2011年8月29日月曜日

船川淳志『英語が社内公用語になっても怖くない グローバルイングリッシュ宣言!』 (講談社プラスアルファ新書)

時間がないから単純化して短く書く。

「文法かコミュニケーションか」という相互排他的で不毛な議論が続くのは、その議論を行う者が英語を使ってのコミュニケーションを十分に行っていないからである。コミュニケーションの深い経験がないから、コミュニケーションで何が大切かがわかっていない。コミュニケーションの中で重要になってくる文法とそうでない文法の区別もできていない。

この本の著者(船川淳志氏)は、英語を通じてのコミュニケーションについて端的に言う。



発音よりも発言

文法よりも論法
 

(16ページ)



その「発言」「論法」は、例えば"why?", "so what?", "what if?", "why not?"で議論を吟味することだと著者は言う(178ページ)。「発言」「論法」がこれで尽きるとは思わないが、コミュニケーションの重要点を理解しておくことは大切だ。この理解がないと、上のスローガンも次のように変わる。



発音は適当でいい。

文法はいらない。



「発言」「論法」を教えずに、それらより当面の重要度は低いとされた発音や文法もいいかげんにしか教えないから、生徒の発音は他の英語話者に通じないものになる。文法も複雑なことを表現どころか理解もできないようなものにしかならない。これはもはや英語の教育でも言語の教育でもない。世間をごまかす時間つぶしである。

このような授業が「コミュニケーション」のスローガンのもとになされるなら、反対派が出てくるのは当然である。しかしその反対派が、もし自らコミュニケーションの経験が乏しい者であれば、文法教育は自己目的化した「受験英語」タイプに舞い戻ってしまう。生徒に理解させ活用させることより、教師が説明することに懸命になる。原則より、細部の例外に拘る。かくして生徒は簡単な英語も使えないままとなる。

自分自身のコミュニケーション経験が乏しい者が妙な劣等感(およびその裏返しの優越感)に絡み取られると「英語マニア」になる。自ら英語を使って何かを成し遂げるよりはるかに多くの時間を他人の英語の粗探しに費やす。ねちねちと日本語で他人の英語についての論評ばかりをする。そうして他人を英語使用を極度に怖がったり嫌ったりする「英語フォビア」に変えてしまう。


本書はビジネスの現場で英語コミュニケーションを重ねてきた著者が、日本にはびこる「英語マニア」や「英語フォビア」の認識を打ち破り、より多くの日本人にもっと英語を使って活躍してもらうために書かれた本だ。

人としての「発言」、議論の「論法」を重視したコミュニケーションを重ねてゆけば、その深まりに応じて発音も文法も大切になってゆく。優先度からすれば昔日の「受験英語」時代の文法重視はやりすぎだった。しかし近年多く見られる(「発言」も「論法」も考えず)ただベラベラといいかげんな発音の英語まがいの音で、ダラダラと文法もほとんど必要としないような中身のないことばかりを話させることは「産湯と共に赤子も捨てる」ことに他ならない。

自ら英語コミュニケーション経験が乏しい英語教師は、まずは本書のような本を読んで認識を改めるべきかもしれない。いや、それよりもとにかく自ら英語を使おう。新刊の『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』「ネットワーク感覚を身につける」の章にまとめたし、このブログのICT関連記事でも再三再四書いている方法を使えば、短時間でもかなりの学びができるはずだ。

少なくとも若い世代の英語教師は、自ら英語コミュニケーションの経験を深めて、「文法かコミュニケーションか」といった不毛な二項対立に絡め取られないでほしい。


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2011年8月22日月曜日

翻訳家・山岡洋一先生のご冥福をお祈り致します

購読しているメールマガジンから、翻訳家の山岡洋一先生がお亡くなりになったとの一報が流れてきました。8/20(土)未明の心筋梗塞による急逝(享年62歳)とのことです。

私は翻訳界の人間ではありませんが、山岡洋一先生は、日本で最も尊敬されていた翻訳家のお一人であったことは、先生のお仕事と文章、そしてお人柄、および様々な方の証言から、確信しております。

と言いましても、私が山岡洋一先生のことを知ったのはほんの最近で、翻訳のことを調べているうちに、山岡洋一先生の




を知り、その質の高さと、長年の積み重ねに驚き、英語教育界の方々にもぜひ山岡洋一先生のことを知っていただこうと、このブログでも



という記事も書いたりしておりました。

先生のお話を直接聴ける機会があることを知り、そのセミナーに参加(「翻訳通信」100号記念関西 セミナー)して、懇親会にも参加させていただきましたら、初対面にもかかわらず先生には、率直、真摯に、かつ丁寧にお話しして頂きました。その態度は、懇親会に参加していらした全員に別け隔てなく示されていたもので、私は本当に優れた業績を残す方というのは人格的にも素晴らしいのだなと感銘を受けました。(今からすると、先生の語り口や仕草に直に接することができたのは本当に幸運だったと思わずにいられません。先生の立ち居振る舞いは今でも鮮明に覚えています。)

その後も山岡洋一先生は、精力的にお仕事をなさり、かつ毎月一日には「翻訳通信」を発刊され、私なども大いに学ばせていいただいておりました。

また「日経ビジネス」に掲載された



は上記の「翻訳通信」のエッセンスを凝縮したとも言えるもので、これだけを読んでも、山岡洋一先生がどれだけ広く深く翻訳というものを考え実践なさっていたのかがわかるかと思います。


私を含め、多くの人間が、そんな山岡洋一先生が、いつまでもお元気に活躍されて、私達を引っ張っていってくださることを当然のように思い込んでいたはずです。近代日本を作った翻訳のこれからをさらに考え、日本の翻訳界・出版界の未来を切り開くことは、山岡洋一先生がいらしてくれるなら可能だと思っていたはずです。そこへ突然の訃報で、私も大きな喪失感を覚えています。ご家族やご友人の皆様のお悲しみなどはいかばかりかと思わざるを得ません。


ここに山岡洋一先生のご冥福をお祈りさせていただきます。





追記

先生の代表作の一つは『国富論(上)』『国富論 (下)』です。私は、この古典を山岡洋一先生の日本語で読めるのならと購入しましたが、まだ未読といったていたらくです。いつか時間を見つけて、山岡洋一先生を偲んでこの本を読みたいと思います。


