2010年12月30日木曜日

「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」(HTML版)

以下は、今年(2010年)の夏に口頭発表したものを文章化したものです。年が明ける前に掲載しておくことにします。


下にも書いていますように、教師といった実践家が自らの実践を語るナラティブは、大きく以下の5つの段階を経ると私は整理しました。


(1)意識化
(2)自己の意識化
(3)自己の意識化の言語化
(4)共有化
(5)書記言語化


このうち、(1)のレベルの「意識」(consciousness)は、本稿ではEdelmanに倣って「原意識」(primary consciousness)と呼んでいます。この(1)の原意識と、(2)と(3)のレベルの「高次の意識」(higher-order consciousness)の二つを総称して「意識」と呼んでいます。なお(3)は、(2)が明確に言語化されたものです。

ですから(1)、(2)、(3)のレベルの「意識」の例をあげますと、(1)は人間が覚醒している(=入眠や失神状態にない)レベルのこと、(2)は、身体運動で言うなら私が「意識の再編成と原理の体得」でも粗述した、(1)よりも明確なレベルの意識になるかと思います。なおこの(2)のレベルの意識は、高岡英夫先生の用語(高岡英夫(2009)『究極の身体』講談社プラスアルファ文庫などを参照のこと)で言えば「身体意識」(体性感覚意識)に相当するかと思いますが、高岡先生がわざわざ「身体意識」と術語化した概念を「自己意識」と呼んでしまっていいのか若干の懸念は残ります。。いずれにせよこのレベルの意識(原意識/身体意識)は、言語化される以前の意識です。

(3)のレベルは明確に言語化された意識で、http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/blog-post_06.htmlJulian Janynes)が言う「意識」もこれに相当します。このレベルに意識をもってくるための言語化が困難なことは、私も「インタビュー研究における技能と言語の関係について」で書きましたが、この実践の言語化という論点は、もともと武術家の甲野善紀先生と光岡英稔先生の考察尹 雄大 (ユ・ウンデ)『FLOW―韓氏意拳の哲学』冬弓舎)から学んだもの(あるいは学びきれなかったもの)です。

そうして言語化された意識が、物語の構造を取り始める時私たちはそれをナラティブと呼びますが、それが(4)の段階です。この共有化がどのような力を持ちうるかというのは、アレントの論考「べてるの家」の実践が教えるところでもあります。

さらにナラティブも音声言語から書記言語へと転換する時に、質的な変化が生じるというのが、私が「http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/html.html」で言おうとしたことです。

いずれにせよ、私は「言語コミュニケーション」(linguistic communication)を研究テーマの一つにしていますが、この「言語コミュニケーション」は、コミュニケーションの基礎レベルで身体に基盤をおきながらも、言語というレベルで意識に基盤をもっています。ですから身体と意識は、言語コミュニケーションを考える際にどうしても必要な論点だと私は考えています。以下の拙論は、その身体と言語の関係を、意識の言語化(術語化)から始まりさらに自らのことばを言語的に発展させてゆくナラティブという言語コミュニケーションについて考えた試みです。英語教育の論考ですからナラティブは英語教師が自らの実践を語るものにしました。もしご興味があればお読みください。


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意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察




広島大学 柳瀬陽介





1 序論

1.1 背景

 ナラティブ―本研究では特に「教師が自らの実践を語ること」―が、教師の成長へ貢献すること(吉田他 2009)、およびナラティブを扱う質的研究の性格(柳瀬2010)も明らかになってきた。しかしなぜナラティブが有効なのかという原理的な理解は十分でない。原理的理解がないままにナラティブが単なる「流行」になれば、英語教育の実践および研究にとって逆効果になるであろう。ナラティブに関する原理的理解が必要である。
 
先行研究としては、例えば社会文化的理論的解明もある (Tasker, et al. 2010)が、実践の意識化・自己意識化・言語化というナラティブのもっと基礎的なレベルでの分析も必要である。言語コミュニケーションを教える専門家である言語教師が自らのナラティブというコミュニケーションについて理解を欠くというのは自家撞着であろう。また、ナラティブが他者と共有化され、書記言語化されることもナラティブにしばしば伴う特徴である。これらについての分析も重要である。


