2011年11月28日月曜日

「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について




■"Subtractive bilingualism"ならぬ"subtractive monolingualism"(「引き算になる単一言語使用」)


12月11日(日)に関西大学で行われる翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム(および講演)の準備の一環として、Tim McNamara (2011) のMultilingualism in Education: A Poststructuralist Critiqueを読んでいたら、ちょっと恐ろしい可能性が頭に浮かんでしまった。頭を整理させるため、そしてできれば皆さんにも考えていただくために、ここに簡単にその可能性をまとめておきたい。

その恐ろしい可能性とは、"subtractive monolingualism"(「引き算になる単一言語使用」)である。

通常、私たちは"additive bilingualism"や"subtractive bilingualism"(「足し算になる二言語使用」「引き算になる二言語使用」)のことを話す。例えば学校で日本語だけでなく英語も教えることが肯定的結果をもたらすなら、それは"additive bilingualism"であり、下手に英語を教えることによって第一言語である日本語習得に悪影響が出て第二言語の英語習得もままならないとすれば、それは"subtractive bilingualism"である。だがこの論文の用語は、"subtractive monolingualism"である。

この現象を報告しているのは、McNamara自身ではなく、彼が引用をしているWilliams (2010)だ。Williamsについて、私はMcNamaraが文献情報に掲載しただけのこと(注1)しかしらず、原典を確認できないので、ここではMcNamaraの引用をもとにまとめる。



■アフリカ諸国はなぜ現地語を軽視し続けようとしたのか

Williamsによると、彼が調査したMalawi, Zambia, and Rwandaでは、それぞれの政府が初等教育(小学校)で、現地の言葉よりも英語を重視し、教科を英語で教えるようにしている。だが、これらの国では小学校4~5年生になった時でさえ、多くの子ども(MalawiとZambiaで約75%、Rwandadeで95%)が英語で書かれた教科書の説明を読むことができない(433ページ)。

これらの国の教育関係者は、このような危険性を懸念し、現地語を重視するように再三に渡り政府に進言していたのだが、政府はこの進言を無視し続けた。

Williamsは、これらの政府が重視しているのは、(1)経済発展(economic development)、(2)言語的統合(unification)、(3)国民からの承認(authentification)であり、その根底には国の生き残り(survival)がある(433ページ)。これらの懸念が、小学校から教育を英語で行うことにつながっている。

(1)の経済発展は、産業という点で直接に英語の強化につながる。(2)の言語的統合は、アフリカではあまりにも多数の現地語が話されているので、国を言語的に統合しようとすれば、国外の(旧植民地宗主国の)言語(この場合は英語)を採択しようということであり、それはそのまま英語による教育の強化につながる。これら二つの懸念と英語教育のつながりは、まあ理解できる。

しかし現実社会の狡猾(sinister)さを示すのが、(3)の国民からの承認である。どんな国とて国民からの承認・支持がなければ安定はしない。だからこれらの国も、上記の(1)や(2)の理由から英語による教育を国民に訴える。英語による教育をしなければ、これからはやっていけない、と説く。国民世論は圧倒的にその政府方針を支持する。

しかしその教育の実情は上の数字が示すように、国民の大半が切り捨てられるものである。もっぱら英語で小学校教育が行われるものの、多くの子どもはその教科書すらまともに読めないままである。現地語はほとんど教えられていないから、現地語の読み書き能力もついていない。英語という単一言語に集中したモノリンガル教育を行った結果は、まさに引き算である。現地語による小学校教育ならついたであろう学力さえ、多くの子どもは失ってしまっている。

だが、現実社会の狡猾なところは、少数の子どもは英語を習得し、国外とのビジネや国内での統括管理などを行うエリートの切符を手にいれていることである。

Williamsはこの状況を記述するのに、Myers-Scotton (1990)の"Elite closure"(エリートの囲い込み)という用語を引用する。「少数の支配的エスタブリッシュメントが、自分と自分の家族には通用する高度な英語教育を確保しているが、その教育が実際に意味していることは、その教育は国民の大多数にとって不適切なものであり、国民のほとんどは恩恵を得ないことである」(注3)のが、この英語教育の実態であるというわけだ。



