2012年5月4日金曜日

(故)木村卓士さん(広島大学ESS・教英57年度入学)を偲んで





[ この文章は、最近になってその訃報をご親族以外の者が知ることができた、木村卓士さん(広島大学ESS・教英57年度入学)を偲ぶための、私的な 「思い出文集」(編集:広大ESS有志)に投稿するものです ]

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木村さんは、私にとって同級生であり同時に偉大な先輩でした。同級生というのは、木村さんが一度広大工学部を卒業して就職した後、広大の教育学部英語教育専攻(教英)に入学されたのが私と同じ年度(昭和57年度)だからであり、偉大な先輩というのは、私が入部したESSに木村さんが復帰されたからです。私は木村さんと、教英では同級生であるものの、英語力ではまったく敵わない偉大な先輩として接してきました。

木村さんは直言の人でしたから、私がESS新入部員の頃、ずいぶん私の英語力不足も指摘してくださいました。ESSのテーブルにOBのMさんが来られた時だったかと思いますが、私を指して「こいつは駄目だ。俺が厳しいことを言っても、さっぱり効き目がない」ともおっしゃったりもしていました。またよく「教英というのはすごい所かと思って広大に再入学したが、こんなに英語力のレベルが低いとは思わなかった」ともおっしゃっていました。

しかし不思議と腹は立ちませんでした。木村さんのことばに悪意がないこと、裏がないこと、さらに木村さんにはそういう発言をするだけの実力があることを、生意気な私とて感得していたからです。今から考えると、木村さんという偉大な先輩と同級生としても接することができたのは、誠に幸運なことでした。これがOBとして接するだけでしたら「雲の上の人」として崇めるだけだったでしょうが、同級生でもあり授業などでは同じ教室にいましたから、その分、少しでも追いつこうとすることができたからです。

忘れられない個人的思い出としては、当時広島市中区千田町にあった広大から、ESSの合宿があった東広島市西条研修センターへ行く際に、木村さんのバイクの後ろに乗せてもらったことです。バイク自体は中型でそれほど大きなものではありませんでしたが、木村さんはとにかくビュンビュン飛ばして、車の間を縫うように走りましたから私としては後ろで何度も振り飛ばされそうになり生きた心地がしませんでした。

"In a hundred years, we'll all be dead"とは、人間にとって確実なことをシニカルに表現した句ですが、今こうして木村さんを偲ぶ文章を書いている私も(そしてこれを読んでいるあなたも)、100年もたてば皆死んでしまっているというのが、この世の現実かと思います。それでは、生きることに、とりわけ苦しみながら生きることに、何の意味がある、というのが一つの問いとなりますが、木村さんのようにお亡くなりになった後にも、生き残っている人間に影響や思い出を残すことができるのなら、生きることは決して無意味ではないと思います。

そして木村さんの思い出や影響のもとに生きている私も含めた多くの人間が、さらに他の人間に思い出や影響を与えるのならば、木村さんという固有名はたとえいつか消えるとしても、木村さんの魂は生き続けているのだと思います。そうして私たちは、知らぬ間に無数の死者の魂と共に生きているのだと思います。

たまたま生き残っている私達としては、木村さんの魂を、他の無数の方々の魂と共に、よりよく受け継ぐため、少しでも心と身体を整えなければと思います。そして木村さんにおかれましては、お亡くなりになった方の特権として、安らかにお休みになっていただければと思います。

「なに格好つけているんだ。だからお前はインチキなんだ」という木村さんの声が聞こえてきそうです。私はそんな木村さんの声を今でもありありと思い出せることを、私の人生の財産の一つとしています。

木村さん、ありがとうございました。






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