2012年5月30日水曜日

コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える





1はじめに

本稿は、授業をコミュニケーションとして考えた上で、コミュニケーションのモデルに何を採用するかで、授業観がどのように変わるかを検討する。コミュニケーションのモデルとしては、情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルの3つを検討するが、中心的に検討したいのは出来事モデルである。



1.1 コミュニケーションとしての授業

「授業も一つのコミュニケーションである」という主張に反論を加える人は少ないだろう。だがコミュニケーションをどう捉えるかで、この主張の意味するところは大きく違ってくる。本稿では、コミュニケーションのモデルとして、最も普及している情報伝達モデル、ヤコブソンによる6機能モデル、言語人類学による出来事モデルを取り上げ概説し、それぞれのモデルにより「コミュニケーションとしての授業」がどのように描かれるかを検討する。



1.2モデルとは歪曲を伴う単純化である

具体的な検討に入る前に、「モデル」について注釈を入れておきたい。「モデル」とは複雑な現実を単純な形に還元して表現したものであり、その単純化においては、それぞれのモデルにおいてそれぞれの歪曲が入る。歪曲とは、特定の側面の強調であり、その他の側面の軽視である。したがって現実のすべての側面を表現するモデルはないと考えるべきであり、それぞれのモデルは現実理解においてそれぞれの長所と短所を有する。

だがこのことは、すべてのモデルが等価であることを意味するわけではない。ある目的が与えられた場合、より適したモデルと適しないモデルの差はあると考えるべきである。またそれぞれのやり方で現実を表現する複数のモデルも、それぞれが描き出す現実理解の差において、好ましいものと好ましくないモデルがあると考えるべきである。

結論を先取りして言うなら、本稿は授業を描き出しその意味合いを探るためには、3つのモデルの中で出来事モデルが現在最も適していると考えるが、このことは他の2つのモデルが授業について考えるため、あるいはコミュニケーションについて考えるために無効であることは意味しない。それぞれのモデルにはそれぞれの特徴がある。しかしそれらの特徴を考えるなら、出来事モデルが、授業を考えるためにはもっとも実り豊かな理解をもたらすと著者は考える。以下、なぜ著者がそのように考えるようになったかを論考により示す。


1.3 本稿の限界

だが本稿の限界を予め述べておくべきだろう。本稿は立教大学の小山亘先生の論考、特に『コミュニケーション論のまなざし』三元社『記号の系譜―社会記号論系言語人類学の射程』(の第2章第2節)に触発されて書いたものである。だが、私は(1)小山先生の論考を十二分に理解しているかについて確信を抱けていない、(2)小山先生が引用する主要文献(特にヤコブソンシルヴァスティン)を読んでいない、(3)自分のルーマン理解(特にhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html#071124で示した理解)に基づき、自分独自の解釈・改変を加えた論考をしている、ことをここで明らかにすべきだろう(また用語法も小山先生の用語法に必ずしも従っていないことも付記しておく)。本稿の理論的理解に少しでも見るべき所があるとすれば、それは小山先生の論考に負うものであり、そう感じられた読者は、小山先生の著作(およびヤコブソンやシルヴァスティンの論考)を直接読むべきである。本稿の欠点や短所などはすべて私の責任であることを予め述べておく。

そう述べた上で、以下、情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルをそれぞれ概説し、それらのモデルからどのような授業像が見えてくるかを検討する。







2 情報伝達モデル

最初に取り上げるのは、情報伝達モデルである。しばしばコード・モデルとも呼ばれるこの考え方は、シャノンとウィーバーの工学的モデルに由来するモデルであり、コミュニケーションをもっぱら情報伝達の点から考える。(参考:コミュニケーションの伝達モデル




2.1 図説・概説

以下は、Wikipediaに掲載されている画像である(図をクリックすれば図が拡大します。以下、同じ)

このモデルはよく知られているので詳しい解説は省略するが、コミュニケーションとは、ある情報Xを送信者が符号化(encoding, codifying)し、符号化された情報はある経路を通って受信者に届き、その受信者はその情報を復号化(decoding, decodifying)して情報Xを復元することであると考えられている。コミュニケーションの成功は、符号化と復号化の正確さ、経路での障害のなさなどからもたらされると考えられている。




2.2 コード重視 ― メッセージ(テクスト)は所与で同一

この情報伝達モデルが、コミュニケーション ―本稿では言語コミュニケーションを「コミュニケーション」として考え、他の種類のコミュニケーションはとりあえず考えない― のモデルとして不十分なのは、Relevance: Communication and Cognitionに詳しいので省略するが、ここで他のモデルとの比較から注目すべきは、情報伝達モデルが、コード(code)を重視したもの(小山 2008, p. 197)であり、またメッセージ(テクスト)(注1)は所与のものとして想定され、ただ送受信されるだけのものとして扱われ、かつ送信者と受信者においてそれは同一のものである(べき)だと考えられていることである(小山 2008, p. 204)。これらの特徴から考えられる授業像を次項で述べる。

(注1) 本稿では「メッセージ」と「テクスト」という用語を同義として扱う。



2.3 情報伝達としての授業

授業とはコミュニケーションであり、コミュニケーションとは情報伝達であると考えるなら、その情報伝達モデルに従い、授業において重視されているのは、教師(送信者)と学習者(受信者)の間に同じコードが共有されていること(あるいは同じ符号化・復号化手段が共有されていること)となり、メッセージ(テクスト)としての教育内容は、例えば教科書などによって予め与えられたものであり、授業は教師が有する教育内容テクストを、学習者も共有できるようになれば成功だと考えられる(実際、学校の定期テストの多くは、教師によって授業で伝えられた教育内容を学習者が忠実に再現することを求めている)。授業の成功のために重要な他の事は、例えば情報が伝達される経路が確保されることであり、それは具体的には私語のない静かな空間が確保されるなどを意味する。

やや単純な例をあげるなら、この情報伝達モデルに基づく「良い授業」とは、静粛な環境での流暢な講義であり、そこでは教師の発話や板書が学習者によって速やかに記録されることが求められている。学習とは記録された教育内容を学習者自ら再現することである。あるいは英語の「良い授業」とは、コミュニケーションのコードを目標言語にしてしまういわゆる「オールイングリッシュ」となるのかもしれない。情報伝達の情報内容が英語についてであるだけでなく、情報伝達回路そのものが英語によるなら、それこそは英語教育という目的に適った授業・コミュニケーションと考えるのかもしれない。だが、このモデルでは、以下の6機能モデルで明らかになるような側面に注目することが困難である。







3 ヤコブソンの6機能モデル

ヤコブソンは、コミュニケーションを6つの要素から考え、それぞれの要素を重視した際に生じる6つの機能を明らかにして、それをコミュニケーションのモデルとした。このモデルは、「(会話分析や談話分析を含む)諸々の語用論的研究を包括的に捉える射程を持っている」のであり、「現代の言語使用(語用)の諸研究の枠組(フレーム)となっている」ものであると小山は述べる(2008, p. 217)。以下、小山に従いこのモデルを概説する。用語法も基本的に小山に従うが、小山が"referent"としている箇所(小山 2008, p. 207)は、ヤコブソンの元々の用語に従い"context"としているところは明確に異なる(下図参照)。


  3.1 図説・概説

小山の解説を元にヤコブソンの6機能モデルを図示するなら、以下のようになる。すべて大文字で書かれた用語はコミュニケーションの6つの要素であり、括弧の中に斜字体で書かれた用語はコミュニケーションの6つの機能を示す。






それでは6つの機能を概説する。

(1) Emotive function (表出的機能)

表出機能は、コミュニケーションの一要素である語り手(Addresser)の働きが強く現れるものであり、「送り手の態度や感情、また、社会的アイデンティティ、ステータスなどの社会文化的特性」(小山 2008, p. 209)などが伝えられる。


 (2) Conative function (動能的機能)

動能的機能は、コミュニケーションの要素としての聞き手(Addressee)への働きが強いものであり、聞き手への呼びかけ・命令などがその代表例である(小山 2008, p. 210)。


(3) Referential function (言及指示機能) 言及指示機能は、例えば「彼女は突然その場に現れた」や「織田信長が桶狭間の戦いで・・・」といった発話で、「彼女」「その場」や「織田信長」「桶狭間」といった言葉で実際に指示 (refer) されているコンテクスト (context) を明らかにする働きである。

以上の、表出的機能・動能的機能・言及指示機能は、例えばサールのスピーチ・アクトの5つのタイプでも説明されている。例えば表出的機能はサールの言う「勘定表出型発話行為」(expressives)と「行為確約型発話行為」(commissives)によって主になされるし、動能的機能は「行為指示型発話行為」(directives)でなされ、言及指示機能は「記述表象型発話行為」(representatives)と「規約宣言型発話行為」(declarations)でなされると考えられる(小山 2008, p. 210)。しかしサールの論などでは、以下の3つの機能は説明しがたい。

(4) Phatic function (交話的機能)

