2010年6月7日月曜日

中嶋洋一先生による蒔田守先生の授業の分析を見て学んだこと

中嶋洋一先生(関西外国語大学)が講演会で、蒔田守先生(筑波大付属中学)の授業を分析しました。ここではそこで私が学んだ二つのこと --(1)意図・行動と一体化した英語、(2)教師の中核的な力としての教材把握力-- について簡単にまとめたいと思います。


■意図・行動と一体化した英語

蒔田先生は中学校一年生を相手にどんどん英語を使ってゆきます。しかしそれが見事な程にわかりやすい。


■クラスルーム英語: 意図⇒行動⇒英語

クラスルーム英語(授業での指示など)では結構生徒が知らないはずの表現を、普通の中一生ならついて行けないようなスピードで使います。でも生徒はそれに即座に反応します。

これは「生徒が賢いから」というよりは、蒔田先生の英語が「計算されつくされた自然さ」をもつものであり、それを繰り返すことによって生徒が英語についてくるようになった、と表現すべきかと考えます。


蒔田先生がクラスルーム英語を使うとき、蒔田先生はその英語が何のために使われるのか・どんな指示をするために使うのかという「意図」を明確に把握しています。ですからその意図がまず蒔田先生の身体にジャスチャーという「行動」として出ます。例えば意図が「(生徒にとっての)右側の生徒が音読をし・・・」というなら、蒔田先生はその意図(=「生徒にとっての右側」および「音読」)をジェスチャーで明確に表現します。ジェスチャーといっても、意図せずに自然に出た身振りというのではなく、たとえてみるなら交通整理の警察官や着陸した飛行機を誘導する空港作業員のように誰でも間違えないような明確な身体による指示行動です。

英語は、このように、明確に把握された意図、およびその意図を端的に表現する行動に、いわば付け足されただけです。極端に言うなら、英語がなくても蒔田先生の意図的な行動を見るだけで、だいたいのことはわかってしまうぐらいのものです。蒔田先生のクラスルーム英語は、このように意識化され様式化されたわかりやすい意図的行動によって支えられているのです。


■教科書の英語: 英語⇒意図⇒行動

蒔田先生が教科書の英語を読み上げても、これまた驚くぐらいわかりやすいものです。これは蒔田先生がただ本文を言語サンプルとして読み上げているだけでなく、本文に生命を吹き込んでから読み上げているからです。

蒔田先生は本文が使われた状況をありありと想像し、その登場人物の心情や意図を明確に把握します。そうして先程も出てきた意図を明確に示す行動でその意図を表現します。蒔田先生が教科書を音読する時、この分析に基づいた意図的行動がきわめて自然に出ますから(=「計算されつくされた自然さ」)、聞いている人は英語が本当に自然にわかってきます。内容をよくわかった者の朗読と、内容がわかっていない者の音読の違いは私たちもよく経験することですが、蒔田先生の場合は内容理解が意図的な身体表現でも表現されているわけですから聞いていて本当に英語がよくわかるのです。

蒔田先生を、単に「英語の発音がネイティブのようだ」といった浅薄で通俗的なだけの認識で捉えるべきではありません。蒔田先生は計算されつくした自然さでもって意図・行動・英語を一体化しているのです。これこそが英語教師としての英語力ではないでしょうか。

また蒔田先生は、ちまたでしばしば見られるような自分の英語を披露するだけの授業をしているわけではありません。これは生徒の英語発話が見事なことからすぐにわかります。英語教師の英語力は、生徒の英語力を育てるためのものです。この点を見逃して、いくら授業を英語でばかり行っても意味がないことは言うまでもないでしょう。



■教師の中核的な力としての教材把握力

蒔田先生の授業構成もこれまた綿密に練り上げられたもので、あらゆる部分が他の部分との関連をもち、授業に無駄なところがありません。これは中嶋先生が指摘するように、蒔田先生がこの一時間だけでなく、この一時間を部分として含む単元全体、ひいては一学期・一学年・三学年といった全体を把握した上で授業を作り上げているからです。「蒔田先生のグランドデザインに学んでほしい」というのが中嶋先生のコメントでした。





■中核としての「教材把握力」

このグランドデザインを他の言葉で表現するなら「教材把握力」となりましょうか。これが教師の中核的な力であると考えられます。

優れた教師は英語を「教材」として捉えます。今教えている英語が、過去に生徒が学び今覚えているはずの英語とどのような点で似て、どのような点で異なるのかを明確に把握しています。さらには生徒が学んだけれど忘れかけているはずだろうの英語との関連も十分に意識しています。加えて生徒がこれから学ぶ予定の英語、およびそれを学ぶときに生じてくるこの英語との関連も予知しています。優れた教師は、ある英語を教えても、決してその英語だけを単独で教えるのではなく、過去の学びと連関させ、今学んでいる英語を生徒のこれまでの英語力にうまく統合させます。そして未来の学びへの下準備をもしておきます。これが「教材把握力」の高さが可能にする授業です。