1.2 本研究の目的・方法・意義

以上の背景認識を基に、本研究は、ナラティブ実践の過程を分析的かつ原理的に考察し、なぜナラティブが教師成長に貢献するかに関する理解を深めることを目的とする。考察の方法は、基礎分野の知見を整理することによる。教師ナラティブの心理的側面は神経科学、社会的側面はメディア論を準拠枠の基礎分野として、それらの知見を整理し論考を進める。必要に応じて(一般的な意味での)ナラティブの専門家としての小説家の物語論も援用する。本研究の意義は、原理的理解により、より妥当なナラティブ実践が期待できることである。



2 分析

教師ナラティブを通じての教師の成長は、実践の省察 (reflection) から新たな実践 (practice) に至るまでの過程と捉えられる。その過程には、(1)意識化、(2)自己の意識化、(3)自己の意識化の言語化、(4)共有化、(5)書記言語化の五つが通常含まれる。以下、これら五点を整理する。


2.1 意識化

2.1.1 意識の対概念としての無意識と非意識

まず「意識」に関する理解を明確にしておくため「意識」の対概念として何が想定されているかを考えよう。実際、現在私たちが通常有している意識の対概念と、神経科学が有している意識の対概念は異なる。フロイトに由来する「無意識」(unconsciousness) あるいは「潜在意識」(subconsciousness) ―以下ノーベル生理学・医学賞(1972年)受賞者で、特に2000年代から神経科学に基づく新時代の哲学を打ち立てているとも評されるEdelman (2004, 2007)に従い、「無意識」と「潜在意識」の両者を含めて「フロイト的無意識」 (Freudian uncousciousness)と呼ぶ― は、英語教育や第二言語習得の研究でも当然視されている概念である。フロイト的無意識は、普段は意識されていないが精神分析や注意深い想起などで意識化できるものとされている。だが神経科学で用いられているのはむしろ「非意識」(nonconsciousness)(Edelman 2004, 2007)である。非意識は、生理学的メカニズムの限界により決して意識化できない脳の活動であるという点で、フロイト的無意識と異なる。本稿は意識の対概念として「非意識」を採択する。この採択により、第二言語習得研究で時に話題になる「意識から(フロイト的)無意識への変換」(「意識的に学んだ知識を無意識化(あるいは自動化)すること」)に関する整理しがたい諸問題にわずらわされずに、現在明確に自覚している意識から、一定の契機によって想起される(フロイト的無)意識までを幅広く取り扱うことができる。


2.1.2 意識の限定的な機能

 このように「意識」を「非意識でないもの」ととりあえず定義するにせよ、神経科学ではさらに二種類の「意識」を区別することが多い。ここでもEdelman (2004, 2007) が定義する「原意識」 と「高次の意識」 の区別を採択する。
 
最初の「原意識」 (primary consciousness) とは、通常の認知行動にしばしば伴うものである。例えば私たちは外界の何かを原意識で捉えているからこそ、それに対応した動きをする。この原意識の強度は注意と呼びかえることができる。原意識の内実ともいうべきクオリア(qualia)―その者のみが捉えられる感覚質―を科学でどう扱うかは「意識のハードプロブレム」とも称され多くの研究者で見解が異なるが、すべての研究者が同意する科学的事実は、人間が原意識で意識化できるのは、身体が処理する莫大な情報のごく一部に過ぎないという限定性である。

外界が有する莫大な情報量に比して、あるいは脳が非意識的に処理する膨大な情報量に比して、人間の意識―以下、「意識」という用語は原意識と後述する「高次の意識」である自己意識の二つを総称するものとする―は明らかな生理学的限界をもっている。人間の脳で非意識的に処理されていることすべてを意識化するなら、意識は瞬時にその処理の限界量を超える入力を得て飽和し、人間は何の行動もできなくなるだろう。そういった限界の中で、人間は意識を「編集」し「物語化」する(Frith 2007, リンデン 2009)。例えば読書において、眼球はサッカード(saccade)により非連続的な視覚入力をしているが、私たちの意識はその入力を連続した視覚に編集しており、サッカードによる断続を意識しない。認知的葛藤が生じる状況(例えばブラインドサイト(blindsight)―脳による障害で、見えているという自己意識はないが、実際には見えている状態―)では、人間は意識が扱いやすい「物語」を、悪意や利害得失とは関係なく紡ぎ上げる(作話:confabulation)。人間の意識は、自己に関する自己意識はもとより、直接的と思われがちな原意識でさえ、部分的で歪められたものである。この編集と物語化は、意識が他の生命現象と同様、進化のプロセスで生じたものにすぎず、自らの生き残りのために適したメカニズムに過ぎないことの帰結である。意識は、人間が処理しきれない莫大な情報量をもつ複合的な世界を、生き残るために適度な程度に編集してモニターする機構だとまとめられる。