交話的機能とは、コミュニケーションの接触回路(contact)に焦点があたった機能であり、挨拶が典型例である。挨拶は、「いわば、社会文化的な相互行為(コミュニケーション)の「スイッチ」が入ったこと(あるいは切れたこと)を明示的に示す、メタ・コミュニカティヴな記号」と考えられる(小山 2008, p. 211)。

(5) Metalingual function (メタ言語機能)

メタ言語機能 ―ヤコブソンの言い方なら"metalingual function"だが現代の言い方なら"metalinguistic function"となろう― は、使われる語や言い回しの意味に焦点化した「メタ意味論的機能」(metasemantic function)と、発話行為の解釈枠組に焦点をおいた「メタ語用論的機能」(metapragmatic function)の二つの側面をもつ。いずれにせよ、コミュニケーション使われた言語に関してのコミュニケーションである(ちなみに、ベイトソンの「メタ・コミュニケーション」は「メタ語用論的機能」についてのものである)(小山 2008, pp. 211-213)。

(6) Poetic function (詩的機能)

詩的機能とは、コミュニケーションのメッセージ(テクスト)の働きが強い時に現れるものである。この機能を「詩的」とヤコブソンが呼ぶのは、テクストそのものへの工夫創意は詩において最も典型的に現れるからである。(小山 2008, p. 214)



3.2 テクストとコンテクストは生成するが同一

このヤコブソンのモデルを、情報伝達モデルと、次に述べる出来事モデルと比べた場合に注目べき点は、情報伝達モデルと異なり、このモデルではテクストとコンテクストが生成されるものとして捉えられていることである。テクスト(メッセージ)は、言及指示機能によってコンテクストが示されて初めて十全なものとして現れる(注2)。情報伝達モデルにおいては、テクスト(メッセージ)は送信者の頭の中に十全な形で存在していると想定されおり、コンテクストはせいぜいコミュニケーション経路(例えば、電波が送信される空間)ぐらいにしか考えられていないといえるだろう。情報伝達モデルで、テクストとコンテクストは所与であるが、ヤコブソンモデルではテクストとコンテクストは、コミュニケーションにおいて生成されるものとされている。

(注2)この3.2の論点に関しては、ヤコブソンの原典を読んでもう一度じっくり考えたい(ヤコブソンの論文は約20年前に翻訳を読んだだけである)。現時点では上記の理解を仮設的に提示しておく。





3.3 6つの機能から考える授業

これら6つの機能を列挙することにより、授業のどのような側面が描き出されるだろうか。以下、田尻悟郎先生といった有名な実践家の実践を例にしながら、このモデルが提示する授業理解を明らかにしてゆきたい。なお、実際の授業行為は、複数の機能が重なったものである。以下の例にしても、主にその機能が強く見られるというだけであり、他の機能が見られないなどということは意味しない。なお田尻悟郎先生の実践に関しては、以下からしばしば引用する。

田尻悟郎先生の多声性について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html


(1) Emotive function (表出的機能)

田尻先生は、教師として教育内容に言及するときに明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者と心理的交流を深め学習を支援するときなどに親和性と親密性に富む関西弁を使い、職員室での教員同士の会話では出雲弁を主に使っていた(当時の勤務校は島根県)。また、日本語・英語を問わず、様々な声色・声質・声量で、教師と生徒の関係性(あるいは自らのアイデンティティ)を表現していた。

(2) Conative function (動能的機能)

田尻先生の授業では、生徒への指示は主に英語でなされていたが、その指示はクラス全体に対して行われる場合、個人に対して行われる場合、困難な課題に対して行われる場合、日常的になされている指示の場合などで、巧みに使い分けがなされていた。

(3) Referential function (言及指示機能)

田尻先生の授業は、英語教室で行われ、そこには壁のいたるところに、英語学習の参照物が掲示されていた。また、参照物は生徒に配布し常時机の上にも置かせていた。田尻先生の実践の大きな特徴の一つは、この言及指示機能の豊かさにある(以下の(6)も参照)。

(4) Phatic function (交話的機能)

生徒がある学習項目でつまずいた時に、田尻先生は笑顔で「おーっ、忘れたかー。忘れたなー」といかにも楽しそうに言いながら、その学習項目の復習のために教材の入ったCDプレーヤーに向かった。学習上の失敗という、しばしば教師-生徒間のコミュニケーションの断絶につながりかねない事象に対して、このようにコミュニケーションが継続されていることを保証するような言語使用が田尻先生の授業には見られた。あるいは、生徒の間違いをわざと誇張して笑顔でからかう「55 minutesって何だよ。なんで55分もかかるんや」と標準語から関西弁になるのもこの事例の一つと考えられる。

(5) Metalingual function (メタ言語機能)

田尻先生の場合、発話中の語句の意味に関するメタ意味論的機能は、明瞭な標準語でなされていたが、生徒の発話行為全体をどう解釈するかというメタ語用論的機能は、さりげない褒め言葉(「うん、そうそう、えらい、えらい」)でなされたり、反応の遅いクラスを陰気にならずからかう笑顔での挑発の「遅いやん」という関西弁などで巧みになされていた。

(6) Poetic function (詩的機能)

これは田尻先生の実践の最大の特徴と言えるかもしれない。田尻先生が生徒に覚えさせる言語ルールなどは、語調・語呂よく、何度も繰り返して唱和することが楽しくなるようなものとして作られてきた(このネーミングの巧みさは、現在NHKで放映されているテレビで基礎英語でもしばしば観察される)。この点については時間があれば、具体的にもっと検討したいが、今回はこの論点の提示のみに留める。

もちろんこれらの特徴は、ヤコブソンの6機能モデルでないと解明されないわけではない。しかし、情報伝達モデルでしかコミュニケーションを捉えない場合と比べると、このモデルでコミュニケーション理解をすると、授業理解も豊かになることは納得していただけるだろう。「コミュニケーションとは何か」といった根底的な問いは、しばしば「哲学的」と敬遠(というより揶揄)されるが、根底的な理解を確かなものにしなければ、表面的な現象も確かなものにならないことをここでは強調しておきたい。





4 出来事モデル

三番目のコミュニケーション・モデルは、現代言語人類学が採択する出来事モデルである。このモデルでは、出来事(event)を中心にコミュニケーションが概念化されている(小山 2008, p. 221)。私はこのモデルの理解についてまだ十分な自信を持つことができていないが、思い切って自分なりの理解で、この出来事モデルを概説してみたい。


  4.1 図説・概説

コミュニケーションの出来事モデルを私なりに図解するなら以下のようになる。






黒色はコミュニケーションの参加者Aによる身体的行為・心理的認知、白色はBによる身体的行為・心理的認知を示す。話を単純にするため、AがA1という発話をしたことからこのモデルを始める。そのA1は、命題内容という情報 (information) を述べる"saying"の部分と、社会的な発話行為 (speech act) を示す"doing"の部分の統合として、Bによって理解 (understanding) される。ただ統合とは言うものの、これは必ずしも単純なものでなく、そもそも"saying"のlocutionary actが明確に把握 (comprehension) されない場合もあるし、どのような発話行為として解釈(interpretation)するべきか確証がもてない場合もある。また、情報の把握と発話行為の解釈の両方を同時に考えてそれぞれをどのように統合的に理解しなければならない場合もある(注3)。

(注3) このモデルは、ルーマンの以下の見解に基づいている。詳しくはhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html#071124を参照されたい。

コミュニケーションが成立するのは、情報と告示行動の差異が観察され、確認され、理解されて、この差異が接続行動の選択を基礎づける場合に限られている。その際、理解するということには、程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている。しかし、これから明らかにされるとおり、点検可能で修正可能な誤解が重要になるのである。

したがって、これから本書では、コミュニケーションを三極の統一体として取り扱うことにしたい。コミュニケーションが創発的事象として成立するためには、三つの選択が総合されなければならないということから出発することにしたい。(221ページ)。



Kommunikation kommt nur zusatnde, wenn diese zuletzt genannte Differenz [=Differenz von Information und Mitteilungsverhalten] beobachtet, zugemutet, verstanden und der Wahl des Anschlusverhaltens zu Grunde gelegt wird. Dabei schliest Verstehen mehr order weniger weitgehende Misversandnisse als normal ein; aber es wird sich, wie wir sehen werden, um kontrollierbare und korrigierbare Missstandnisse handeln.

Kommunikation wird also im weiteren als dreistellige Einheit behandelt. Wir gehen davon aus, das drei Selektionen zur Synthese gebracht werden mussen, damit Kommunication als emergentes Geschehen zussandekommt. ( p. 196)



Communication emerges only if this last difference [=difference between information and utterance] is observed, expected, understood, and used as the basis for connecting with further behaviors. Thus understanding normally includes more or less extensive misunderstandings; but these are always, as we shall see, misunderstandings that can be controlled and corrected.

