2011年2月28日月曜日

英語教育ブログみんなで書けば怖くない!企画:「私の英語学習歴 ― 留学なしで大学院修了まで」

anfieldroadさんさんのブログ「英語教育2.0」での企画[みんなで英語教育] 第1回「私の英語学習歴」が面白そうなので、下記の私の英語学習歴を簡単にまとめてみます。といっても今はあまり時間がないので、下記の文章はぶっきらぼうな文体で書きます。偉そうでごめんなさい。

・・・と書き始めたら予想以上に時間がかかったので、今回は私が大学院を終了するまでの学習歴にします。これは、言い換えるなら「留学なしの私の英語学習歴」です。



*****



■小学生の時の英語教材

英語との最初の出会いは、田舎者の両親がセールスマンにうまく説得されて購入した英語教材ソノシートだったと思う。たしか小学校1年生の時だったと思うが数ヶ月ぐらい聞いてやめた。効果があったかどうかわからない。(英語の発音に関しては、中学校の同級生がもったいぶって教えてくれた「モノマネがうまい奴は英語も上手になる」という俗説を私はまだ結構信じていたりする(笑))。



■セサミストリートは大好きだった

夏休みはNHK教育テレビでセサミストリートを見るのが楽しみだった。たしか英語音声で日本語字幕だったと思う。歌も人形劇もフーパーおじさんも大好きだった。



■中学生の時の予習:英語を二回書いて訳を一回書く

中学校に入って英語の予習は「ノートの左側に教科書の英語を筆写して、右側に日本語訳を書くもの」だと教わったが、子供心にも「英語を勉強するのに、ノートの半分も日本語を書くのはおかしいだろう」と思って、英語は二回筆写してから日本語訳を書いていた。音読はあまりやれとは言われていなかったと思う。その後、この「ノートの左に英語、右に日本語訳」というのが高校時代終了までの予習スタイルとなる。今考えると、英語の意味も音声もわからずに英語を筆写するのは時間の上でも効果の上でも合理的な方法ではなかったと思う。



■中学生の時の英語塾

友達と一緒に、その友達のおじさんに英語を教えてもらった。ここで文法をしっかり教えてもらったのは良かったと思う。その頃友達と「WhatとHowの感嘆文での使い分けは、塾で教えてもらっていなかったらきっとわからないままだったね」と言い合ったのはなぜか今でも憶えている。



■ビートルズにはまる

当時の中学生にとっては、ラジカセでNHK-FMを「エアチェック」する(=好きな曲を録音する)ことは最高に刺激的なことだった。たしかこの頃から(今はなき)『週刊FM』を買って番組表に線を引いていたはずだ(副産物として長岡鉄男の文章が好きになった)。

ある夏休みにビートルズの特集があって、彼らの全作品をカセットに録音し、以後それを何度も聞いた。やがてLPでポール・マッカートニー&ウィングスのLPも買ったりした。歌詞を見ながら英語で歌おうとしたが、歌えなかった。また、あるライブの録音では確かポールが"Can you hear me?"と言っていたのだが、当時の私には「キニヒームニー!」としか聞こえなかった。



■NHKラジオ基礎英語は続かなかった

担任の先生(教科は理科)がNHKラジオ基礎英語を聞くことを熱心に薦めてくれたが、時間帯がなかなか合わず、ついぞまともに聞いたことがなかった。



■高校の同級生に圧倒される

高校に入ったら急に英語が難しくなってびっくりした(数学の驚きはもっとすごく、高一の二学期で自分は文系にしか行けないと思い込むに至った。実際、数学の成績はおそろしく悪かった。さらに化学については、先生が言っていることがほとんど理解すらできなかった)。とにかく田舎の子どもだったので、高校に入ってみると同級生が中学校の頃から大学受験を意識して勉強をしていたことに驚かされた。ある同級生などは高一の入学時点で「赤尾の豆単」を全部暗記していたとの噂だった。

英語の成績が人並みになったのは高二の頃で、しかしその頃でも研究社の英和中辞典を手垢で真っ黒にしている同級生などを見るにつけ(実際、彼は英語ができた)自分の英語に自信が持てなかった。この高校の頃の感覚を思い出すと、現在私が教育学部で英語教員養成をやっていることが信じられない。当時は高校でもずっと得意だった国語を教える高校教員になるつもりだった(一時期は出版社の編集者(その後、小説家)になろうと思っていたが(笑)、関東の私立大学に進学するには新聞奨学生になるぐらいしか方法がなく、その新聞奨学生制度についても、近所であまりよくない噂を聞いたので諦めていた)。



■研究社英和中辞典を読んで、ノートにまとめる

高校の英語の予習も「ノートの左に英語、右に日本語訳」のスタイルだった。ただ新出単語の予習に関しては、他の人が使っていた小さな手帳サイズのいわゆる「単語帳」は使いにくいと思い、レポート用紙をばらけないように束ねて新出単語の意味と例文を書き写していた。辞書は学校で薦められていた研究社英和中辞典で、その紙質や表記法がずいぶん大人っぽいなぁと思っていた。

単語の意味と例文(および発音記号)を書き写す際は、まず単語の項目をすべて読み、だいたいその単語がどんなものかを自分なりに理解してから選択的に写していたと思う。発音記号は巻末の一覧表を適宜見ながら少しずつ覚えた。授業で体系的に教えられたことはないと記憶している。



■単語集と文法問題集は嫌いだった

上記のように辞書を読んで単語についてある程度理解してから辞書の内容を選択的に書き写すというのは誰に教えられたわけでもないが、そうでもしないと自分は納得できないからと思い高校の三年間続けたと思う。逆に言うなら、「英単語一つにつき、日本語訳一つ覚える」といったスタイルの単語集が嫌いだった。赤尾の豆単も森一郎の『試験に出る英単語』も周りにつられて購入し暗記しようとしたがついぞ最後までは終わらなかった。ただ桐原書店だったかの単語集は例文も多く、レイアウトも合理的なものだったので受験直前には何度か読みなおしたと思う。

文法は得意でなく、文法の問題集に至っては嫌いだった。不定詞のナントカ用法とかいわれると「そんなにきれいに用法を分けられるわけないでしょ」と心中密かに思い、気を入れて勉強しなかった。文法問題集は、とにかくパターンを暗記して得点が取れるようにしようという形でこなしたのでまったく面白くなかった。結果、仮定法などの意味が自分なりに納得できたのは大学に入って安藤貞雄先生の『英語教師の文法研究』などを自分で読んでからだった。とにかく生徒に理解させないまま点数をとらせようとする受験指導が大嫌いだった。



■高校のO先生の日本語の自然さに驚く

英語の授業は典型的な文法訳読式だった。だがO先生の訳は達意のもので、当時小説家になりたいなどと妄想していた(笑)自分としても、先生の日本語の自然さに驚いた。単語については上記のようにそれなりに辞書を読み、書き写していたので、O先生が英和辞書に載っていない訳語もどんどん使って訳出していくのを聞いて、なるほど見事なものだと思った。英語教師の日本語に感心したのはこのO先生だけだ。(O先生が選ばれた教科書の内容も教養的なものが多かったように覚えている。少なくとも授業で読んだトルストイの「人にはどれだけの土地が必要か」の課はイラストまで今思い出せる)。

O先生は(確かジョーンズの)発音辞典も常に授業にもってこられていたが、その発音辞典を開いたのは三年間で一度もなかった(笑)。ただO先生の発音は、他の先生とくらべても端正なものだったと思う。常にスーツ姿というのは英国紳士を意識されていたのかもしれないが、卒業文集には勝海舟の言葉を引用していた。考えてみると、このように英語も日本語もすばらしい先生というのが私とってのあるべき英語の先生の姿として印象づけられたのかもしれない。



■O先生にLongman英英辞典を薦められた

O先生は私たちが2年生か3年生の頃にLongman英英辞典を薦められた。何人かの仲間と共に私も買った。回数としては余り使うことはなかったが、使ってみるとなるほど面白いものだと思った。(後述するように、このLongman英英辞典は大学時代に使い倒した)。



■英語の先生がカセットテープレコーダーを持ってきた時には何が起こるんだろうといぶかしがった

ある日そのO先生が授業にカセットテープレコーダーを持ってきた。それを目撃した私は「英語の授業なのにカセットテープレコーダーを持ってくるとは、一体今日は何が起こるのだろう」と不思議に思った。授業で先生は「たまには生の英語を聞かせようと思って」と、ネイティブの英語(教科書の朗読だったろうか?)を聞かせてくれた。高校三年間の授業でネイティブの英語を聞いたのはこの数分だけだったと記憶している。昔はこんなものだった。



■怖かった英作文の先生の指導

三年生になったら「怖い」と評判の先生が英作文を担当し始めた。その先生は(名前は忘れてしまったが、口癖は覚えている 笑)、生徒が黒板に書いた英作文を見ると、しばしば「こんなのは英語ではな~い」と一喝し生徒の英作文を全部消して模範解答を自ら板書していた。たしかに私も、当時英作文に"Be it ever so humble..."といった構文を使い、(別の英作文の先生に)「こんなのは英作文で使わないんだよ」と言われて「英文解釈で習った表現なのに・・・」と不思議に思っていたぐらいに文体感覚がなかったから、先生も生徒の英作文をあえて添削しなかったのかもしれない。

しかしうがった見方をすれば、あれは指導ができなかったのを大声でごまかしていただけではないかと今では思える(爆笑)。



■『英文標準問題精講』とラジオ講座

授業以外では原仙作の『英文標準問題精講』をみっちりやって、英文の統語関係がきちんと分析できるようになると「あとは語彙力を強化するだけだ」と自信がついた。旺文社の「大学受験ラジオ講座」のテキストもよくできていたので、よく勉強した。

『和英標準問題精講』『英文法標準問題精講』は一応通してやったぐらいだ。英作文については当時は自分に力がついていなかったし、英文法は上で述べたように大嫌いだったからだ。

ただ英文解釈に関してはこの高校の勉強で底力をつけることができたので、その後大学・大学院で英語やドイツ語を読んでも、(妙に聞こえるかもしれないが)日本語で難解な哲学の文章を読んでも、要は高校の時の英文解釈の要領で読めば意味はわかるはずだと思い、実際、(語彙や背景知識さえあれば)一字一句ゆるがせにしない態度で言葉に忠実に読めば理解できたので、この英文解釈は一生の宝となった。

逆に言うと最近の学生さんはこのような訓練を経ていないからか、特に英語を読ませると言葉に忠実に読めず、片言隻句をきっかけに自分で勝手なことを言い始めることが多い(最初はなぜ学生さんが本文に書いてもいないことを言い出すのかわからなったが、その後、四択問題を解くだけのためのような英語授業しか受けていないとこうなるのかと思うようになった)。

ついでに文句を言うと、当時流行っていた『構文700』とかいう受験書も一応やったが、この本は後年見ると、話し言葉や書き言葉などがごちゃまぜになった本だった。今手元にないから確認できないが、あれはひどい本だったと思う。



■はずみで国語科から英語科を受験してしまった

国語の教師になるつもりが、共通一次で偶然で高得点を得てしまった。(諦めていた数学Iの確率の問題を、マーク箇所に合わせて、約分できる答えが出るわけないからと適当に正解の当たりをつけてみて、問題を逆向きに解いたらそれがまさに正解で一挙に得点が上がった)。学校の先生から「これなら英語科でも合格するよ」と言われ、親にも「国語より英語の方が食いっぱぐれがないだろう」と言われた。常見のない貧乏人だったので、英語科を受験することに急遽変えて、合格した。

国語は昔から好きで、小学生の頃は井伏鱒二の『ドリトル先生』シリーズ、中学生の頃は上記の長岡鉄男、井上ひさし、北杜夫、夏目漱石(ただし『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』だけ)などを愛読していた。どれも文体が好きだからであった。

高校の頃は「新潮文庫の100冊」などを頼りに本を読み、ひねくれた田舎高校生によくあるパターンで大江健三郎の小説やエッセイを愛読していた。大江健三郎の変態的な日本語を読み慣れていたので、「国語の問題で自分に理解できない文章が出題されることはない」と確信していた(笑)。

少ししか読んでいないのだが、井上光晴や高橋和巳の文体にも魅了された。好きな文体で本を読んでいると、その文体が自分に憑依したようになり、自分もその文体によって呼吸し思考するのが、新たな身心を獲得する経験のように思えてとにかく読書が楽しかった。

逆に言うと、世間に媚びたような文体の本が大嫌いで、確か立原正秋の『冬の旅』だったかを読んでその(私からすれば)気骨のない文体に憤慨し「新潮社はこのような本を『100冊』の中に入れてはいけない」と一人怒っていた(笑)。

そのように文体がもたらす身心の体験が好きで言語の道を選んでいたので、大学で英語科に入った当初は、共感できない外国語を専攻することにしたことをずいぶん後悔した。そんなこともあって大学二年の時はユング心理学関係の本ばかり読んで、心理学科に転科しようと思っていたが、ぐずぐずするうちに進級し現在に至っている。



■ESSで発音・スピーチ・ディベートなどを学んだ

英語を話せるようになったのは大学時代だが、正直言って、大学英語教育からはほとんど恩恵を受けていない。少なくとも話し言葉に関しては、ESSで自らあるいはお互いに学んだ。ESSではドラマコースに入り、安い発音教本を使って先輩に発音のやり方を教えてもらった。さらに五十嵐新次郎の『英米発音新講』のカセットテープ付き版を、学生としてはかなり高価だったが購入したりして、英語の構音法に関しては理論的にも音声的にも学んだのでこれが一生の宝となった。

