2011年9月23日金曜日

授業の「正中線」?





[ いつものように、自分は中高の英語の授業をしていないのに述べる勝手な戯言です。ご容赦を。]

新人教師の授業を見ていると、とりあえず授業でやることになっている手順は守っているのですが、なんだか授業がつながらず、生徒ものってこないことが多いです。

ここで武術ヲタとしてまた武術の話を導入しますなら、最近どこかで読んだか聞いた(注1)言葉に次のようなものがあります(うろ覚えですので、ずいぶん私の言葉になっていますのでご注意を)。


武術を単純化していいうなら、いかにして自分の正中線を保ち、相手の正中線を崩すかに尽きる。
そのような態勢になれば、そこで何をしようとも技になる。投げるのが適切な態勢なら投げればよし、突くのがよければ突けばよい。蹴ればいいだけなら蹴ればよし、極めるのが自然なら極めればよし、押せばいいだけなら押せばよい。
要は、技を駆使してから相手の正中線を崩すのではなく、自他の正中線を制御することが基本であり、技はその中で出すものであることを理解しなければならない。


自らが動けないヲタの私の言葉ですし、武術が正中線だけに尽きるというのも単純化に過ぎないかと思いますが、ここで私が述べたいことは、最も大切なことを貫き通し、後は状況次第で動くことの大切さです。

以前拝見した和田玲先生の授業では、和田先生は授業で最も大切なこと(=比喩的な意味での「正中線」)として、「生徒の気持ちを断ち切らない」ことを堅持しているように思えました。和田先生は既に一つの授業手順を自らの定番としていますが、そこで大切なのは生徒の興味・関心・意欲を断たないことであるように思えます。

和田先生はその「正中線」を保つことを試みる中で和田先生なりの定番を作り出したように思えます。ですから仮に生徒の気持ちが削がれるような事態になったら和田先生は迷わず定番の手順を崩して対応するでしょう。逆に言うなら新人教師が和田先生の定番の手順でいくら授業をこなしても、その手順でもっとも大切にしていること(=「正中線」)を理解できていなかったら、その手順は空虚なものに過ぎません。

ですから大切な事は、授業の「正中線」 --ここでは「生徒の気持ちを断ち切らないこと」としていますが(注2)-- が何であるかを発見し、理解し、体得し、それを常に体現できているように試みることだと思います。その中で自然に振る舞えばそれは何をしようと自ずとよい授業になるはずです。またその「正中線」をある程度でも体得できていれば、他の教師の授業技術を見聞きしても、うまくその技術を自分の授業の中に取り込むことができるはずです。

逆に言うなら、「正中線」について何も分からなかったら、いろいろな「達人の技」を本やDVDやワークショップから学んでは試し、失敗し、次々に新しい技を求め続け、最後には自分は駄目だと思い込んでしまうだけに終わるかもしれません。それは、ちょうど格闘技の初心者が、技のパターンを学んで(例、ジャブからワンツー、そしてローキック)むやみやたらとそれを試そうとし、うまくゆかなければその技のパターンが悪いのだと決め付け、次々に新しい技のパターンを学んでは、どんどんそららの新しい技に振り回されるようなものかもしれません。

試行錯誤の中で「正中線」が自然に(無自覚に)体得できればいいでしょうが、可能ならば「正中線」を自覚的に学び、その体得・体現を意識的に心がけるべきでしょう。

武術においては、「正中線」の体現・体得が明確に意識されています。それでは授業の「正中線」とは何なのか? -- この問いを抜きにしたまま、そしてその授業の「正中線」の体得・体現を抜きにしたまま、いくら方法論を学んでも意味が無いのかもしれません。





(注1)
「自らの正中線を保ち、相手の正中線を崩す」ことをどこで読んだのかあるいは聞いたのか今は定かではありません。しかし、出典を探す中で次の言葉を再発見したので引用しておきます。