2.2 自己の意識化

2.2.1 自己意識は行為主体なのか?

原意識を有する動物の中で、人間をはじめとした一部の種は「自己意識」 (self-consciousness) を持つ。この自己意識は、「『自らが何かを原意識で捉えていること』を意識している」という意味で「高次の意識」 (higher-order consciousness) (Edelman, 2004, 2007)である。つまり自己意識とは、原意識に関する意識という「意識の意識」である。

近代において、この自己意識は、自らの行為を決定する主体でもあるとされている。実際、近代法が心神喪失の人間の罰を減軽したりするのは、自己意識の中の自由意志(free will)こそが行為の決定要因であるという前提に基づいている。だが神経科学は、この自由意志も、近代社会を支える法的な前提ではあっても、厳密な意味での科学的な事実ではないかもしれないと問いかけた。つまり自己意識(特に自由意志)の行為主体性 (agency) に疑問符を突きつけたのだ。Libet (2004)は、各種の注意深い実験により、自己意識―彼はこれをしばしば「気づき」 (awareness) と言い換えている―は、その後に起こる行動のための脳活動が起動し始めてから約0.5秒後に生じるものであることを明らかにした。つまり近代的前提が想定するように、私たちの行動は自由意志を創出し自覚(自己意識化)してから始まるのではなく、自己意識が自由意志を自覚する前から、その自由意志が引き起こすことになっている行動は非意識レベルで始まっているわけである。私たちの自己意識の中の自由意志は、その非意識レベルの脳活動の追認にすぎない。自己意識は通常、非意識の脳が始めた自らの行動を監視 (monitor) するだけであり、その他にせいぜいできるのは、その自己意識化された自由意志を自らへの一種の新たな入力とみなし、それに対して拒否 (veto) をして起動していた行動を実行寸前で停止するぐらいである(注1)。私たちが自己意識の中で覚える自由意志も実は極めて限定的な機能しかもっておらず、自らの身体の主ではないかもしれないことは理解しておくべきである。それでは自己意識の機能とは何なのか。このあたりの整理を進めるために、次は神経科学の自己意識(高次の意識)の概念を概観しよう。

2.2.2 自己観察から自己記述へ

 自己意識、つまり自己を意識化してとらえることとは「高次の意識」であり、これにより人間を筆頭とする一部の生物は原意識をもつ意識し「自己」を創出する。この原意識の意識化は、原意識という総体的な体験を対象化することを必要とする。この対象化において使われるのが記号 (典型的には言語) である。原意識の体験(あるいはクオリア)を例えば○○という記号あるいは言語という形式で認識することにより、名状しがたい原意識のクオリアは、<○○>という記号的同定、あるいは「私は今○○を見ている」といった言語的意識、という自己意識となる(注2)。となれば、自己意識化において重要なのはどういった記号・言語を用いるか、そもそもどのような記号・言語を有しているかである。
 
自己意識とは、自らの原意識の「自己観察」(self-observation)であると言えるが、その自己観察は言語を用いた「自己記述」(self-description)となる時に明瞭な自己意識となる。近代学校教育において高度な言語教育を受け、小説というメディアで言語的な自己記述の文化に親しんでいる私たち近代人は、言語的な自己記述を自己意識の典型例として通常考える。
 自己観察と自己記述の関係をもう少し敷衍しよう。私たちは暮らしの中で、ぼんやりと自分を観察している。それは明確な自覚以前の名状しがたい「気分」と言うべきかもしれない。だがその気分といった漠然とした自己観察も、しばしば言語による自己記述でより明確な輪郭を与えられる。「ああ、いい気持ち」といった単純な言葉ですら、発せられるや否や、原意識のクオリアはそのようなものとして意味づけられる。自己観察は自己記述により明確な意味づけがされる。
 