英語のスピーチに関してはESSでもあまり分析的な指導はなかったが、スピーチのうまい先輩が多くいたので自然に学んだ(またドラマで発声法を練習したのもよかったと思う)。

ディベートはかじったぐらいだが、それでも「立論とは何か」「反論とは何か」を教本などを使って教えてもらったし、議論の際のメモの取り方も指導してもらった。これも一生の宝となった。しかしESSを一歩出ると、(ESS流の)「立論」「反論」ができない「議論の花を咲かせる」ような話し合いなので、その(私からすれば非論理的な)「話し合い」に付き合うのには苦労した。



■NHKラジオ英会話はカセットで購入し毎日ディクテーションと暗記

ESSでは毎日「昼のコース」と称して集まってお互いの学習を確認していた。NHKラジオ英会話のディクテーションと暗誦から始めた。最初の数ヶ月はディクテーションに苦労したが、何度もテープを聞き正解と合わせるにつれ少しずつ自分の耳が、それまでの日本人英語から「矯正」されてきた。また何度も聞いて音読したので、それほど苦労せずにその日の本文が暗記できるようになった。この訓練は自分の話し言葉の基礎となった。二年間ほぼ毎日やった。最後の頃はディクテーションはほとんど必要なくなり、6回音読したらだいたい暗誦できるようになった。三年生になったらさすがに飽きたのでやめた。



■Spoken American English Courseの中級と上級を暗記

Spoken American English Courseというロングセラーの英語教本をESSではよく使っていた。これも一課ずつディクテーションと暗誦をして、中級と上級の二冊をあげた。こういった経験を通じて、いわゆる「英会話」はある程度の数の構文パターンを使いこなせばなんとかできるものだと思うようになった。



■NHKテレビ中級英会話で話し方を学ぶ

とはいえ、上記の教材は「作られた会話」なので、会話の中でどのようなタイミングと表現で発言したらよいのかなどがあまりわからなかった。そのような問題意識があったので、英語でのインタビューをそのまま流していたその当時の「NHKテレビ中級英会話」(だったっけ?)を見ることは非常によい勉強になった。



■ドラマで「感情を込めて台詞を言うように」と指示されて閉口した

ドラマコースでは発音・発声の基礎訓練を終えたら、脚本を渡されそれを読み、かつボランティアで脚本を朗読してくださったゴールズベリー先生のテープを何度も聞いて、稽古を始めた。脚本を読み朗読テープを聞いていても、ディレクターから「感情を込めて台詞を言うように」と指示されて閉口した。微妙なニュアンスを英語の音声に込める術を知らなかったからだ。「感情が高ぶれば大きな声で」といった粗野な方針ではとても脚本の英語が本来もつはずの微妙な息遣いは表現できない。その当時の私の英語力は、息遣いの体得とは程遠いところにあった。



■いつの頃からか英語の活字から「声」が聞こえるようになってきた

大学で英語の活字を見ると、それなりに標準的な発音は自動的に心中に浮かぶぐらいにはなったが、その音声は息遣いを伴った自然な発話ではない、いわば機械合成音のように表情を欠くものだった。しかしいろいろやっているうちに、活字を見ていてもそこから自然な「声」がだんだんと聞こえるようになってきた。主観的な言い方にならざるを得ないが、活字から自然な「声」が聞こえてこないうちは、話し言葉は身についていないと言えると思う。



■「英語で夢を見る」ことも始まった

当時「英語で夢を見たか」というのがESS仲間で時に話題になった。英語で夢を見るようになれば、無意識で英語を使えるようになっているはずだ、というわけである。これは案外早く経験した。もちろん夢の中の英語はでたらめかもしれないが、最初は確か英語の本を猛烈な速度で音読している夢を見たと思う。もちろんその音読も、それなりに「声」になっていたものだった(なんせ夢の中のことだから、なんとでも言える 笑)。



■フォニックスと語源は自学自習した

活字から自動的に自然な声が浮かび上がってくることの前提は、もちろんまずは活字から自動的に・苦労せずに標準的な発音が再生できることだ。これも特に誰かが教えてくれたわけでもないと記憶しているが、竹林滋先生のフォニックスの本を自学自習し、かつWebster系の辞書や当時のCODで採択されていた、英単語に添えやすいdiagraphの方法を自分なりに覚えて、調べた英単語にはいちいちdiagraphの記号を添えているうちに、つづりを見ただけで発音とアクセントに関してはだいたい正確に予測できるようになった(もちろん例外的な綴り字に関してはこの限りではない)。

他に自学自習したものに語源がある。確か『英語の語源事典―英語の語彙の歴史と文化』だったかと思うが、これは一時期常に持ち歩き、読んで覚えていた。上に述べたように「一単語一訳語」といった単語集は大嫌いだが(というよりそのような単語集が好きな人に聞きたい。そんな単語集を使って暗記した単語は自分の身についていますか?)、語源を学ぶといろいろと応用が聞くので重宝した。さらに(たぶん)この本にはいろいろと解説が詳しく、自分なりに納得した上で単語を学ぶことができるので嬉しかった。



■英英辞典を愛用した

大学一年から二年の間は、Longman英英辞典(Longman Dictionary of Contemporary English)を使い倒した。最初はなかなかなれなかったし、文法訳読式の大学授業の予習用には必ずしも便利ではなかったが、英英を使っているうちにだんだんと英語の感覚がつかめてきた。ある英語表現から別の英語へとつなげてゆくことに慣れてきたから、英語を話す際に重宝した。

ある時、Longman英英辞典の背が「ぱかり」と割れたが、その時は「ああ、よく勉強したなぁ」となんとなく感慨深かった。電子メディア全盛の昨今だが、英語を身につけようと思ったらいわゆる学習者用の英英辞典は紙媒体で購入し常時持ち歩いて使い、線を引き、線を引いたところを折りにふれ何度も読んで、ボロボロになるまで使い倒す方がいいと思う。感情的な満足感だけでなく、学習上の合理性も高い方法ではないかと思っている。

大学三年ぐらいから、学習者用の英英を卒業して、母国語話者用の英英を使い始めた。一番使ったのは、Concise Oxford English Dictionaryだ。歴史の長い辞書だからか、わずかのスペースに、かゆいところに手が届くように語義が説明されていた。あと好きだったのは、Webster's New World College Dictionaryで、これは語義が頻度順でも歴史順でもなく、典型的意味から派生的意味へと並べられていて語の全体像をつかみやすかった。(後には、携帯に便利で意味記述も簡明なPocket Oxford English Dictionaryの革カバー版を愛用するようになった。革カバーは丈夫で、背が割れることもないので重宝した)。


ロングマンだけでなく、Oxford Advanced Learners' Dictionaryや、Chambers、(後年では)COBUILDなどの学習者用英英もかなり使ったが、英語を専攻する人間としては、卒業するまでにぜひ学習者用英英では物足りなくなり、教養ある母国語話者のための英英を愛用できるようになってほしい。そのくらいになるとインターネットにあるリソースが無料でふんだんに使える。

しかしおじさん的説教モードに入ると(笑)、最近は下手をすると大学院生まで高校生用の学習英和を使っている。それでは英語は使えるようにならないだろうと、いつものように自分のことを棚に上げて苦言を呈しておく。(自らの学習履歴を説明するのに、説教が入ってくるというのは教師の職業病であろう。ご寛容を)。



■留学できる同級生がうらやましくてたまらなかった

当時円は安く、留学は難しかった。大学の制度を使えば留学は可能のはずだったが、大学からのお金とは別に私費で最低100万円程度は必要だった。大学に入って私は最初の三ヶ月だけ家賃の仕送りを受けたが、その後は完全に自活していた(アルバイト+奨学金+授業料減免制度)。その中でお金を貯めるのは苦しかったが、留学の夢は断ちがたく、数ヶ月ほど必死にバイトをして20万円ほど貯めたが、「こんな働き方をしていたら100万円貯まるころには、自分の人相が変わってしまう」と思い、留学の夢は諦めた(20万は、電話と中古のサイクリング車を買うことなどに使った)。

だから留学に行ける人がうらやましくて仕方なかった。逆にそのコンプレックスで「留学期間の英語学習では負けても、こっちは常に英語を勉強しているのだから、生涯を通じての英語力は決して負けない」と自分に言い聞かせていた。以前の「ある仕事中毒者の反省」にも書いたように、以前の私は、まあ暗くて歪んだ嫌な奴だった(今もかなりそうなのだが 笑)。



■松本道弘氏の影響でTIMEを購読し始める

そんな私の心性は、松本道弘氏の「英語道」の考え方に妙に惹きつけられたのかもしれない。(当時のESS仲間の少なからずがそうであったように)私は松本道弘氏を指針として、英文週刊誌のTIMEを読むことを確か大学二年生から自らの訓練としていた。

最初は英語はもちろん、世界事情に関する基礎知識がなかったので『TIMEを読むための背景知識』といった本を読んだ。結果的には政治や経済についての知識を得ることができたのでよかったといえばよかったのだが、今から考えると新語や造語を好むTIMEよりも、平明かつ深い表現を好むThe New Yorkerを購読するべきだった。結局TIMEは20年以上購読したが、その間もしThe New Yorker(あるいはThe New York Review of Books)を購読していたら私の英語も少しは変わっていただろうと思う。「習慣は第二の天性」なのだから、定期購読物の選択には知恵が必要だと思う。

松本道弘氏はその他にもFENラジオ(現在はAFNラジオの英語を聞くことを勧めていた。広島市は岩国基地に近いのでFENも聞けたが、結局はAmerican Top 40という音楽番組を楽しむぐらいでしかできなかった。



■雑誌English Journalのカセットを聞き続ける

英語講座のLL教室は雑誌English Journalを購読しており、カセットも借りられたので一本のカセットを借りて、一ヶ月ぐらいウォークマンで折にふれて聴き続けた。聴き続けていると、いくつかの表現は覚えてしまい、テープに同調して英語表現(の一部)が言えるようになる(一種の意図しないシャドーイングだ)。これはいい訓練になったと思う。30歳前後ぐらいまでこれは続けた。



■初めて読了したペーパーバックはGift from the Sea

初めて読了したペーパーバックはGift from the Seaだった。大学三年生の夏だったが、これはスラスラ読めたので、「しまった、TIMEにこだわらずに、もっと早くから平明で深い本を読むべきだった」とその当時ですら後悔した。

その後、映画の『ナチュラル』が面白かったので、原作のBernard Malamud The Complete Storiesも読んでみたが、結末が映画と小説ではまったく異なっていたのでこれには驚いた。



■学部三年生の冬に英検一級に合格

英検一級には学部三年生の冬に合格した。この時も学生としては大枚をはたいて通信教育教材を買ってそれなりに勉強した(私は概して英語を使うことは好きでも、勉強することは好きではないので、これはまったく珍しいことだ)。英検二次試験リスニング試験にはFENを聞いて準備していたら、試験ではずいぶんと英語がゆっくりなのでびっくりした。スピーキングの試験会場で何人かの人と話をしたが、私などよりはるかに高い英語力の人が多くいた。

それでも合格した私は、同時期に英検一級に合格したESSの一年後輩(理学部数学科)と顔を見合わせて「英検一級に合格したぐらいじゃ、何もできないね」と言い合ったことは今でも憶えている。



■大学の英語の授業は面白くなかった

このように私は、不遜を承知で言うなら、英語力のほとんどは授業外で学んだ。

というよりその当時は「勉強は自分でするもの。大学の教師は適当に授業をやって単位を出してくれればいいから、あまり色々と口出しをしないでほしい」という思い上がった文化が学生側にまだまだあったし、大学の先生にも「わかる奴が講義を聞けばよいし、あとの縁なき衆生は適当に勉強しておけば単位は出すから、無理に出席などしないように」という方がまだいらしたと思う(時代は変わるものだ 笑)。

だから私は興味の持てない授業はできるだけさぼっていたし、出席を取るなど無粋なことをされる先生には学生仲間で協力し、出席した者が七色の声を使い分け代返していた(教師も気がつかないふりをしていたのではないかと思われる)。教養課程で役に立ったと思える授業は、ゴールズベリー先生のように教養ある話をされる先生の授業と、ひたすら機械的にLL演習を学生に課した授業ぐらいだ。そのLL演習の先生は常に背後のモニタールームにおり、姿を現したのは最初の授業の最初の5分程度だったと思う。人格的な交わりは一切なかったが、こっちとしては英語力を上げるつもりだったから、これぐらいに機械的にやってくれた方がむしろありがたかった。ただ英語専攻ほどに動機づけられていない国語専攻の学生にとってはあのLL演習は苦役だったであろう。

学年が上がるにつれどうしても出なければならない少人数の授業も多くなったがその場合は、「学生の英文音読→学生の日本語訳→教師の模範訳」という授業の流れの中で、「学生の英文音読」のところだけ耳を傾けていて、後のところでは自分でどんどん教科書を読み進めていた。

しかしもちろん立派な先生はいらした。ある授業ではRalph Waldo EmersonのThe American Scholar: Self-reliance. Compensationをテキストにしたが、この授業は先生が身を入れて教えて下さり、かつ内容的にも共感できたので、自分もしっかりと勉強した。

ただその先生の他の授業では、私はテキストの内容に共感できなかったので、予習もあまりせず、授業中はひたすら気配を消して「風になり」、指名されることを避けていた(笑)。



■VHSビデオで映画にハマる

大学院に入り、塾や予備校で教えるようになってから金回りがよくなって、VHSビデオを買った。勉強に疲れたら「半分休憩、半分勉強」の名目で英語の映画を見ることを自分に許した。レンタルビデオ屋で借りたビデオは一回目は日本語字幕付きで見て、二回目以降は字幕の部分を物で隠して見るようにした。繰り返すにつれ、認識できる英語表現が増えるのが嬉しかった。

