2011年2月16日水曜日

新人英語教師および英語教師を目指す学生さん、どうぞ『英語教育2011年3月号』の特集記事をお読みください

新人英語教師および英語教師を目指す学生さんに、大修館書店『英語教育』2011年3月号の特集「英語教師のやっておいて良かったこと・やっておけば良かったこと」を読むことをお薦めします。

学生生活から社会人生活へというのは人生での激変です。これに匹敵する変化は、家庭から保育園・幼稚園へ、独身から結婚へ、夫婦から親子へ、定職から退職へぐらいのものでしょうか(家族の死という激変に関してはここで語るのは控えておきます)。このうち保育園・幼稚園への移行は本人には意識できていませんからその大変さも意識できません。また、結婚や出産はある程度の時間的準備を自分で取ることができます。退職の頃は人間的にも成熟しているでしょうから、まあなんとかなります。そうなると準備ができていたはずなのに、もっとも準備不足のまま突入し、変化の大きさにとまどうのが就職という社会人生活への移行といえるかもしれません。

英語教師という社会人生活の開始も、学部生時代にいくら塾でバイトをしたり、大学院生時代に臨時講師をしていたりしても、大変なものです。責任の重さが違います。毎朝定時に学校に着くや、予定外・予想外、時には管轄外の仕事がどんどん降りかかってきます。学生時代までは、(保護者や国がお金を払って雇っている)教師が、できるだけ親切に物事を教えてくれました。しかし、自分がお金をもらう立場の教師となると、仕事のやり方はこれまでのように手取り足取りは教えてもらえません。(よければ過去記事「考える・調べる・尋ねる」を参照してください)。

「英語教育」の実態も予想外であることもしばしばです。教員免許を獲得し採用試験に合格した英語教師のほとんどは、偏差値50以上の高校を出てそれなりの大学で勉強し採用試験に合格しています。本人は否定するかもしれませんが、世間的には学習面で「恵まれた環境」にいたというべきでしょう。しかしこの特集記事の執筆者の一人でもある組田幸一郎先生も言うように、「当然のことだが、偏差値50以上の学校と、以下の学校は同じ数だけある」わけです。

自らの育った環境と、社会的にも文化的にも経済的にもあまりにも異なった環境の学校や生徒の中に放りこまれた新人教師は、しばしばどうしてよいかまったくわからなくなります。生徒をよく理解しよう、観察しようとしてもまったく想定外でつかみどころがないからです。時に生活様式・言動・感性も大きく異なります。(断っておきますが、私はそういった学校・生徒が「珍しい」とか「異例・異質」と言っているのではありません。そういった学校・生徒からすれば教員採用試験で一発合格するような教師こそ「珍しい」「異例・異質」なものです)。

いずれにせよ、学生から社会人という変化だけでなく、自らの学習環境とは異なった学習環境に放りこまれた新人教師はとまどい疲労困憊します。次々にくる校務だけでなく新任研修の課題も多く残業が続きます。家に帰って睡眠時間をギリギリにまで削り授業準備をして、どうにか面白い授業をしようとしても、生徒にぴったりの授業がなかなかできません。組田幸一郎先生の記事の表現を借りると「自分はこんなに一生懸命に取り組んでいるのに」という「生徒との温度差」がいちばんのストレスになってしまいます。組田先生が回顧して述べる次の知恵を新人教師あるいは教師志望の学生さんも深く理解してもらえればとも思います。


生徒には意欲を持って学習に取り組んでもらいたいのだが、その意欲は生徒の学習に対する姿勢と教師の思いとがマッチし、そのエネルギーがプラスの方向に向いたときにだけ、かきたてられるものなのだ。(組田幸一郎「勤務校が変わってみて」19ページ)



しかしそのような知恵をなかなか体得できない新人教師は、困惑の中から最初は生徒に怒りをぶつけ、次に思うような教師になれない自分に怒りをぶつけます。この特集記事の執筆者の一人でもある田尻悟郎先生の言葉を引用するならば、


就職して1年目は困惑と怒り、2年目は失望と自己嫌悪で、早くして辞職に至る若者が少なくない。その2年をどう辛抱して光明を見いだすか。そこを乗り切れば、落ち着きが出始める。(田尻悟郎「はじめの3年間でやっておきたいこと」16ページ)


わけです。

もちろん新人教師の中には、比較的教育を行いやすい学校に赴任する者もいます。しかしなんとか無難に最初の2年間を過ごした新人教師には罠があります。

そういう人たちは、3年目になって緊張感がなくなり、まあこれでいいかと思い始める。それが続くと完全に麻痺してしまい、自分がやっていることに疑問を抱かなくなる。世の中はどんどん動いているのに、情報を仕入れず、自分の持ちネタだけで勝負する教員になってしまう。
日々変わっていく社会の中で必死に生きている保護者にとって、そういう先生方に子どもを委ねることはできない。(田尻悟郎「はじめの3年間でやっておきたいこと」17ページ)


