2012年3月19日月曜日

「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の感想

[以下は、「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の授業での感想・レポートです。この授業では学生さんが本当に熱心に予習をして授業に参加しさらに振り返りをしてくれました。私の話は「難しすぎる」とか「もはや英語教育ではない」と、一部の「英語教育学者」には敬遠されるのですが(笑)、学生さんはそんな一部の「英語教育学者」とは比べ物にならないほど私からの立論に真摯に向かい合い、問いただし、議論を深め、毎週毎週大量の文章を予習と復習それぞれにWebCTシステムに書きこんでくれました。教師としてこれ以上の喜びはありませんでした。本当にありがとうございました。以下はそんな学生さんの書いた文章の一部です(適宜、改行の挿入や[ ]による補注など、最小限の改変は加えています)。]



■TR君の感想


授業全体を通じて学んだことを3点にまとめて書きたいと思います。

1. 「言語」と「コミュニケーション」を捉え直すために

恥を忍んで正直なことを言うと、授業の最初のころはチョムスキーやウィトゲンシュタインなどの論考が苦痛で仕方がありませんでした。コミュニケーションについての話ではあったのですが、私にとってはどこか「単なる言葉遊びの」「関係のない世界」の話であると、内心思っていたのかもしれません。当時の私を叱ってやりたいですです。切実に。(笑)

多くの言語学者の「言語」に対する論考を学ぶつれて、私はいままで「コミュニケーション能力」という言葉についてを、それが一体何を意味するのかという根源的な問いから目をそむけて、偉そうに“コミュニカティブな英語教育”について語っていたということが分かりました。長い間様々なアプローチから論考が続き、多角的な視点から「真っ向勝負」で「言語」というこの上なくやっかいな(そして面白い)問題に挑んできたことを知りました。「コミュニケーション」を語る者として、それがいったい何を意味するのか、どのような観点から捉えることができるのかを、問題意識として常に持つことの意義を、チョムスキーやウィトゲンシュタインなどの論考を含めこの授業で学ぶことができました。


2. 原理について

2.1 氾濫する書記言語から原理を探り出す

情報化社会の現代に生きる私達にとって情報を得ることは非常に容易です。本でも、テレビでも、インターネットからでも、もちろん他者との会話の中からでも情報は手に入れることができます。問題はこれらのメディア(会話をメディアと呼んでよいのかは少々疑問ですが)から得られるものは基本的に書記言語化されたものであり、その内部にどのような背景や原理が潜んでいるのかを私達は注意して観察する必要があるということでしょう。情報を受動的に受け取るだけでなく、原理を貪欲に求めていく攻めの姿勢が私達には必要であると考えました。

2.2 原理という視点から

英語教師として「原理」を追求して行く姿勢について考えてみます。近年の英語教育に関する研究が進められたことや、田尻五郎先生などに代表される達人たちの実践が広く日本の英語教育に携わる人に浸透した結果、「協同学習」や「All English」など、テクニカルな用語が多く出回ることとなりました。訳読式の授業からの転換をいち早く図ろうとする今日の英語教師は、このような用語や実践が示す根本的な意味を理解することなく、表面的な情報(=書記言語)や実践をただ「まねる」ということに終止してしまっている可能性があるのではと感じます。(現場に出ていない自分が言えたことではないのかもしれませんね。)しかしながら授業でも学んだように、原理の理解を置き去りにした教育実践が成功するはずはなく、むしろいい加減な教育をすることは生徒にとって有害でもあります。

英語教師には授業改善だけでなく、現状の英語教育を取り巻く様々な問題に性急に対応をすることを迫られています。聞こえがいい教育用語の多用や、流行りである実践を単にまねてしまう状況にあることも理解できます。しかし即効性を求めすぎ、原理を無視した実践を行うことはいわばドーピングを行うことであり、後々必ずガタがきてしまいますし、生徒に原理の体得を望むことはできません。大変難しいことだとは思いますが、多忙な教員生活のなかにあっても、原理を探求しようとする姿勢を持ち続けなければいけないでしょう。