追追記

翻訳家のブログ"Buckeye the Translator"に山岡洋一先生を追悼する以下のような記述がありました。私もまったく同感です。


実力派でテキトーな翻訳をきらい、このブログのカラムで紹介している『翻訳とは何か―職業としての翻訳』など、翻訳を支えているのは翻訳者だと舌鋒鋭く論を展開されるので、文章を読んでいるとどんな怖い人かと思うのですが、実際に会ってみると、はにかんだような笑い方が印象的で、むしろ人前にあまり出たがらない、そんな方でした。

翻訳通信を出す(昨年は100号記念講演会があった)、ノンフィクション出版翻訳忘年会を毎年開催するなど、お金にならないことでも後進や業界のためになることをいろいろとされていた方で、まだまだ、業界の灯台として多くの後進の行くべき道を照らしていただけると思っていたのですが。
http://buckeye.way-nifty.com/translator/2011/08/post-af79.html




2011年8月18日木曜日

学会口頭発表:「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」のスライド

山形大学で2011年8月20日(土)-21日(日)に開催される第37回全国英語教育学会の第6室(133) - 21日(日)10時20分-50分で、口頭発表する発表のスライドとハンドアウトをここに掲載します。ご興味のある方はダウンロードしてください。







研究の概要は以下のとおりです。


■背景:質的研究やリフレクションは英語教育界でもだんだん受容されてきたが、その理論的理解はまだ十分でない。

■定義:本研究は「リフレクション」を、ルーマンに倣って「自己観察と自己記述」と定義してリフレクションひいては質的研究についての探究を深める。

■目的:(1)理論的には、自己観察と自己記述の自己言及性に着目し、意識とコミュニケーションの「オートポイエーシス」(自己組織化・自己再生産)、および意識とコミュニケーションのインターフェイス(「構造的カップリング」)形式としての言語の解明を行う。(2)実証的には、言語教師志望者の自己観察・自己記述およびそれの二次的観察・記述のデータを得て、そのデータを基に(1)で述べた理論的見解の妥当性を検討する。

■方法:(1)理論的にはルーマンの『社会の社会』の枠組みを主に使う。(2)実証的にはWebCTシステムに8週間にわたって蓄積された言語教師志望者14名の文章をデータとして用いる。

■意義:この研究は、これまでの応用言語学が十分に開拓していない ―複雑性を援用した研究でも十分に扱っていない― 自己言及性を前面に出す独自性をもち、かつ実際のデータも使うところに意義を有する。

■結論:言語は意識とコミュニケーションのそれぞれの自己言及、および両者のインターフェイスにとっての重要な形式であることがデータからも確かめられた。言語による自己観察と自己記述は個人と共同体の可能性を広げるものであること、さらには「本当の自分」といった確定はできないこともデータから裏付けられた。



アウトラインは以下の通りです。

1 序論
1.1 背景
1.2 先行研究
1.3 問題
1.4 意義
1.5 方法
1.6 免責


2 理論的解明
2.1 観察自体の盲点性
2.2 自己の不確定性
2.3 二次的観察の複数性・多元性
2.4 伝統的認識論が扱い難い自己言及性
2.4 自己言及によるオートポイエーシス
2.5 オートポイエーシスの回帰的安定


3 データ収集の方法
3.1 プロジェクトの概要
3.2 理論的導入
3.3 書記言語による自己記述(5週間)の方法
3.4 音声言語によるグループでの二次的観察・記述(3週間)の方法
3.5 データ整理の方法


4 データ解釈の結果
4.1 意識システム
4.1.1 自己観察
a) 促進される自己観察
b) 昔のことは書きやすい
c) 最近のこと(大学時代)は書きにくい

4.1.2 自己の「固有値」
a) 自分の枠組みの自覚
b) 「固有値」への固着
c) 「固有値」からの解放

4.1.3 オートポイエーシス
a) 現在の私に受け入れられやすいように自分を再編成
b) 創られる自分
c) 観察・記述された自分に戸惑う
d) 自己観察・記述による自分の探究
e) 観察対象の自己と観察者の自己の変容

4.1.4書記言語でのオートポイエーシス
a) 自己の発見
b) 自己の編集
c) 自己の創作
d) 自己への違和感
e) 二次的観察による発見

4.2 言語
4.2.1 メモ言語とコミュニケーション書記言語
a) 一般的な困難性
b) 書記言語としての特徴:文体による修飾、文体選択

4.2.2 書記言語と音声言語
a) 書記言語の間接性と音声言語の直接性
b) 書記言語の残存性と音声言語の消散性
c) 書記言語の集中性と音声言語の拡散性

4.2.3 第二言語での表現
a) 言語化の困難性
b) 言語表現の自覚
c) 強制なしでの正確性の追求
d) 第二言語の異文化性

4.3 コミュニケーションシステム
4.3.1 コミュニケーションを通じての意識システムのオートポイエーシス
a) 関係性の中での意識システム
b) 関係性の中での意識システムのオートポイエーシス
c) 関係性認識の違い

4.3.2 言語コミュニケーションのオートポイエーシス
a) コミュニケーションの中からのオートポイエーシス
b) コミュニケーションシステムから逃れられないコミュニケーション


5 結論
5.1 研究課題への答え
5.2 発展的考察
5.3 実践的示唆
5.4 本研究への批判と応答
5.5 今後の課題





意識・言語・コミュニケーションの関係図は以下の通りです。





追記 (2011/08/22)

学会口頭発表を録音した音声ファイルをアップロードしました。ご興味のある方は聞いてやってください。お聞きになる際は、発表に使ったパワーポイントスライドを見ると多少はわかりやすいかと思います。






参考記事

言語文化教育プロジェクト (2011年度)

ルーマンによる「観察」「記述」「主体」の概念

その他のルーマンに関する柳瀬ブログの記事




2011年8月17日水曜日

近日発刊予定 『成長する英語教師をめざして ― 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』(ひつじ書房)



この4月から教壇に立った卒業生の一人に先日偶然会った。お互い先を急ぐ用事があったので、短い時間しか話ができなかったが、何とか元気そうだったので、それが何よりだと思ったし、彼にもそう言った。

学生生活から社会人生活への変化というのはものすごいものだ。学生時代は、気に入った同年代友人とだけ気楽に話をしていればよい。授業は単位を取りさえすれば十分で、疲れたら休めばいいだけの話だ。だが社会人生活はそうはいかない。つきあうのは、年上ばかりの教員集団で、その年長者は新人にとっては意味不明の仕事言葉ばかりを話す。授業は生徒を席につかせることから始まり、私語をする者、眠る者、つまんないと公言する者の相手をすることになる。どんなに疲れても休むことは許されない。

黒板を前に見て座っていた学生時代と、黒板を後ろにして立たなければならない教師時代の違いは大きい。まあ、金(授業料)を払う方から、金(給料)をもらう方に変わったのだから仕方ないといえばそれまでなのだが、それにしても予想以上に・・・と多くの新任者は思う。


John Lennonは"Nobody Told Me"で、ちょっとおどけたような調子で次のように歌う。


Nobody told me there'd be days like these

Nobody told me there'd be days like these

Nobody told me there'd be days like these

Strange days indeed

Most peculiar, Mama.