この懸念は多くの人が共有してしまいます。「最初にぬるま湯に浸かった教員は手に負えない。子どもは変わりうるが、自らをぬるま湯に浸けたままの教員はまず変わらない」と言った声を私は多くの人から聞きます。そういった自己改善を忘れた教員の存在は、世論の教員バッシングを招きます。逆境であれ順境であれ、新人時代をどう過ごすかが本当に大切だと思わされます。学生時代と違い、基本的には自分が自分を育てる(そして守る)姿勢をもたねば、新人教師は育ち損ねるか潰れてしまいます。(この意味で各都道府県の教育委員会は、新人教師を「使い捨て」るように酷使するのではなく、育てるような制度的工夫をこらすべきです。しかし現状は、予算削減などで新人教師も先輩教師もどんどん労働条件は悪くなるばかりと私は理解しています。現代日本は私を含めた中高年世代にあまりに甘く、若年層に対してあまりに過酷のように思えます)。

ともあれ、新人時代を充実させるには当然学生時代からその次代を見通した学びをしておく必要があります。奥住桂先生は、学生さんに対して「まずはたくさんの授業を見ること」、「子どもだけでなく大人と関わる機会をもつ」「言語化すること、発信すること」「英語教師としての基礎体力づくり」の大切さを説きます(奥住桂「これから教員になる人へのメッセージ」13-15ページ)。

特に「大人と関わる」に関しては、学生さんは生徒・児童との関わりは学生時代から予期していても、時に親子ほどに年齢の違う上司・同僚あるいは保護者とのコミュニケーションについてはあまり準備していません。そのために学生時代には何ができるのでしょうか。また誰もが口をそろえて強調する「英語教師としての基礎体力」とは何でしょうか。ぜひこの記事をお読みください。


あるいは教師は大学院で学び直すことを考えるかもしれません。綾部保志先生は「長期的ヴィジョンのないまま教育をしていることに自責の念を感じて」教員生活3年目で終止符を打ち大学院に進学します。


教育をメタ的(批判的)にみようとする視点(再帰性)が欠けていると、過度に人間性を美化するナイーヴなロマン主義に染まったり、他者に学ばず「オレ流」の教育論を貫いたり、教育効果を追求しすぎて成果主義や市場原理主義への傾斜を深めてしまう可能性もある。
教師は、生徒の人生に対して卒業後も実質的な責任(生活の面倒など)を負わないが、責任ある教育を行うには、教師自身が教科教育の専門知識や指導力に加えて、より広い「社会批判力」を備えている必要があると思われる。現代社会と未来との臨界点を見定める認識力と、確固とした教育哲学を持つことができてこそ、教育目標が措定できるからである。(綾部保志「教員になってから「学び直し」てみて」21ページ)


こうしてこの綾部先生が大学院で学んだのは、「すぐに役立つ知識」「明日から使える技術」ではなく、深い実践知の源です。それは一つには、一つの事象を多角的に認識できるようになったこと、もう一つは感覚的にしか理解できなかった事象を言語化・分節化し事象の可変性を探究できるようになったことです(22-23ページ)。大学院から中高(立教池袋中学校・高等学校)に戻った後も綾部先生は研究する姿勢を崩しません。


現在の勤務校に奉職し、現場に復帰してからも研究活動を続けた。在学中に、修士課程を出るということは、研究者としての側面を持って生きること、という主旨の話をして感化された。修士論文を書いたらそれで万事終了というわけではなく、各々の現場(フィールド)で知識を再構築する課題が残されているのだ(実践知の探求)。これは、一生を賭けるに値するテーマである。(22ページ)


以上、私の個人的趣味でいくつかの箇所を引用しましたが、この、大修館書店『英語教育』2011年3月号の特集「英語教師のやっておいて良かったこと・やっておけば良かったこと」はぜひお読みください。目次はここにあります


さて、ここからは宣伝(予告)になりますが、現在私はこの特集記事の執筆者である奥住桂先生組田幸一郎先生と共にひつじ書房様から編著を出版させていただこうと現在編集作業をしております。私たち3名を含めて総計25名の方々に英語教師としての生涯を生きることについての語りを寄せていただきました。実際に市場に出るまでにはまだ時間がかかりますが、出版されましたらこのブログでもお知らせしますので、ぜひお読みいただけたら幸いです。





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