 「明確な意味」といったが、それは「同じ言語を使う者に理解してもらいやすい」という公共性を指しているものの、言語による自己記述が常に妥当な自己観察と言い切れるわけではない。例えば「うーん、驚いたというか、戸惑ったというか・・・」と言葉を連ねる人は、自己記述が自己観察としてどこか不全であるという思いに駆られている。どんな言語化でも行えばそれで十全というわけではない。だがその自己記述への不全感も、自己観察を言語化し、対象化したからこそ覚知できたことだろう。「自己観察→自己記述」と進み言語化がなされるが、言語化は「『自己観察→自己記述』の自己観察」を促す。「自己観察→自己記述」が言語により形式を与えられ、観察しやすい対象となったからである。自己記述はさらなる自己観察を促し、言語使用により私たちはより的確に自己を―そして自己が体験する世界を―記述し、そのことによってさらに的確に観察することができる。ある意味で、自己記述は自分に対する贈り物である。自己記述は自ら、および自らが体験する世界を(取り敢えずとはいえ)規定するからである。この規定において、自己記述は自らの生に意味を与える。常に単純で否定的な自己記述しか見出せない者は、単純で否定的な人生を自らに対する贈り物としていることになる。次節ではさらに自己意識の言語化について考察を進めることにしよう。
 
 
2.3自己意識の言語化

2.3.1外からの制度的・権力的言語

 日常生活で私たちが自己意識を言語化していると考える場合において、外からの言語により思考が規定されているにすぎない場合がある。典型的な例は、授業実践についての振り返りを求められた場合の教師が、条件反射的に学習指導要領の用語を出すものの、その後すぐに言葉に詰まる事例である。フーコーやアレントが述べるように(柳瀬2005, 2009)、権力は言説の流通により創出し維持される。教師が実践のナラティブを行う際も、私たちはその言葉が存外に、社会に通用している権力の言説にすぎないかもしれないことに注意しておく必要がある。本稿が「自己意識の言語化」という場合、それは制度的で権力的な言語だけをもって自己像を創り上げることを意味しない。
 
言語は外からだけでなく内からも来る。内からの言語を最も大切にする人としては小説家が代表例となろう。小説家の小川(2007, 50)は書くことにについて、「書くこと、文章に姿をあらわさせること、それは特権的な知識を並べることではない。それは人皆が知っていながら、誰ひとり言えずにいることを発見しようとする試みだ」とも、「現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出し、鉱石を掘り起こすようにスコップで一所懸命掘り出して、それに言葉を与える」とも述べる。


2.3.2言語による意識の構造化・複合化・物語化

そうして現れた言語は、最初は一つの単語かもしれない。しかし単語は言語の一部としての拡張性をもつ。単語は連想により関連する他の単語を呼び出す。それらの単語はメタファーやアナロジーとして使われるなら、さらに次々と自己意識の対象を広げてゆく(Jaynes 1977/2000, Lakoff & Johnson 1980)。さらに単語は統語的に連結され、物語を紡ぎ出す要素となる文となる。例えば自らの実践を振り返り「苦しさ」という単語が浮かんだならば、「無呼吸」が連想され授業が「潜る」というアナロジーで捉えられるかもしれない。さらに「沈没船の中に閉じ込められ、出口を求めて泳いでいる」というメタファー文さえ浮かぶかもしれない。こうして最初は一つの単語といった単純な形で捉えられた自己意識も言語の語彙と統語の体系性を通じてどんどんと構造化・複合化してゆく。やがて私たちは物語を紡ぎ出すだろう。

だが物語とは科学的真実ではない。しかし私たちは物語を必要とする。特に困難で錯綜した状況において、私たちは自らに物語を与えることにより、理解しがたい現実に意味と構造を与える。制度の枠組みを超えた出来事あるいは他者に遭遇した時に、物語は、時に「かくあるべし」といった倫理的・哲学的な枠組みさえ超えて展開する。そこで私たちは物語の語り手でありながら、登場人物でもある。物語を自由に語れるようでありながら、語られた物語の状況の中に捉えられている(自らの物語から抜け出すことはしばしば非常に困難である)。地下鉄テロ事件の被害者の聞き取り調査を終えた村上(1999)は物語の性質を次のように表現している。
人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験を行なうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話し」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。
(村上 1999 pp.749-750)