John Lennon- Nobody Told Me (Lyrics)


人生の思わぬ展開に驚くことから人間が逃れることはできないだろうから、私たちは「誰も教えてくれなかったよなぁ・・・」と人生の折々に言うはめになる。しかし、そんな時でもせめてこのJohnのように、どこか余裕を保っていたい。

Johnのように自らを冷静にユーモアをもって見つめるためには、日頃から人々の声に耳を傾けている必要がある。実は人々は自らの人生を折々に語っている。その語りを丁寧に拾っていれば、本当はかなりのことを学べる。そうやって学んでおけば、人生もそれほど驚きの連続とならず、平静を保つことができる。時に避けがたい思わぬ出来事に遭遇してもパニックに陥らないで済む。

だが人々が語り教えてくれる機会に、なかなか遭遇できない。人々は忙しすぎるし、多くの現代人は気のおけない談笑という文化を失ってしまった。語りを聞いておくべき若い人はたくさんいる。ぜひ聞きたいと強く願う若い人もいる。語っておきたいと思っている年長者もいる。しかしそれらの人々が語りを共有する場がなかなかない。



ひつじ書房からこの8月の後半に発刊される『成長する英語教師をめざして ― 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』は、さまざまな学校種・環境・年齢で活躍(そして苦労)する教師24名の声を集めたものです。ぜひ若い世代の英語教師・英語教師予備軍に読んでいただきたいと編者(組田幸一郎さん、奥住桂さん、そして私)は願っています。

この本は8/20-21に開催される全国英語教育学会 山形研究大会のひつじ書房出展ブースでも展示される予定です。よかったらその時にでも手にとって下さい。

アマゾンなどでの取り扱いが始まりましたらまたお知らせします。

というわけで宣伝でした(笑)。

2011年8月14日日曜日

ルーマンによる「観察」「記述」「主体」の概念

以前のルーマン『社会の社会 1』のまとめと、『社会の社会 2』のまとめでは省略していた、「自己観察」、「自己記述」、そして「主体」といった概念の整理が、本年度の「言語文化教育プロジェクト」をまとめて研究発表するために必要になったので、ここに慌てて整理ノートを作りました。

自己観察・自己記述は、そのまま「リフレクション」に大きく重なります。リフレクションは教師の成長に役立つというのは『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』などで実例が上げられているとおりですが、自己観察・自己記述あるいはリフレクションをやりさえすればいいというのでもないでしょう。現実にはメンターなどがうまく教師の自己観察・自己記述を誘導するでしょうが、その成功もメンターの試行錯誤や直観だけに頼るのではなく、自己観察・自己記述の理論にも依拠すべきだと私は考えます。ルーマンの最後の大作『社会の社会』は自己観察・自己記述をテーマとする本と言ってもいいぐらいですから、今回、私なりにルーマンの論考を整理しようとしてみました。


しかしルーマンはやはり難しく、なかなか「わかった」という心底からの実感がわきません。武術の型と同じように、何度も何度も丁寧に読んで、ルーマンのの意味するところを身体レベルでわからないと、ルーマン的な考えができるようにはならないのでしょう。少なくとも、私がウィトゲンシュタインやアレントを読んだくらいには、ルーマンも繰り返し読まねばと思います(というより、読みたいです。なぜならルーマンは、新しい世界を切り開き、これまでの私には見えなかったものを見えるようにしてくれるからです)。

以下、自己観察・自己記述に関する記述で気になった箇所を翻訳書(『社会の社会 1』『社会の社会 2』)および原著)からそのまま引用し(注)、それに私の蛇足を付け加えます。ルーマンの専門家からすれば噴飯物でしょうが、私は自らの理解を形にしてそれをよくよく見てみなければ(自己観察!)自分の誤解がわからないので、このように形にしてみる次第です。



■観察とは、あるものを際立たせることである。

ルーマンのいう「観察」(Beobachten)とは、この世界から何かを切り取り、それを際立たせること(「区別と指し示し」)とまとめられるかと思います。


観察するということが意味するのは、「区別することと指し示すこと」だけである(本書の以下の部分では、観察概念を一貫してこの意味で用いる)。(1, p. 64)

Beobachten heißt einfach (und so werden wir den Begriff im Folgenden durchweg verwenden): Unterscheiden und Bezeichen. (1, p. 69)




■観察において、自分の観察自体は盲点となる。しかしその観察こそが自己を成立させている。

しかし、観察において何かを切り取り際立たせると、その観察からこぼれ落ちてしまったものはわからなくなります。ということは、観察をしている観察者は、自分が行っている観察の全体像を見ることができないと言えるでしょう。しかしその観察こそが、観察者という自己を成立させているわけです。


観察にとって重要なのは、ヘーゲルの言う意味で弁証法的に[すなわち、自己の中に対立するものを包摂し統一するというように]ふるまわないことである。というのは、観察は観察としての自分自身を、観察されるものから排除しなければならないからである。そこでは観察者は、どんな区別を用いているかにかかわらず、排除された第三項となる。しかし観察者自身の作動のリアリティをオートポイエーシスによって保証してくれるのは当の観察者なのであり、観察者だけなのである。さらに同時性という様式において世界として前提とされねばならないものすべての現実性に関しても、やはり観察者だけが保証してくれるのである。(1, p. 192)

Sie darf gerade nicht, im Sinne Hegels, dialektisch verfahren, sondern sie muß sich selbst als Beobachtung aus dem, was sie beobachtet, ausschließen. Dabei wird der Beobachter, gleichglütig welche Unterscheidung er verwendet, zum ausgeschlossenen Dritten. Aber gerade er, er allein, gerantiert doch mit seiner Autopoiesis die Realität seiner eigenen Operationen und damit die Realität all dessen, was dabei im Modus der Gleichzeitigkeit als Welt vorausgesetzt sein muß! (1, p. 178)




■自己観察と自己記述は、自己言及的であり、論理的に扱いづらい。

それではその自分の観察をよく観察しましょうか。

自分の行う観察を観察すること(自己観察)、およびその自己観察を言語化すること(自己記述)は、自分が自分を観察・記述するという構図であり、観察・記述の主体が、観察・記述の対象(客体)であるという事態となっています。ここに一筋縄ではいかない問題がありそうです。


