2011年12月14日水曜日

木の実を頬に貯めるのではなく、時間をかけて消化する



「山岡洋一」という名前を汚してはいけないという思いから、私にとって山岡洋一さん追悼シンポジウムで発表をすることは大きな重責となりました。加えて当日の参加者には百戦錬磨の実力者の翻訳家が多いわけですから私は結構ビビっておりました(笑)。

たとえて言うなら、コミカルなパフォーマンスを売り物にしている地方団体プロレスラーが、サンボの全国選手権(無差別級)に出場するぐらいのビビりかたでした(格闘技に詳しくない方、わかりにくくてごめんなさい)。「まともに関節をとられたら、大怪我させられるかもしれないよなぁ」と怖がっておりました。

しかし「実力ある人は優しい」の一般則はここでも通用し、当日は皆さん、鋭い論点を出しながらも決して私を個人的に追い詰めることもなく、議論を高めて下さいました(このあたり、空手の稽古でも一緒です。本当に実力のある人は、私のようなヘタレを相手にする時は寸止めにしてヘタレが怪我をしないように配慮してくれます。中途半端な先輩と稽古をするのが最悪で、その場合はその先輩が自らの不安からか劣等感を払拭し優越感に浸りたいからかムキになってガチガチで攻撃してきますので、こちらも必死で応戦するしかありません。その結果、空手の実力が上がればいいのですが、たいていの場合はヘタレは怪我をし、先輩は自分の得意技ばかりを出して癖を強くするだけに終わります。両者ともに空手の上達がないわけです。実力と自信そして優しさというのは連動しているものだと思います。閑話休題)。

とはいえ、シンポジウムなどで次々にくる質問に対応する際には、こちらも真剣に考えなければなりません。その際、何とか私が対応できたとしたら、それは私がこれまでに聞いた話と読んだ話を自分なりに消化できていたからだと思います。



「消化」というのはもちろんメタファーです。生物での消化でしたら、一塊の食べ物を咀嚼などでまずは体内に入る大きさにし、それを各種の生化学的過程で時間をかけて体内に吸収できる大きさの分子までに分解します(分解された分子は、体内で新たに結合され、新たな形で活用されます)。

聞いた・読んだ話の消化でしたら、一塊の話を、まずは自分で整理できるぐらいに分析します。それをさらに自分の心と身体に浸透させるぐらいに細かな要素に分解します。浸透した要素は、いつしか新たな形で自分の心身の一部となり、時がくれば新たな形で活用されます。

私がシンポジウムで応答した話も、そのように(自分なりに)消化した話でした。消化されてしまっているから元の話の形をとどめていないことも多いのですが、自分の心身の中で消化され再結合されたものですから、それなりに自然な形での応答になったのではないかと思っています(もちろんこれは私の単なる思い過ごしで、傍目にはおかしな応答だったのかもしれません(笑))。


と、自分のことは棚に上げた話を続けますと、昨今の教育では、情報や知識の「消化」を大切にせずに、すぐに「インプット」を「アウトプット」にすることを求めてばかりのようにも思えます(いつものような過度の一般化です。ご用心あれ)。

聞くところによれば、一部の猿は、木の実などを見つけるとそれを頬にためておくそうです。(ひどい)たとえをするならば、昨今の学習者は、そんな猿のように、情報や知識を「インプット」として貯めて、それを消化せずにそのままの形でテストで「アウトプット」ばかりしているようにも思えます(ひどいたとえでごめんなさい)。


「先生、ボクは一気に木の実を五つも頬に貯めておくことができるようになりました。明日のテストではこの五つをそのまま吐き出すことができますよ、ウキィ」。

「おお、学力がついたな。でも先生は一気に十個ぐらいは木の実を貯めておくことができるぞ。ほれ、プッ、プッ、プッ。な、今でも木の実を貯めておったのじゃ、ウキィ」

「わあ、先生すごい。ボクも先生のようにすぐに木の実を多く集めて頬に貯められるようになろう。そしてすぐに吐き出すんだ、ウキィ!」


ーー 情報や知識を、テストで問われる形でそのまま覚えて、それをできるだけ多く貯めておいて、テストで一気に吐き出す ーー そんな「学習法」は、私にとってこのようなお猿さんの営みのように思えます。


木の実を頬に貯めて吐き出すだけでは、消化がありませんから、木の実はそのお猿さんの身につきません。それと同じように、現代の学習者は、できるだけ速く多くの木の実を頬に貯めては、それをすぐにテストで吐き出すだけで、ほとんど学んだことが身についていないのではないかと、私はイメージしてしまいます。おそろしいほど応用が効かないからです。(また私の悲観癖です。ご用心、ご用心)。

しかし私が見る所、英語の学習では英単語の丸暗記、教採対策では問題集の問題と解答(あるいは教育法規)の丸暗記が、未だに学生さんの間では定番の「勉強法」となっています。私などが「それではいざという時に使えないでしょう」と言っても、「いや、やっぱりこれが一番確実ですから」と学生さんはかなり頑固で丸暗記方法を改めようとしません。

この「丸暗記=最善の勉強法」というのは小中高や塾で徹底的に叩き込まれた習慣なのでしょうか。(本日学生さんから聞いた話によると、ある高校では英作文は模範解答だけをテストでの正解として、他の(それなりに意味の通る)解答はすべて不正解としているそうです。ちょっとひどい話だよなぁ)。


多くのインプットをすばやくアウトプットし次々にテストに合格するのではなく、不器用にわずかなことをゆっくりと考えじっくりと自分の中で熟成させそれがいつか思わぬ形で活用される ―― 牧歌的なようですが、私はそれこそが生きる力につながる学びだと思います。

熟考し、考えを深める ― そんなすぐには結果の出ない営みを軽視する文化の未来は暗いと私はいつものように悲観します。





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