From now on we will treat communication as a three-part unity. We will begin from the fact that these three selections must be synthesized in order for communication to appear as an emergent occurrence. (pp. 141-2)


AによるA1のsayingとdoingを同時に勘案にいれながら、BはA1を理解するが、その理解こそはBにとってのテクスト(Bが理解するAからのテクスト(メッセージ)である。そのBの理解の際には、sayingの把握の部分にせよ、doingの解釈の部分にせよ、sayingの把握とdoingの解釈の統一体としての理解そのものにせよ、何を背景・後景、つまりはコンテクストとして措定するかを定めることが必要である。つまり理解によってテクストが生成される時、そのテクストのコンテクストも同時に生成される(というより生成されなければならない)。理解とはテクスト生成 (textualization) でありコンテクスト生成 (contextualization) である。

BはB1という理解(=テクスト生成・コンテクスト生成)に基づき、自分自身の発話(B1)を行う。これもsayingとdoingに分けることができるが、Aはこれを統合的に理解し、Aなりの理解を行う(A2)。その理解とは、Aなりのテクスト生成(A2)でありコンテクスト生成(A2)であり、その理解を基にAは次の発話(A2)を行うが、その発話もsayingとdoingに分けることができるのは言うまでもない。


4.2 差異を有する複数人の間での相互作用によるテクストとコンテクストの生成と発展

このモデルにおいて、Aの理解とBの理解は同じものと想定されてはいない。AはAなりの理解しかしない(できない)し、BもBなりの理解しかしない(できない)。ということは、Aのテクストとコンテクストは、Bのテクストとコンテクストと必ずしも同じものではないことになる。しかしAとBの発話が連続(接続)する限りにおいて、AとBの理解・テクスト・コンテクストは相似的であり、発話が連続(接続)につれ、つまりはコミュニケーションが続くにつれ、その相似の度合いは原則として高まると考えられる(もちろん、何らかのきっかけで突然大きく離れる場合もあるのだが)。

通常、現象的に(あるいは外面的に)「コミュニケーション」と見なされるのは、観察される発話 (saying + doing) であるが、この発話は通常は観察されない心理的な理解に基づくものである。しかもその理解は個人的なもので、複数の人間は理解を明らかな形で共有することはできないのだから、発話の発展は、コミュニケーションのどの参加者も予想できないものとなりうる。コミュニケーションは、個人内のレベルで出現するのではなく、相互行為(interaction)のレベルで創発(emerge)する。コミュニケーションはどんな個人内に回収することもできない、相互行為である。この意味でコミュニケーションにおいて、参加者一人ひとりの中で独自に生成される理解・テクスト・コンテクストも相互作用的(interactional)なものであると言える。

この出来事モデルは、テクスト・コンテクストの生成を強調する点で、ヤコブソンの6機能モデルと似ているが、出来事モデルでは、テクスト・コンテクストは(たとえ相互作用的であるとはいえ)個々人間で差異を有するものだと考えられる。ヤコブソンのモデルにおいては(私が考える限り)生成されるテクスト・コンテクストは語り手と聞き手の間で同じものと想定されているように思える(少なくとも語り手と聞き手の間でのテクスト・コンテクストの差異を積極的に主張しているとは思えない)。出来事モデルは、コミュニケーションの相互作用性だけでなく、個人性(個人間での差異)もよく表していると言えよう。

この特徴は、出来事モデルが「オリゴ」"origo" ( = deictic center)を重視している (小山 2008, p. 197) ことにも重なるかもしれない。コミュニケーションの参加者は、それぞれのオリゴ (deictic center) を有し(あるいは投射 (project) し ― deictic projection―) コミュニケーションを行う。言い換えるなら、コミュニケーションは参加者がそれぞれに有する(あるいは投射する)オリゴ (deictic center)からでしか発生しない。しかしコミュニケーションはどの個人のオリゴ (deictic center)にも回収されることなく、参加者は相互のオリゴを想定しつつ、それぞれのテクスト・コンテクストを生成し続ける。

テクスト・コンテクストの生成が接続し連続するなら、つまりはコミュニケーションがつながるなら、それは一つの「出来事」(event)となる(注4)。コミュニケーションという出来事は、心的世界を異にする参加者が、それぞれの心的世界の理解を基にしながら、発話を重ね、それが相互作用的に、つまりはお互いにひとつのまとまりとして知覚されるものである。

(注4)このあたりの論考も、実はもっと文献を読んで慎重に行いたいが、今回はこのように論じておく。


4.3出来事としての授業

この出来事モデルを採択することにより、授業理解も新たになるだろう。本来はもっと時間をかけて考察してから書きたいが、今回なりに論点を提示するなら、それは授業においての「テクスト」とは、例えば誰にとっても同一に見える教科書でもなく、「コンテクスト」も共通の物理空間である教科書でもないということである。

出来事モデルによってコミュニケーションを理解した上で浮かび上がってくる授業像は、教師が自分のオリゴ (deictic center)から、学習者のオリゴ (deictic center) を想像し、その想像に基づき言動 (saying + doing) を行い、生徒はそれが自分にとって関連のある(=これまでの自分やこれからの自分につながる)出来事 (event) として理解 (understand) できる限りにおいて、自分なりのテクストとコンテクストを自分の中に創り出すということである。

生徒は自分なりに関連のある・つながりのある理解を、教師の言動から創りあげることができる限りにおいて、自らの言動も始動させる。生徒がそれぞれに理解に基づく言動を開始させたなら、生徒の間での理解ひいては言動の差異は、それがつながりを断絶させるものでない限り、さらなる理解の生成を促す。こうして生徒それぞれが、それぞれのテクスト・コンテクストを生成するが、それらはコミュニケーションという出来事としてつながる限りにおいて、それなりのまとまりをもったものとなり、決して生徒が自分勝手に「何でもあり」の理解をするわけではない。

授業の成功は、円滑な情報伝達だけに還元できない。また、授業における表出的機能・動能的機能・言及指示機能・交話的機能・メタ言語機能・詩的機能はそれぞれ重要であるが、授業というコミュニケーションは、参加者個々人の差異を認め、かつ活用することにおいて成功すると言える。これが出来事モデルから描き出される授業像である。(コミュニケーションにおける差異の活用については「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」のPDFファイルをご参照いただければ幸いである。)





5 おわりに

社会が産業社会からポスト産業社会に移行し、求められる学力が、典型的には工場労働者に必要な均一な知識から、個性的で協調的な知識創造に変わりつつある現代において、私は出来事モデルが最も時代に適した授業理解を提示していると考える。佐藤学氏は、的確な授業理解・教育観を提示し続ける教育学者だが、氏の論考と出来事モデルによる授業というコミュニケーションの理解は重なるところが多いとも予感している。本日はブログという媒体での試行的な論を展開したが、今後、考えを深めてゆきたい。





















関連記事:小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html





2012年5月14日月曜日

辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫)




教育学部で働いていて違和感を覚えることの一つは、学ぶこと、教えることのすべてを学校教育という制度の中でしか考えようとしない人々にしばしば出会うことだ。そのような人は学生さんに多いが、時に現職教師、さらには教育学研究者の中にもいる。

人類学的に考えてみれば自明なのだが、学校教育制度というのは近代の産物に過ぎず、人が他人に何かを教える現象は学校教育制度を超えて存在する(簡単な例だと職場での教示)。ましてや人が何かを学ぶ現象はさらに広範囲に存在する(例えば、人が自然の中から何かを学ぶこと)。

ところが「学校化された」とでも言いたくなるような人々は、すべてを学校教育の考え方でしか考えようとしない。学校教育のやり方こそは教え・学ぶ方法であり、それ以外の方法など考えがたいとばかりである。さらにはすべてを学校教育化し、学校教育のような制度の中にあらゆる教え・学びを収斂させようとする。私はその発想が端的に言うなら気持ち悪くて仕方がない。

もちろん学校教育のあり方を全面否定するつもりなど毛頭ない。ただ、学校教育的な考え方しかしないことだけは勘弁してほしいというのが私の考えだ。学校教育の肥大化についてこの本(『「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)』)の著者も言う。

学校教育の肥大化は、近代公教育の制度が普及し徹底していった結果である。したがってどんなに長く見積もっても、歴史的にはたかだかここ100年に満たない。否、先に見た意味での<学校化社会>という現象は、高度経済成長以後のここ、三、四十年のことにすぎないと見た方が、日本の現実に近いであろう。すべての子どもが、一定年齢の相当長い期間、学校という特定の場所・施設に強制的に「囲い込まれ」、一様の教育を受けなければならないという現象は、人類の歴史という大きなスケールで眺めた時、ごくごく近年の、きわめて特異な事態に属する。(辻本 2012, p. 187)


それでは近代学校教育の特徴とは何か。著者はそれを「教え込み」として次のように総括する。

近代学校教育は、一人の教師が多数の生徒を相手に、一斉授業の形式によって行うことを原則とする。学校では限られた時間のうちに多数の生徒に対して大量の知識を教えなければならない。したがって、教える知識は、「教科」という形に類別され、生徒の発達段階や年齢なども考慮して、一定の合理的なカリキュラムやプログラムにしたがってなされる。そこでは、多くの生徒に、限られた時間で、いかに効率的・合理的で正確に教えることができるかが追求される。概念化され理論化され言語化された知識が、言葉によって「教え込まれ」ていく。これが近代の学校教育のなかの「教え込み」の原理である。
ここでは「教える主体」としての教師が中心になって、「教育」が構想されている。いかに合理的に効率よく教えるか、そのための教える技術が工夫され、教える知識の合理化が、カリキュラム研究として追究されていく。近代の教育学という学問は、このような問題群を主題として、近代ヨーロッパに立ち上がってきた。粗雑なものいいを承知で言えば、それは教える主体を自覚した教師の立場からの学問であった。近代学校とその学校の「教室」は、こうした「教え込み」の教育方法の原理が支配する場にほかならなかった。(辻本 2012, pp. 228-229)