ことのほか好きだったのはコメディだった(後年、これに法廷ものと潜水艦ものが加わる)。コメディとは(スラップスティックを除くならば)言葉の微妙な使い分けに基づくものだから、字幕では本当の面白さはわからない。元々笑いは好きだということもあり、コメディの言葉使いに学ぼうと、コメディはかなり見た。近所のレンタルビデオ屋のコメディは全部見尽くしたはずだ。

ちなみに法廷ものは、法定弁論の言葉遣い一つでがらりと形勢逆転するので、これまた言葉の力を学ぶのにはいい。また潜水艦ものは、密室での判断を描くものであり、判断のための外部からの情報は極めて限られている中、緊迫する人間関係の中で言葉を使うからこれまた言葉遣いがめっぽう面白い。

いずれにせよ私はほとんど留学することなく、ある程度の話し言葉英語の力をつけることができたが、その仕上げはこの映画の繰り返し鑑賞だったと思う。



■TOEFL受験

大学院時代にTOEFLを受験した。一回目(これは学部時代だっただろうか?)は得点もあまりよくなく、文法が一番悪かった。対策が必要かと、文法の問題集を買ったが、上に述べていたような好みからその問題集はほとんどやらなかった。しかし二回目の受験の頃までには、かなり英語を読んで聞いていたので、二回目の受験では得点が確か635点(ペーパー版)になり、かつ文法もぐんと上がった。

一回目の受験は、文法問題は考えなければわからない(あるいは考えてもわからない)ものだったが、二回目の受験では文法の間違い探し問題は、考える間もなくある箇所が間違いであることに気がつき、その後でなぜその箇所が間違い出るかを確認のために考えるというようになった。後に「集中的入出力訓練」についていろいろ書いた時も、この時の印象が忘れられなかった。三回目の受験では確か647点だったと思う。

数年前試しに受けてみたら確か640点台前半ぐらいであまり伸びていなかった。ただこの時は、かなり時間の余裕があり、読解の二問程度に関しては、むしろテスト問題作成者の立場から「この問題は複数の正解を許すのではないか」などと考えていた。

点数が伸びない醜い言い訳を重ねるならば、私はリスニング問題が苦手だ。特に嫌なのは短いリスニング問題で、いきなり様々な話題が出てくるから、こちらとしては頭の切り替えに苦労する。短い問題は苦労しているうちに終わったりするので、得点できなかったりする。まったくの負け惜しみだが、こういった問題に関しては対策が必要だと思う。逆に言うなら長いリスニング問題なら、聞いているうちに頭も「ああ、こういう話題か」と慣れてくるので、得点しやすい。

そもそも試験というのは、いきなり特定の話を聞かせたり読ませたりするという点で極めて人工的である。現実世界なら、ある場所にいけばどのような話がされるかが予期できるし、ある本を手にとればどのような論が展開されるか予想できる。リスニングでもリーディングでも「以下は○○に関する話です」といった「前振り」が必要だと、ここでは負け惜しみを込めて言っておく(笑)。



■修士課程では心理言語学の英語論文を大量に読む

修士論文のテーマは迷ったあげくに、心理言語学(psychology of reading)にした。その当時は日本語文献がほとんどなかったし、広大教育学部心理学講座の図書室は英語文献が充実していたので、文献はほとんどすべて英語文献を読んだ。量もそれなりに読んだので、英語を読むのには慣れた。というより学術論文の表現は意外に限られているから慣れるのも早い。

このことから言えるのは、英語を限定的な目的のために使うこと(English for Specific Purposes)は、教養ある英語母国語話者のように英語を使おうとすること(English for General Purposes)より簡単なのだから、合理的な訓練をすれば存外速くESPの力はつくのではないかということである。

残念ながら英語教師はEGPの文化に育ち、EGPの力の向上を自らに課し学生にもそれを期待しがちである。だが学生の多くはESPで十分で、特にEGPなど求めていない。今後は英語教師は自らにはEGPを課しながらも、学生それぞれのESPをきちんと分析できる力が必要となるだろう。(参考:ESP的バイリンガルを目指して‐大学英語教育の再定義



■博士課程で哲学に興味が出てきて主要学術言語が日本語に戻った

その後、心理言語学研究が、実験で有意差を出すために条件をうまく整えるだけの知的ゲームにすぎないようい思えてきた(心理言語学者の皆さん、ごめんなさい)。現実世界との関係が感じられなくなってきた。そうなると単純なもので、心理言語学研究をするつもりがまったく失せてしまった。

紆余曲折あって結局ウィトゲンシュタインの哲学に流れ着いたが、ウィトゲンシュタインについてはかなり日本語文献もあったので、私の主要学術言語は再び日本語となった(ここできちんとドイツ語を勉強するのがまともな研究者(の卵)なのだが、私はここでもヘタレであった)。外国語で哲学をするのは無理だとも思っていた。

後年、英国に滞在し、はじめから英語で哲学を行うことも可能であったのではないかと思うようになった。可能だったかもしれない。そうしていれば私の英語力は今より数段上になっていただろう。

しかしその反面、例えば今の私は武術に興味をもっているのだが、そういった私の日本での生活世界と私の研究活動のつながりは薄くなっていたと思う。ひょっとしていたら英語論文の数は多いけど、年に数回国際学会に行くことだけが楽しみで、日頃日本では給料のために働いているだけ、といった大学人になっていたかもしれない。

どちらにせよ、言語とは生活世界の中にある自己に基づくものである。だから「英語ができる/できない」だけを語るのは愚かで、それよりもいかに英語がその人とその人の生活世界に結びつき、どれだけその結びつきがその人と周りの人を幸福にしているかで判断すべきだと思う。



■まとめに代えて

改めてこうして振り返ってみると、自分は、英語学習の内容や意義にしても、はてまた音声にしても、自分の身心にぴたりと即さないと、英語を勉強しない頑固な人間だということがわかる。

英語学習の内容については、丸暗記の単語集や得点獲得のための文法問題集は大嫌いで、自分なりに面白いと思える内容の教材ではないと本気で勉強しようとはしなかった。このことは、英語学習の意義を、世間的な報酬といった外発的な動機づけでは感じられず、あくまでも自分が面白いと思えるかどうかという内発的な動機づけで動いている、とも言えるだろう。

英語の音声についても、ただ標準的な発音だけでも駄目で、英語の音声と自分の身心がしっくりと同調することが、自分にとって英語習得の規矩となっているように思える。雑誌English Journalの音声を聴くのをやめたのも、インタビュー以外のいわゆる「英会話」コーナーの人工的なイントネーションを聴くのが苦痛になったからだ。あくまでも自然な声でないと繰り返し聴く気になれない。

要は英語学習によって、自分の身心が成長すれば学び、身心の成長が実感できなければ学ばないということだろうか。






(また何かの機縁があれば、この続き(就職後の英語学習履歴)を書くことにします)。



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2011年2月25日金曜日

吉田達弘さんの"Research on Second Language Teachier Education"掲載論文

兵庫教育大学の吉田達弘さんが、Karen E. JohnsonとPaula R. Golombekの共同編集による Research on Second Language Teacher Education: A Sociocultural Perspective on Professional Development (ESL & Applied Linguistics Professional Series)(2011年、Routledge)の第九章に"Moodle as a Mediational Space: Japanese EFL Teachers' Emerging Conceptions of Curriculum"という論考を掲載しました。この度、ご恵贈していただき読む機会を得ましたので、ここで紹介させていただきます。

Moodleは、WebCTと同じようにウェブ上に教育環境を創り出すコンテンツマネジメントシステム(CMS)ですが、吉田さんは、このMoodle-based e-portfoliosで起こったことは"teachers looked backward at their past and forward to their future as well as inward to themselves and outward to the surrounding contexts. (p. 150)"という振り返りと構想だと考えています。

しかしもちろん何かの電子システムを使えばすべてがうまくゆくというわけではなく、吉田さんは"strategic mediation"(言ってみるならば「しかけ」)として、Designing Language Courses: A Guide for Teachersの"A Framework of Course Development Processes"やHow People Learn: Brain, Mind, Experience, and Schoolの2つのメタファー('learning the landscape' versus 'the rutted path')を導入しています。

この本自体は、下記のまとめにもありますように"the complexities of second language teachers’ professional development"をトピックとし、"the discursive practices that shape teachers’ knowing, thinking, and doing and provides a window into how alternative mediational means can create opportunities for teachers to move toward more theoretically and pedagogically sound instructional practices within the settings and circumstances of their work"ことを示したものと言えるでしょう。


Embracing a sociocultural perspective on human cognition and employing an array of methodological tools for data collection and analysis, this volume documents the complexities of second language teachers’ professional development in diverse L2 teacher education programs around the world, including Asia, South America, Europe, and North America, and traces that development both over time and within the broader cultural, historical and institutional settings and circumstances of teachers’ work.

This systematic examination of teacher professional development illuminates in multiple ways the discursive practices that shape teachers’ knowing, thinking, and doing and provides a window into how alternative mediational means can create opportunities for teachers to move toward more theoretically and pedagogically sound instructional practices within the settings and circumstances of their work. The chapters represent both native and nonnative English speaking pre-service and in-service L2 teachers at all levels from K-12 through higher education, and examine significant challenges that are present in L2 teacher education programs.(アマゾンの説明文)



現時点で私が読んだのは上の吉田さんの章と、Karen E. JohnsonとPaula R. Golombekによる第一章(A Sociocultural Theoretical Perspective on Teacher Professional Development)だけですが、この第一章ではこの本の基本哲学が示されます。

つまり

human cognition originates in and emerges outof participation in social activities. (p. 1)

であり、

Human cognition is mediated by virtue of being situated in a cultural environment and it is from this cultural environment that we acquire the representational systems, most notably language, that ultimately become the medium, mediator, and tools of thought. (p. 1)

です。言い換えるなら、人の言動や能力を、その個人の皮膚・頭蓋骨の中だけで考えるのではなく、その人が投げ込まれている時空の中で生じたものとして考えるとなりましょうか。

「時空」ですから"sociocultural approach"としばしば言われますが、当然歴史的な視点も入るわけです。

Social relations, or human mediation, are also central to understanding how the network of our external soical interactions mediates the transformative process of internalization. The social here is the centuries old historical and sociocultural legacy into which we are born. From birth, a child is involved in dialogic interactions in which caregivers use language to regulate the child. (p. 5)



もちろんこういった議論は机上の空論ではなく、現実世界にも大きな意味を持っています。

例えば現在、少なからずの都道府県が新人教師に、いきなり授業をたくさんもたせたりしています。通常の授業は教師一人で行うものですから、新人教師は時にベテランでも嫌がるような非常に教育困難な状況で一人だけで授業を成立させなければなりません。しかも最初の一年は仮採用的な扱いで、授業が成立しないと採用は取り消すという心理的圧力がかけられています。

もちろん初任者研修はありますが、その多くは講師一人に対して初任者十人~数十人のもの、もしくは数百人対象の講義です。勤務校で先輩教師が指導役にあたることもありますが、その先輩教師も忙しくとても継続的・体系的な指導ができないことも多いとも聞きます。私のゼミ生には大手銀行に就職した者もいますが、彼は一年かけてじっくりと様々な研修を受け、業務に就くにせよ先輩の横につく助手的な役割を行うにすぎないそうです。

銀行にせよ教室にせよ、この前まで学校にいた新人が、いきなり一人前の仕事ができるわけではありません。商売も教育もそんなに甘いもの・簡単なものではありません。ですから銀行などの一般企業はしっかりと新人を育てる体制を取ります。ところが教師はいきなり授業の主となることは周知の通りです。人を育てるはずの学校が、新人教師を育てきれていないのではないかという懸念を拭い落とすことができません。

いずれにせよ新人教師は、可能なかぎり周りが継続的・体系的に育てなければなりません。というより、新人には最初から一人だけで仕事を任せず、手伝い・カバン持ち的な周辺的な仕事をきちんと行わせ、その中からだんだんと仕事について学ばせるという「正統的周辺参加」Legitimate peripheral participation)をさせるというのが、古今東西の世間の知恵というものでしょう。

ところが妙に個人主義が暴走し、磐石の体制人ばかりが「自己責任」論を叫ぶような昨今は、何かと個人を孤立化して評価することが正しいこととなっているようです。

新人を「駄目なら使い捨て」とばかりにいきなり酷使するのではなく、きちんと共同体の時空で育ててることが必要でしょう。もちろん、きちんと共同体の中でやらせてみて、それでもどうしても駄目なら「さようなら」かもしれません。しかし「さようなら」をさせるのは共同体の無能の証しかもしれないという自制の念は忘れてはいけないでしょう。


Karen E. JohnsonとPaula R. Golombekもこう言います。

In other words, knowing what a novice teacher can do on her own tells us little about her potential to learn something new. However, when we see/hear how this same teachyer interacts with someone who is more capable while accomplishing a task that is beyond her abilities, this creates a window through which we can see her potential for learning and her capabilities as they are emerging. (p. 6)


あるいは以下のような研究にも注目すべきなのかもしれません。



Attribution Error and the Quest for Teacher Quality


Mary M. Kennedy

Abstract
Social psychologists are persuaded that researchers as well as laymen tend to overestimate the influence of personal traits and underestimate the influence of situations on observed behavior. The author of this article suggests that education researchers and policy makers may be overestimating the role of personal qualities in their quest to understand teaching quality. In their effort to understand classroom-to-classroom differences in student learning, they may focus too much on the characteristics of teachers themselves, overlooking situational factors that may have a strong bearing on the quality of the teaching practices we see. The author reviews some of these situational forces.
http://edr.sagepub.com/content/39/8/591.abstract?etoc