《うつすとも水は思わずうつるとも 月は思はぬ廣澤の池》

 「空手に構えなし」とは、すなわちこの境地です。
 
 『武備誌』にある《拳法八句》の第一句「人心同天地」が示す通り、天地とわれと同根、万物われと一体、という境界であり、天地と一心になった境地です。天地と一心の境地にまで悟入すれば、相手はこう来るだろう、そうしたらああ行こう、ああ来たらこう行こう、などという心構えは抜きにして、「さあ来い」と力み返るのでもなく、「どこ吹く風」とうそぶくのでもなく、虚心坦坦として平静そのものでありながら、相手の心が動けばその心に応じ、相手の手足が動けばその手足に応じて動くのです。すなわち石火の機です。妙機、玄妙不思議の働きです。浅利又七郎の《音無しの構え》も、このような構えではなかったでしょうか。
 
摩文仁賢榮(2001)『武道空手への招待』三交社、222ページ


「天地とわれと同根、万物われと一体」などと言えば、漫画の戯言のように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろん武術にはこの表現の身体的基盤があります。上記のような表現は、その身体的基盤をわかりやすく表現するための「心法」です。


 これ [=スポーツ] に比べて武道では -- というより日本の文化では、極力自然に逆らわず、自然から力を借りようとします。もちろん、作用が加わらなければ、動作(反作用)が生じることはありません。反動は必要です。しかし、武道とスポーツとでは、初動作用の起こし方がまったく違うのです。
 
 説明するのが非常に難しいのですが、《順突き》であれ《逆突き》であれ、スポーツのように後ろ足で地面を蹴るのではなく、膝関節の筋肉を瞬間的に脱力させます。すると、大げさにいうと、その瞬間、体は地面に引きつけられるように落下します。その重力に身をまかせ、さらにその反動として地面から返ってくる力を利用するのです。この動作は外目にはわかりません。俗に《膝を抜く》と呼ばれる動作です。
 
 そして膝を抜いたまま、スポーツのように腰を回転させるのではなく、腰を入れることによって、相対する二人がつくっている空間の重心に、そのまま身を委ねるように倒れ込んでいきます。これが倒木法です。
 
 心法的に表現するなら、己を無にして、天地と一つ心になる。すると、そこには主体も無ければ客体もない。ひとりでに相対する二人が和するポイント、つまり二人がつくる空間の重心に吸い寄せられていく、ということでしょうか。
 
 腰を入れるというのは、たとえばナンバ歩きをしてみると、腰が先に前に出ていくというか、腰に引っ張られるような感覚があるかと思います。見えない重心が常に腰の一つ前にあるという感じです。その感じです。その見えない重心を意図的につくり出すのです。

摩文仁賢榮(2001)『武道空手への招待』三交社、176-7ページ


ちなみに私は上記のようなことをぼんやりと理解できるだけで、体得・体現できていませんが、武術の身体技法の合理的説明としては、新垣清先生の『沖縄武道空手の極意―今よみがえる沖縄古伝空手の極意』『沖縄武道空手の極意〈その2〉』『沖縄武道空手の極意〈その3〉』(いずれも福昌堂)がすばらしいと思います。


「正中線」についてグーグル検索で簡単に出てくるものには以下のようなサイトがあります。



http://www.youtube.com/watch?v=ASiyIb2qtrs

正中線を保つことの重要性

武道の意味

正中線と剣

正中線(中心線)



(注2)
以前、まさに授業の達人とも言うべき先生が、他のこれまた達人としか言いようがない先生の授業を初めて見た時に「生徒と教師の視線がまったく途切れていないのが凄いと思った」と述懐しているのを私は聞いたことがありますが、この発言からしても「生徒の気持を断ち切らない」というのは、それほど間違った授業原理ではないとも思います。(皆さんのご意見をお願いします)。


追記 (2011/09/24)