■悲観的に、アフリカの状況に日本の近未来を重ねあわせてみると

私が冒頭で恐ろしい可能性と言ったのは、このアフリカの状況に似た状況に日本も陥るかもしれないということだ。無論、アフリカ諸国と日本は様々な条件で異なる。特に、日本は近代日本語で言語的に(ほぼ)統一されている点では、アフリカ諸国と決定的に違う。だから私の悲観をどうぞ笑ってください。しかしその「言語的統一」を国内での話ではなく、諸外国との話にすれば、上記のアフリカ政府の(1)~(3)の懸念は、日本政府の懸念となるようにも思える。

すなわち、やや誇張して言えば、日本の教育行政者が次のように論を展開することも可能だとさえ、悲観主義者の私には思えてくる。


(1)'これからの日本の経済発展のためには英語は不可欠です。

(2)'通商圏での言語は、中国語・韓国語・タイ語・ロシア語等々とたくさんにあり、それらの言語をすべてマスターするのは困難ですから、言語統一を英語ではかる必要があります(これは他の国もそう考えていることであります)。英語は必須なのです。

(3)'これらの要因からすると、従来とは全く質の異なる、高度な英語教育が必要です。となれば、小・中・高の英語の授業は基本的に英語でやるべきだと思いませんか。授業も定期試験・入学試験も「オール・イングリッシュ」でなくてはなりません。従来のように日本語を使うような授業では英語力はつかないのです。大学も(少なくとも一部の大学・学部は)日本語ではなく英語ですべての授業とすべての試験を実施するべきです。 ― 国民の皆さん、政府は、教師の尻を叩いて(できない教師はクビにして)このような体制を実現させますから、税金負担と教師批判に協力してください。ご子息の未来のためです!



こう言われれば、不安に駆られた国民は、そういう英語教育政策をひょっとしたら熱狂的にサポートするかもしれない(もちろんそこには多くの御用学者の働きもあるのだろうが)。

しかし「純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観」でも少し述べたし、今度の翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム(および講演)でも論ずるつもりだけれど、俗耳に入りやすい「英語の授業は英語で!日本語は極力使わない!!」といった単純なスローガンには警戒が必要だ。

日本語が骨身にしみている学習者に、短時間で通じる英語を使う能力をつけようと思うなら、日本語の特性に逆に着目し、日本語を説明言語として効果的に使ったほうが有効なのではないか。そもそも日本国の国民を育てるという発想なら、日本語の発想と英語の発想をうまく通言語的・通文化的に発揮できる言語的・文化的能力を育てるべきではないのだろうか(注4)。

だが「英語の授業は英語でやるのが当然」という単純なスローガンは強力だ。上のような周りくどく思える議論はスローガンの連呼にかき消される恐れもある(それは未だに英語教育の解決策といえば、しばしば「ネイティブ」「留学」という言葉しか出てこないことからも十分に予測されることだ)。

そうして小・中・高(そして大学)の英語教育の現場から日本語が事実上追放されると仮定しよう。そうなれば学校教育だけで英語をマスターすることは(よほど才能に恵まれた者を例外とするなら)およそ困難になると私は考える。

そうなると教育産業の出番だ。幼児期からの「英語のシャワー」、中・高生のためにわかりやすく丁寧に日本語で英語を教えてくれる塾・予備校あるいは参考書、快適な空間を演出する英会話スクール、さまざまな私費海外ホームステイ・留学プログラム、「英語力」を客観的に教えてくれる各種英語資格試験、さらにはその試験対策講座などなど、市場は学校英語教育の不備を補うべく、どんどん教育の世界に参入するだろう。

だがその教育産業の恩恵を得るのは、裕福な家庭の子供だけだ。中産階級がどんどん没落していることに関しては日本も世界の例外ではないが、そういった経済的余裕を失いつつある家庭も「子どもの未来のためなら」と今以上に教育への出費を増やすかもしれない(今の韓国がそうであるように)。そんな余裕などまったくない家庭の子どもは、教育産業からの助けを得られないままに、「オール・イングリッシュ」の授業に耐え続けなければならないかもしれない。ほとんど何もわからないお客さんとして。あるいは歌やゲームで適当に遊ばされる対象として。

良心的な英語教師は、学校英語教育だけでも子どもに英語力をつけたいと、日本語をうまく使って英語教育を試みるかもしれない。仮に高度な英語力はつかないにせよ、生徒との毎日を大切にし、生徒に理解や達成の喜びを実感させようと、日本語で解説し励ましながら英語の力を少しでもつけさせようとするかもしれない。

だがそこへ教育行政者は勧告にくる。「英語の授業は英語でやりなさい。これは民意です。民意に反する公務員はクビです」・・・。うん、どうも私は昨夜から悲観的になっている。