3.日常から学ぶ

目には見えないものを、抽象的な思考によって明らかにすることを進めて行くことは私にはまだまだ困難です。「腑に落ちない」と表現するのが正しいのかもしれなませんが、とにかく自分の中でどこか納得のいくものにならないことが多いのです。そのような場合に、自分の身の回りにある物や経験からヒントを得ることができるということも、授業を通じて強く実感しました。

音楽、スポーツ、なんでもいいのです。自分の身の回りの物事や活動から具体的なイメージを引き出し、その実体験に基づくイメージと、頭の中にある抽象的な思考が上手く合致した時、私達は本当の意味で理解すること、「腑に落ちる」ことができるのです。 重要なのは、抽象的な思考と私達の身の周りを結び付けるための「アンテナ」を常に持つことではないでしょうか。




■FAさんの感想


この授業を通して学んだことの中で、私が最も大切だと感じていることの1つは「見る目」を養うことです。そして、そのためには自分自身の視野を広げ、物事を複眼的に見れるようになる必要があるということです。

どんな物事も全て多種多様な側面を持っている。そして、私が見ることのできている側面は、そのほんの一部にしかすぎない。視野を広げるとは、物事が持っている複眼的な側面のうち、自分が感じ取れる(見ることができる)側面や視点を追加していくことだと思う。

この授業では、とりわけ「言語」や「コミュニケーション」、「英語教育」がもつ多様な側面を見つめた。そして、それらの側面についてグループやWebCT上で他者と意見交換をすることによって、より複眼的に「言語」「コミュニケーション」「英語教育」というものを見れるようになったと感じる。しかし、自分の視野が広がったこに違いないだろうが、それでも私が理解した(知っている)側面というのは本当にほんの一部分なのだろうと思う。

物事のもつ多元的な側面を全て網羅して理解することは不可能だと思うけれど、自分の知る側面を増やしていくことは「見る目」を育てるために必要なことである。しかし、自分の力だけで「見る目」を育てるのには限界があると思う。

「私たちは物事を理解するとき、自分という媒体を通してしか理解することができない」ということを授業で学んだ。同じものであっても、他者は自己とは違う視点で同じ側面を、あるいは異なる側面を見ている。他の人と意見を交換し合うことによって、自分が見えなかった側面・視点に気づくことができる。実際、この授業の中で他者と意見を交換することによって、私は授業を受ける前よりも多角的に、色々な側面を見れるようになったと感じる。

そうやって「見る目」が養われてくるのに伴って、自分の意見にあまり自信が持てなくなったり、より慎重にものごとを判断・評価するようになったと感じる。それは、自分の意見や判断には多少なりとも偏見や主観が入ってしまっているという前提をもって話すようになったからだと思う。何かに対して「絶対に○○だ!」のような決めつけた言い方(判断)をすることはかなり減った。そういった決め付けが自分自身をしばり、成長を妨げる怖いものであるということを、この授業を通して学んだ。

その他にもこの授業を通して様々な面で自分は変化した(成長した)感じる。そして、ここで学んだことはそうやって意識的に感じれる学びだけではなく、意識としては気づかない無意識的な学びも得ているのだろうと思う。

ここでの学びを自分の学習・成長のきっかけにして、これからもものごとも多様な側面をとらえ、「見る目」を育てられるように努力したいです。




■MM君の感想


このセメスターで受けた「コミュニケーション力論と英語授業」は正直かなりしんどいものであった。というのも予習に非常に時間がかかり、かつたくさん自分自身で考えなければいけなかったからである。まさに、自己の意識化⇒自己の意識化の言語化⇒書記言語化の流れをしっかりと踏んでいかなければいかなかったのである。

しかしながら、この授業で得られたことはこれからの教師を目指すうえで、さらには自分自身の人格形成において非常に影響を受けた。私がこの授業の中で特にキーワードであると感じたものに2つがある。それは、「体現化」と「意識」の2つである。