このように原意識が自己観察・自己記述的な自己意識となり、それが言語の力を得て物語に自己展開してゆくときに、私たちは自分が創り上げたはずの認識構造に捉えられてしまう。それは私たちに一貫した意味を与えるものでありながら、その意味は私たちの制約ともなる。物語のレベルになると自己意識のナラティブは自らもその結果が予測しがたい複合的な自らへの贈り物となる。みずからがどのような言語を見出し選び取り、どう物語を紡ぎ出すかというのは、私たちにとって大きな問題である。


2.4 言語の共有化

2.4.1 相互作用としてのナラティブ

こうして私たちはしばしば物語をもつ。あるいは物語というまでの長さや複雑さをもたずとも言語による自己記述をもつ―以後、長い物語も短い自己記述も総称して述べるためにナラティブという用語を使うことにしよう―。経験的に私たちが熟知していることは、私たちはしばしばナラティブを他人に伝えたがるということだ(時に私たちはナラティブを語る相手がいない状況を耐え難いものとさえ思う)。

人の心に響くナラティブ―私たちはそのようなナラティブを考察の対象としている―を語るということは、一方的な行為ではなく、語り手と聞き手が相互に影響を与える相互作用的な行為である。語り手はまず聞き手を選ぶ。「この人ならわかってくれるかもしれない」と思わなければ私たちは深いナラティブを始めることはない。語る中でも、聞き手の聞き方・合いの手・問いかけ・コメントなどにより私たちのナラティブは独自の発展を遂げる(聞き手の反応に促されて「そうそう!」と言いつつ興奮気味に新しくナラティブを発見的に展開することを私たちはしばしば経験している)。ナラティブは共同構築される(Nair 2003, Nelson 2003)。語り手は聞き手に理解してもらおうとする努力の中で新たな自己意識やナラティブの発見すら時に行う(予測がつかないのが会話の楽しみであることは私たちが周知していることである)。この変容は、個人では起こりえない変容であり、ここにナラティブを自己に留めずに他者に語る意味がある。


2.4.2 ナラティブにより維持発展する共同体

ナラティブが共有化されることにより共同体が維持され発展する。神経科学レベルでも、対話者の心身はかなり同調することが示されている(Greg. et al. 2010)。認知科学レベルでも、ナラティブが共有されるということは、語り手が聞き手の「心の理論」(Theory of Mind)(子安2000)をうまく推定できたということ、同時に聞き手も話し手の推定する心の理論に同調できたということを示す。ナラティブの共有は、話し手・聞き手双方の心の理論の働きが拡張し、双方の認知の枠組みが広がったことを意味する。ナラティブの共有化により、ある一人の自己意識が共同体の共有財産となり、個人の受容感と共同体の連帯感が高まる。ナラティブが語られ聴取されるたびに、共同体は理解の枠組みを共に豊かにし、その共有する枠組みでさらに連帯感を高める。孤立した自己意識に起源するナラティブも、他者に向けて語られ受け入れられることにより、語り手を共同体に招き入れ語り手に大きな力を与える。ナラティブはこうして共同体的行為となる。


2.5 言語の書記言語化

2.5.1 近代言語学の音声言語中心主義

ナラティブは語られるだけでなく、時に書かれる。だが近代言語学および近代言語学の影響を受けた外国語教育学は音声言語中心主義 (speech primacy) を教義として掲げ、音声言語と書記言語の間に特段の差異を認めない。書記言語とは音声言語を文字化しただけであり、パラグラフ概念など以外の取り立てての特徴はないものとする。もちろん近代言語学の中にも、書記言語は名詞化 (nominalization) や語彙的稠密性 (lexical density) といった特徴をもつと指摘するものもあるが(Halliday 1989)、近代言語学は概して、社会学的メディア論(ルーマン2009, Ong 2002)のように、書記言語というメディアが人間の意識と文化を変え近代文明を形作ったことを捉えてはいない。私たちは音声ナラティブを書記言語化することの意味合いを捉えなければならない。