こういった教材把握力をつけるためには、単に教科書を読み込み、文法書・辞書を調べるだけでは不十分かと私は考えます。それらに加えて、生徒をよく観察し、観察された生徒の行動を分析して生徒の思考を理解し、その生徒の視線で英語を(再)整理してはじめて英語は「教材」となるのではないでしょうか。

もちろんこういった教材把握力をもった先生はこれまでもたくさんいらっしゃいました。受験指導に長けた先生などはしばしばこの力をもち、独自の教材を作成されていました。

しかし蒔田先生などは過去のそういった方と少し異なっているかもしれません。それは教材把握力が、「自然で鋭敏な言語感覚」に基づいているからです。



■基盤としての「自然で鋭敏な言語感覚」

自然で鋭敏な言語感覚とは、英語を教材として見る前に、人々の間の自然な営みの中でつかわれることばとして英語を捉え、かつ自らも使用する中で育ってくる感覚です。これがありますとどんな英語が自然・適切で、どんな英語が不自然・不適切かが、別段教えられなくてもわかるようになります。蒔田先生には明らかにそういった感覚があります。だから上でも述べたように、授業で使用する英語が計算しつくされたものであるにもかかわらず自然なのです。

この自然で鋭敏な言語感覚は、教養のある英語母語話者には備わっていると言えるでしょう。また外国語・第二言語として英語を学び、使うようになった者の中にも、生来のあるいは学習した言語意識の高さにより身につけている人も多いでしょう。

しかし英語教師として大切なことは、「自然で鋭敏な言語感覚」が「教材把握力」に活かされているということです。言語感覚ばかり高くて、教材開発に興味がないなら、高校の先生方にたまに見られる鼻持ちならない「英語自慢」の英語教師になるだけでしょう。生徒には興味を持たず、同僚との仕事にも非協力的で、空いた時間は英語の雑誌などばかり読んでいる。かといってその英語を何か社会的活動に活かすわけでもなく、ひたすら自らの「英語力」を自己満足や自慢のためか、他人をこき下ろすために使うだけ --このような方は、残念ながらいい英語「教師」とは言えません。「教材把握力」を英語教師の力の中核と言うゆえんです。


こうして優れた英語教師は自然で鋭敏な言語感覚に基づきながら教材を把握し、授業を構成・展開・運営してゆくわけですが、蒔田先生はさらにそこからも一歩抜け出ししているようにも思えました。教材の提示の仕方(「提示力」)が素晴らしかったからです。


■授業をさらに生徒に親切なものにする「提示力」

蒔田先生はiPodを利用したプロジェクタや、ホワイトボードを使った手書きなど、さまざまな教材提示法を使っていました。ですがそれらいちいちに十分な理由がありました。ただ「かっこいい」からiPodを使っているわけではありません。ただ「近くにある」からホワイトボードを使っているわけでもありません。教材を提示する時、、蒔田先生はその教材提示の目的達成のために最適のメディアを使っているように思えます。これが教師の「提示力」かと思います。

テクノロジー好きの教員はしばしば最新テクノロジーを教室に導入しますが、そのテクノロジーが授業から「浮いている」のもよくあることです。教師の提示力は、教材把握、ひいては自然で鋭敏な言語感覚に基づいたものでなくてはなりません。逆に自然で鋭敏な言語感覚に基づいた教材把握をされている先生でも、使うメディアは黒板とプリントばかりという方もいらっしゃるでしょう。しかしそういった方はもっとメディアの使い分けに気を配るだけで、授業が格段と生徒にとって親切なものになるのではないでしょうか。


以上が私なりに、中嶋先生による蒔田先生の授業の分析から学んだことをまとめたものです。中嶋先生、そしてDVDを中嶋先生に提供してくださった蒔田先生本当にありがとうございました。



追記
このような記事を書くと、ごくたまに「いや〇〇先生よりも△△先生の方が授業はうまい!」などと、授業に関する考察を、個人の評定といった話 --私なりのキツイ言葉遣いで言えば、下衆な話題-- にしてしまう方がいらっしゃいますが、私はそんな意図でこのような記事を書いているわけではありません。私たちは教育者なのですから、個人の栄光のためでなく、社会全体のために仕事をしましょう。


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