自分自身を記述し、自分自身の記述を含むシステムという構想によって、われわれは論理的に扱いづらい地点へと足を踏み入れることになる。(1, p. xi)

Mit dem Konzept des sich selbst beschreibenden, seine eigenen Beschreibungen enthaltenden Systems geraten wir auf ein logisch intraktables Terrain. (1, p. 15)




■旧来の認識論:主体と客体の峻別と両者の不変性

しかし、伝統的な認識論は、自己観察・自己記述の困難を正面から取り上げようとはしません。なぜなら伝統的認識論は、認識する主体と認識される客体を峻別することを前提としているからです。認識の際にきちんとした方法を取る限りにおいて、主体は誰であろうとも、客体を同じように認識できると想定します。方法論に従っている限り主体は同じであり、主体の認識によって客体が変化するなどとは想定していません。


われわれが(本書においても)さしあたり無反省に従っている西洋の伝統においては、自己記述とは認知(Kognition)であると把握されるのが自然である。そこでは認識する主体と認識される客体とが区別され、分離されているということが前提となる。そしてまた、認知は特別な規則に服するのであり、そうすることによって個々の主体の特性や先入見が影響を及ぼすのが妨げられるはずであるという点も同様である。さらに客体(ここでは、全体社会)が、認識されるという手続きの中で変化することはないという点も前提となる。認識は、主体の側で間主観的な確かさを追求すると同時に、安定した客体を前提としているのである。(2, p. 1164)

In der abendländischen Tradition, der wir (auch in diesem Buch) zunächst unreflektiert folgen, liegt es nahe, Selbstbeschreibung als Kognition aufzufassen. Das setzt voraus, daß das erkennende Subjekt und das erkannte Objekt sich unterscheiden und trennen lassen, daß die Eigenarten und Vorurteile der einzelenen Subjekte sich auswirken, und daß das Objekt (in unserem Falle: die Gesellschaft) sich nicht dadurch ändert, daß es einem Verfahren des Erkanntwerdens ausgesetzt wird. Die Erkenntnis sucht intersubjektive Gewißheit auf der Seite des Subjekts und setzt stabile Objekte voraus. (2, p. 867)




■主体は確固たる実体ではなく、認識と行為の際の基盤として成立しているにすぎない。

ですが、現代のシステム理論によるならば、私たちはオートポイエーシスシステム、つまり自分を基盤にして(=自己言及的に)、自分を再生産(=自己組織化)しているシステムであり、認識や行為をする度に自分自身が変容してゆきます(常識的に考えても、経験は私たちを変えてゆきます。経験により一切変わらない自分というのは少なくとも私には考えがたいです)。私たちは、認識や行為などの経験により自分を創り出しています。経験こそは自分であり、そこでは経験する主体と経験の対象である客体の峻別など想定しにくいものです(そもそも東洋では主客の峻別をあまり行わない認識を行っていましたが、西洋近代の教育を受けた私たちの多くは、むしろ主客は峻別されることこそが当たり前だと考えるようになっています)。



主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(2, p.1166)

Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (2, p. 868)




■認識や行為などを欠いた純粋な自己は自存せず、自己は認識や行為においてそれらの基盤として想定される。

「本当の自分」(自己)などという言葉はしばしば使われますが、誰もそれを把握できません。私という人間があるからには、「本当の自分」(自己)なるものがあるはずですが、私たちが日常的に経験するのは、自らの認識や行為だけであり、「自己」とは、認識や行為がある限りあるはずのものだと私たちが考えているものです。ここでは詳述する準備がありませんが、木村敏氏(総括的な書として『精神医学から臨床哲学へ』などを参照)もこのような自己論を展開していると私は理解しています ― 木村敏氏の著作は約2年前に集中的に読んだのですが、まとめる機会を逃して現在に至っています。認識や行為により自己は同定されると言えましょうか。



したがって意識の理論を引き合いに出して、「自己言及的に作動することにより基準なしに自己同定がなされる」と述べてもよい。(2, p. 1167)

Im Anschluß an die Bewußtseinstheorie kann man daher auch von kriterienloser Selbstidentifizierung des selbstreferentiellen Operierens sprechen. (2, p. 869)




■作動する自己は、意識されない自己を含むものであり、自己は自らの全体像を自己観察・自己記述することはできない。

認識や行為から離れた純粋な自己は想定し難くとも、認識や行為において作動する自己は想定できるものでした。いや、想定できるというより、何かを認識したり、何かを行ったりする時、私たちは意識的であり、その意識こそは生き生きとした自分として経験されます。

しかし意識は自己のすべてではありません。フロイトらのいう無意識、神経科学が解明する非意識なども自己を構成しています(そしてこれらの研究は、無意識や非意識が私たちの認識や行為を大きく決定していることを教えています)。

ですから、私たちが自らの意識を観察し、それを記述しても、それは意識という自己を観察・記述した限りにおいては正統な自己観察・自己記述でしょうが、無意識・非意識を観察・記述できていないという点では、正統な自己観察・自己記述とは言えません。やはり自己観察・自己記述は一筋縄ではいかないようです。



主体は意識的に作動する。しかしそうしうるためには無意識の基礎が必要である。この基礎が、意識されえないものすべてを引き受けねばならないのである。ふたつの側からなるこの形式そのものが、われわれが「自己記述」という表題のもとで取り組むことになる問題への反応でもある。自己記述とはすなわち、何かを指し示し他のものを指し示さないでおくということに他ならない。自己記述は自分自身を正統化すると同時に、脱正統化しもする。(2, p. 1169)

Es [=Das Subjekt] operiert bewußt, braucht aber, um dies tun zu können, eine unbewußte Grundlage, die all das aufnimmt, was nicht bewußt werden kann. Diese Zwei-Seiten-Form reagiert beteites genau auf das Problem, das uns unter dem Stichwort Selbstbeschreibung beschäftigen soll. Eine Selbstbeschreibung kann gar nicht anders als: etwas bezeichnen und anderes im Unbezeichneten belassen. Sie legitmiert und delegitimiert sich selbst in einem Zuge. (2, p. 871)




■自己観察・自己記述の自己言及性が、自己を変容させる。

自己が自己を観察・記述しようとします。しかし観察・記述される自己は、観察・記述する自己でもあり、観察・記述する自己は、その対象であるはずの観察・記述される自己の中に自ら入り込んでしまっています。逆に、観察・記述する自己は、自らを観察・記述している以上、観察・記述された自己が、観察・記述する自分自身に入り込んでしまっています。このあたりの自己言及のややこしさはエッシャーの絵がうまくイメージを表現してくれています(参考:ホフスタッターHofstadter)。