「教え込み」を職業とする「教える主体」という措定は、学習者を「学ぶ主体」とではなく、しばしば「教育の客体」として捉えることを私たちに促す。近代的な教師・教育学研究者の多くは、学習者を、教育の対象であると信じて疑わない。

ここでは学習する子どもの方が教育の客体で、教える主体の事情が基本となって教育が構成されている。そして今日われわれは、そのことを疑うことさえ忘れてしまっている。それを当たり前のこととして受け容れているのだ。(辻本 2012, p. 23)


もちろん学習者を教育対象・教育の客体としてでなく、学ぶ主体として認め、学習者の学びを伸ばしている優れた現場教師は存在する。そのような教師による実践を、近代学校教育のイデオロギーに回収してしまうことのないように注意しながら丁寧に読み解くことは、現在、さまざまな点で行き詰まりを示しているようにしか思えない近代の学校教育を再生させるためには有効な方法だろう。

だが別の方法は、この著者のように、近代以前の教え・学びを丁寧に調べ、近代学校教育を相対化することだろう。かくして著者は手習塾(=いわゆる寺子屋)の様子や貝原益軒の思想を、近代的発想に絡め取られてしまわないように注意を払いながら解明してゆく。

手習塾について、著者は例えば次のように述べる。

手習塾への入塾は、ある手習師匠の弟子になるということを意味するものであって、手習塾という教育機関に入学する、という感覚ではなかった。学問の学習も同じことだが、どの師匠に就くかということは、学ぶ側(実際には学習する子どもの保護者)の意志によって選択される。
(中略)
要するに手習塾での学習と教育は、信頼するに足る手習師匠(教師)と子ども(「寺子」、学習者のこと)との一対一の師弟関係、つまり個別の人間関係を機軸として成り立っていたのである。いいかえれば、教育の機関として塾がとられているというよりも、信頼できる師匠と弟子の、人と人との教育の関係が成り立つ場として、塾があったというべきである。(辻本 2012, p. 19)


貝原益軒の教育観でも師弟の信頼関係が強調されているが、彼は特に「術」(実践のための具体的な方法)の体得に関して、師匠が弟子に術を「教え込む」ことによって弟子が術を体得するのではなく、弟子がよき師匠を見定めその師匠と行動を共にする中で術を模倣し体得するのだと述べる。以下はこの本の著者のまとめである。

「術」が学ばなければ得られないものであるなら、その学ぶ対象の正否が重要である。だから「師は人の模範にして、学者の法効する所以(ゆえん)なり。故に師良くしてしかるのちに学術正し」(原漢文、『初学知要』巻上)というように、「術」は師を模範として、それを模倣して学習する、という模倣と習熟の学習が説かれる。ここに益軒の教師論がうかがえる。教師は教える主体であるよりも、学ぶ者が真似るための模範(モデル)としての存在である。だからいかに教えるかではなく、いかによき模範となりうるかが、教師の課題となる。(辻本 2012, p. 119)


しかしこういった「近世的」(=非「近代」的・前「近代」的)教え・学びには絶対的な前提がある。「学習者の側の能動的で内発的な学ぶ意欲」つまり「志」(p. 142)である。ではなぜ日本近世の手習塾あるいは学問塾(いわゆる私塾)で学ぶ者は「志」を持つことができたのであろうか。学習者の学ぶ意欲が低下し、それならばと、勉強をしないと資本主義社会での競争での「負け犬」となると脅しているものの、それによって一層学ぶ意欲が失われているように思える現代(例えば内田樹先生の現時点での最新エッセイ「利益誘導教育の蹉跌」を読んでいただきたい)にとって、江戸期の「志」とは重要な論点である。

著者はこの本を使って、江戸期の教え・学びを具体的に描き出し、この「志」についても詳らかにしているが、「志」に関して単純に論点化すると、なぜ当時の人々が「志」を持つ(あるいは志を立てる(「立志」)ができたかについては、次の二つの要因が大きい。

(1) 学ぶ内容が、「生きる」ことに密着していた。

(2) 学ぶことを意味づける思想的な世界(コスモロジー)が存在していた。


説明が容易なのは(1)である。著者が第一章で明らかにするように、手習塾の多くの学習内容は、商人の子、あるいは農民の子などが、それぞれの生業で必要とする読み書き算盤であったので、いわば「学ぶことの意味は疑う必要もなく、子どもたちにただちに実感することができた」(辻本 2012, p. 199)のである。(またそもそも手習塾は制度的に強制されたものでなく、学ぶ者(およびその保護者)の自由意志で行くものであったことも付け加えておくべきだろう)。

(2)については、近代的イデオロギーに絡め取られてしまっている人には、ある程度の説明が必要だろう。以下は著者による(2)の説明だが、多くの現代人はまず「天地」ということばに戸惑うかもしれない(あるいは失笑さえするかもしれない)。

益軒においては、学ぶことの意味は、「天地に事(つか)える」という思想的な意味付けのなかで説かれていた。このように、近世の学問の学びには、それを意味付ける思想的な世界がその背後に広がっていた。(辻本 2012, p. 198)


それでは「天地」、そして「天地に事える」とは何か。著者は益軒の思想を要約する。

益軒の「事天地説」(「天地に事えるの説」、漢文著作の『自娯集』に所収)の説明によれば、「天地に事える」とは、「天地の心」に随(したが)うことである。「天地の心」というのは物を生み出す心であり、それが人にあっては「仁」の徳にほかならない。だから「天地に事える」とは、実際には仁を実践することになる。仁を実践するとは具体的にはどうすることか。五倫五常にしたがって「人倫を愛し」(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の道を正しく行うこと)、次いで「物を愛す」ることである。「物を愛する」というのは、禽獣(きんじゅう)や草木を正しい「礼」にかなったやり方で用い、正しい「時」(適切な時期)にしたがって獲(採)り、むやみに獲(採)ったり殺したり食べたりしないことなのだという。(辻本 2012, pp. 114-115)


この益軒の思想は、人倫世界のみならず「物」すなわち自然の世界も含めて学問をとらえている点で、他の江戸前期の儒学(例えば中江藤樹、熊沢蕃山、山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂徠)とも異なり(p.115)、また「理」よりも「気」の働き(あるいは「天地の道」)を重視していたように思えるという点でも、当時の標準的な朱子学解釈とも異なっていたように思える(p. 100, p. 117 ― ただし私は朱子学についてほとんど無知なので、このようにまとめてよいのかについての全面的な自信はない)。だがこの「天地に事える」とは益軒だけの独自の思想ではないように思える。少なくとも武術の世界では ―待ってました!武術ヲタの与太話!!www― このような話は多く聞かれる。

私が稽古させていただいている武術(=近代スポーツ競技としての「武道」との違いを強調するなら「古武術」)でも、筋肉の意識的使用を中心とした近代スポーツ的発想と異なり、重力や身体構造といった自然の原理に忠実に従った無意識的な動きができるように稽古を重ねる。筋肉の意識的使用では、自分より身体の大きな者・素早い動きをする者には勝てないからだ。やや短絡的に論を立てるなら、重力と身体構造はまさに天地の働きであり、その象徴的表現が正中線などであるから、武術は、「天地に事える」ことを目指している。

自ら一人の時に天地に事えるだけでなく、相手に攻撃された時でも天地に事えるためには、たとえ攻撃している相手に対してさえも、邪気や怒気を含むことなく、自らの心身を正して一種の「礼」をもって接しなければならない。これは観念的な道徳論ではなく、きわめて現実的な技術論であり、実際にこのように心身の状態を持ってこなければ(古)武術の技はかからない。

だから武術の稽古では、最初に必ずといっていいほど黙想をし、心とからだの状態を整えた上で、正面に礼をする。師と弟子がお互いに礼をするのは、その後である。

この礼は、日本の教室にも(やや惰性的に)残っている授業開始時の礼とは異なる。教室の礼は互礼であり、人間と人間の間での礼である。だが武術の礼は、心身を澄ませた上での「正面」への礼に始まる。「正面」は、道場によっては「神前」となったり、物故したその武術の創始者の写真などとなるが、いずれにせよ「正面」とはその道場の師匠をも超えて、師弟共に目指すべき(しかしおそらくは永遠に到達できないだろう)境地を表現したものである。

自説を述べるなら、自意識を振り払うことができない人間にとって「天地に事える」ことも「正面」が表現していることと言えよう。その「正面」に師弟共々、正座し低頭して礼をすることから武術は始まる。これは現在生きている人間を超えたものへの敬意表現である。この敬意抜きに武術を修得することはできないと(少なくとも日本では)考えられているのだろう(日本の武術と共通点の多い中国武術やロシアのシステマにおいても、それぞれのやり方で人間を超えたものへの敬意を表現していると私は理解している)。