現状に対抗するために理論は有効です。現状をあまりに無批判的に受け入れる思考放棄が時に大きな悲劇を招くことは歴史が教える通りですから、理論を理論として学ぶのではなく、現状を読み取り現実を変革するために理論を学びたいと思います(・・・って、これマルクスじゃん 笑)



追記

吉田さんの大きな功績の一つは、オックスフォードー神戸セミナー"Understanding Language Classroom and New Directions for Language Teaching Research"(2007年3月15-17日・セントキャサリンズカレッジ・神戸インスティテュート)を成功させ、私を含めた多くの人間の世界を広げてくれたことです。

このセミナーの成果は、Researching Language Teaching and Learningにまとめられています。









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WebCTシステムを使った大学教員・学生の資質・能力開発

以下は、私が学内出版物のために書いた小文です。WebCTMoodleといったウェブ上に教育環境を創り出すコンテンツマネジメントシステム(CMS)に興味をもちながらもまだ実際にお使いになっていらっしゃらない方のために少しは参考になるかもしれないと思い、ここに掲載します。


WebCTシステムを使った大学教員・学生の資質・能力開発



柳瀬陽介


本項では、「メディアが文化を創成する」という基本認識(参考:メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性)に基づき、広島大学を始めとして世界各地の多くの教育機関で用いられているWebCTシステムが、いかに大学教員および学生の資質と能力を開発したかを、自身の実践を振り返る形でまとめる。


(1) メディアが文化を創成する

メディアとは既定のメッセージを伝達するだけの手段ではなく、メッセージの量だけでなく質も変えるものである。ひいてはメッセージの交換つまりコミュニケーションの量と質を大きく変える。新しいメディアの導入は必然的に文化のあり方を変えるし、逆に言うなら新しい文化が創成されないような新メディア導入は、小手先だけの予算消化にすぎないとすら言えるかもしれない。WebCTシステムは教員としての筆者の教育文化を変えたし、なにより学生の学生文化を変えた。

もちろんWebCTだけが新しいメディア、有効なメディアというわけでもない。WebCTが可能にしている機能のほとんどは、通常のインターネット媒体で可能であり、実際、筆者も自らのブログとオンラインストレージサイトで、学生とのやりとり、ファイル共有を行っていた。特に2010(平成22)年度前期からは、授業で使うパワーポイントスライドを予めブログからダウンロード可能にしておくだけでなく、授業の音声もすべてICレコーダーで録音しその音声ファイルを授業後にダウンロード可能にしていた。これで予習・復習および欠席者へのケアがより十全になった。(注1)

だが同年度後期からのWebCT導入はさらに授業のあり方を変えた。技術上の変化は、

(a)授業ごとに画面されているので管理が楽になる、

(b)学生がお互いの発言を見ることができるようになる、

の2つが主であるが、これらは大きな変化をもたらした。以下、教員の変化と学生の変化を順に述べる。


(2) WebCTが開発する大学教員の資質・能力

資質を生まれついての特性と考えると、その変化はあまり期待できないが、筆者は「地位が人をつくる」という言葉のように、資質も開発できるものだと考える。実際、WebCT導入により、筆者の教師としての姿勢は鍛えられ変わった。
これまでの筆者にとって授業準備とは開始直前までにその次の授業ができるようにしておけばよいものであったが、WebCTにより授業準備とは、

(i)予習教材を必ず授業前夜までに掲載し(さもないと学生がダウンロード教材を授業ノートとして持ってくることができない)、

(ii)学生に書かせたその前の授業の振り返りをまとめておき(さもないと学生は書く動機づけを失いがちになる)、

(iii)欠席者が授業の録音音声だけを聞いても理解できるように自らの語りを整えておくことにする(さもないと欠席者は授業を理解できない)、


ものとなった。これはメディアが引き起こした変化だと考える。同年度の前期と後期で筆者に道徳的変化をもたらすような出来事は何もなかった。しかしWebCTというメディア環境の変化が筆者に教師としての責任感を引き出した。スローガンや通達では教師はなかなか変わらないが、生きた学生が参画しているメディアの存在は、具体物として筆者の教師としての資質向上を促したと考えられる。

能力開発については、WebCTの便利さにより節約できた時間・心労(アップロードの手間やメール管理など)により、筆者がより創造的な仕事(特に授業準備や関連事項の調査)に時間と心的エネルギーを注ぐことができた(注2)。コピーが容易なデジタル媒体ということもあり、今後もより創造的に仕事ができるのではないかと楽観している。


(3) WebCTが開発する学生の資質・能力

学生も資質と能力を向上させた。WebCTにより過去の自分の文章、および過去・現在の友人の文章を閲覧できるということが、学生の学習者意識(資質)を高め、実際に事象をまとめ表現するという能力を向上させたと考えられる。
1年生のA.Y.は後期の終わりにこう述懐する。

先日、以前の自分が書いた振り返りを見てみたのですが、あまりの文章の短さと稚拙さに驚きました。あれが当時の自分の精一杯だったのか、とショックすら覚えました。しかし毎週継続的にやっていくことで今ではどちらの課題に対しても全く苦痛を感じなくなったし、以前より読む力、書く力が付いたのではないかなと感じました。「継続は力なり」を身をもって実感した瞬間でした。


2年生のO.Y.は、WebCTで他人を意識して書くようになったと述べる。

毎週の授業の振り返りと記事等の紹介文を書くというタスクを通して「他人に読んでもらうことを意識して書くこと」ができるようになったと感じる。決して自分の文章がいつも素晴らしいという訳ではないが、時に先生から個人的に印象に残ったというフィードバックを頂けたり、友達から自分の紹介した記事はおもしろかったとか、「たくさん書いて頑張っていたな、自分も頑張るわ!」といった日常的な会話をしたりということも今となっては印象に残っている。また、「他人に読んでもらうために」と意識して書き続けることで、文を書くことに特に抵抗を感じることがなくなったというのも事実であり、他の授業の振り返りカードに対する取り組み方も大きく変わった。


同じく2年生のM.K.は次のように総括する。

この授業を受けて一番よかったと思うことは、この振り返りの欄である。振り返りを書くスペースではあったものの、わたしはここで普段自分が日常で考えていること、問題意識をクラスに発信できたことが嬉しかった。そして、同じように書かれたみんなの考えを受け取ることができたこと、それはこれまで教英で過ごしてきた中でほぼ全くといっていいほどなかった経験であり、ここで終わるものでなく、残りの大学生活にも必ず活きてくるものであると感じる。


このように学生はWebCTという具体的な手立てを通じ、学習者としての自覚を高め、「書く」という文化を体験させ、学習共同体意識を構築していった。こういった文化変容こそがWebCTの成果だと考える。

本項はWebCT導入について述べたが、今後iPadやAndroidといったタブレットが普及するにつれ、授業中のウェブ検索、資料閲覧などがより容易になり、授業文化も変わると思われる。本研究の主題であるケース・メソッド教授法についても、大切なのは何かの導入でなく、その導入により教師と学生の文化がそれぞれに(あるいは共に)どう変容するかであろう。メディアや方法の導入という外に現れやすい現象にばかり眼を向けるのではなく、大学という学習共同体の文化の息遣いの変容をこれからも丁寧に観察してゆきたい。



(注1)オンラインストレージでもWebCTなどでも容易に実現できる、受講者への講義音声録音提供は、最も単純だが、非常に学生にとって有益なサービスといえるかもしれない。以下はWebCTに寄せられた学部1年生の感想である。


もう一つ、先生が授業の音声をweb上で公開していることについてです。このことはとても素晴らしいことだと感じました。先週、インフルエンザで授業に出れなかった時も音声を聞くことによって内容理解ができ、遅れをとらずに済みました。また、授業中よくわからなかった話を何回も繰り返し聞くことができるので便利です。これからも授業をupし続けてほしいです。(I.S.)

私もI君と同意見で、今まで受けた授業のうちweb上で音声を公開してくださるのは、この講義だけなのですが、とても有難かったです。(N.Y.)



(注2)とはいえ、私も最初に自力でWebCTを使いこなそうとした時には、10分程度操作をして今ひとつ簡単に操作ができなかったのですぐに使用を諦めていた。私が操作を学ぶことができたのは、広島大学情報メディア教育研究センター「出前講座」によるものである。センター員の親切な説明を聞いていたら20分程度でWebCTの基本的な使い方を習得することができた。情報メディア教育研究センターの丁寧な仕事には心から感謝したい。










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津本陽『春風無刀流』文春文庫

前の記事で伝統宗教を人生の「型」としましたが、日本人の多くは自らを「無宗教」と規定し、他の国の人々に驚かれることが多いというのもよく聞く話です。

新渡戸稲造『武士道』は、西洋的な意味では特定の宗教に専心していないが、道徳的な高潔さは保っている(昔の)日本人の行動規範とはいったい何なのだというある西洋人の問いへの答えとして書かれたものですが、この本は廃刀令(1876年明治9年)が施行された後の1900(明治30)年―つまり日常から「武士の魂」でもあり実際に人を斬り殺すことができる刀がなくなってしまった時代―に著されたものであり、かつ新渡戸が武士道を自身の信仰であるキリスト教的解釈に寄せすぎて記述したものではないかという批判はあります。

行動規範として、昔の日本の侍だけでなく、その他の人々にも波及的影響を与えていたと称される武士道とは何かという問いに答えるのは、もちろんのことながら、このようなブログ記事ではとてもできないことですが(参考記事:映画『ラストサムライ』)、ある出張の車中で気分転換に読んだ津本陽による『春風無刀流』(文春文庫)は、山岡鉄舟を描いた小説として、(津本陽解釈の)山岡鉄舟の武士道を描いていました。

山岡鉄舟(鉄太郎)は武士道についてこう語っていたそうです。


わが邦人に一種微妙の道念あり。神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降もっぱら武門においてそのいちじるしきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道という。然れどもいまだかつて文書に認(したた)め経に綴りて伝うるものあるを見ず。けだし、人事の変遷とともに種々の経験により吾人の感念に寄せられたる一種の道徳なるが如し。(173ページ)


この武士道という行動規範が諸外国の宗教と異なるのは、単に神儒仏という三つの(広義の)宗教を融和させたというだけでなく、身心の鍛錬によって、行動の規矩が自ずから体現するものである点にあると私は考えます。

鉄舟は23歳の時に、剣を学ぶ目的について、次のように述べたそうです。


予の剣法を学ぶは、ひとえに心胆練磨の術を慎み、心を明らしめもって己れまた天地と同根一体の理(ことわり)、果たして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。(11ページ)


重要なのはこういった言葉が、単なる観念論ではなく、生死をかけた闘いを前にした現実の鍛錬から生まれてきたことです。実際に武術では(日本でも中国でも)高い境地に立てば、単に反射神経の速さや一部の筋肉肥大の強さに頼らずに、相手の心の動き(「起こり」)を察知することによりいち早く動く(「先」(せん)をとる)ことができます(私は自分ではとてもできませんが、こういった技をかけられたことは何度もあります。横から見れば決して速くない動きを私も他の人々もどうしても止められませんでした)。

つまり、負けが死を意味する勝負に勝とうと思えば、「勝とう」と思う念(妄念)を逆に捨ててしまって身心を清明にし、逆に相手の妄念を察知できるような状態になり、相手の妄念に間髪入れず感応することの方が圧倒的に有利になるわけです。(詳しくは例えば宇城憲治先生著作やDVDをご覧ください。特に『宇城空手 第二巻 [DVD]数見肇氏や岩崎達也氏がどのような空手家であるかをわずかでも知る者にとっては圧倒的な説得力をもっているでしょう)。


山岡鉄舟も次のように言ったそうです。


剣法修行の根元は、敵に対しすこしも隙なきを専一とす。隙とは如何。敵を打たんと思い、われ打たれじと思う念おこるを隙という。この念はすなわち妄念なり。念は本来無念にして、明鏡には一点の曇りなきがごとし。しかれども一念おこれば、鏡のなかに物の影を映すがごとし。影を映せば明鏡の曇りたると同じ。明鏡も曇りたれば影は映らず。これを敵にむかいて、打たれじ打たんと思う無明の妄念という。かくのごとくいうときは、敵前におなじく立てると思えどもさにあらず。打てばはずし、突けばひらくの理、敵に対すればおのずから具足せずということなし。これ自然の妙理にて、思慮分別を用いず、勝を制するの妙理なり。人、この妙理を悟得すべし。(85ページ)



かくして徹頭徹尾現実的な武術は、人の道、ひいては天の道につながることとなります。津本陽は鉄舟の言葉として、次のような表現を紹介しています。


「世人が剣法を修める目的は、おそらくは敵を斬らんがためであろう。私はそのような目的を持ってはいない。私は剣法の呼吸によって、神妙の理を覚りたいのである。ひとたびその境地に達すれば、私の心は止水のように湛然となり、明鏡のようにあきらかとなるであろう。そうなれば、物事に対応するにとどこおりなく、いかなる事変に会うとも、精神はすみやかにはたらき、いかなることもおのずから悟りうるであろう。真にこの境地に達するならば、天道に叶うのである。(202ページ)


これらの言葉は、実際に剣術の達人であり、江戸無血開城の端緒を創り出した人間のものだけに、おそろしく重みがあります。たとえ現代日本人のほとんどが頭でっかちになり、このような境地を想像しがたいにせよ。