自己観察の場合と同様に自己記述(テクストの作成)も、システムの個々の作動である。そもそも記述と記述されるものにおいて問題になっているのは、ふたつの分離した、外的にのみ結びつけられうる事態なのではない。自己記述において記述は常に、記述されるものの一部である。記述が登場し観察に晒されることだけからしてすでに、記述されるものを変容せしめることになる。(2, p. 1182)

Ebenso wie Selbstbeobachtungen sind auch Selbstbeschreibungen (Anfertigen von Texten) Einzeloperationen des Systems. Überhaupt handelt es sich bei Beschreibung und Beschribenem nicht um zwein getrennte, nur äußerlich verknüpfte Sachverhalte; sondern bei einer Selbstbeschreibung ist die Beschreibung immer ein Teil dessen, was sie beschreibt, und ändert es allein schon dadurch, daß sie auftritt und sich der Beobachtung aussetzt. (2, p. 884)




■「自分らしさ」は絶対的な客観性ではなく、自己観察・自己記述の回帰的安定

「『自己観察・自己記述が自己を変容させる』とはいえ、安定した自己イメージを私たちの多くは持っているではないか」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。「安定した自己イメージは、真の自己を捉えたものだ」とも仰るかもしれません。

しかし観察・記述といった作動そのものが自己言及的である以上、私たちは自ら(主体)とは独立分離した客体の存在、およびその客体の観察・記述を考えることができません(私は屁理屈を言っているわけではありません。同じ物理世界に住んでいるはずの人間と犬の認識は大きく違います。同じ人間の間でも認識が異なることは私たちが日常的に経験していることです ― もっとも自然科学は機械的な測定を共通のモノサシとする方法論で認識を統一させようとしていますが、機械的測定ができない人間的な認識において私たちの認識が大きく異なることは周知の通りで、だからこそ質的研究を嫌う研究者も多いわけです)。

ですから、自らとは異なる他者の観察・記述(観察・記述の自己言及性を考え「他己観察・他己記述」と表現することもできます)よりも困難な自己観察・自己記述において、仮に安定した自己像が出てきたとしても、それは真の客体(としての自己)の姿を捉えたとは考えられません。自己観察・自己記述の自己言及が回帰的に繰り返される中で、ある種のパターンに落ち着いてきたと言うべきでしょう。ですからそれは真の自己像というより、自らの観察・記述の癖あるいは特徴です。


さらに加えて、自己観察と自己記述が事実的にコミュニケーションとして実行されるたびに必ず、まさにそのように作動することを観察し記述する可能性が与えられもする。システムは、リアルに作動すること以外は何もなしえない。それゆえにあらゆる自己観察と自己記述もまた、不可避的に観察と記述に晒されるのである。あらゆるコミュニケーションは、それ自体コミュニケーションのテーマとなりうる。だがこれはすなわち、肯定的ないし否定的にコミュニケートされること、受容ないし拒絶されうることを意味している。したがって相対的に安定した自己記述が形成されるのは単に、所与の客体に説得力あるかたちで到達するという形式においてではなく、その種の記述を回帰的に観察し記述することの帰結としてである。数学的サイバネティクスではその種の帰結はシステムの《固有値》とも呼ばれている。(2, p. 1186)

Außerdem ist mit dem faktisch-kommunikativen Vollzug aller Selbstbeobachtungen und Selbstbeschreibungen die Beobachtbarkeit und Beschreibbarkeit eben dieses Operierens gegeben. Das System kann ja nicht anders als real operieren. Jede Selbstbeobachtung und jede Selbstbeschreibung setzt sich daher umvermeidbar ihrerseits der Beobachtung und Beschreibung aus. Jede Kommunication kann ihrerseits Thema einer Kommunikation werden. Das heißt aber daß sie positiv oder negativ kommentiert, daß sie angenommen oder abgelehnt werden kann. Relativ stabile Selbstbeschreibungen bilden sich daher nicht einfach in der Form des überzeugenden Zugriffs auf ein gegebenes Objekt, sondern als Resultat eines rekursiven Beobachtens und Beschreibens solcher Beschreibungen aus. In der mathematischen Kybernetik nennt man ein solches Resultat auch einen »Eigenwert« des Systems. (2, p. 888)


この自己観察・自己記述の癖あるいは特徴を知ることができれば、つまりは自己観察・自己記述をさらに自己観察・自己記述できれば、私たちはさらに自らの異なる側面を知ることができます。「自己」とは、自らから独立分離した客体ではない以上 ― そもそもシステム理論的には客体は考えられない以上 ― 、自己観察・自己記述という自己理解に終わりはありません。最終的な正解がないからです。とはいえ、さらなる自己観察・自己記述を促すような興味深い自己観察・自己記述はあるでしょう。そのような自己観察・自己記述を行うためには、自己観察・自己記述を停滞させる自らの自己観察・自己記述の癖に気づくべきかもしれません。

いや結論を急ぐべきではないでしょう。私たちは、もう少し丁寧に、自己観察・自己記述(ということはリフレクション)について理論的に考えるべきだと私は考えます。またその理論の妥当性を検討するため、実際のデータと付きあわせるべきだと思います。冒頭に述べた研究発表では、そのような理論的考察とデータとのすり合わせを行いたいと考えています。



(注)
ドイツ語の原文を引用したのは、私がドイツ語が読めるからではなく、読めないからです。私のドイツ語の力は、出来の悪い高校1年生の英語力ぐらいですが、ウィトゲンシュタインやアレントと違って、ルーマンには英訳があまりありませんから、日本語訳かドイツ語原文をきちんと読まなければなりません。これまで日本語中心で読んできましたので、今回、少しでもその事態を改善すべく、ドイツ語を引用しました。

しかし恥ずかしながら文法構造で明解にわからないところはありますし、何より引用するだけで多くの間違いをして非常に時間がかかってしまいました(今もきっと間違いは残っていることだろうと思います。私は英語ですらスペルチェッカーがないと多く間違いをしてしまう人間ですから)。タイプするのに非常に時間がかかり、時に行を飛ばしてタイプしていたのには自分でも嫌になりました。

私が大学院時代にきちんとドイツ語を勉強しておくべきだったという個人的反省はつきませんが、語学教師として面白かったことは、英語の劣等生の気持ちが再認識できたことです(私はドイツ語をやり直す度にこの認識を得ています)。この経験は英語教師としての私の力量にプラスに働くと思っています。

