることになるからね」
おっしゃる通りである。
他人の監視や査定を逃れることはできるが、自分が「成績をごまかすような小狡い人間だ」という自己認識からは逃れることはできない。

[引用者注:「税金」というのは甲野先生の口癖で、その意味は「思いもかけない時に返済を求められる人生の上での借り。思わぬトラブルや災厄といった形を取ることも多い」といったぐらいの意味です。]
http://blog.tatsuru.com/2010/02/03_0942.php




甲野実践のラディカルな問い掛けにどう応えるかという点で私たちの知性の深浅が試されるのではないでしょうか。(浅い知性はたいていにおいて騒がしいものです)



追記

今思い出しましたが、中学校のある先生は中間テストは行うが最終的な評価には中間テストの得点は入れない実践をなさっていました。大切なのは学期・学年の最後についた力であって、中間テストはそこに至るまでの準備段階であり練習試合のようなものだからというのがその先生の考えでした。

その先生の言葉の意味を深く理解することなく、後年、私は、15週の授業のうちの第5週から非常に厳密な評価を始めてその合計点を最終評価にする授業を始めました。厳密で客観的な評価をすることが学生のためになると考えたからです。

ですが、学生の行動は、私が最終的につけて欲しいと願っている力をつけることから外れて、目の前の課題の得点を最大化するようになりました。いい評価が欲しい学生としては、「最終的につけてほしい力」などといった悠長なことを目指すよりも、目の前の課題を厳密な評価基準に即して得点を最大化することの方が「有利だ」と判断したのでしょう。私が教育現場のすべての側面で「厳密で客観的な評価」を実施することは必ずしも正しくないと思い始めた契機でした。




【しつこく広告】「厳密で客観的な評価」にこだわらない教育実践の改善(笑)には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、「厳密で客観的」ではなく「大まかだけど妥当な」言語コミュニケーション力の評価(笑々)のためには『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。






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