「体現化」は先にも述べたように英語授業にも関係することであり、私たちにとって欠かすことのできないものであると感じた。さらにもう一つ、「意識」ということに関してであるが、これは私にある意味ですごい衝撃を与えてくれた。この講義を受講する前はそこまで深くは考えたことのなかったこの「意識」、これからもしっかりと感がえていかなければいけないものであると感じる。私たちはやはり、自分自身の存在をやはり意識している、意識せざるを得ないものであると思われる。意識するということは私たち人間にとって人間である所以を表しているのではないかと思う。数多く存在する動物の中でも自分自身を意識するように進化したのは人間くらいではないだろうか。しかしながら、「意識」をはじめ私にはまだまだ深く、そして再び考えなければいけないことが多く、この春休みの間にぜひ復習したいとも思う。「意識」してこれからも英語、そして教育、自分のことについてこれからも考えていきたい。




■YK君の感想


論文を読むことがはじめての経験で抽象的な内容の英語を読む練習となりました。

哲学について考える機会も初めてでしたが、新しい世界を開く切り口になるものだなという印象です。普段当たり前に過ごしている日々を様々な視点から見つめなおして、ある程度体系的にまとめて考え、ありふれた日常に異なる視点を見出していくことが哲学の目的のひとつなのかなと感じました。常に「何で?」「どんなふうに?」といった考え方で物事を捉える心構えが出来ていれば新しい発見も身近に転がっているんだなと思います。また、いいと言われている指導や教材がなぜいいのか、を考える視点を得られたことが自分にとって大きな収穫となりました。




■NT君の感想


授業を通して、「コミュニケーション」とは何かについて、様々な方向からアプローチがあり、多角的に、批判的にコミュニケーションについて学べた。現在の英語教育のキーワードであるが、その定義が曖昧なことが多く、学習指導要領に度々出てくる「コミュニケーション」も明確に定義されていない。適当に使われている「コミュニケーション」という単語について、理解を深めることができたと思う。

チョムスキーやカナルとハインズといった理論とともに、授業冒頭の先輩の実体験の話や、組田先生のリメディアル教育についてのスライドを使った講義など、現実の教育現場でどのようなことが起きているのか、またどのような実践がなされているのかについて少しでも触れられたことは、今後、教員を目指すうえで、とても役に立つような気がした。教職系の授業である先生が引用された言葉が、とても残っている。「実践なき理論は空虚である。理論なき実践は無謀である。」ほんとうにその通りだと思う。

今日の講義でも柳瀬先生がおっしゃっていたが、教育は(教育だけではないが)できてなんぼの世界だと思う。理論を実践に生かし、生徒の人生を豊かにすることができる教師になりたい。




■UYさんの感想


「文法」の定義に目を向けその必要性を改めて考えたとき、文法はコミュニケーション力を育成するための必要条件ではあるが、十分条件ではないと改めて感じた。同時に教師が伝統文法を知っておくことの必要性も感じた。しかし、教育的妥当性、労力と効果のバランスを保証するためには、教師の知識を何でも生徒に伝えればいいというわけではなく、学習文法という学習者の言語習得を見据えたものを組み立てる必要がある。ただ、その際の学習文法とは教師の目から伝統文法を希釈したものではないことを確認しておかなければならない。
 
そこでふと感じたのは、学習文法を組み立てるヒントは教育の現場にあるのではないか、ということである。みんながみんなではないだろうが、ベテランの先生は生徒がひっかかりやすい点、理解が困難な点を経験的に理解していると考える。時にはそれによって教師が間違いを導く可能性も秘めていることは事実ではあるが、一概にその知識を否定してはいけないし、もちろんそれがすべてでもないと思う。

スポーツに関連させるのであれば(私はアーチェリーおたくなので)、上手い選手の言うことが絶対ではない。人の骨格や筋力はそれぞれ異なるため、異なる点があるのはむしろ当たり前のことである。また、上手い選手を観察することによって自分自身が考え学んだこともすべてではなく、まずはやってみることが大事であり、そのなかから取捨選択することが求められる。