2.5.2 「書く」ということ

話すことと比べて、書くことは、労力を要し時間がかかることと、自らの言語が目の前に残り対象化されること、の二つを特徴とする。この時間のかかる対象化という特徴により、情報選択が吟味され、より深い意味の探究が促される。「書くことにより初めて考えることができる」としばしば言われるが、それは、明晰に考えることは、ただ漠然と前-言語的に想いを巡らせたり無反省にペラペラとしゃべったりすることでは達成できず、労力と時間をかけながら自らが発する言語を吟味し、さらにそれを目の前に対象化して反省的考察を重ねる、書くという行為を経なければ困難だ、ということを指すと考えられる。

自己意識化という自己記述は、自己および自己が認識した世界を観察しそれに言語形式を与えることであるが、話すことに比べて言語産出に労力と時間を要する書くことにおいては、記述対象を精選しなければならない。書く場合は、目につく特徴(差異)を片端から書くのではなく、重要な差異―さらなる差異を生み出す差異―を選択して書かなければならない。さらなる差異を生み出す差異とはベイトソン(2000)の「情報」(information)の定義である「差異を生み出す差異」(a difference which makes a difference)でもある。「情報」とは、数ある差異の中でもその情報発信者が「意味ある」あるいは「重要」だとみなした差異だ。話す時と比べて書くときには私たちはしばしば意味ある重要な情報だけを記述の対象とする。

したがって書かれた言語を観察することにより、私たちはそこに記された情報を受け取るだけでなく、その情報発信者が情報に関してどのような判断をしたのかということを知ることができる。つまり情報発信を観察することにより、観察者としての私たちは、その情報を発信した者がどのような判断をするシステムなのかを知ることができる。これは情報自体の文字通りの意味(literal meaning)の把握でもなく、その発信者が慣習の力を借りながら意図する意味(speaker meaning)の推定でもない。情報発信者に関するこの知見は、情報発信者を注意深く観察する者のみが得ることができる解釈であり、情報発信者は通常この解釈を企図はしていない。

もちろん情報発信者と観察者が同一人物であることもある。情報発信をする自己を観察するわけだ。だがこの自己観察は、書くこと以外の方法では容易ではない。自らがある情報に気づくだけでは自己観察を行うことが難しい。私たちの日常的な情報の発見は一過性のものであり、気づいても、すぐに他の作動を始める。「あっ」「へぇーっ」と思ったものも、多くは他の作動を始めた次の瞬間には忘れられる。このように次々に忘れ去られる情報を観察するのは難しい。

だが情報を発信するなら―後に自己観察をする自分自身を含めた他人が観察しやすいように、自ら見出した情報を自らの頭の外に出すなら―その情報選択という判断を観察することが容易になる。頭の外に出す方法もっとも簡便な方法の一つは口頭でその選択した情報を述べることであろう。音声言語でも自己観察は可能だ。だが、もしその情報選択を何か永続性のある媒体(紙、コンピュータなど)に書き記すならば、書き記すという手間はかかるものの、観察はずっと容易になる。多くの場合、深い自己観察は、情報発信を記述し残すことによってはじめて可能になる。情報発信が自己の情報選択についての自己記述でもあるとすれば、自己記述が自己観察を容易にし、自己観察を反省と言い換えることができるのだから、自己記述は反省を促すとも言える。書くことは、言語に、それが産出された時空を超えた可搬性を与えるというよく知られた利点をもつが、それだけでなく、言語産出者自身が自己観察による反省的思考を経て自らをより深く理解することができるという利点ももつ。もちろんこの理解は他人にも開かれている。書くことにより、書き手も読み手も、深い理解に到達することができる。

メディアの点でいうなら、近年の電子メディアの急速な普及 (情報革命) は多様な言語表現を飛躍的に増やし、電子ポートフォリオの拡張された親密圏で書き・読むこと、およびミニブログ (Twitter)・ブログの世界に開かれた公共圏(Blogosphere)で書き・読むことが可能になっている。このメディアの普及により、自己記述・自己観察による自己理解、および他者観察による他者理解、さらにはそれらの観察・理解を相互に観察・理解するという高次の観察・理解が共有され、より広く高度な共同体も構築される。活版メディアは近代を作ったが、電子メディアはポスト近代を作る。私たちのナラティブもポスト近代的展開の可能性を有している。