この意味で武術とはきわめて「宗教的」であると考える。「宗教」とは、幕末から明治初期にかけて"religion"の訳語として普及したことばである(ウィキベディア:宗教:語源)。その"religion"の語源の一つの説は、"bind fast"「結びつける」である(Online Etymology Dictionary: religion)。武術が「宗教的」(=religious)というのは、武術が人に天地とそして相手という人と結びつくこと(あるいはそれらに即すること)を求めるからだ。対比的に強調して言えば、近代競技スポーツの発想が、いかにある自意識が、自らの自由意志で動く筋力をいかに発達させ、天地人に抗って動くことができるかというものであるのに対して、武術の発想は、いかに天地人に事え即して動くことができるかということである。武術は外見的には単なる身体運動に見えるかもしれないが、実は身心共の宗教的行為であり、自らと天地、そして相手という人と一体になる修行であり、さらには自らの中で分離しがちな心とからだを一つにするという修行であるといえる。

最近ある学生さんが「先生、どうしてそんなに武術の稽古をしようとするのですか」と尋ねてきた時、私は「自分の心とからだを洗濯するため。洗濯した木綿の下着を身につけるのが気持ちいいように、自分の心とからだを洗濯すると気持がいい」と答えた。もちろん私は自意識過剰の武術ヲタであり、こんな小理屈はこねてもまともには稽古していないし、そもそも稽古だっていつまで続くかわからないようないいかげんなものだが、武術修行が一種の宗教的行為であるというのは、それほどの奇説ではないと思う。

さらにいうならこの宗教的側面は、武術の稽古(学習観・教育観)とも密接に関係しているし、上に述べた近世の学習観・教育観ともつながると思う。ひいては、この本の著者も第五章で論じているように、西岡常一氏などによって伝えられている日本の伝統的な徒弟制と内弟子の職人の教育法につながっていると思う。西岡常一氏については別の機会にまとめたいので、ここでは近世の学習観・教育観と現在にまで伝えられている(古)武術の学習観・教育観の共通性について整理したい。

近世の学びについて著者は次のように述べている。

子どもは、みずからの力、五官 [ママ] を動員して、まわりの人々や環境を「見習い聞き習い」しながら、さまざまな活動を繰り返し、たえず学んでいる。ここでは、子どもがみずからの活動によって自力で学んでいるということ、そのことがまず何よりの大前提になっていることに注意しなければならない。そのうえで、子どもがあるべき規範(「義理」)を逸脱しはみ出した場合に、それを見逃さず指摘し、厳しく戒めること、これが益軒のいう「教える」ということなのである。むしろ「教えない」(教え込むということをしない)教育といった方がよいだろう。(辻本 2012, p. 140)

これと同じと思われる学習観・教育観は武術の世界にも見られる。たまたま私が最近読んだ『開祖の横顔―14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿』から例示したい。(武術ヲタの固有の越権行為として、私は偉そうに引用するwww)

加藤弘師範はインタビュアーの「改めて開祖の教えを伺いたいのですが」という誘いに、まずは次のように答える。

あまり細かいことは仰らなかったですね。ただよく大先生 [=開祖・植芝盛平先生] は教えていないと言いますが、私は違うと思う。教え方があるわけで・・・。最高の教え方ってなんだと思います?」(加藤弘(月刊秘伝編) 2009, p. 150)


「何でしょう?」と問うインタビュアーに加藤師範は次のように答える。

最高のものを見せること。やっている姿、雰囲気を見せること。どう投げるなんていう方程式じゃないですよ。開祖の動きを見て、そのなかで何を受け取るのかというのは各人の才能やどれだけ勉強するか。逆に言えば開祖のどこを見たかで全部違う。木剣一つの振り方でも全部違いますよ。でも、いまでも合気道を続けていられるのは、開祖の最高の動きを見たり、手に触れたりしてるからだと思いますよ。(加藤弘(月刊秘伝編) 2009, p. 150)


開祖は近代的な「教え込み」はしていなかったが、師として範を示す(=師範)としては素晴らしかったというわけである。

あるいは山田嘉光師範は「合気道を学ぶ上で何が大事でしょう」という質問に対して、次のように答えている。

自分のレベルを下げない。そのためには、先生、先輩、同輩の良いところをどんどん盗む。盗んで物真似はしない。躊躇せず自分なりに消化する。本当は物真似なんかできないんだよ。違う人間なんだから。だから先生も教えながら「教えても駄目だろう」と思ってたんじゃないかな?結局人が違えば合気道の質も違う。それが合気道の良いところであり宿命。そういう意味で誰も大先生の合気道をやっていない。本当の合気道は大先生だけ。あとは真似事だよ(笑)。(山田嘉光(月刊秘伝編) 2009, p. 150)

ここには教える者の主体性ではなく、学ぶ者の主体性が非常に重要視されている。

このように、天地の理に即した技を見て(あるいは実際に投げられて)、自ら体得するには、自らの身心が澄んでいなければならず、その意味で「宗教的」な要素が武術において大切になってくる。開祖の卓越した能力を認め、自らも開祖の目指した道を歩む多田宏師範(内田樹先生とのインタビューは)http://www.tatsuru.com/guests/interview.tada.htmlは、武術の宗教的側面について次のように語る。

宗教のお話を言えば、大先生は、古神道の禊ぎで高度な能力を得られている。それによって技術も高度なものに変身していったようです。その間の進み方が非常に早かった。技の進化の早さが普通ではない。出口王仁三郎師のところに参じて大変な霊感を得て、心の方が先に進んでしまったのでしょう。ただその心の問題を道徳的な面や抽象的に考えると判らない。呼吸法や具体的な精神集中の科学ともいえる行法を若い時に身につければ、後でそれが全てに活かされ出てくる。これは身体運動だけを行なっている人間には判らない世界だ。(多田宏(月刊秘伝編) 2009, pp. 267-268)
さらに多田師範は、「順番で言えば動きよりも心があるべきでしょうか?」という問いに関して、心とからだのあり方、あるいは心そのもののあり方について述べる。

うーん、いや一般的には同時に行った方が良い。技術が先で、心は後で良いというのは間違いだ。ただ心が先というのも無理がある。もっと簡単に言えば、自分の稽古したものを自分で観察できる体勢を作り上げるのが良いと思う。(多田宏(月刊秘伝編) 2009, p. 268)
無論ここで多田師範が述べられているのは、自分の動きをビデオ録画し、その録画を分析的に見るなどということではない。そうではなく意識をクリアーにして自らを観察することであろう(関連記事:Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts), Movement of Budo (martial arts) and Luhmann's systems theory)。

ここで「宗教」について再び述べると、現代の私たちはしばしば宗教を心だけの問題として考えてしまっている。さらに、宗教が大切にする心とは、ことばで道徳論にそのまま翻訳できるものぐらいに考えてしまっている。現代の多くの人の宗教観は、身体を忘れ言語に傾斜しているのではないだろうか。

宗教も例えばプロテスタントは、同じキリスト教のカトリックと比べてもずいぶん言語の働きが強い(牧師からの説教に慣れたプロテスタントのクリスチャンが、カトリック教会に参列すると言語の少なさと儀式の多さにびっくりするかもしれない)。だがプロテスタントはその由来からしても極めて近代的な宗教である。同じ一神教でもイスラム教では、礼拝の身体性がずいぶん強調されているように私には思える(また、ラマダンをきちんと実行しているイスラム教徒の留学生に私は毎回感心している)。仏教も只管打坐や読経では身体性が重視されている(密教では身体性がさらに徹底されている)。現代人が「宗教」を考える際には、少し言語的側面を少なめに見積もり、かなり身体的側面を重視して考えた方がいいのかもしれない。

武術の宗教性も、道徳的説諭に言語翻訳されるものではなく、身体的なものであり、かつ非言語的な心のあり方に直結したものである。多田師範は、武術・武道の宗教性を道徳的に解釈してしまう人が多い現状を踏まえて、次のように述べる。

それは社会倫理的なことを重視した教えに影響されている。特に戦前は武士道とか忠君愛国とかが強烈に言われてきたから。だけど本当は心のエネルギーの使い方の法なんです。もちろんその使い方っていうのも道徳と関係がある。なんで人を虐めるのか、なんで憎しみをもつのか?それは対象に囚われるから、武道ではそれを隙という。心に隙を持つと相手を妬んだり恨んだりあるいは虐めたりする。それを隙だと自覚して、そういう風なものに囚われない、対象に囚われない感覚の統御法をねっていくのが武道。技はその表現でもある。ところが漠然とした「道徳」として解釈しちゃうとそこでストップしてしまいその先が判らなくなる。(多田宏(月刊秘伝編) 2009, pp. 260-261)