正中線に関する記述は、横山和正先生による『瞬撃手・横山和正の空手の原理原則』(2008年、BABジャパン)からのものでした。以下に、原文を引用します。

空手とは相手との正中線の崩し合いとも言える。

 それゆえ、ひとつの工房が交叉した時点で相手の正中線が崩れ、こちらはそれを維持していなければならない。おかしな言い方だが、両者が一体となって初めて技は完成する。つまり単独で完璧な技の存在は無く、すべては相対的な相性と状況による所が大きい。それを築いている主要素が間合い(距離)と体勢(正中線)である。 (38ページ)


 古典的武術の身体法を用いる際には、脚のバネを利用したボクシング的なフットワークよりも膝の緩急を用いた膝を抜くような動作が多く用いられるが、こうすれば何れかの方向に身体が傾くこともある。

 この場合、倒れて傾いた正中線を打ち手・引き手と言う動作に繋げる事によって全体バランスを整えているのである。

 また、こうした正中線を崩しながらも全体像でそれを保つための関係を時計の文字盤で表すこともできる。

 構えの(十字線)正面を12時として、正面からの攻撃に対して反撃する動作を見ていこう。右足が5時の方角にいくと、手は容易に11時の方向へ出やすくなる。正中線が右に傾くアンバランスな体勢の中で、左手を伸ばす事によって安定させるのである。

 つまり原理原則を把握していれば、正中線を保とうとする感覚の中で「打とう」と思わなくても、攻撃を決行できることができるのである。これは後述する「陰陽」の関係と重なってくるが、倒れた体勢を戻そう、支えようとして起こした動作が、そのまま攻撃の動作となるのである。

 これら一連の正中線の意識を「攻めの正中線」として位置付けているが、ここではあくまでも「打とう」という意識は持たずに正中線を保って動いていた結果、相手を打っていたという状況でなければならない。(32-34ページ)。

この引用の中でも、特に「原理原則を把握していれば、正中線を保とうとする感覚の中で「打とう」と思わなくても、攻撃を決行できる」や「あくまでも「打とう」という意識は持たずに正中線を保って動いていた結果、相手を打っていたという状況でなければならない」といった箇所が私の中で印象に残っておりました。

いずれにせよ武術というのはすごいものだと思います。



追追記 (2011/10/03)

新垣清先生の著作を読み直したところ、先生の著書にも一(=最も大切な原理)を知ることで万(=様々に展開される技)を知ることに関する記述がありましたので、ここで引用します。

最初は「ナイファンチ」という空手の型を「一」とした上での説明です(ナイファンチについては例えば沖縄空手道松林流 新里勝彦先生の動画をご覧ください)。


本当のことを言えば、「ナイファンチ」の理念を技に活かすことさえ出来れば、素手での突き蹴り、投げ、極めはもちろんのこと、武器を持っても究極の闘い方が出来るということであり、言葉を変えれば身体操作を徹底的に学ばせる体術としての働きがあるのだ。

そのために人間の行動の根源的な要素を徹底的に理解させ、それを相手に対して心理的・肉体的な虚実を作りながら繰り出せる身体操作を修得させる「ナイファンチ」を理解すれば、突き蹴りは勿論のこと投げ、関節への極めなどの技は、副次的に産出されるものでしかない。

武術においては根源にある一(ひとつ)を理解すれば、千も万の技も作り出せるとし、その一つを徹底的に理解させる。これが日本武道の根本的な思想である、「一つの太刀」に繋がる考えだともいえる。

俗に言えば形の理念さえ分かれば、「形の分解」としての技は無限に生まれてくる。ただ理念が分からずに形を分解してしまうと、それは無駄な練習方法になってしまうのだ。

新垣清(2009)『沖縄武道空手の極意〈その2〉』福昌堂、3ページ



次は、正中線をゼロとし、そこからの変動をプラスやマイナスとして感得することを「一」し、その身体知をもって、相手の身体から相手の心を読み取ることについて述べた文章です。


