2012年3月23日金曜日

卒業式挨拶: "Naked I was born. Naked I shall return." および「自分の癖をくもりない心で正す」




以下は私が講座の卒業式でおこなった挨拶です。予定では二番目に掲載したお話をするつもりで原稿も印刷していたのですが、式で3.11への言及があり、それを聞くとやはりこれに関連したことを話したくなり、最初に準備して結局はボツにしたはずの下(一番目)に掲載したお話を(印刷原稿なしで)しました。ここではその二つの原稿を掲載します。

卒業生・修了生の皆さんの幸せをお祈りします。




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"Naked I was born. Naked I shall return."


昨年の3.11およびそれ以降の原子力災害が明らかにしたことの一つは、私たちは自然の中に生かされている生命の一つに過ぎず、やがては確実に死を迎えるということです。

"Naked I was born. Naked I shall return."ということばがあります。人間というのは、裸で生まれ、裸で大地に帰る者であるということです。私たちがこの世で獲得するすべての栄華はやがて無になります。いくら虚勢をはろうとも、私たちは裸で生まれ、裸で死ぬ一つの生命に過ぎません。

そんな私たちが「希望」や「喜び」などについて語るなら、それは自分一人の範囲ではなく、人びとの、人類の、いや地球の範囲で語らざるを得ないと私は考えます。

この日本社会・人類社会・地球の中で生を受け、日々生かされている私たちは、その授かった生命・生かされ続けている生命にかけて、自分一人の利害得失・我執我見を超えて、社会・地球に対して貢献をする責務をもちます。それが社会人の意味であると私は考えます。

と言いますより、個人一人の私利私欲にまみれた人生など所詮むなしいものであることは、古今東西の人びとが語り続ける通りです。私たちに揺るぎない「希望」や「喜び」があるとすれば、それは私の死後も連綿と生き続け、生まれ続ける人びとの笑顔にあります。そして、その人びとを生かし続ける、この社会という歴史-文化的つながり、この地球という生態系にあります。

大学院進学生などを除けば皆さんは4月から社会人になるわけです。ようこそ社会へ。共に社会と地球をよりよきものにしましょう。少なくとも社会と地球を損なわないようにしましょう。それが社会人としての希望であり喜びです。

これまでどうもありがとうございました。
皆さんが、周りの人びとを幸せにできる人生を送ることができますように。













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自分の癖をくもりない心で正す



ご卒業・ご修了おめでとうございます。

さらに大学院に進学する一部の方を除けば、これで皆さんは学校を離れることになります。もう皆さんに指導することを職業とする「先生」はいなくなります。

しかし社会に出る皆さんは、これからは「先生」なしに学ばなければなりません。社会生活は、それほど単純なものではないからです。

宮大工の小川三夫氏は、自ら営む鵤(いかるが)工舎から独立した弟子の中には、小川氏から「何も学ばなかった」という者もいるし、「たくさん教わった。おかげで一人前になった」という者もいるが、どちらも正しい、なぜならそれもこれも本人次第だからだと言います。

その違いを生みだすのは何でしょうか。小川氏は職場に入ったばかりの新人について次のように言います。


いまは修行に来ているわけだから、最初は自分自身というものを捨て去って、親方がいる、先輩がいる、そういうところの全体の雰囲気をきちっと飲み込んで、そこにうまく合わせて、それがどういうものかを感じ取れる人じゃないといけないんだな。いつまでもというのではない、初めはそうでなくちゃいけない。自分を出すのはずっと後や。人には癖があるんだ。初めは教わるのに、癖は邪魔や。癖が強かったら素直には覚えられないんだ。しかし、その癖は人から直されるものではなくて、本人が直すものだ。
(小川三夫 (2012) 『不揃いの木を組む』(文春文庫)95ページ)


社会での仕事はうまくいって当たり前。ことさらに褒めてもらえることはありません(給料をもらっているのですからそれで十分です)。それどころか新人時代の仕事はまずうまくゆきません。駄目という結果が出るだけです。でもなぜ駄目なのかを親切に教えて丁寧に指導してくれる「先生」はいません。あなたはただ何度も何度も駄目出しをもらうだけです。

そんな中で素直に、謙虚に「なぜ私はこのような駄目出しばかりをくらうのだろう」と反省すれば、社会でも「教わる」ことができます。うまくいかない仕事、人よりも多くかかる時間、話を聞いてくれない生徒やお客さんなどが、あなたの癖あるいは拘りや思い込みを正してくれる「師」となります。逆に駄目出しをくらって、周りを恨んだり、僻んだように自分を責めたりすれば「社会では誰も何も教えてくれなかった」ということになります。

どうぞ4月から与えられる現場を、物事をありのままに映し出す「明鏡止水」のようなくもりない心で感じ取ってください。あなたの拘りや思い込みで現実を歪ませることなく、上司や先輩だけでなく、周りのすべての人々や物事が実はあなたの「師」でありうるのであることを知り、素直に学んでください。

そうすればたとえ最初は仕事がうまく行かなくとも、職場は、給料をいただきながら修行ができる、本当にありがたい場となります。修行をして、あなたがこれまでに身につけてしまった癖を取り、あなたが本来もっている可能性を十分に開花させてください。そして周りの人を幸せにし、あなた自身も幸せになってください。

本日はご卒業・ご修了おめでとうございました。













2 件のコメント:

ポッピーママ さんのコメント...

柳瀬先生 今晩は。
北海道東部は、例年にない寒さで、昨日も今日も雪が降っています。きっと4月や5月も寒いと思われます。
どちらのお話も、心にしみました。
今春、7度目(だったと思う)の卒業生を出して、本当に自分が実感したのは、『学ぶ』ということは各自の権利であり、いつ何をどう学ぶかは教える側が関知できないモノなのだと言うことでした。教えたつもりになって、「さっぱりできていない」と不満を言っては、子どもたちを点数で序列化しているという、私の不遜をただただ思い知ったということです。私が教えたことや教えなかったこと、無言のうちに影響を与えたこと、それは、もう、彼らの人生の一部であって、私の手からは離れてしまったこと。それでも、少しは何かの役に立ってくれれば儲けモノ。そんな気持ちになりました。自分が年を取って、少しは人間としてマシになったノかもしれませんし、彼らとの出会いがそうさせてくれたのかもしれません。
新年度はなんと、クラス担任から外れ生徒指導部長です。とても不本意。でも、そこで私ができることは何か、しっかり考えていきたいと思います。

柳瀬陽介 さんのコメント...

ポッピーママさん、

コメントをありがとうございました。

「『学ぶ』ということは各自の権利であり、いつ何をどう学ぶかは教える側が関知できないモノ」というのは全く賛成です。

最近は何かと管理が流行して、政治家は教育行政を、教育行政は教師を、教師は生徒をやたらと囲い込もうとしているように思います。

もちろん適切な管理は必要ですが、不必要に囲い込むことにより、囲い込まれる者を、息苦しくして、可能性を狭くしているのではないかと私は恐れます。

生徒指導部長の仕事からも様々なことが学べると思います。
でもどうぞご無理はなさらないように。

柳瀬陽介