このように武術でも、近世の学習観・教育観と同じように、教える者は「教え込み」をせず、学ぶ者の主体性こそが大切だとされている。さらに、教える者も学ぶ者も、自我意識を超えて天地人に事え即するという意味での宗教的態度を持つことが武術の修得には必要とされている。これも近世の学習観・教育観に見られた学ぶことを意味づける思想的な世界(コスモロジー)の共有の例として見られるだろう。この意味で、近世の学習観・教育観は、少なくとも(古)武術の世界には現在もまだ残っていると言えよう。

などと説くと、「それでは学校教師はどうすればいいのですか。明日から何ができるのでしょう。教えてください」と詰め寄られることが多いが、短絡は何も生み出さない。近世の教育法をいたずらに崇め、いきなりに「復古」させようとしても、醜悪なものができるだけであろう。

近世には近世の諸前提があり、その諸前提の中で近世の教え・学びの営みは進化をしていったのだろう。そんな営みを、近世の諸前提とは異なった諸前提をもつ現代にそのまま適用させようとしても失敗するだけであろう。

武術の世界ですら、例えば多田師範についてもイタリアで合気道を教えた経験から「日本人だったら分かっているはず、言わなくてもわかることもイタリア人は説明しないと分からない。で、日本に帰ってきたら、日本人もやっぱり説明しないと分からなかったということに気がついたのですよ(笑)」と多田師範の直弟子の坪井威樹氏は述べている(「早稲田大学合気道会歴代幹部達が語る我が師多田宏先生」(p. 31)『月刊秘伝2011年1月号』BABジャパン、30-33ページ)。武術の世界でもただ古き教えと学びの営みを維持しているだけでなく、巧みに進化させていると考えるべきだろう。(これは西岡常一氏の弟子である小川三夫氏からの証言でも伺えると私は考えているが、前にも述べたように西岡氏らについては稿を改めてまとめたい。)

だから単なる「復古」は目指すべきではない。だが、近代的な教育観・学習観の限界が見え始めたような昨今、非近代的な教育観・学習観から謙虚に学ぶことは重要だろう。少なくとも近世的な教育観・学習観を「近代的ではないから」と切り捨てることはないぐらいに、近世的な営みを「復権」させなければならない。

何度も言うが近代的な教育観・学習観を全面否定するつもりはない。近代的な教育観・学習観も、明治維新以来の国民国家の急速な形成、および第二次大戦後の経済復興最優先の時期にはそれなりに適していたのだろう(だからこそ日本は世界的な地位を確立し、日本の教育も他国から注目されるに至ったのだろう)。

だが現在は富国強兵も高度経済成長も国民が共有できる世界観ではないだろう。現在の多くの学習者は、勉強の功利的側面で外発的に動機づけてもなかなか学ぼうとしないし、仮に一部のものがそれで勉強したとしても、その勉強は短絡的なものであり、創造性や生きる力にならないとも考えられ始めている。日本の課題も、もはや西洋諸国に追いつくという意味での「近代化」ではなく、世界的にほぼ近代化が完了しようとしていると思われる現在、近代の諸制度にありながらも近代の行き詰まりをなんとか修正してゆくといういわば「ノイラートの船」の問題に対処しなければならないことである。このような「ポスト近代」の視点に立てば、近代的な発想を無批判的に肯定することだけは止めよう、となるだろう。私がこの(『「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)』)を読んで思ったこともそういったことである。

近代のイデオロギーを相対化すると、さまざまなものを(再)発見できるだろう。そのためにも、この本などを読むことは重要なのではないだろうか。

私はきたる6月30日(土)の第42回中部地区英語教育学会岐阜大会のシンポジウム「学校英語教育を考える3つの視座:成長する教師・自律する学習者・進化する授業」で提案者の一人として発表するが、今回まとめたような視点からも論考したいと考えている。
















2012年5月10日木曜日

小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社




同じ「言語学」とはいえ、語用論と統語論・意味論はずいぶん性質が違う。
一言で言えば、語用論は、実際の言語使用、コミュニケーションに関わる分野であり、他方、統語論(=文法論)や意味論は、そのコミュニケーションで使われるコード、つまり意味の形式的体系に関わる分野です。そして後者、意味の形式的体系に関わる分野は、意味のコード化に関わる統語論(=文法論)と、形式的にコード化される意味に関わる意味論に分かれる、ということになります。(小山 2012, p. 45)

この語用論と統語論・意味論のアプローチの違いは、言語を「システム・センテンス」から考えるか「テクスト・センテンス」から考えるか ― あるいは"sentence"から考えるか"utterance"から考えるか ― という認識の違いにも現れる。「システム・センテンス」とは理念的措定であり、「テクスト・センテンス」とは現実のコミュニケーションに現れるものである。
つまり、抽象的な、実際には現れない(理念的、イデアールな)体系としての文と、実際に使用される文とは位相が違い、それはたとえば数学で言う「三角形」という概念(理念)と、鉛筆と紙などで(つまり実際に)引いた三角形とは一致せず、後者は、たとえば顕微鏡などを使って厳密に見れば常に必ずジグザグを含んでおり、理念的な、完全な「三角形」は現実に現れることはない、というのと同じことです。理念的な体系としての文(「システム・センテンス」と呼ばれます)は、理念的な三角形と同じく、理念的な、つまり抽象的で潜在的な存在に過ぎず、実際の世界、コミュニケーションが行われる実際の世界に現れるのは、もちろん、実際のコミュニケーションで用いられる文(「テクスト・センテンス」と呼ばれます)、厳密に見れば常に必ず異なった発音で、常に必ず異なったコンテクストで、常に必ず異なった言及指示的内容を持った文なのです。(小山 2012, pp. 76-77)

この異なる言語観は、さらにコミュニケーションに関しても異なる見解を生み出す。統語論・意味論・「システム・センテンス」と親和性が高いのが情報伝達モデルであり、語用論・「テクスト・センテンス」と親和性が高いのが、コミュニケーションを「社会文化的なコンテクストの中で起こる人と人、人と物、物と物の邂逅(遭遇、出会い)に焦点化した」出来事としてコミュニケーションを捉える「出来事モデル」(小山 2012, p. 162)である。

「出来事モデル」で、コミュニケーションは以下のように考えられる。
(1)相互に接触している人や物、つまりコミュニケーション参加者たちや、それらと結びついたその他のコンテクストにある人や物などを、そのコミュニケーションのコンテクストとして指し示す(指標する)という「コンテクスト化」(contextualization)の作用を持つもの、(2)そして同時に、そのようにコンテクストを指し示すことを通して、そのコミュニケーションの起こっている場所、そのコミュニケーションにとっての「今ここ」(オリゴ)[origo = deictic center] を基点とした場所に「言われていること」のテクストと「為されていること」のテクスト、つまり言及指示的テクストと社会指標的(相互行為的)テクストを創り出す(テクスト化す)作用を持つものであると考えられています。(小山 2012, p. 162)

「出来事モデル」のコミュニケーション観に基づき、小山先生は、この本(『コミュニケーション論のまなざし』)について次のように述べる。
この本は、私の「作品」、テクストであるのではなく、最終的には、もちろん、私たち [ =著者である私、出版社、印刷会社、小売店など生産、流通、販売に関わる主体] と読者との間で生起する出来事としてのコミュニケーションによってテクストとなるもの、テクスト化されるものであり、読者がこの本をどう読むか、この本との出会いにどう向き合うかによって、この本の意味は創り出されていくのです。
(中略)
1回1回異なる出来事、刻々と移り変わるオリゴを中心としたコミュニケーション出来事を通して生み出されるもの、それがテクストとコンテクストであると、このモデルでは考えられているのです。(小山 2012, p. 168)

この「出来事モデル」はコミュニケーションに関して四つのテーゼを導き出す。(1)コミュニケーションは出来事であり、情報量に簡単に還元できない。(2)コミュニケーションはいつも必ず、歴史的、文化的、社会的環境(コンテクスト)で起こるものであり、コンテクストは背景にあるものではなく、コミュニケーションがその中で起こる場であり、コミュニケーションの過程の中心にある。(3)話し手や聞き手も、コミュニケーションの過程の中の構築物、つまり、コミュニケーションという出来事によってコンテクスト化されテクスト化されるもの、にすぎない。(4)コミュニケーションを媒介とした結びつきが社会であり、社会の中で個々の出来事の「意味」が決定され、個々人が形成されてゆく。(小山 2012, pp. 169-170)



と、私はこの本の部分を(直接あるいは間接の)引用であるという事を慣習的な形式(インデントや出典情報)で示しつつ、このブログに書き写してきたが、この引用を中心とした私の文章も、私なりのコミュニケーションであり、私なりのコンテクストとコンテクストの創出である(私のオリジナリティはこの本の著者である小山先生のオリジナリティとまったく比較にならない小さなものであるにせよ)。

私はこの『コミュニケーション論のまなざし』という本にある経緯で出会い、その出会いから私なりの場ができて、その場というコンテクストを、引用中心の文章という形でこのブログにテクストを創り出すことによって、創り出している。この私のコミュニケーションの始動は、また何らかの経緯でこのブログ記事に接した様々な読者にそれぞれのコミュニケーションという出来事を始動させるかもしれない(たとえそれが「なんだこのブログ記事。わけわかんねぇ」といったものに過ぎないかもしれないにせよ)。