「英語の授業はすべて英語で」というある意味の「正論」も、もし暴走するなら「引き算になる単一言語使用」になるかもしれない。知能指数と経済資本・社会資本文化資本に恵まれた一部の者を除くならば、多くの学習者は英語もほとんど身につけることなく、適切に日本語も使って教えられていたならば身についていただろう通言語的・通文化的な力も、納得感も達成感も得られないままに学校を卒業する。

これは何度も言うように私の悲観だ。しかし、「コミュニカティブ」の掛け声で、ゲームのような活動ばかりやらされていた生徒が、片言の決まり文句と引き換えに、従来は育っていた読解力や思考力を失ったことを考えると、この「引き算になる単一言語使用」もそれほど荒唐無稽な想像ではないと私は考える。



■立ち止まって考えるべきなのでは

「教育の論理」「日本の英語教育の論理」「現場の論理」というものはあるはずだ。「教育の論理」は、「経済資本・社会資本・文化資本において貧しい家庭の子どもにもきちんとした教育を与えなければならない」という考えを含むだろう。「日本の英語教育の論理」は、「これから英語を話すことが当たり前になってゆく世界で、競争力を保ち発展させるためには、他国民が有し難い日本文化独特の発想を活かした形で英語発信を行う」という考えも含むのではないか。「現場の論理」には、「この生徒には、ひょっとしたらさらにグローバル化する社会の中ですらも英語を使った仕事をする可能性も少ないかもしれないが、せめて学校ではきちんと丁寧に対応し、人間としての尊厳を実感できるようにさせたい」といった思いも含まれるだろう。

ところが昨今は、経済的不安に駆られた大人は、「バスに乗り遅れるな」とばかりにグローバル資本主義競争に子どもを突入させようとしている。バスに乗れるのは1%、いや0.1%にしか過ぎないかもしれないのに。

私達がなすべきことは、むしろそういった社会体制を問い直すべきことなのかもしれないのに、大人は「自分の子どもだけは」と、1%(あるいは0.1%)の枠に子どもを入れることを目指す(あるいはその枠からのおこぼれを貰える席を目指す)。その特等席は、特例を除くなら、ほぼ既得者の子息だけで独占されているかもしれないのに(またおこぼれも、雀の涙ぐらいのものかもしれないのに)、大人はその特例の成り上がり有名人の「やればできるんです」という言葉に煽られて、持てるお金の多くを教育市場につぎ込む。つぎ込む金が尽きた親は自らの無力を嘆く。

お金のない家庭は、「どうせ・・・」と諦める。諦めて気楽に生きることができればいいのだが、農業・漁業・手工芸といった自活能力も失った近代人は、賃金を得ることでしか生きてゆけない。しかも幼少の頃からのテレビなどの洗脳で、人生を楽しむには商品を購入するしかないと思わされている。かくして低賃金・長時間労働の人生を選ばざる得なくなる。たまに買うコンビニのプレミアム・デザートを、ほとんど唯一の贅沢として・・・。

「ああ、なんだ、この希望のなさは」と人々は恨む。「こんなことなら、すべてを変えてくれそうな指導者に期待しよう」と、人々は博打のような他力本願を唯一の希望としてしまう。

だが今必要なことは、立ち止まって考えることではないのか。時代の狂騒から一歩引いて、人間が生きることについて考えなおすことではないのか・・・。


誰もが頷く時代の「正論」には気をつけよう。それこそは、この時代がはまった知的陥穽、イデオロギーなのかもしれないのだから。




(注1)
Williams, E. (2010, March). The politics of language policies in Africa: Why are the testimonies of testing ignored? In A. Davies (Chair), Starting a second language: Institutional second language learning and its dilemmas. Symposium conducted at the meeting of the American Association for Applied Linguistics, Atlanta, GA.

(注2)
Myers-Scotton, C. (1990). Elite closure as boundary maintenance: The case of Africa. In B. Weinstein (Ed.), Language policy and political development (pp. 25-42). Norwood, NJ: Ablex.

(注3)原文は"a small dominant establishment ensures that they and their families have access to high standards of English while inadequate education systems mean that this is largely denied to the mamjority"です(434ページに、原著論文7ページからの引用として掲載)です。ブログ記事ではずいぶん意訳しました。

(注4)ごめんなさい、このあたりは後日もう少し丁寧に論ずるつもりです。


参考記事
安田敏朗(2006)『「国語」の近代史』中公新書、および「英語の授業は英語で」のスローガン化に対する懸念
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html





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