2010年5月26日水曜日

メディア論から考える英語教育: 2つの学会発表予定

■ナラティブを考える中で芽生えてきたメディア論の重要性

ナラティブ(物語)の問題意識が、ルーマンの問題意識と絡んできたりして、最近メディア論を勉強しています。「ナラティブ」というメディアはどういうものなのか。そもそも「メディア」とは何なのか。「メディア」は言語コミュニケーションに、そして社会にどのような影響を与えているのか・・・といったのが最近の私の問題意識の一端です。


■2つの学会発表予定

そこで思い切って以下の二つの学会発表をしてみようと現在考えてみます。

その1が全世界的規模でのメディア論による英語教育の考察、その2が近代日本に関するメディア論による英語教育の考察だとまとめられます。


学会発表予定その1

英語の知識言語化と社会の機能的分化の進行が与える日本の英語教育への影響

【問題設定】メディアは社会を変える。日本の英語教育も現代の急激なメディア進化に対応した認識をもたなければならない。メディア論からの英語教育分析が求められる。

【方法】本発表はOng (1982)のメディア論とルーマン(2009)の社会分化論を統合させながら分析と論考を行う。

【結果】人間の言語コミュニケーションは、原初音声文化、原初書記文化、筆記書記文化、印刷書記文化、電子音声文化、地球的書記音声文化のように主要メディア文化が変遷している。同時にそれぞれの変遷により、社会は分節的、中心/周縁的、階層的、機能的な分化を遂げている。これらの結果、英語は地球的な「知識言語」となり、さらにその「知識言語」の機能分化も進行している。

【結論】英語の「知識言語」化と現代社会の機能的分化は、巨大な複合性をもたらしている。現代の英語使用を考えるためにはPhillipson (2010)のような単純化された枠組みは不適切である。社会システムの複合化にはおそらく教育システムを複合化することが現実的な対応であろう。



学会発表予定その2

ポスト近代日本の英語教育:両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について

【問題設定】日本の学校英語教育は1970年代頃から「コミュニケーション」(=類型的な「英会話」)へと傾斜し、その傾向は2000年代にいっそう加速しているように思える。本発表はこの流れをより大きな枠組で分析し、ポスト近代日本における英語教育のあり方を考察する。

【先行研究】水村(2008)は「現地語」(=生活言語)・「普遍語」(=知識言語)「国語」(=国民国家言語)の枠組みで日本語の変容を捉えた。山岡(2009, 2010)は「国語」形成要因の一つとして「翻訳」を捉え、さらにその翻訳が学校英語教育制度により「英文和訳」に変容し、その普及とともに逆に職業的な翻訳家(「英文和訳」でなく「翻訳」ができる者)が要請される過程をまとめた。しかしこれらの論考は20世紀末からの情報革命の加速的進行を必ずしも十分には捉えていない。

【方法】本発表ではメディアが言語コミュニケーションひいては社会に与える影響を重んずるメディア論(Ong 1982, ルーマン 2009)に基づきながら、ここ10年余りのInformation Communication Technologyの進化を概括し、その帰結としての英語および日本語の状況を整理する。

【結果】現代を、コンピュータが情報の汎用記録・大量保存・高速検索・連結化体系化・偏在化を可能にし、人間がコミュニケーションにより情報の進化の促進をしている時代と分析するなら、英語はそのコンピュータ生態系に最も適合した言語として飛躍的な進化をとげ、日本語を含めた他の国民国家言語を圧倒的に引き離そうとしている。

【考察】これまでの日本の英語教育が「翻訳→英文和訳→英会話」の流れの中にあったとしたら、今後の道筋としては、(1)引き続き英会話、(2)両方向翻訳(英和と和英)、(3)英語の知識言語化、(4)これらの組み合わせなどが考えられる。これらの道筋に対して本論は、(1)は19世紀的帝国主義支配下の発想であること、(2)は英語教育界が指導する力量を失っているかもしれないこと、(3)は現代版森有礼的発想として慎重に考察されるべきであること、(4)は分析的思考を要求することなどを指摘する。



まとめますと、その1の全世界的規模のメディア論では、先史時代から現代に至るまでのメディアの進化を大まかに概括した上で、現代の英語を捉え直す試みです。批判の対象の一つとしてPhillipson (2010)のLinguistic Imperialism Continued(Routledge)をあげます。

その2の近代日本に関するメディア論による英語教育の考察は、優れた翻訳論であり近代化論である水村(2008)山岡(2009, 2010)に基づきながらも、最近のICTの進化を概括することにより、ポスト近代(あるいは近代化を「明治」という言葉に象徴させるなら「ポスト明治」)の英語教育のあり方を考察するものです。


まだまだ勉強不足なので、学会発表というのをプレッシャーにして勉強に励みたいと思います。


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