引用という行為は、テクストAより高次元に立って、テクストAの部分を選択的に提示するテクストA'を創り出すという点で、ある意味、メタ・コミュニケーションであるとも言えると私は考えるが、私はそのメタ・コミュニケーションを行うことによってテクストAによるコミュニケーションから切り離された高みに立ったわけではない。むしろ、私はテクストAの引用を用いたテクストA'の創出により、テクストAが始動させたコミュニケーションの中に参入している。これがコミュニケーションの特徴の一つでもある。「このようにして、メタ・コミュニケーションはコミュニケーションの一部を成す、つまり、コミュニケーションはメタ・コミュニケーションを含みこんで行われる」(小山 2012, p. 34)わけである。

チャールズ・サンダーズ・パースと邂逅したローマン・ヤコブソン、そしてデル・ハイムズシルヴァスティンを経て小山先生によって伝えられたコミュニケーション論への招待を、私は誤読しているのではないかと恐れる。しかし、たとえそれが誤読であったとしても、それは ― 決して開き直るつもりではないのだが ― 現時点でなしうる私のコミュニケーションであり、私はこの本に出会ったという出来事を、沈黙という消極的な形でなく、たとえ引用中心に過ぎないにせよブログ記事を書くという形でこの本が始動させたコミュニケーションに参入したい。

部分的な引用に私見を述べただけのこの文章で、私はこの本がもつ読者をぐいぐいと引きつける力を伝え損ねたのかもしれない。しかし、もし少しでも何か感じることがあれば、この本を読んでほしい。教科書的な記述で、細部だけは暗記できるぐらいになっても、大局的に言語やコミュニケーションについて語れない方は、ぜひこの本を読んで欲しい。あるいは語用論と統語論・意味論の性質の違いになにかしっくりとこないものを感じている方も読んで欲しい。何かがつながる感覚を覚えるはずだ。

いい意味で教科書的な『コミュニケーション学』と、力強い思考の流れを感じさせるこの『コミュニケーション論のまなざし』を私は、言語とコミュニケーションについて考えたい人すべてに薦めたいし、私の授業の「言語コミュニケーション力論と英語授業」の参考書としても指定したい。





関連記事:コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/6.html




2012年5月7日月曜日

日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイト(e-job-100)

私の「畏友」である鈴木章能さん ―この表現を使うといつも鈴木さんは笑うのですが― が素晴らしいサイトを公開しています。





日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイトです。現在、100職種ぐらいの職業人の声が掲載されています。うち、41職種で、実際にその日本人が英語を使っている動画や、英語がなぜ、いつ、どのように必要なのかをインタビューした動画が見られます。その他のサイトでは、テキストでインタビュー概要が掲載されています。

例えば試しに看護士さんの実際の英語使用場面と、日本語インタビューの動画を御覧ください。




時に「日本で英語を必要とするのは、海外支店をもつ大企業に勤める人間だけだ」といった声が聞こえますが、鈴木さんは本当にそうだろうかと思い、実際に様々な職業人にインタビューをして、このサイトを開設するに至りました。

なんといっても生の声を聞けることが素晴らしいです。どのような語り口で、それぞれの職業人が英語使用について語っているか ― 大学生はもちろんのこと、中高生もこのサイトを見ることで、英語学習や将来のキャリア設計について深く感じて考えることができるのではないでしょうか。

鈴木さんは、サイトの説明で次のように書いています。
私は英語が必要であるとあまり連想されない職種を中心に調査をしました。結果は下に書いてあるとおりで、ほとんどの職種の人々が英語の必要性を訴えています。
しかし、こうした現実を言葉で伝えても学習者にはなかなか伝わらないという経験を しました。   
そこで、学習者に英語の重要性を説くには、仕事の現場へ行き、一日の仕事の内容とともに、いつどこでどのような英語をなぜ使わざるを得ないのか、生の現場映像を写し、それを学習者に直接見せ、あるいは、インタビューをそのまま見てもらい、学習者自身が自分で考えるのがよいと思いました。

当初はビデオ映像を使い、授業で見せていましたが、学習者から、web上で主体的に選べる形式のものを展開して欲しいと要望があり、このサイトを開設しました。学習者が、将来就きたい職種を選び、そこで英語が必要なのかどうか、必要であればどのような英語が、どのような理由で必要になるのか、英語の必要性について個人個人が自分で「納得」することで、自分にとっての英語学習の重要性を考えてほしいと思い、本ホームページを作っています。 
http://e-job-100.sakura.ne.jp/modx/ 


しかし、鈴木さんはよくいるような「英語至上主義者」でもありませんし、英語使用に関して不安を煽ってそれで儲けようなどと考えている人でもありません。鈴木さんは文学研究を第一の専門としている人ですが、文学研究者らしく深く感じて深く考えて行動する人です。このサイトもそういった鈴木さんの姿勢が忠実に反映されています。

以下は、鈴木さんから私への私信の一部です。鈴木さんの許可を得てここに転載します。

ところで、これは、当初、単に英語学習の外的モチベーション作りのために作りました。しかし、取材を重ねていくうちに、英語だけではダメなのだということが、だんだんわかっていきました。 
たとえば、看護士さんのページにある「インタビュー」の方の動画をご覧ください。技術面は基本として大事ですが、それ以上に、病を持った人の不安を取り除くために、相手に相手の言葉で語らせてあげる必要があり、そのとき、海外からの移住者は英語の方が不安を語り易い人が多く、その意味で英語がいま必要になっているとのことです。全人という言葉も言っておられます。医師や歯科医も同じことを言っています。 

あるいは、Web制作の方のインタビュー、ならびに、私がまとめたテキスト部分をご覧ください。グローバリズムのいま、HP制作の注文では日本語版のみならず英語版も同時に注文されることが多いそうです。でも、日本語を英語にいくら上手く訳せても、無駄なのだそうです。というのも、英語版を見る人は海外の人であり、日本人が素敵だと思うHPと、海外の人が素敵だと思うHPでは、文化や感性の違いから、異なるため、英語版HPでは、英米の文化や感性をよく知っておき、HPを英米のローカリゼーションで作らねばならない、と言っています。それには、英語だけ学ぶのではなく、文学や文化学が必要になってきます。 

建築デザイナーも、哲学や思想、文学が重要とインタビューで言っています。
アパレルの方だったか、ラッピング資材の方だったか忘れましたが、いま英語ともう一カ国語アジアの言葉が必要になっていると言われるものの、たとえば中国の人々とビジネスをするには、英語で行うのがよいと言っています。その理由は、中国語だと、相手の土俵に乗ってしまうため、とのことです。一方で、英語だけですと、英中通訳者がつきますが、目の前で中国語だけでやりとりされる中に、本当にこちらが手に入れたい相手からの情報が隠されているだけに、中国語が出来る方がよいとのことです。手に入れたい情報とは、「その会社の人々が本当はどのような人格でどのような教養なのか」がわかり、そこでビジネスの今後を真剣に考えられるのだそうです。このことが物語っているのは、英語も重要だが、それとともに、教養があり、人格が発達していなければ、ビジネスはその時点で終わり、ということです。 

他にも色々とありますが、英語だけではダメであることは、実際に社会に生きる職業人が言っていることです。従いまして、いま、英語が社会で使用できることを念頭に英語教育が展開されるというのであれば、そうであればこそ、英語に加えて、深い教養や人格向上が伴わない英語教育は、なにも社会に資さない、ということが言えると思います。

大学生から中高生いや小学生まで、英語教師から一般市民まで、多くの人がこのサイトを閲覧することで、英語教育実践が一層地に足がついたものになればと私は願っています。

これだけ多くのインタビューをした鈴木さんと、インタビューの公開に同意してくださった方々には深く感謝する次第です。



ある私立学校で働き始めた卒業生からのメール


[以下はある卒業生が送ってくれたメールです。その卒業生の許可を得て(一部修正した上で)その文章をここに掲載します。]


***

■生徒や授業について

私は○○県のとある私立高校に勤務しています。生徒の学力は、有名大学進学者から就職する生徒まで多種多様です。しかし、国公立大学に一般入試で合格できる学力を持つ生徒はごく一部です。中には”her”の読み方がわからない、”library”が綴れないという生徒も散見されます。

また自分で何かを考えることができない、しない生徒が多いと感じています。私が「なぜだと思う?」、「どうしたらできるようになると思う?」という質問をするとフリーズしてしまう生徒も多くいます。その原因は彼らに自分で考える習慣がないからではないかと思います。私の勤務校では「ウチの子はできないから」ということで、様々なサポートを教員が行います。担任が各生徒の進路候補を調べあげたり、学年団の先生が駐輪場の整理まで行います。柳瀬先生のよくおっしゃっているスプーンフィード [spoonfeed, spoon-fed]の典型ではないでしょうか。親切で生徒思いな良い先生が多い分余計に、生徒の自ら考える機会を奪っているように私は思います。かく言う私も生徒たちがとても可愛く、彼らの力になりたいという思いが先立ち、彼らの成長する機会を取り上げているのではないかと不安になります。