個人的考えをさらに書きますと、私は英語教員の研修は、もっと実技系を重視するべきと考えます。もちろん日本語で理論をつめることは大切です(私は理論の大切さを訴える点で人後に落ちません)。しかし研修で、小難しい理屈などばかりが日本語で詰め込まれている様子を聞いたりすると、研修にはもっと実技が入った方がいいのではないかと思わざるを得ません。英語力の低下を日頃感じている教員には英語そのものの研修を、英語力はある程度ある教員には第二外国語の研修を提供すれば、それは前者には教育内容の、後者には教育方法のいい研修となるのではないかと思います。

繰り返すようですが、外国語習得は知的な技芸習得です。自ら外国語学習・外国語使用をあまりしないで、日本語ばかりで理屈を言っても仕方ないと私は考えています。技芸を極めれば、理屈はついてきます。逆に、技芸を極めない者の理屈は屁理屈であることが多いので、このようなことを言挙げする次第です。

2011年8月13日土曜日

学習英文法の歴史的分析および理論的分析 ― 9.10学習英文法シンポジウムのために




9月10日の慶應義塾大学英語教育/言語教育シンポジウムのハンドブック原稿がダウンロードできるようになりました。

以下は、上記でダウンロードできるハンドブックの論点を私なりに整理したスライドです。ご興味のある方はダウンロードしてください。




シンポジウムで私は司会をしますので、自らの主な任務は他の登壇者の良さを活かすことだと認識しています。とはいえ、私は「言いたがり」なので、現時点で私が以上の資料を見て考えたことをまとめておきました。このようにして自分の考えを言語化していれば、当日私はあまり自らの意見を発言しなくてもすむだろう(あるいは発言するにしても短い時間で表現できるだろう)と考えて、まとめました。

まとめは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のスタイルに倣って(笑)、桁数で命題の重要度を示すようにしました。1桁命題が最も重要な命題です。2桁命題はそれぞれの1桁命題の補注であり、3桁命題はそれぞれの2桁命題の補注である、といったように書きました。(ちなみにこのような書き方をするのに、私はWZ Editorを愛用しています。Microsoft社のWordのアウトライン機能は非常に使いにくいです。)


以下、全体の要旨・構造を理解するために、最初に2桁命題までを掲載した版を載せ、次にすべての命題を掲載した版を載せます。



学習英文法の歴史的分析および理論的分析(1-2桁命題版)


1 歴史的分析:有効な手段であったが日本の学習英文法は、やがて自己目的化・制度化され、理論的解明のないままに放置されている。

1.1 日本の学習英文法は、母語話者向けの規範文法に改良を加えて開発された。

1.2 学習英文法は、英語読解などの力を育成するためのものであった。

1.3 1890年代頃から、英文法が入試問題として出題され、手段であった英文法が自己目的化し、次第に重箱の隅をつつくような英文法問題が出題されるようになった。

1.4 1900年代頃から、英文法を意識するから英語が話せないという英文法排撃論や、すべてを英語で教授するナチュラルメソッドの紹介が始まった。

1.5 英文法への批判と擁護という図式がこれ以降変わらずに続いたのは、英語教育の理論的解明がほとんど進まなかったことを示唆している。

2 理論的分析:学習英文法は英文法を体得(embody)させるための道具であり、英語コミュニケーション力育成のための必要条件ではあるが十分条件ではない。

2.1 学習英文法とは英文法を体得するための道具である。

2.2 英文法の体得とは英語コミュニケーション力の必要条件である。

2.3 英語コミュニケーション力の育成は、英文法の体得だけでなく、体得された英文法を状況に即して活用するコミュニケーションを必要とする。

3 結論:学習英文法は、歴史的分析と理論的分析に基づいて再構築されなければならない。

3.1 歴史的分析に基づく再構築とは、学習英文法が体得のための手段であることを認識し、学習英文法を自己目的化しないことである。

3.2 理論的分析に基づく再構築とは、英文法の体得のための英文法は、英語コミュニケーション力育成のための一部に過ぎないことを理解して教育活動を構成することである。




学習英文法の歴史的分析および理論的分析(全命題版)


1 歴史的分析:有効な手段であったが日本の学習英文法は、やがて自己目的化・制度化され、理論的解明のないままに放置されている。

1.1 日本の学習英文法は、母語話者向けの規範文法に改良を加えて開発された。
1.1.1 日本の学習英文法には、英米の規範文法にはない、日本人学習者のための困難点が詳述された。
1.2 学習英文法は、英語読解などの力を育成するためのものであった。
1.3 1890年代頃から、英文法が入試問題として出題され、手段であった英文法が自己目的化し、次第に重箱の隅をつつくような英文法問題が出題されるようになった。
1.3.1 入試は重要な社会的選抜であり、そのために英文法問題の対策が制度化されていった。
1.4 1900年代頃から、英文法を意識するから英語が話せないという英文法排撃論や、すべてを英語で教授するナチュラルメソッドの紹介が始まった。
1.5 英文法への批判と擁護という図式がこれ以降変わらずに続いたのは、英語教育の理論的解明がほとんど進まなかったことを示唆している。
1.5.1 臨教審第二次答申(1986年)でいわゆる「コミュニケーション」重視路線が定まったが、これは学習英文法についてもコミュニケーションについても理論を欠く決定であった。
1.5.2 英語学力の1990年代中頃からの低下はさまざまな形で報告されているが、理論的理解のない改革ばかりが横行している。