身体の鍛錬から、心胆の練磨につながり、身心を清明にする武士道(あるいは武道)も、伝統宗教に並ぶ人生の「型」かと思います。学習指導要領は中学で武道を必修化しましたが、この武道が、徒に勝負を争う競技スポーツとならず、身心を練磨する古来の武術に基づくものであるようにと願うばかりです。



『春風無刀流』⇒アマゾンへ


参考:『武士道』 山岡鉄舟(鉄太郎)述 安部正人編 光融館 1902年(明治35年)1月 - 国会図書館近代デジタルライブラリー










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KHさんの証し 「悔い改めを待ってくれた神様」

以下は、私が所属する東広島めぐみ教会でKHさんが行った証し(=自らの信仰に関して会衆の前で語る話)です。

私はキリスト教などの伝統宗教は、人生の「型」として、人を迷いから救い出し、人を「自由」にする機能をもっていると思います。

「型」というのは一種の制限であり規制です。「型」を重んずる人は、その「型」が定める行動に従うことを自らに課します。これは表面的には自由の束縛のようにも思えるかもしれませんが、私は「型」こそは人間を「自由」にする―あるいは、私たちが肯定的に捉えている意味での「自由」をもたらす―と考えています。

例えば車の運転で考えましょう。ご承知のように車の運転は道路交通法という「型」によって制限が加えられています。そんな「型」に囚われず車を自分が思うように運転できたらと思う瞬間は多くの人に訪れるかもしれませんが、もしみんなが道路交通法という「型」を捨てたら、道路は混乱状況に陥りほうぼうで事故が生じて人々は「自由」に運転できません。(これに近い状況を私は大型台風で街中の信号機が停止した時に経験したことがあります)。道路交通法という「型」があるおかげで私たちは「自由」に運転ができます。

あるいは野球のバッターのフォームの例で考えてみましょう。バッターは野球のルールの範囲内で(例えば「バッターズボックスから出ない」ことなど)自由に球を打つことができます。しかしたいていのバッターは、練習を重ねて自らのフォームという「型」をつくります。シーズンを通して打ち続けながらそのフォーム・「型」が崩れないように細心の注意を払います。すぐれた「型」に従っている限りにおいてのみ、バッターは「自由」にピッチャーに対して勝負し、内角高めストレートでも外角低めスライダーでも打ち分けることができます。「型なし」になってしまえば、バットを振りまわすだけで、バッターとしての役割をはたすことができません。

もしくは学術論文で考えましょうか。私は「論文の構成要素とコミュニケーション的機能」「Research Questionの探究としての研究論文」あるいはThe Craft of Research (Chicago Guides to Writing, Editing, and Publishing)といった整理で、ある意味、学生さんを「型にはめて」論文を書かせています。最初こういった型は窮屈に感じるかもしれませんが、これは先人の知恵がつまった書き方ですから、この「型」の原理を理解しながらこの「型通り」に書いてゆけば、自らの恣意で迷うよりもはるかに短期間で他人に伝わる文章が書けるようになります。「守破離」という言い伝え(これも一種の「型」)に従うなら、自分なりの「型破り」な流儀を打ち立てるのは、まずは型を徹底的に守り、その原理を深く体得した後になります。私のあるゼミ生は、この「型」について他専攻(文学部)の同級生から「こんなのに縛られていたら自由に論文なんか書けないよ」と言われていたそうですが、二人がそれぞれに論文を書き終えるころにはその同級生に「やっぱりああいった指針は必要」と言われたそうです。わずかの勉強しかしていない自分の力を過信し、伝燈の力を軽んずるようなことを私たちはすべきではないと思います。

すぐれた「型」の多くは先人の知恵に基づくものですが、そういった「型」に従うことは、人を混迷や当惑から救い出し、望ましい行動ができる自由をその人に与えます。私は伝統宗教も、「解放」という名で何もかもがあまりにも混乱し人々がかえって迷ってしまっているところに一つの道筋を示す「型」だと理解しています(これは非常に世俗的な理解にすぎませんが)。

伝統宗教というのは、人間の意識だけでなく、無意識も深く理解していますから、教条的になりすぎずに人間を導く知恵を備えていると私は理解しています。伝統宗教という「型」を尊重することによって、私たちは(現代人が「自由」と混同している)無用の迷いから解放されて(逆説的に聞こえるかもしれませんが)人生を「自由」に生きることができるとは言えませんでしょうか。

もちろん下にもありますように、宗教組織の中には人間を、深く抽象的な「型」ではなく、表面的な意味においてのみ具体的な「形」(献金や労働の強制)で縛る集団―私はカルト集団とは、成員の自由を認めず、特に金銭や時間の上で成員を強制する組織すべてを指すと自らは定義しています―がありますから、注意が必要です。しかしその注意を怠らなければ、現代人はもっとキリスト教に限らず伝統宗教の知恵に敬意を払ってもいいのではないかと私は思っています。





「悔い改めを待ってくれた神様」



KH


私の名前はKHと言います。1972年に岡山県で生まれました。現在38歳です。

幼少時の私が見たものは、時間を守り約束を守り通してくれた母という存在でした。それゆえ、幼い頃の私は笑顔にあふれた者でした。

そんな私に暗雲がたれこめたのは小学校入学でした。同級生の余りあるいたずらに、クラス全員に対して怒る先生の存在が、私には恐怖以外の何物でありませんでした。この恐怖は毎日毎日繰り返されるのです。怒られることに慣れていない私は混乱するばかりです。さらに、怒られるということは、私が悪い事をしたから、という思いが常に私にあり、何もせずに相手に従う事で怒られることを回避する防衛本能だけを育みながら大人になっていきました。

22歳の時に、私は社会人となりました。ここでも私は怒られまいとする思いが私の心にありました。結果、私は心のゆとりを失い、行動範囲を狭め、次第に私は世の役には立たない者と自ら烙印を押す者になりました。

私は無意識のうちに人から離れていくようになり、心は内に閉ざし、まるで分厚いガラスを通して世の中を見るようになりました。「社会の中では人と接することは仕方ない。しかし私に意見をしないでくれ、ほおっておいてくれ」、と思うようになりました。そして、私の心の奥底にはモラルのような思いがあり、これが現実社会と噛み合わないことで、間違っているのは私と考え、正しい事は何かと探し続けていました。

親に相談は、できませんでした。人に迷惑をかけてはいけない、親に心配をかけてはいけない、という思いが働いたからです。結果、私は幾度と無く無意味に街を彷徨いました。彷徨い、家に帰り寝て、また会社に行き、彷徨う。私が25歳の時でした。

この時、私は自らを呪っていました。「自らの存在そのものが悪」と思っていたのです。しかしそんな私に、癒しの声をかける者がいました。そして連れて行かれた施設で、映像を通してマザーテレサが私に語りかけました。「わたしの目にはあなたは高価で貴い」と。私はその言葉に涙を涙し、心が温まりまし
た。しかしそこはとあるカルト集団だったのです。

私が東広島めぐみ教会に初めて来たのは、2002年の5月、私が30歳の時です。カルト集団からの脱会に力を尽くしてくださった、岡山県のある教会の牧師と、同じく岡山のある教会の信仰深い方の薦めでした。状況的には単身でめぐみ教会へ来たのですから、特に親しい友人がいなかった私です。そんな時に懇意にしてくださった方々に感謝です。夕ご飯に招いてくださったり、聖書の学びに時間を割いてくださいました。

そうして少しづつ教会の方々と知り合いになっていきつつも、私の心は孤独でした。自らを認めることがどうしても出来ず、むしろぞんざいに扱われることで、「ほらやっぱり」と思い続ける者でした。

しかし、この世は偶然では無く、神様が造られたことを知りました。聖書に示されたイエス・キリストは、人の価値とは職業や身分ではなく、その人の存在そのものであり、またイエス・キリストの願いは私達が神様のお心を行うこと、隣人を大切にする者だと言われました。そして正しいことを正しいと保証し、忍耐を持って人々の悔い改めを待ち、ついにはこの世の全ての罪を背負い十字架につけられ、尊い血をもってこの世の全ての人々を赦してくださったことを知りました。

いつの頃からか、私は「十字架の赦しの中に私も入れてください」、と祈るようになりました。隣人を愛するどころか、自らを否定し、そして私を見守ってくださった人々すら信じることが出来なかった私は、罪人です。私は認めます。私は神様を無視し自分勝手に歩む者だったと。

けれども、神様はそのような私を愛してくださり、その私の罪を背負って、イエス様が十字架にかかって死んでくださいました。このことを感謝します。神様は私の悔い改めを待っていたのだと思います。そして今はそれを確信しています。

最後に私の救いの源となった言葉を読みます。これは聖書の言葉であり、マザーテレサが用いた言葉でもあります。

わたしの目にはあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ書43章4節


私は今でも時々、私の存在そのものが悪と思うことがあります。しかし街を彷徨うことはもうありません。この御言葉が私を支えているからです。そしてこの言葉は地球上全ての人に注がれていると確信します。神様が私を待ってくれたように、私もこれから興される人に対し、忍耐を持って待とうと思います。

私はこの証を、イエスキリストのお名前を通して天の神様に捧げます。アーメン。










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2011年2月24日木曜日

ゼミ活動で何をどう学ぶのか(ゼミ生のまとめから)

本日、第一回目の学部ゼミを行いました。私の講座では3年生の1月末にようやくゼミ決定が行われるので、実質的なゼミ活動はどうしても2月からになってしまいます。本当はもう一年前(せめて半年前)からゼミ活動を行いたいのですが、まあとりあえず現制度ではこれから約一年間学部ゼミ活動を充実させてゆきたいと思っています。

第一回のゼミは、大学・大学院での専門研究に関する記事を予め読んで自分なりに理解できたことを文章化しておくことを予習とし、本日の実際のゼミ活動ではその予習をもとにゼミ生にこれらの記事を説明してもらったり、その説明の内容や仕方について討議してもらいました。充実したゼミになったと思っています。

以下は二人のゼミ生の予習(自らの理解の文章化)です。それぞれに大学生活最後の年のゼミ活動で何を学ぶべきかをまとめていますので、このブログの読者の皆さんの中にも興味をもってくださる方もいらっしゃるかと思い、ここに掲載します。



ゼミでの活動を通じて学びたいこと


1 知的仕事のABC

1.1 A - Analyze

1.1.1 A - Analyzeとは

Analyzeは文字通りこれから自分が行うべきことを分析することです。そして分析結果を用いてタスクをどのようにこなすかを計画することです。

1.1.2 計画

1.1.2.1 なぜ計画が重要か

「エクセルで行うタスク管理」の記事でも計画の重要性が説かれていましたが、この項ではなぜ計画を立てることが重要なのかについて自分の経験を基に考えていきたいと思います。

1.1.2.2 タスクは無尽蔵に増えてゆく

タスクを「自分が読みたい本」に例えて論じます。

これは自分が本を読むようになってわかったことですが、本を読むと自分が読みたい本というのが数限りなく増えていきます。ある本の中で紹介されていた本、ある本の思想の基になっている本または人物、入門書を読んだ後に原書を読む等様々なパターンが考えられます。

また、上記の例は「本と自分」だけですが、実際には本屋さんをぶらついていて偶然面白そうな本を発見する、先生や友人に面白そうな本を紹介されるなどの「他者と自分」という偶有性に関わる部分もあります。が、間違いないのは読みたい本の数は増えることはあっても減ることは無いということです。

しかし、際限なく増え続ける「読みたい本」を全て読みつくすことは不可能です。なぜなら私たちには限られた時間しか与えられていません。そしてただ本を読んでおけば良いという生活は非現実的な贅沢の極みでしょう。

したがって私たちは「読みたい本」を管理する必要があります。優先順位をつけ、直接的に研究に関係するもの、直接的には関係しないが関係するかもしれないもの、個人的な趣向のために読むもの等カテゴリーに分類し、計画的に読書を行うことでより効率的に楽しく読書を進められます。

1.1.2.3 各タスクの独立性

私たちは数多くの異なるコミュニティに属して生活を送っています。それらのコミュニティは大抵の場合互いに関係がありません。そして各コミュニティはそれぞれに私たちにタスクを課します。

例えば一般的に大学生は大学(授業や研究)・サークル・アルバイトという3つのコミュニティに属しています。通常、授業の課題をこなし、サークルの活動や話し合いに参加し、アルバイトをする、という3つのタスクを同時並行でこなしています。各々が各々に重要なのでアルバイトがあるから課題ができないというのは「言い訳」として捉えられます。

このように多数のタスクを同時にこなしながら、どれもが別のタスクの事情を勘案してくれないという事態は日常的な光景です。その中でタスクを達成するために計画を立て、それらを調整するのはやはり自分しかいません。


1.2 B - Begin

1.2.1 B - Beginとは

Beginは取りも直さず「始める」ことが大事だということです。記事は、計画を立てても心理的にぐずぐずしてその仕事に取り掛かることができない場合が多いため、「始める」ことが重要であると説いていました。

しかし、私は別の視点をもってBeginが本当に重要だと感じたので以下で論じます。

1.2.2 AnalyzeをBeginする

私にとって仕事に取り掛かることよりも仕事をAnalyzeすることの方が億劫に感じられます。なぜなら分析し、計画すること自体は仕事自体の進捗には何の影響も与えないからです。計画しても仕事は始まりませんし、計画しなくてもなんとなくやっていれば仕事はその質は最低ながらも形式的には終了します。