話を戻すと、教師の目から希釈したものは全体を把握した者だからわかる言語の解釈になりかねないことに留意しなければならない。私たちがロシア語の授業を受けるのと同じように、何も知らない生徒の視点に立つことが求められ、メタ言語の使用は特に注意すべき点だと考えるが、日本語母語話者で英語を第二言語として学んできた教師だからこそ、学習者の視点に立つことができるとも思う。(しかし同時にそれを忘れつつあるのも事実であると個人的に感じている。)

また、言語教育において思考訓練か言語使用かに二分される傾向があるように感じた。だが、大切なのはそれらの重なっている部分であり、それに焦点化するべきだと思う。以前、テレビで日本について英語で紹介されている番組を見たが、その時「へーなるほど」「そうやったんや」と思うことがたくさんあった。しかし、英検やTOEICのリスニング問題ではいくら正解を導き出せても、どれだけ内容を把握していても、聞いているときそのような感情は生まれなかった。せいぜいあとでスクリプトを確認したときに初めて納得したりする程度であった。

もちろんこういった「テスト」には妥当性など考慮すべき点があり、能力を測定するという目的がある。ただし言語教育、学校教育における英語の授業はそれだけではいけないと考える。授業構成や指導方法といった教育方法やそれを測る評価にばかりに捉われて言語から離れすぎることだけは避けたいと思った。また言語の習得ばかりに目を向けることなく、言語を使い感情や思考を表現する場としての授業において、その言葉自体が持つ意味、そして言葉を使用することの意味を教師が十分に認識しておくことが大切だと思う。

今までの授業を通じて、○○絶対主義といった偏った思考を避けること、そして視野を広げてあらゆる可能性を探求することの必要性を感じ、これからの自身の学習に活かしてきたいと思う。




■OY君の感想


10月から今日までの授業で、様々な研究者や柳瀬先生がお持ちになっている理論と出会いながら、再度「コミュニケーション能力」と「英語授業」についての考え方に新たな視点を持ったな、感じている。僕が以前まで持っていた英語教育における「コミュニケーション能力」とは、学習指導要領に明記されている4技能のことであろう、というような何とも漠然なものだった。

しかしながら、様々な人たちの理論を読み進めながら、一概にコミュニケーション能力を4技能で語り得ることは不可能であることが分かり、コミュニケーション能力には、言語知識に加えてそれを使用する際に適切なものを選択・統合する「活用力」や心の動きと身体の動きを同調させるという意味での「心身協調」など、今までに聞いたことのなかった概念が関係しているということに気付くことができたと感じている。

また、それらの概念を上手く利用した授業実践(特にアレントの田尻実践)もとても印象的であり、一教師として何を子どもたちに授けることができるのか、についても考えを深めることができた。教育実習を終え、自分は本当に教師になりたいのかな、と悩む時期もわずかながらあったが、今では胸を張って自分は将来英語教員として生きていきたいということが言えるようにもなった。今回の授業で学んだ、英語教師として考えるべきところについて、この先教師になるまでの間、そして教師になってからも自分なりの考えをくんだ視点を持っていきたいと思う。1回1回の授業が深く考えさせられるとても興味深い授業でした。半期間ありがとうございました。来年度もよろしくお願いします。



■SSさんの感想


私たちが教英に入学し、英語教育について勉強し始めてからというもの、耳にたこができるほど聞いた「コミュニケーション力」という言葉ですが、教育実習をしている最中でさえ、私はコミュニケーション力とは何たるものか、まったく説明できませんでした。

ですがこの授業を通して、さまざまな切り口からコミュニケーションというものを観ることができたと思います。いまだに全部をはっきりと理解できているわけではないので、これからまた読み返して自分でまとめていきたいと思っていますが、今ではなんとなくコミュニケーションがどんなものか、というものを低い解像度ながら見え始めたように感じます。自分が教えることになる英語、そしてコミュニケーションというものが何なのか、という自分なりの見解をしっかりと持った教師になりたいと思いますし、多様な教育現場の現状に柔軟に対応できるものの見方を身につけることができたのではないかと感じます。この授業を通して読ませていただいた論考は、この春休み、そしてこれから先も繰り返し読んで行きたいと思います。そして読むたびに、また新たな発見をしていきたいと思います。

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