2 理論的分析:学習英文法は英文法を体得(embody)させるための道具であり、英語コミュニケーション力育成のための必要条件ではあるが十分条件ではない。

2.1 学習英文法とは英文法を体得するための道具である。
2.1.1 英文法とは、英語を構成する原理であり、この原理から著しく逸脱した表現は、いくら英単語が多く使われていても英語とは認識されない。
2.1.2 体得とは、原理を身体的に理解し、随時原理にかなった行為が自らできるようになることである。
2.1.3 道具とは、目的のための便宜であり、目的のために使用されることを本義とする。
2.1.3.1 道具は、使用者のレベルや状況に合わせて選択されるべきであり、万人にとっての唯一の道具が常にあるとは考えるべきではない。
2.1.3.2 道具は、使用者がその使用のために払う労力と、その使用から得られる便益とのバランスから決定されるべきである。
2.2 英文法の体得とは英語コミュニケーション力の必要条件である。
2.2.1 英語コミュニケーションとは、コミュニケーションの一例であり、人々が英語と認識する言語を主要媒体として達成されるコミュニケーションである。
2.2.2 英語コミュニケーションを行うためには、英文法の体得が必要ではあるが、英文法の体得だけで英語コミュニケーションが十分に行われることはない。
2.2.2.1 学んだ英文法の原理に基づいて、英語表現を構成する練習は、英文法体得の一側面ではあるが、それは英語コミュニケーションではない。
2.3 英語コミュニケーション力の育成は、英文法の体得だけでなく、体得された英文法を状況に即して活用するコミュニケーションを必要とする。
2.3.1 体得された英文法のないコミュニケーションは英語コミュニケーションではなく、コミュニケーションのない英文法体得だけでは実世界での十分な英語使用たりえない。
2.3.2 「活用」とはWiddowson(1983)のいうところの"Capacity"であり、Bachman (2010)の主張の再表現である"Language Ability = Language Knowledge x Strategic Competence"での"Strategic Competence"である。
2.3.3 空手の類例を上げるなら、「空手は型と組手で練成する。型なき組手は空手ではなく、組手なき型では実際に戦えない」となる。
2.3.3.1 「フルコンタクト空手」は型を捨てて試合を重視し、ほとんど別物に変容した。
2.3.3.2 型の表演だけを競技化した形競技は、型の実践性を損ない、空手からも実戦からも離れたという批判がある。
2.3.3.3 空手の上達には、型による術理の徹底した体得と、組手による術理の臨機応変の活用の二つが必要である。

3 結論:学習英文法は、歴史的分析と理論的分析に基づいて再構築されなければならない。
3.1 歴史的分析に基づく再構築とは、学習英文法が体得のための手段であることを認識し、学習英文法を自己目的化しないことである。
3.1.1 学んだことはすべて客観的に測定されるべきであるという無思考的な近代イデオロギーは批判的に超克されなければならない。
3.1.2 学んだことのすべてが、誰からも同じように外から評価されるわけではない。
3.1.3 社会的選抜とは、近代学校制度が有する機能の一つであるが、そのための評価が強調されすぎると、学校本来の目的である学びが阻害されることを忘れてはならない。

3.2 理論的分析に基づく再構築とは、英文法の体得のための英文法は、英語コミュニケーション力育成のための一部に過ぎないことを理解して教育活動を構成することである。
3.2.1 教師は、体得とは何か、体得は外から評価できるのか、といったことに関して理解を深めなければならない。
3.2.1.1 体得とは、体得されるべき原理の記述の暗記でも再生産でもない。
3.2.1.2 素人からすれば外面上は原理にかなった行為に見えても、原理が体得されていないこともある。
3.2.2 教師は、英語コミュニケーション力について理解を深めなければならない。
3.2.2.1 英語コミュニケーション力は、便宜上、構成要素に分けることができるが、構成要素の単なる集計が英語コミュニケーション力を生み出すわけではない。
3.2.2.2 教師は、自らの外国語習得(英語以外も含む)や技芸習得を省察することにより、実践的な助言ができるようになるだろう。
3.2.2.2.1 しかしこの場合の習得とは、単純な量的努力(丸暗記・筋力増強)だけに基づくものではなく、「コツ」に基づく質的なものでなくてはならない。
3.2.2.3 何事においても、自ら知識や技能を習得していない者は、指導や評価を行ってはならない。




参考記事

田地野彰先生と田尻悟郎先生それぞれによる学習英文法書

Two EFL Pedagogical Grammar books by Akira TAJINO and Goro TAJIRI

言語コミュニケーション力論と英語授業(2010年度版)




2011年8月9日火曜日

NHKプレキソ英語7月号テキスト掲載記事


NHKのEテレ(教育テレビ)で放映中のプレキソ英語のテキスト(7月号)に拙稿を掲載させて頂きました。編集部のご厚意で、発刊から一ヶ月以上たった8月にはその原稿をこのブログに掲載してもよいという許しを得ましたので、ここに掲載させて頂きます。

この原稿は、大津由紀雄先生編集の『危機に立つ日本の英語教育』(2009年、慶應義塾大学出版会)に掲載させていただいた「学校英語教育の見通し ― 言語コミュニケーション力論・複言語主義・コミュニケーション論」の内容を思いっきり単純化してわかりやすく書いたものです。この見通しにより、NHKプレキソ英語の試みの位置づけができればと思いながら書きました。




プレキソ英語って、中学校の勉強につながるの?


■これって勉強?

 プレキソ英語をお楽しみの皆さんは、私と同じようにプレキソの自然な英語、アート感覚たっぷりのアニメーション、アニメと絶妙のコラボをなしている音楽をお楽しみのことと思います。でも皆さんの中には「楽しいのはいいんだけど、これで中学校からの英語の勉強につながるのかなぁ」とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。今日はこのことについて考えてみましょう。


■そもそも「英語の勉強」って何?

 世間では「英語は早く学ぶべき?」「コミュニケーションに文法はいらない?」「英語コミュニケーション能力を測るのにはどの試験が一番?」などの議論が終わりなく続いていますが、それもそのはず、これらの論者の多くは、「英語」「コミュニケーション」「能力」といった用語の定義をあいまいにしたまま、議論を続けています。「プレキソは中学校からの英語にどう役立つの?」という問いも、英語を使ったコミュニケーションの能力のどの側面に注目して語っているかに注意する必要があります。


■英語コミュニケーション能力の三つの側面

 それではプレキソが育成しているのは、「英語コミュニケーション能力」のどの側面でしょう。私は、英語を使ってコミュニケーションを行う力を、「身体」「相手の心を読む」「言語」の三つの側面の力の統合として考えています(詳しくは大津由紀雄編『危機に立つ日本の英語教育』慶応義塾大学出版会の中の拙稿をお読みください)。ポイントは、「言語」の力の基盤として、「身体」を使いこなす力と「相手の心を読む」力があるということです。英語コミュニケーション能力は「言語」「身体」「相手の心を読む」の三つの側面の力がうまく統合されてこそ発揮されるわけです。
 
 
■(1)身体を使いこなす力

「身体を使いこなす力」は(1a)「非言語的に身体を使いこなす力」と(1b)「言語的に身体を使いこなす力」に分かれます。(1a)は、身振り・手振り、表情・目配せ、周りの物をうまく説明に使うことなどです。(1b)は英語なら英語用に口舌を使って他人にわかってもらうように発音することなどです。

(1a)はプレキソ登場人物の自然な(そして時に劇的な)仕草から学べます。(1b)はプレキソで感覚的につかめます。いわば、正式に楽譜を使ってクラシック音楽を学ぶ前に、たくさんクラシック音楽を聞いておくようなものです。いきなり楽譜で勉強をする前に、音楽の喜びを知っておくことが大切なように、プレキソの感覚的な学びは大切です。