また、恥ずかしいことながら私には計画を立てて何かを実行するという経験が圧倒的に乏しいです。今まで、あらかじめ誰かが決めた計画に沿って仕事をこなす。または計画などなくてもとりあえず納得できるレベルにはこなせるような容易な仕事しか行ってきませんでした。

しかし、卒業論文や研究などは誰かが計画を立ててくれるものではありませんし、計画無しに達成できるような容易ものではありません(容易なものにするつもりもありません)。

なので私にとって分析・計画を「始める」というのは何よりも重要なポイントです。分析・計画を「始める」ということをこの春休みの課題とします。


1.3 C - Check&Change=Control

1.3.1 C - Check&Changeとは

CにはCheckとChangeそしてControlの3つの意味があります。まず計画を立て、そしてそれを実行する。その中で私たちは計画の進捗状況をCheckする必要があります。必要があれば、チェックした結果に対して計画をChangeします。このように計画をControlするのがCです。

1.3.2 私たちは計画の奴隷になる必要はない

私たちは計画を立てる時、それが常に万全の状態の自分によって遂行されるものとして計画してしまいがちです。しかし、実際には仕事が思ったより困難であったり、自分の身体・精神の状態が芳しくなかったりと様々な要素によって干渉されます。そして計画に追われ、精神的余裕をなくしてしまいします。このような場合にはいくら頑張っても全てがうまくいきません。私にもそんな経験がたくさんあります。

したがって、計画の進捗状況や自分の状態などを冷静に見極め、計画をその状態に見合ったものに修正すべきでしょう。
私たちは計画の奴隷になる必要はない。


2  学術論文の他者志向

2.1 他者(読者)の目を意識する

今回の課題であった一連の記事の中で繰り返し述べられていたのが、「他者(読者)を意識する」ということです。そしてこれには二つの側面があります。
一つは読者にとって読みやすい、理解できる文章であるという、作文技術的な面。そしてもう一つはできるだけ多くの読者が納得できる客観性をもつ、という内容的な面です。

2.1.1 他者(読者)を意識した文章

2.1.1.1 「難しい=賢い」ではない

私たちは学術的な、一般に言う「難しい」文章を書こうとする際、ともすれば難解な語句や言い回しをしていればいいと考えてしまいがちです。なぜならそういった表現を駆使していれば、内容に関係なく「難しい」ことを書いているように見せかけることができるからです。本当はどうでもいいようなことしか言っていなくても難解で冗長な表現を駆使すれば、複雑なことを言っているように見せかけることができます。

電話帳のような分厚さで重厚な装丁の本のページをゆっくり繰っているだけでも、はたから見れば賢そうに見えます。これと同じことです。これはただの権威主義です。

2.1.1.2 「わかりやすい=簡単」ではない

そうかといって読者にとってわかりやすい、理解しやすい文章を書くことは漢字をひらがなにしたり、その文脈の中で特別な表現を簡単な表現に直したりすることではありません。

2.1.1.3.1 わかりやすい、理解しやすい文章

では、「わかりやすい、理解しやすい文章」とは何なのかというと「読者の視点を意識して執筆」されているということです。

私たちの書いた論文を「是非とも読みたい」という人は限りなくゼロに近いと思います。しかし、曲がりなりにも論文を書くのであれば、読者を獲得することを目指して書くべきです。今回の記事にもありましたが、公共の利益を意識しない研究はただの趣味です。なので私たちはどうにかして潜在的読者の皆様方に振り向いてもらえる様、努力をする必要がると思います。それが「読者の視点を意識して執筆」するということではないでしょうか。

2.1.1.3.2 内田樹の研究室 「リーダビリティについて」

このことについて内田樹先生が「リーダビリティについて」というブログ記事で論じています。ゼミの中でこの記事についても是非取り上げていただければと思います。

2.1.2 作文技術について

2.1.2.1 高度な学術言語運用能力

そして「読者の視点を意識して執筆」するためには高度な言語運用能力が必要です。そして私たちの言語運用能力は日本語においても英語においてもまだまだ十分ではありません。したがってゼミの活動を通じて言語運用能力を可能な限り引き上げる努力が必要です。

私たちがこれから扱うのは日本語・英語に限らず学術言語です。学術言語は日常の言語使用とは異なるものです。なので私たちは母語である日本語においてもその運用の仕方を学ぶ必要があると強く感じています。

2.1.2.2 日本語の訓練

私は特に日本語の訓練が必要ではないかと感じています。なぜなら私たちが日本で教職につく場合、日本語で何らかの文章を書くことが圧倒的に多いからです。また、私たちは英語に関しては分析的に注意深く書き、学習します。しかし、日本語に関しては母語ということもあり、ほとんど無自覚に直感的に書いたり、話したりしてしまいがちです。


2.2 客観性のある論文

論文を書く際にはより多くの読者に納得してもらえる内容を書く、つまり客観性のある論考をする必要があります。どんなに素晴らしい言説でも自分勝手な意見や考えをぶちまけているだけのものには誰も納得してくれません。これもただの趣味です。では、「客観性をもつ」とはどういうことなのでしょうか。

2.2.1 「客観性」とは

鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門 実践と質的研究のために』(東京大学出版会) (2006/3/18c)で述べられているように「客観的」という言葉は多くの場合、「実証主義的」を指します。

より日常的な感覚で言い換えると「客観的」=数字ではないしょうか。そして数値化できないもの関しては「ただの主観だ」と言って排除しているように思います。

上記の記事では、「事象の客観的側面(あるがまま)に忠実であることと、事象を客観主義的=実証主義的に捉えることとは別のことである」(20 ページ)とされています。

しかし、質的研究における高次の客観性とただの主観との間には圧倒的な違いがありますが、両者を隔てているものは本当にごくわずかです。そして私たちはそのわずかな境界線をいとも簡単に見失ってしまいます。私たちは両者の違いをしっかりと学ぶ必要があります。


3 書評

このゼミにおける一年間の個人的な目標の一つとして書評をきちんと書くことができるようになるというものがあります。

3.1 なぜ「書評」なのか

ある本について評論やまとめをするためにはその本を本当に理解している必要があります。そして逆に言うと評論やまとめができないということは論文が書けないということです。なぜなら論文を書くプロセスでは数多の参考文献を読み、それらを体系的にまとめるということが絶対に必要だからです。

ですから「書評やまとめができる」=本当の意味で「本が読める」と言っても過言ではないと思います。

3.2 「本の読み方」を知らない

私も自身のブログで書評の真似事のようなことをしていますが、知性の無さを見せびらかせているようで恥ずかしいばかりです。私の「書評」には自分の主観しかありません。ただ自分勝手に思いのたけをぶちまけているだけです。本を読んだというアナウンスがなくてもブログとして成り立ちます。
私は「本の読み方」がわかっていないのでこのような状況に陥るのだと思います。なので、本の内容に依拠しながらそこで述べられている事実や自分が感じたこと・考えたことなどを言語化する術を学びたいと考えています。


4 真摯に学ぶ

4.1 最も重要なものは「真摯さ」である

大学の授業や卒業論文を書くことを通じて得るものは無限にあると思います。高等教育では学ぼうと思えば、いくらでも学べます。しかし、そこに絶対に必須なのは「真摯さ」です。ドラッカーも才能より重要なのは「真摯さ」だと言っています。

4.2 最小リソースで最大効率を

大学の授業や卒業論文は卒業するために必要だからやる、と決めてしまえば簡単です。必要最低限のリソースを持って、最大限の効率を目指して中途半端にやればいいのです。しかし、そこから学ぶものは何もありません。最低限の力で体裁を保っただけのタスクをこなすノウハウが身につくだけです。そこからは何も生まれません。なぜなら何かを学びとることや創出することは非常にパワーを使いますし、最低限の体裁を保つだけ程度の取り組みというのはそもそもそんなものを目指しませんから。

4.3 決意

私はこれまでの人生で自分で勝手に価値を決めつけ、自分に無駄だとして上記のような態度で臨んだ物事がいくつもあります。そうして失ったものは測りしれないでしょう。

なのでこのゼミまたはそれに関係するでの活動は自分の全力を尽くして真摯に取り組みたいと考えています。










第一回ゼミ課題



本課題は、柳瀬先生のブログ『英語教育の哲学的』中の記事集「大学・大学院での専門研究」に関する項目を読み、考察した内容をまとめたものです。

1. 主体的に学ぶということ
 
1.1. 「これまで」と「これから」の学習

 学部1年次から3年次までの学習と、ゼミや卒業研究を通じての4年次からの学習は、どのような点で異なり、どういった点で共通しているのでしょうか。また、「これから」の学習で求められてくること、つまり、「これまで」と「これから」の学習の決定的な差となりうるものは、一体どういったことなのでしょうか。

1.1.1. ブログ記事「知的仕事のABC」より

1.1.1.1 Analyzeするということ

 これまでの学習では、Analyzeするための一つの目安として、自分で学習、あるいは達成した成果を自主的に確認するということ以外にも、指導担当の教員から返却されるテストやレポート、そして学期末に与えられる単位などがその役割を担ってきました。しかし、一体どれだけの学部生が、それらのAnalyzeされた結果から、自分が今置かれている状況や、必要とされている力や能力を省みて、今なすべき事を認識し、これからの計画に役立てるような努力をしようとしているでしょうか。

1.1.1.2 Beginするということ

 前項「Analyzeするということ」とも関連しますが、何かを学ぼうとする際には、まず問題の意識化や、顕在化といったプロセスが必要です。自らの目に見える、あるいは意識に置かれる形で、問題に対する意識を持つことは、簡単なようで実は最も見落とされがちなことではないでしょうか。その証拠に、前項のAnalyzeに到達出来ていない人は、このBeginのプロセスが始動しにくいように思えてなりません。

1.1.1.3 Control するということ

 Analyzeとフィードバックという言葉は、常に表裏一体の関係です。達成状況を監視し、自らの活動や計画を再構成していくことは、長期的なプロジェクトや学術論文を書く際だけに求められる技能であるとは断言できません。例えば、上手いテニスプレイヤーは、技術だけに頼ることなく、自分と相手の消耗度や天候、風向き、試合時間などの情報を同時に処理し、最適な力加減、コース、ステップの踏み方をはじき出し、試合の展開を組み立てます。もちろん、更に超一流のプレイヤーともなれば、その選手人生までをも計算に入れるような、より長い設計の元に試合を組み立てているかも知れません。

1.1.2 ブログ記事「Backward Designはなぜ失敗しうるのか」より

1.1.2.1 ものごとにリンク(Link)を張るということ

 これまで、学部での講義は大きく分けて、私たち学生が呼ぶところの「教養」科目と「専門」科目の二種類に分類することが出来ました。しかしながら、いずれの種類にせよ、私たちがこれまで学んできたことは、ひとつひとつの講義、あるいは授業の中で完結してしまっているように思えてなりません。今回のブログ記事中のBackward Designにおける実践前の問題点に着眼した項目には「2.2 複数の手段をつなげる過程を構想できない。単一の手段によって目的を達成するという発想ぐらいしかないので、複数の手段を一貫して整合的に、かつ効果的に並べることができない。」という記述があります。これを私たちが受けてきた講義に焦点を当て、私自身の言葉で言い換えるとすればこうなります。「それらの講義内容は、長期的なスパンで見た場合に、教育現場や社会に出て大変有益なものであったかも知れないのに、良い評価や単位の獲得といった一時的なものに縛られた結果、内容の枠を超えて繋がるはずであったものを孤立化させてしまった。」また、更にたちが悪いのは、孤立化の中で本来の価値、すなわち、知的な収穫を得ることから外れ、単なる暗記や単位集めに走った結果、学びから得られる喜びを放棄してしまう場合があるということです。

1.1.2.2 目的と目標を混同しない

 加えて、前述した記事中の、実践後の問題点に着眼した項目では「7 小規模用・短期的・具体的な「目的」(end, objective, Zweck)の概念しか持たず、大規模用・長期的・抽象的な「目標(あるいは方針)」(goal, aim, Ziel)の点から実践を振り返ることができない。「目的」達成のためのbackward Designは実現されても、「目標」という大局観を見失ってしまう。」と、述べられています。単位が取れても、3日後に忘れているようでは元も子もありません。学習や集中的なテスト勉強で得た知識を活用させるためには、視野を広く持って、自分の目標とする論文や研究にどう適用させていくのかを、常に頭の隅で考えておく必要があります。目的が目標化してしまうと、空虚な成功への努力に溺れ、後には残るのは「頑張った」という意識と、書いた内容が思い出せないノートだけという、最悪の結果に陥ることも考えられます。

1.1.3 より良いスケジュール管理のために

 前述した項目では、問題意識の視覚化の重要性や、目標に準拠した学習内容を関連付けて学ぶことの有意義さを述べましたが、単に手帳やノートに書き並べるだけでは非効率極まりません。ブログの中ではExcelを用いたタスク管理の方法が挙げられていましたが、その他にも、Google カレンダーやEvernoteなどに代表される、ウェブ上で管理が可能な諸サービスを活用することによって、生産性は何倍にも高められるように思えます。手や頭を使って考えたことを、いつでもアクセス可能、検索可能な状態に置いておくことは、新たなアイディアを生み出すことへの大きな手助けになるでしょう。
 