しかし、これらの手、体、そして足のさばき以前に、一番重要なのが体幹の作り方なのだ。

自分の体幹部の存在理由と、その活用が理解でき、相手のエネルギーがゼロになる場所が、そして状態がわかればプラス1にかわろうとする時が明確に判るようになる。そして当然ながら、マイナス1になろうとする状態も判る。

だから言葉を代えれば、未来の予測が立つのだ。

これが熟練すれば、相手が思う以前に、相手が起こそうとする動作を読むことが可能になる。相手の意識の下にある、無意識の状態まで読めるようになるからだ。

人間の身体は地面に垂直に立っている時でも、完璧に静止することはなく、常にある部分は動いている。その動きは結果的には、ゼロの部分である正中線の存在に影響を及ぼす。

正中線を境目として、プラス1、そしてマイナス1などの間を、波動を描いて動いていると言ってもよい。

そして人間が動き始める切っ掛けとは、任意なように見えても、実はこの波動の影響を受けて動きだす。

なぜなら人間は本能的にプラス1度の時にプラスの部分へ移動した方が、最大静止摩擦力が少なくてすむと知っているからだ。だからこの位置を知ることは、相手の心さえも読むことに繋がってくる。

そして最後には、相手をゼロに封じ込めることが出来るようになる。

しかし武術の達人が操作する心法とは、戦国時代の雑賀党の教えや旧・日本陸軍の射撃の操典で述べるような、「闇夜に霜が降りる」ような最小の身体操作で、ゼロの位置からプラス1への移動を可能にする。

そのような相手に、対峙する術(スベ)があるのだろうか_

ある!

江戸時代後期に、北辰一刀流を興し江戸三大同上とも呼ばれた玄武館を開いた千葉周作(成政・1794-1855)という人間がいる。

この男が残した「剣法秘訣」という本に、「闇夜に霜を聞く」という驚愕すべき言葉が載っている。

ちなみにこれは、千葉周作自身の言葉というよりは当時の武道家(剣術家)の間に、奥義を極めた人間たちの認識として存在していたと理解したほうがよいだろう。

この言葉のごとく、自分の身体操作を「闇夜に霜の降りる」動作にまで高めた人間に対抗する唯一の手段とは、心気納まる状態で「闇夜に霜を聞く」以外に無い。

悠久な歴史の流れにおいて、この「闇夜に霜を聞く」ほどの心法の必要性を痛切に感じた時こそ、身体文化として発展していった日本武道が、心身文化として昇華された瞬間であったはずだ。
新垣清(2003)『沖縄武道空手の極意〈その3〉』福昌堂、131-132ページ。


人間は自分が意識する前に、身体が動いているというのは、ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で言うとおりですし、自らの心身理解を基盤にして相手の身心を推測するというのも十分に考えられることです。

ここで私の経験を述べるのはいかにも不釣合いですが、私もよく考えながら言葉を吟味して書こうとする経験を深める中で、本の行間から著者の心情を推測することが容易になりました。もちろん著者は私の目の前にいませんから私の推測が正しいかは確かめがたいですが、直接相対する相手との口頭での言説からでも言葉に現れない相手の心の動きを以前よりは読めるようになったことは相互作用の中で確認できていますので、読書においてもおそらくは私の「心の理論」は発達しているはずです。

それにしても「闇夜に霜の降りる」ほどに自らの心身を澄ませた相手に対して、自らの心身を「闇夜に霜を聞く」までに澄ませる身体文化というのは、現代人の想像を超えるほどに偉大なものだったはずです。諸外国で「サムライ」の立居振舞は言語の壁を越えて賞賛の的となりましたが、それもむべなることかと思います。

そのように偉大な先達をもちながら、現代日本において、テレビで見る政治家の顔つき・所作の情けなさ、そして何よりも鏡に映る私自身の醜悪さはひどいものです。先達に恥じない生き方をせねばと改めて思います。








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