3 結論

 人間の生理的限界から私たちのナラティブが、実践のすべてを語りうることは決してありえない。ナラティブは実践者と実践者共同体によって編集された認識法であり、必ずしも真実ではない。ナラティブは真実そのものの写実ではない(そもそも「真実」とは人間が到達できない統整的理念(カント)だとも言うべきだろう)。また、ナラティブにどれだけの決意表明が込められていても、ナラティブが直接的に人を変えることはない。世界も私たちもそのように単純なものではない。
 
 しかしナラティブは無力ではない。自らの内にひそむ言語は、アナロジー・メタファー・統語的連結といった言語の体系性を通じて自己展開してゆく。それは複合的で手に負えない状況に一貫した意味を与える。だが私たちは物語に巻き込まれる。自らナラティブを紡ぎ出しながらそのナラティブに編み込まれる。だから私たちは丁寧にナラティブを語る必要がある。
 
 丁寧にナラティブを語る方法の一つは、他者に語りかけることである。他者に語ることは、聞き手とナラティブを共同構築することだった。語り手は心の理論を拡張する。聞き手も語り手のナラティブに潜む認識構造を獲得する。個人のナラティブは共同体のナラティブになり、共同体的連帯感が生まれる。新たなナラティブにより共同体が更新され再生する。この一連の過程通過の中で人は自然に丁寧にナラティブを語るようになる。丁寧にナラティブを語るもう一つの方法は、書くことである。労力がかかる書記では記述の意味が大きくなり、大きな「差異を生み出す差異」が選択され記述される。さらに記述の対象化により観察が容易になり、深い理解を促す。書くことにより、音声ナラティブでの共有よりも安定した観察が促され、より深い認識が共同体にもたらされる。この観察と理解の過程の中でナラティブは吟味される。
 
 実際にナラティブを経験した者(注3)は、「『自分はいい授業はできない』と逃げていたが自らの実践について語り始めると少しずつ気づきはじめた。気づくということは生徒が見えるようになるということ」とナラティブと授業改善の関連について証言している。また「書くということは、自分と向き合うこと。最初はリフレクションを書けないのは、時間がないからだと思っていたが、実は自分を見つめて、ありのままの自分を認めようとすることが怖かったから」と自己対象化の重要性についても語っている。
 
 ナラティブが教師成長に貢献するのは、丁寧に語り・書くことにより、ナラティブが困難な状況に見通しを与え、自己の認識システム―ビデオ撮影などでは接近できない自己の内部―を観察することが可能になるからだ。自己観察に基づかずに、徒に外部から教授法を取り入れても、それはしばしば自己および自己が直面している状況に適したものにならない。自己観察と自己理解こそは教師成長の礎である。さらにナラティブは共有されることにより、教師の同僚性を高め、教師のempowermentにつながる。アレントも言うように、コミュニケーションこそが民主的な権力(power)の根幹だからだ。コミュニケーションとしてのナラティブは、私たちに観察と理解を促し、その観察と理解の妥当性に応じてナラティブ共同体は順当な権力を得る。
 
 ナラティブの具体的な実践研究に並んで、このような原理的考察は重要である。さらなる課題として残るのは、ナラティブを知己でなく「一般的他者」に対して書くこと、あるいは外国語であり教育の目標言語である英語で書くこと、さらには新たな電子メディアで書くことなどについての原理的考察である。また身体的技能の観察と記述に関する考察(柳瀬2007)も深められるべきだろう。


(注1) 第二言語教育研究者がここで思い起こすのはKrashen(1982)の立論であろう。Krashenの用語・概念の非厳密性はさておき、少なくとも意識の働きの限定性に関してのKrashenの主張は妥当なものであったと考えられる。
(注2) 記号のないクオリアでは知覚対象の同定も再認もできない。記号使用のない原意識は、対象の同定も再認もない、その場限りの反応を生み出すだけである。
(注3) 第36回全国英語教育学会大阪研究大会でのナラティブ関連研究ポスター発表者への聞き取りによる。

参考文献
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ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京:法政大学出版局.


追記:この研究は、科研「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」(課題番号21520577)の成果発表の一部である。










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【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。上の文章と違って、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


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