1.1.4 学ぶ姿勢の違いに気付くために

 私たちの英語文化系コースでは、3年次の終わりにかけてゼミの希望を出し、配属されることになっています。その是非は置いておくにしても、いざゼミが決まり、卒業論文計画書を提出することを伝えられ、どう悩んでいいかすらも分からない、研究の仕方、テーマの決め方ひとつにつけても不安で一杯になってしまう人が多く見受けられます。私もその内の一人であり、今も悶々と悩み続けている最中です。個人的な理由付けになってしまうかもしれませんが、私たちは今いちど、「学ぶこと」を捉えなおすことが必要ではないのではないでしょうか。受動的な態度で学びに臨み続ければ、学びとることが出来たはずの内容は、きっと限定的なものになってしまいます。また、人間は、自分の知的リソースに無いもの、あるいは関連付けられないものは、自然と視野の外、思考の外に追いやろうとしてしまう傾向があります。より良く学ぶための土台は、決して知識の集約のみに端を発するものではありません。

1.1.5 学びの本来の目的を見据えるために

 良くも悪くも他者の目を気にするような「客観的」な学びは卒業する必要があります。成績や単位に縛られない、自分の興味がある分野の学習のためには、まずは自分が何をしたいのか、そのためには何が欠けているのか、欠けたものを埋めるにはどうすれば良いか、それにかかる時間はどれくらいか、現在のスケジュールに当てはめて考えることは出来るか、それを随時変えていく勇気はあるか、最低でもこれらをはっきりとさせておく必要があります。こうして並べて見ると、明らかにこれまでの学びとは異なった手順を踏むのだということが分かります。一朝一夕に完成するものではありませんが、少しでも理想と実態を近づけていく努力が求められています。


2. 学術論文を書くために意識しておくべきこと

2.1 デザインに見る他者への思いやり
 学術論文は、一見すると小難しい内容を更に小難しく書き綴った研究結果のように思えますが、実は正反対の性質を持っています。ですから、難しい内容は噛み砕いて分かりやすく、分かりやすい内容なら少しだけウィットが効いた切り口から、まったくその分野に関心が無い人でも、面白い読み物として興味を持って読んでもらえるよう、幾つか工夫をしなくてはなりません。

2.1.1 ユニバーサルデザインとの類似性

 私が学術論文を捉える上でイメージしたのは、ユニバーサルデザインと呼ばれる事物です。例えば、世界中の公共施設で見られる「ピクトグラム」はその代表例でしょう。大規模商業施設や駅、空港など、大勢の人が利用する場所では必ずと言っていいほど浸透しています。では、以下のピクトグラムを見て見ると、どのようなことが見て取れるでしょうか。




http://www.waza.jp/ud/activity/example/22.html より


 まず、車椅子のマークから、障碍者用のトイレが備え付けられていることが分かります。次に、母親であろう女性と小さな子供が手をつないでいるマークから、母子が共に使用できる(排泄の手助けが出来る)トイレ設備があることが分かります。そして、よく見慣れたピクトグラムですが、赤ん坊のオムツを交換できる設備も備え付けられています。これらの情報を口頭や文章で伝達しようと試みた場合と、以上のピクトグラムを目の前に提示されるのとでは、伝達効率に大きな差が発生するのは自明のことでしょう。さて、右上にはあまり見慣れないピクトグラムが存在しています。これは、オストメイト=人口膀胱(肛門)を装着した人でも利用可能である、といったサインなのですが、もし”オストメイト”の表示が一切無かったとしたら、このピクトグラムから得るこことの出来る情報は非常に限定的になります。解釈が難しいところは注釈を、それ以外の部分はなるべく簡潔に、簡略して、分かり易く。意外なところに共通性を見出すことが出来ました。

2.1.2 閉じられた環境であることを自覚する

 学術論文という媒体を考えてみると、話すように書くと良いのではないか、という思考に陥ったことがあります。しかし、本多勝一「日本語の作文技術」のp.11に於いて、真っ向から否定されている考えこそ、まさに「話すように書く」ことなのです。ここで本多さんは、ある例文を高等表現から文章表現へと変化させる中で9項目もの相違点について言及しています。本そのものの内容は、今後ゼミの中で扱うと思われますので省略しますが、考えを文字媒体に起こすという行為は、普段我々が無意識の内に生活しているNon-Verbalな要素がたっぷりと詰まった世界から脱却しなくてはならない、ということなのです。表情も、トーンの上下も、身振り手振りも一切無い状態で、ただ紙上の文字のみで相手に考えを伝えることは、実はそう簡単なことではないということなのです。

2.2 内容へと踏み込む前に

 今回のブログ中では「知的エンタメ」と称されていましたが、論文の大前提として、分りやすく、読みやすく、面白いものでなくてはなりません。しかしながら、分かり易い、ということは簡単な内容であるということには繋がりません。ピクトグラムの項でも述べたように、高度で複雑な内容を噛み砕いたものであるべきです。また、読みやすい(reader-friendly)ということは、読者を念頭においた構成である、という意味の他にも、読者を巻き込んで論文に没頭させる位、読み手と書き手に時間と空間を越えたコミュニケーションが発生しなくてはならないということでもあります。

2.2.1 「贈り物」を大切に

 学術論文を書こうとするならば、先行研究を行わなければなりません。テーマが決まってから、あるいは、テーマを決めるための先行研究もあるかも知れませんが、いずれにしても、これまでの先人の知識・研究の成果を読むことに他なりません。新しい知識を生み出すのに、自分だけの世界に閉じこもっていてばかりでは前に進むこともないでしょう。研究を引き継ぐということは、学士なら1年間、修士なら2年間分の、その人の情熱と時間とお金を受け継ぐことになります。そういった責任が伴う以上、先行研究は腰を据えてじっくりと行うべきことだと言えます。


2.2.2 異なる分野に学べ

 論文のテーマに関連したことばかりに接していたのでは、行き詰まった時の精神的な逃げ場が無くなってしまうこともあるでしょう。異なる分野の話題や資料、論文やデータなどに目を通すことは、そういった飽きを防ぐ以外にも多くの効力があります。たとえば、データ処理に必須の知識である統計処理も、基本的な高校数学レベルの理解力が要求されます。論文などでそういった能力を活用するかどうかは人によりけりですが、身につけておいて無駄にはならないと言えます。


3. この1年間でよりよく学ぶために

3.1 一人の時間を持つ

 研究とは基本的に一人で行うものですが、時には友人と語り合うことももちろん必要です。バランスをよく考え、どのタスクは一人で行うべきかを見極める必要があります。一人の時間を持てるということは、深く思考を咀嚼するためのエネルギーの供給に繋がるのではないでしょうか。

3.2 本気で議論をする

 私自身は、あまり議論が得意なほうではありません。事なかれ主義ではないのですが、批判されるのが実は怖かったり、人を批判することに躊躇してしまいがちになってしまうことがよくあります。しかし、意見と意見のぶつかり合いは、より洗練された言葉や思考に直結することもしばしばあります。経験上、3時間を越えるような会議より、わずか10分足らずのシャープな意見交換の方が、結果的に充実した内容をもたらしてくれる事があることを知っています。内容が伴わない議論は精神と肉体に多大な付加をかけるだけに終始してしまいます。本気で議論することは、ある意味では大変「エコ」な思考法ではないのでしょうか。

3.3 わかりませんと言う勇気

 聞かぬは一生の恥、聞くは一時の恥、という言葉があるように、分らないことは分らないと率直に言える人間でありたく思います。これから扱っていく内容は、知的に洗練されている反面、高度な背景知識や読解に必要な英語の力を求めてきます。ある議論の中で分らないタームがあったとして、見て見ぬ振りをして30分過ごすのと、5分時間を取ってもらって、解説の後に25分過ごすのとでは、大きな差があるように思えます。

3.4 謙虚に学ぶ

 学術論文に限った話ではないように思いますが、謙虚さは社会で生きてゆくために必要な要素であることには間違いありません。たとえ気に入らない事であっても、自分の糧になるように接してしまえばこちらのものですし、新たな世界が開ける事もあるかもしれません。まだ未知の物事に対して、敬意を払って接すること、まだ見ぬ未来の読者や指導教員、同級生、学費を払ってくれている家族にも感謝することが、謙虚に学ぶ姿勢を形作る第一歩ではないでしょうか。






お互いに緩やかな笑顔を保ちながら、深いレベルの学びができるゼミにしたいと思います。










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【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2011年2月21日月曜日

OY君:英語教育界にはびこる「美しい言葉」

(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)

OY君は、英語教育界にはびこる「美しい言葉」の弊害を指摘します。以下の一節など傾聴に値します。


私は昨年の夏に全国英語教育学会に参加しましたが、その議論や質疑応答には驚きを禁じえませんでした。その場面では質問者は質問をするのではなく、ただ持論を展開しているというだけで した。そこには意見をすり合わせたり、発表者を理解しようという雰囲気は皆無でした。彼らは同じ言葉に対してまったく違う前提や認識をもって臨んでいました。


以下に、個人的なことを書いた部分以外の全文を紹介します。




「言語コミュニケーション力論と英語授業」レポート



OY




本レポートでは「言語コミュニケーション力論と英語授業」の中で私が考え、感じたことについて述べたいと思います。

 まず、Chomsky, Hymes, Canale, Bachman, Palmer, ら言語学者の言説を学習する上で感じたのが「コミュニケーション」(または”communication”)や”competence”という言葉に関して各人がそれぞれにそれぞれの解釈や理論を同じ言葉で述べようとしているということです。これは大きな混乱を引き起こしてしまいます。実際に授業の中で自 分も何度か整理をつけながら理解していかなければ、混乱してしまいそうでした。
 
 そしてこの言語使用の混乱というのは英語教育に限らず、様々な議論の場で深刻な問題となっているのではないでしょうか。
 
 私は昨年の夏に全国英語教育学会に参加しましたが、その議論や質疑応答には驚きを禁じえませんでした。その場面では質問者は質問をするのではなく、ただ持論を展開しているというだけで した。そこには意見をすり合わせたり、発表者を理解しようという雰囲気は皆無でした。彼らは同じ言葉に対してまったく違う前提や認識をもって臨んでいました。このような不毛な議論が繰り返されるというのは英語教育界、ひいては日本にとって大きな損失です。
 
 こういった失われてしまった知的リソースをもっと有効活用するためには一定の共通認識や「目指すべきもの」が必要ではないのか、と考えました。
 
 また、現在では教育現場限らず、就活の場面や企業内でも「コミュニケーション」・「学び」・「気づき」といった言葉が乱用されています。これらの「美しい言葉」たちはもともと私たち の生活に深く根ざしていたものや外国語から借入され、いつの間にか日本語に定着していまっていたものが多数です。どちらにせよ、私たちの日常の言語感覚では もはや曖昧にしかその明確な「意味」が意識されることはない言葉です。多くの人たちがこれらの言葉の「意味」を問われると答えに窮してしまうか、同語反復 を繰り返してしまうしかないでしょう。
 
 したがって、これら「美しい言葉」は誰でもが容易に使うことが可能です。そしてだからこそ今のような混乱した状態が生み出されてしまったのではないかと思います。もともとこれらの言葉を使い始めた人たちには明確な意図や「意味」が存在していたと思います(「学び」という言葉では「学びの協同体」で有名な佐藤学先生などがいます)。しかし、それらが一般大衆の目に触れ始めると同時にこれらの言葉を使い始めた人たちが込めた「特殊な意味」から「言葉」自体が乖離し始めてしまいました。誰もが身体感覚として体得している言葉だからこそ、誰もが これらの言葉に自身のイメージや経験を付与してしまいます。まさにルーマンの社会システム理論のようにそれぞれのシステムがそれぞれのシステムの仕方で言葉を理解してしまいます。また、もともと実生活の中で明確な「意味」が意識されることが少ない語であるため、各システムの「理解」の受容の幅も広く、相互 作用の中で支障をきたすことも少ないため、本来どのような「特殊な意味」が込められていてどのように使われていたのかを意識することがなくなってしまいます。
 
 その結果、誰もが自分の経験やシステムに準拠した「自分の美しい言葉」を使い始めます。実に都合が良く、便利な言葉です。誰もが簡単に使用するけれど、その意味するところは各人によって微妙に時は驚くほど大きく異なる、という事態に至ってしまいます。
 
 そういった「何を指しているのかよくわからないのにみんなが重要に思っている」という状態は非常 に危険です。求めるものがどこにも存在しないのにいつまでもそれを求め続けねばならない。それはいつか疲弊してしまいます。そして一心不乱に何もないものを目指し続けるというのは気持ち悪い状況ではないでしょうか。
 
 日常生活の場面ではそれでよいのかもしれませ ん。しかし、教育的・学術的場面でこのような状況が繰り返されているのは本当に危機的事態ではないかと思います。
 
 今回の授業を通して切実に思ったのが、こういった状況には何か打開策が必要なのではないかということです。このような不毛な状況に貴重な知的リソースが浪費されているというのは悲しむべき事態です。そのために手っ取り早い解決策とうはやはり共通認識を作り、また定着させるということでしょうが、考え方の多様性や実現性といったことを考 えるとこれは難しいとしか言えません。
 
 現実的な案としては少なくとも現状を知って意識しつつ行動すべきである、ということではないでしょうか。
 
 本授業「言語コミュニケーション力論と英語授業」では繰り返し、身体性の重要さが強調されていました。
 
 私たちは言語教育に携わる人間なのでやはり「言葉」という側面に注目してしまいがちです。です が、言語を操るのも、教育を行うのも生身の人間です。人間が生物である限り、身体という側面を無視することはできません。
 
 また、教育という営みは種々雑多な要因が複雑に混ざり合ったものです。そこには教師自身の経験や子供たちそれぞれの経験、集団としての経験など様々な「経験」が大きな割合を占めていま す。それらについて理論や分析を用いて一般化していくというのは非常に困難を極める作業であると思います。
 