■(2)「相手の心を読む」力

(2a)言語使用以前に相手の心を読む力と(2b)言語を通じて相手の心を読む力の2つに分けられます。(2a)は、すべて英語で進められるプレキソを視聴しながら、まだ英語がよくわからない視聴者が自然と登場人物が何を言おうとしているのかを考えるようになることにより育てられます。実はこの力は、英語を話す・書く時にも重要になります。話す時でも、自分が話したいように話すのではなく、相手が聞きたがっているように話すことが大切なのですから、相手の心を読む力を育てることは話す・書くことの基盤となります。さらにそれは「言葉の裏を読む」といった高度な(2b)の基盤ともなります。

■(3)「英語」を使いこなす力

(3a)丸ごと体得した言語表現を使いこなす力と、(3b)文法で毎回新しく単語を組み合わせて言語表現を創り出す力に分けられます。プレキソは(3a)、中学校からの勉強は(3b)です。しかし、(3a)の表現が数多く理屈抜きに体得されていると、(3b)の理屈の学習が簡単になります。方程式の勉強の時に、九九を暗記しておくと非常に役立つことに似ています。

(1)~(3)の力が統合してこそ英語を使ってのコミュニケーション能力は高まります。その全体像の中にどうぞプレキソを位置づけてみてください。



NHKプレキソ英語は、小学生を対象として作られた英語番組ですが、番組の質が高いので大人も楽しめます。動画が無料公開されていますので、まだご覧になっていなかったらこれを機会にぜひどうぞ。




追記

NHKは「基礎英語」のテレビ版を制作することを計画しており、その試みとして以下の番組を放映するそうです。

NHKを支えているのは私たちです。ご意見があればぜひNHKにお寄せ下さい。


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「テレビで基礎英語」
ラジオ「基礎英語」のテレビ版が2回シリーズで登場!
テーマは「中学英語で世界デビュー」。中学校レベルの簡単な英語で自己紹介の
極意をマスターしていく。

▼中学1年の最初に学ぶ"I am" は黄金の表現だった!
▼「ミス・アメリカ」の映像から、アイデア満載の自己紹介を学ぼう!
▼アメリカからのオモシロ自己紹介映像
▼自己紹介の幅を広げるlike, have, canを使いこなせ!
▼出演;マギー、柳原可奈子、まえだまえだ、大野拓朗、ほか

8月21日(日) 第1回「こんなに簡単!自己紹介」
8月28日(日) 第2回「みんなが感動!自己紹介」
いずれもEテレ、夕方6時30分~6時50分放送
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MITのSuzanne Flynn教授が10/23(日)に広島市内で講演会を開催

ヒッポファミリークラブが、マサチューセッツ工科大学のスザンヌ・フリン(Suzanne Flynn)教授の講演会を10/23(日)に下記の要領で広島市内で開催しますことをここでもお知らせします。この講演会は本来は3月に予定されていたものですが、震災の影響でキャンセルされていたものです。主催者のヒッポファミリークラブは「事態が落ち着いたら必ずまた日本に行きます。西日本のみなさんに会えるのを楽しみにしています。」というフリン教授の言葉が早くも実現したことを喜んでいます。


講演会「7ヶ国語で話そう」人間はどのように言葉を獲得するのか。

 日時:10月23日(日)午後2時~4時
 場所:広島県立総合体育館、中会議室
 講師:スザンヌ・フリン教授(マサチューセッツ工科大学教授 言語学)
 主催:ヒッポファミリークラブ 西日本
 講演:文部科学省、広島市、広島市教育委員会、大竹市、大竹市教育委員会
 申込み要 参加費:500円 託児:有(お一人300円) 
 


申し込みは、下記のパンフレット(表と裏)をダウンロードして行って下さい。








追伸

フリン先生の講演会は、10/22(土)には福岡で開かれます。詳しくはヒッポファミリークラブ西日本ホームページをご覧ください。

広島大学名誉教授 松村幹男先生を偲んで



もはや旧聞に属しますが、広島大学名誉教授で、私が所属する「教英」講座を長い間お支え下さいました松村幹男先生が病気療養中のところ7月23日にご逝去されました。享年80歳でした。神道にのっとり、24(日)に通夜祭および遷霊祭、25(月)に葬場祭 が執り行われました。松村先生の御人徳を偲び、多くの人々が哀しみを共にしました

松村先生は、昨年に肺がんが見つかって以来病気療養に励まれておりましたが、昨年10月には学会発表をし、今回のご逝去の直前までも新聞の切り抜きをして、ご専門である英語教育史に少しでもご貢献なさろうと努力を重ねておられました。

まさに至誠のお方でした。驕り高ぶることから最も遠いところにおられ、派手なことも好まず、研究と教育、そして数々の行政職などにひたすら献身されていたお方でした。家庭人としてもご家族に慕われる幸福なお方でした。

私は学部時代から松村先生の薫陶を受けましたが、松村先生の美徳の千に一つも身につけないまま、馬齢を重ねてしまっていることを改めて痛感します。かつて夏目漱石は若き芥川龍之介に次のような言葉をおくったと言われています。


牛になる事はどうしても必要です。吾吾はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつながつて孕(はら)める事ある相の子位な程度のものです。

あせつては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、花火の前には一瞬の記憶しか与へてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵(こし)らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後から出て来ます。さうして吾吾を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。


この言葉をこうして引用してみると、この漱石の言葉はまさに松村先生が仰りそうな言葉であるように思えます(もちろん私に龍之介のような才能があるなどとは含意していません)。松村先生はこのような言葉を常に背中で表現されていたように思います。

自らの専門を英語教育史と定めて、定年後も着実に研究を重ね、毎年一度は研究発表をすることをお亡くなりになるまでお続けになった松村先生の後ろ姿を、私などは愚かにも当たり前のように思っておりました。しかしお亡くなりになり、もう松村先生の背中を見ることができないことを知った時に、いかに偉大な背中を ―寡黙な背中を― 私は見てきたのかと思いを馳せる次第です。私は松村先生が以前にご活躍なさった講座の末席を汚している身分ですが、この松村先生がお作りになった「人間を押す」文化をどれだけ継承できるのかと思わざるをえません。

今一度改めて松村幹男先生のご冥福をお祈りします。松村先生が支えてこられたこの講座をさらに発展できるよう、恣意奔放でネズミ花火のように派手な音ばかり鳴らしている自らの愚かさを再度認識し、少しでも仕事に励みたいと思います。

松村幹男先生、今まで本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さい。