私は週40時間中、週20時間主に3年生の授業を担当しています。もともと集中力を45分間維持する事が難しい生徒が多いので、生徒のモチベーションの維持に四苦八苦する毎日です。良い授業ができたなぁと思うこともあれば、完璧に失敗してしまったと思うこともあります。最初は良い授業だと思っても後で考え直してみると、生徒たちは何かを学んだのだろうかと疑問に思い、不安になる事も多いです。


■教員について

この一ヶ月間働いてみて感じたことですが、教職員の世界というのは私が思っていた以上に保守的でした。生徒指導に関しては、生徒に対して権威的、強圧的に振舞う方が非常に多いです。職員室では非常に温厚な先生も生徒の前では「威厳」を保つのにお忙しそうです。「生徒になめられんようにせんといけん」というセリフもよく聞こえてきます。なぜ生徒と敵対する必要があるのかよくわかりません。確かに生徒を叱るというのは、手っ取り早く問題行動に対処できる手段です。しかしそれでは生徒たちも感情的になってしまい、改善策などを自ら考える機会が台無しになってしまうと私は思います。こういった点に関しても、勉強していきたいと思う毎日です。



■教英の後輩へ

ここからは学生の皆さんに向けて書こうと思います。
教英の多くの皆さんは公立志向だと思います。なので私立学校勤務者として、私立学校って面白いなと思う部分を紹介します。


・様々な経歴を持つ先生

私の勤務校には一般企業や塾講師経験者など多種多様な経歴をもつ先生方がたくさんいます。放送、アパレル、商社、大手予備校など私が知っているだけでも、意外な経験を持つ先生方がいます。そういった先生方と共に仕事をするのはとても刺激的で面白いです。また、私立学校というのは中小企業ですから顧客である生徒や保護者(特に保護者)をとても大切に扱います。保護者対応の時、一般企業特に接客業の経験のある先生というのはひと味も二味も違います。接客などしたことなく、他人からの第一印象も悪い私は、その点について非常に不安でした。

先日幸運にも、元接客業の先輩教員とペアを組んで仕事をする機会がありました。彼の仕事ぶりを観察しダメもとで挑戦する中で、形だけでも真似をすることができるようになってきたと思います。こういった経験は公立学校ではなかなかできないのではないでしょうか。

・メリハリのあるお金の使い方

私の勤務校はマンモス校です。しかし残念なことに、普通教室に視聴覚機器は存在せず、ALTも存在しません。公立学校のように教職員へのPCや文房具などの支給もありません。一方で、PCの無償貸与や個人学習スペース(特定コース限定ですが)、野球場やサッカー場のある広大な専用グランド(運動部の部室には冷蔵庫があります)があります。お金を使うところ、使わないところの差が非常に激しいのも私立学校の特徴といえるのではないでしょうか。

・教英はすごい

教英の学生の皆さん、教英はすごいところです。教英を誇りに思ってください。私の勤務校では、私を含め9人の新卒教員がいます。その中で、教育学部出身は私だけです。その他の他学部出身の先生方は授業作りにとても苦労されています(私が苦労していない訳ではありませんが)。彼らの話を聞くと、生徒が何が分からないのか分からないし、授業で何をすればいいのか分からないそうです。私の勤務校の生徒の学力はお世辞にも高いとは言えません。そして同期の先生方は、なかなかの高学歴揃いです。また、教育に関する教育を受けていないため自分が高校時代に受けた授業しか思い浮かばないようです。

ですが、私たち教英は色々なレベルの生徒が存在すること、私達には信じられないような段階でつまづく生徒がいること、様々な授業のやり方がある事を4年間で学ぶはずです。当たり前のことですが、この差が非常に大きいと私は痛感しています。教授法系の講義にあまり熱心でなかった私ですら多大な恩恵を受けているのですから、皆さんの受ける恩恵は計り知れないでしょう。今、猛烈に樫葉先生の講義を受けたいです。


・ウェブで学ぶ

また柳瀬先生にも感謝しているところです。柳瀬先生にはウェブで学習することの素晴らしさ、有益さを教えてもらいました。しかしこの素晴らしさを知っている人は意外に少ないというのが、最近の私が感じるところです。ベテランはもちろん、若い先生方の多くもインターネットは「オモチャ」という認識が一般的なようです。分からない事はまず検索するという習慣のない人も多いです。私がウェブ上の教材を使って授業の準備をしているとよく驚かれます。

教員というのは、授業以外の仕事がなぜかとても多いです。そのため授業準備に割く時間がないという本末転倒な事態もよく見受けられます。学生の皆さんは是非学生のうちにウェブで学習する、授業を作るという習慣をもつことをおすすめします。少なくとも、分からないことはググる習慣をつけ、ウェブ上にはたくさんの優れた教材や教案が転がっていること(ただし英語)を知っておいてほしいです。


・最後に

まだ教員歴一ヶ月の私が言うのも恐縮ですが、教員というのは本当に楽しく、素晴らしい職業だと思います。初出勤から始業式までの一週間、私は仕事に行くのが本当に苦痛で真剣に辞めようかとも思いました。大学院に進学しておけばよかったなぁ、と本気で後悔していました。しかし始業式も終わり生徒が登校してくるようになると、そんな思いはどこかに吹き飛んでいきました。彼らと話をしたり、彼らと授業をするのは本当に楽しいし、面白いです。もちろん考え込んでしまったり、戸惑ってしまうことはたくさんあります。ですがそんな事は苦にならないほど、彼らと共に過ごす時間は刺激的でエネルギーに溢れるものです。




2012年5月4日金曜日

(故)木村卓士さん(広島大学ESS・教英57年度入学)を偲んで





[ この文章は、最近になってその訃報をご親族以外の者が知ることができた、木村卓士さん(広島大学ESS・教英57年度入学)を偲ぶための、私的な 「思い出文集」(編集:広大ESS有志)に投稿するものです ]

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木村さんは、私にとって同級生であり同時に偉大な先輩でした。同級生というのは、木村さんが一度広大工学部を卒業して就職した後、広大の教育学部英語教育専攻(教英)に入学されたのが私と同じ年度(昭和57年度)だからであり、偉大な先輩というのは、私が入部したESSに木村さんが復帰されたからです。私は木村さんと、教英では同級生であるものの、英語力ではまったく敵わない偉大な先輩として接してきました。

木村さんは直言の人でしたから、私がESS新入部員の頃、ずいぶん私の英語力不足も指摘してくださいました。ESSのテーブルにOBのMさんが来られた時だったかと思いますが、私を指して「こいつは駄目だ。俺が厳しいことを言っても、さっぱり効き目がない」ともおっしゃったりもしていました。またよく「教英というのはすごい所かと思って広大に再入学したが、こんなに英語力のレベルが低いとは思わなかった」ともおっしゃっていました。

しかし不思議と腹は立ちませんでした。木村さんのことばに悪意がないこと、裏がないこと、さらに木村さんにはそういう発言をするだけの実力があることを、生意気な私とて感得していたからです。今から考えると、木村さんという偉大な先輩と同級生としても接することができたのは、誠に幸運なことでした。これがOBとして接するだけでしたら「雲の上の人」として崇めるだけだったでしょうが、同級生でもあり授業などでは同じ教室にいましたから、その分、少しでも追いつこうとすることができたからです。

忘れられない個人的思い出としては、当時広島市中区千田町にあった広大から、ESSの合宿があった東広島市西条研修センターへ行く際に、木村さんのバイクの後ろに乗せてもらったことです。バイク自体は中型でそれほど大きなものではありませんでしたが、木村さんはとにかくビュンビュン飛ばして、車の間を縫うように走りましたから私としては後ろで何度も振り飛ばされそうになり生きた心地がしませんでした。

"In a hundred years, we'll all be dead"とは、人間にとって確実なことをシニカルに表現した句ですが、今こうして木村さんを偲ぶ文章を書いている私も(そしてこれを読んでいるあなたも)、100年もたてば皆死んでしまっているというのが、この世の現実かと思います。それでは、生きることに、とりわけ苦しみながら生きることに、何の意味がある、というのが一つの問いとなりますが、木村さんのようにお亡くなりになった後にも、生き残っている人間に影響や思い出を残すことができるのなら、生きることは決して無意味ではないと思います。

そして木村さんの思い出や影響のもとに生きている私も含めた多くの人間が、さらに他の人間に思い出や影響を与えるのならば、木村さんという固有名はたとえいつか消えるとしても、木村さんの魂は生き続けているのだと思います。そうして私たちは、知らぬ間に無数の死者の魂と共に生きているのだと思います。

たまたま生き残っている私達としては、木村さんの魂を、他の無数の方々の魂と共に、よりよく受け継ぐため、少しでも心と身体を整えなければと思います。そして木村さんにおかれましては、お亡くなりになった方の特権として、安らかにお休みになっていただければと思います。

「なに格好つけているんだ。だからお前はインチキなんだ」という木村さんの声が聞こえてきそうです。私はそんな木村さんの声を今でもありありと思い出せることを、私の人生の財産の一つとしています。

木村さん、ありがとうございました。