 教育現場にはそういった「経験」によって醸成された「直感」といったものが溢れています。私たちはこういったものを無視すべきではないでしょう。このような身体感覚というものは既存の理論の枠組みにはまるものではありません(だからこそ面白いのだと思います)。なので、この身体感覚に関してできる限り記述し、そして新しいできる限りこの身体感覚について説明し得るような枠組みを形成することができれば、新たな展望が開けるのではないかと思います。
 
 上記のようにこの授業では一見 記述することが不可能なものである「コミュニケーション」というものを中心に扱ってきました。
 
 実際に「コミュニケーション」 というものが何なのかを記述するは本当に困難を極めるものだと思います。今回の授業のなかで取り扱われた様々な理論のどれもが「コミュニケーション」という城の一部を表してはいるものの全体像やそのすべてを記述しているものはないように感じました。
 
 Chomskyは”A study of communication is a study of everything.”といったその難しさや複雑さを揶揄しましたが、私はむしろその難しさこそが面白いと感じました。「コミュニケーション」というも のを記述しようと考えた場合、そこには様々なアプローチが存在します。言語学、哲学、心理学、経済学、神経科学、脳科学などなど一般的言う理系と文系の別 もなくアプローチを行うことが可能です。これだけ多くのアプローチが存在する研究対象というのはなかなかないのではないでしょうか。だからこそ面白い。
 
 私はまず、言語学・哲学という面からこの「コミュニケーション」に立ち向かいたいと考えています。
 
 現在の日本社会ではひたすらに「コミュニケーション」の重要性が叫ばれています。そして「コミュニケーション」を「評価」しようとさえしています。
 私は「コミュニケーション」が 何なのかもわかっていない(少なくとも何なのかという合意形成がなされていない)中でそれに関して「評価」を下すというのは傲慢なで無謀な考えであると 思います。何でもかんでも数値化しなければならないという考え方は改めるべきでしょう。
 
 確かに人類はこれまで仕組みはわからないけれども使えるというものを利用してイノベーションを成し遂げてきまして(とりわけ自然科学の分野で)、しかしその後にはその「仕組み」を解明しようという試みがあってしかるべきではないでしょうか。
 
 「コミュニケーション」はこれまで立派に実践されてきたし、今現在も実践されています。どこまでを「コミュニケーション」と定義するかにもよりますが、「コミュニケーション」の成し遂げてきた、またはそれなしには考えられなかったいのべーションというのは星の数ほどにものぼるでしょう。
 なので、そろそろ腰を据えて「コミュニケーション」とはいったい何なのかという問いに挑んでいってもよいと思います(だいぶ昔から行われているとは思いますが)。



現在、授業の中で田尻悟郎先生 らの授業ビデオを見るなどしています。こういった授業実践に近づく場面があるたびに考えることがあります。

 それは自分にとってルーマンの 理論や様々な哲学などを実践に繋げて考えるというのが難しい、ということです。授業の中では他の学生の振り返りや予習などが紹介されます。それらは本当に見事です。ポイントを押さえていたり、「授業」との関連を突いたりと感心するばかりです。その中で「授業」とそれらを結びつけることがどうしても難しい自分がいます。
 
 それはそれでいいのではないかという気持ちもありますが、それでいいのかという気持ちもありま す。なぜなら授業実践というのが英語教育の肝であり、これなくして英語教育は成り立たないもいえます。しかし、これまでの英語教育は現場を意識しすぎていたために研究の分野も中途半端に終わってしまっていたのではないかと思います。
 
 この問題とどう付き合っていくのかというのも今後の私の課題ではないかと思います。




(このシリーズはまだ続きます)










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IYさん: テンプレートからの脱却

(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)

IYさんは、「テンプレート」というキーワードを使って自らの実践を分析しました。まとまりのよいエッセイなので全文を紹介します。



テンプレートからの脱却



IY



○Introduction テンプレート

 私が今「言語コミュニケーション力論と英語授業」の講義を振りかえろうとした際に、最初に浮かんだ言葉が「テンプレート」であった。それは私が教育実習中に生徒に投げかけた言葉や態度を指して担当の先生が私によくおっしゃった一言で、それ以降頭の片隅にずっと残り続けている言葉である。自分の発問に生徒が予想通りの反応を返してきたら”Great!”と、答えに行き詰ってしまったらある程度待ったあとで「大丈夫」と、この場合はこう答えるなどの小技をそろえたマニュアルが頭の中にあり、授業でそれをただ口にしていただけで何の実感も感情も伴っていなかった、ただの「テンプレート」では生徒に響かない、と先生はよく私に指摘して下さった。
 
 英語授業に関してのマニュアル、例えば一つの授業はIntroduction、Comprehension、Consolidationで成り立っていることや文法の導入は音声から文字へ移ることが望ましいとされることなどに関しては大学で学んだ理論を背景に自分の脳内にインプットしている自覚はもちろんあったし、教育実習はその大学で学んだことを実践してみる場であることは理解していたので、たった2週間というマイナスの点もあり、そういったマニュアルから外れた生徒の実態に即した英語授業はなかなか出来ないと割り切っていた。しかし、英語を教える以前の問題として生徒一人ひとりと向き合うことが出来ていないと指摘されたことは相当ショックなことであったし、自分の中で無意識のうちに生徒への対応に関するマニュアルが出来上がっており、それに即して授業をしていたという事実は驚きだった。
 
 この「テンプレート」という言葉を聞いた友人の一人が私は普段から言葉に感情が伴わないような話し方をする癖があると笑いながら忠告してきたことからも、私には教師としてどのような技術よりも何より大切な「心を伝える姿勢」が備わっていないことに気付くことができた。教育実習を終えて、私の大きな課題の一つとなったのがこの「テンプレートからの脱却」であり、そのためには何が必要なのか常にアンテナを張るように努力しているつもりなのだが、まさにこの授業で学んだことや感じたことは「テンプレートからの脱却」への大きな手掛かりになったように思う。
 
 したがってこのエッセイでは私が得た「テンプレートからの脱却」への手がかりとこれから目指していきたい英語教師像へのヒントを述べることにする。


○Chapter 1 脱却への手がかり

 この授業では、様々な言語学者などの考え方を学び、それを私なりに解釈して「テンプレートからの脱却」への手がかりや英語教師像へのヒントをつかむことが出来た。日ごろから言語に対して敏感になり、一つの文法導入にしても生徒がその文法を使う場面を明確にし、その文法が使えるからこそ伝えることが出来る気持ちをのせることが重要であると分かった。例えば先生が例文として提示された、関係代名詞を導入する際の例文:Did you steal this? ? No, this is a CD I bought.などはただ単に”This is a CD I bought.”をリピートするよりも場面が明確で自分は盗んではいないと主張する気持ちを例文に乗せやすく、生徒の心に響きやすいだろう。脳に直接的に働き掛けることが不可能であるからこそいかに生徒のその脳内をゆさぶることが出来るかが重要であり、もし教師が生徒の脳へ直接働きかけることが出来るのであれば私のもつ「テンプレート」とやらの成功率は100%であるだろう。それに一味もふた味も工夫を加え生徒の脳にスパイスを与える必要があるのである。
 
 またルーマンも主張している「脳への直接的働きかけは不可能」という考えは英語教育が現在目標としているコミュニケーション能力の育成とも深くかかわっている。許可をもらうときにはこの表現、褒めるときはこの表現、など教師がいくらその規則を教えても、話し手が聞き手の脳内に直接働きかけることはできないためコミュニケーションにおける誤解は生じてしまうものであり、その変化に対応する力を養うことも英語教育の一つの目標である。つまり英語教師は、相手の脳内にスパイスを与えゆさぶることが出来る力を、生徒の脳内に上手く働きかけゆさぶることによって指導しなければならないのである。
 
 内田・片山の「カラダ」に対する考え方やハンナ・アレントの「活動(action)」という言葉からもヒントを得ることができた。物語を読んだり人の話を聴いたりすることによって生まれる感動というものは、ただの話から、その話し手や登場人物の身体的体験に同調し他人の人生を内側から生きるからこそ生まれるものである。Wittgensteinの主張にもあったように言語は生活とは切っても切り離せない関係で、つまりは人間の言語活動すべてにはある種の感情がこもっており、その言葉を発した人に同調して感情を感じとれてこそ初めてコミュニケーションが成立するのである。英語の授業は機械的練習を積み重ねたあとの感情表現がメインであるといえるだろうし、それを促す教師側の感情が言葉に乗らず生徒に響かないとは元も子もない話である。英語というただの言語に大きな価値を見出してもらうためにも、まずは生徒が教師の言うことや教科書の内容に、それが英語で書かれているからこそ身体的に同調して感動を覚え、そして今度はそれを伝えることが出来るように指導することが英語教師の大きな役目であるだろう。
 
 また言語獲得訓練は「意識」を「無意識」に導くことであるという考え方は、よく考えたら当然のことであるのに強烈に印象に残った。どの段階で意識付けを目標とした活動を行い、どの段階で無意識化を目標とした活動を行うのか、その見極めが所謂ALL ENGLISHな授業を目指す上で欠かせないものになるであろうし、その無意識化を意識した活動の中で教師があまりに意識しすぎた、つまり発問の意図が明確すぎ、その場にそぐわないくらい浮いてしまった指示や発問をしてしまっては、自らその空気を壊してしまうことになるだろう。また意識化を目標とした活動においては、生徒の飽きを防ぐべく教師の活動の意図するところに価値を見出させることが重要であり、そのためにはやはり生徒の心をゆさぶるような発問や指示が必要不可欠であると言える。どちらの段階でもその目的は異なるものの、より生徒の反応に即した教師の動きが重要であるのである。


○Chapter2 テンプレートが隠された授業

 このように授業を受けて「テンプレート」がかかえる弊害の多さに改めて驚いたのだが、それを理解したのちに見た「テンプレート」がない授業、つまり見事生徒の実態に即したナチュラルな授業より得たものは大きかった。正確には田尻先生や蒔田先生の授業実践では決してテンプレートがないというわけではなく、見事にそのテンプレートが生徒に隠されていたという点でとても驚いた。例えば蒔田先生の実践であれば、リンキングから教科書の持ち方まで細かい点に気を配っているにも関わらずそれらが全て自然であるのは、何より先生が一番よいモデルとなり生徒の心をゆさぶっているからだろう。ただ淡々と指導するのではなく生徒に自ら語りかけることによって教室の雰囲気作りをし、最終的には自らが感動を生みだすことのできる人へ育てあげておられたその過程は何度も先生の中で試行錯誤されたのちに見つけた、隠された「テンプレート」であるに違いない。
 
 また、田尻先生の実践では生徒の心をゆさぶるタイミングは常にベストの判断を見極める努力をする重要性に改めて気づき、テンプレートと付随すべき、あるいはそれ以上になるべきものは生徒に応じてベストの判断を見極める力であることを知った。いつ答えを与えず、いつ声かけをして、いつ生徒が気づき始めたと判断するのか、それは生徒と一瞬一瞬向かい合わなければ見極められないものでまさに「テンプレート」が無意味になる瞬間であった。それは今日明日で身につくものではなく生徒との日ごろのコミュニケーションで成り立っているものであり、それを通じて教師自ら生徒の生活を知り生徒の心に身体的に同調するからこそ、より磨かれるものである。また田尻先生の表情や仕草も、生徒の心をゆさぶる大きな点であった。この練習を欠かさなかったと述べられているのはまさに、そうやって感情をオープンにすることによって生徒が教師に身体的に同調し活動に何かしらの価値を見出す手助けをしているからだろう。


○Chapter3 テンプレートからの脱却へ

 以上のように、この授業では、様々な学者の考え方や素晴らしい先生方の授業実践から「テンプレートからの脱却」への様々なヒントを得ることが出来た。英語授業の方法や持ち合わせるべきテクニック、生徒への発問や指導への技術的ポイントなどはもちろん重要でありこれからの大学生活においてより学んでいきたいことであるが、その土台となるべき、生徒と向き合い心と心を通わせる姿勢はこの授業をきっかけとして見失わないようにしたい。実際に生徒と向き合うことはこの大学生活においてもうチャンスはないし、実際に教師になってからも自分自身で満足いくまで数年かかると思うが、その基礎は大学にいるうちにしっかり固めておけるだろう。友人との付き合いにおいて、小さな変化を見逃さずその友人にきちんと同調してベストの判断を見極めて声をかけるという本当に小さなことから始めて、たくさんの映画や本に触れて自らが身体的同調する感覚を忘れないこと、自分が英語に対して価値を見出した瞬間とはどのようなときか思い返すこと、生徒が英語に価値を見出してくれるために必要なしかけとはどのようなものか、今から四方にアンテナを張り巡らせて言語に対する感覚を鈍らせないことなど、大学にいる時間だからこそ可能であることをしっかりこなすことを「テンプレートからの脱却」を目指す上での自分自身への課題としたい。そしてそれらをこなして、身体的に同調して英語に価値を見出し自ら感動を創造することが出来るような生徒を育てることが出来る教師が私の英語教師の理想像である。

 

(このシリーズはまだ続きます)
 
 







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3/25(金)にMITのSuzanne Flyn教授が広島で講演会

ヒッポファミリークラブが活動30年を記念して、マサチューセッツ工科大学のスザンヌ・フリン(Suzanne Flynn)教授の講演会を3月25日(金曜)に広島市西区民文化センターで行うことを、広島のヒッポファミリークラブ世話役の神川さんよりお聞きしましたので、ここでもお知らせします。

詳しくはここからワードファイルをダウンロードしてください。



■重要なお知らせ(2011/03/15)■

今回の震災に伴いFlynn教授が来日となりましたので、
今回の講演は中止となりました。
http://hfcw.jp/index.html










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