2012年6月26日火曜日

コミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長




オリジナル発表:
第43回中国地区英語教育学会(会場:広島大学教育学部)
2012年6月23日(土) 14:15-14:45  第四室 (K116教室)


オリジナル発表の二次的利用:
第42回中部地区英語教育学会(岐阜大会 会場:じゅうろくプラザ)
2012年6月30日(土) 13:00-15:00
シンポジウム 学校英語教育を考える3つの視座:
成長する教師・自立する学習者・進化する授業




コミュニケーション・モデルの再検討から考える
英語教師の成長

柳瀬陽介 (広島大学)
yosuke@hiroshima-u.ac.jp


キーワード:情報伝達モデル、ヤーコブソン、場


6/30の投映スライドはここからダウンロードできます。

6/30の印刷配布資料はここからダウンロードできます。
(内容は下記とほぼ同一です)。


■ 概要

授業というコミュニケーションは教師の成長にとって欠くべからざる要素であるが、そのコミュニケーション理解において、個人主義的な情報伝達モデルだけで考えることは危険であり、「場」を重視するモデルも導入する必要がある。本発表はヤーコブソンによるコミュニケーション・モデルを解釈することにより、英語授業というコミュニケーション、および学習者の目標である英語コミュニケーションについて再検討し、英吾教師の成長について具体的に検討する。


■論の構成

1 序論

1.1 教師の現状:
時間とことばの喪失。形式や進め方ばかりが問われる授業。

1.2 問題:
教師の「同僚性」(佐藤 2009)がしばしば語られ、教育においては「場」の形成が大切と多くが言うが、教師の成長が理論的に語られるとしばしば個人を対象とした言説になる。「場」ということばも曖昧にしか理解されていない。コミュニケーションに関する理論的理解不足が障害になっている。

1.3 先行研究:
柳瀬・組田・奥住 (2011) は英語教師の多様な声を拾い上げて英語教師の成長を語ろうとしたが理論的考察が不十分であった。松井 (2012) は社会文化的アプローチを理論的基盤にしながらエスノグラフィ的な方法で英語教師実践を研究し、コミュニケーションの相互作用性を強調した。だがコミュニケーション理解はまだ十分ではないと考える。

1.4 本発表の目的と意義:
個人単位の発想をする情報伝達モデルと、「場」を構想するコミュニケーション・モデルを検討し、授業というコミュニケーション、および英語教育の目標である英語によるコミュニケーションについて再考し、英語教師の成長についての理論的理解を深める。なお「場」の定義は後に導入する。


2 情報伝達モデル (=コード・モデル)


2.1 Shannon (1948) の通信用モデルの人間コミュニケーションへの転用:
Shannonはもともと「意味」の考察は除去していた。関連性理論 (Sperber and Wilson, 1986/1995) はコード・モデルが言語コミュニケーションの説明として極めて不十分であることを示した。

2.2 情報伝達モデルから考える英語授業:
(1) 制度的に教師と学習者が存在し、物理的に教室と教科書・教材があれば授業は成立するはず。(2) 教科書・教材がよくできていて、それがノイズなく効率的に伝達されれば授業というコミュニケーションは成功するはず。⇒コミュニケーションの素朴な物理的存在論と、教師・学習者の個性と相互作用を無視して成立させている一般論。情報が機械論的にSN比で定義され、生命論的に定義されていない。

2.3 情報伝達モデルから考える英語コミュニケーション:
(1) Transmitter/receiverとしてencoding/decodingに習熟すれば英語コミュニケーションはできるようになる。(2) L1という要素を除けば、encoding/decodingはそれだけ単純になり、英語コミュニケーションは容易になる。⇒コミュニケーションにおけるメッセージそのものの重要性を軽視し、かつ伝達対象とコンテクストの独立的不変性を仮定し現実世界のコミュニケーションを捉えそこねている。


3 Jakobson (1960) に基づく場のモデル

3.1 小山 (2008, 2012) のJakobson理解と出来事モデル:
言語人類学によるコミュニケーションの理論的理解の中で、Jakobsonを基盤とする。アイデンティティなどの社会的側面も強調。だがJakobsonの用語法 ( context/referent,)や「接触」「動能」などの翻訳語に若干の違和感を覚える。

3.2 柳瀬によるJakobson解釈:
Jakobsonモデルの解釈:呼びかける者が呼びかけられた者と出会うことができた時に、固有のメッセージが出現し、同時にそのメッセージの背景が指し示される(CONTACTを「出会い」、CONTEXTを「背景」、POETIC FUNCTIONを「作品化機能」と翻訳。メッセージは生命論的情報)。




「場」はSITUATIONとし、以下の包含関係で理解する。





3.3 Jakobson解釈のルーマン的展開:
出現するメッセージも指し示される背景も、コミュニケーションの参加者一人ひとりにおいて異なりうる(=情報伝達モデルの否定)。場とは、異なる個々人がコミュニケーションにおいて相互作用的に共存する時空である。(下の図ではオースティンの古典的な用語法を踏襲している)。






3.4 場のモデルから考える英語の授業:
(1) 出会いが成立してこそ、授業のメッセージおよびそのメッセージの背景が現れる。それぞれの出会いによって、メッセージはテクスト化され、背景はコンテクスト化される。最初から万人に同一のテクストとコンテクストがあるわけではない。
(2) 相互に重なりながらも異なるところをもつメッセージと背景が複数、同じ場に現れる相互作用で、コミュニケーションは発展する(=メッセージがそれぞれにより作品化され、様々な背景の指し示しが精確になる)。

3.5 場のモデルから考える英語コミュニケーション:
(1) コミュニケーションでは、記号に関する知識だけでなく、情動表現と出会いを可能にする身体的側面、出会いに値するぐらいのメッセージの作品化、および奥行きと広がりのある背景が必要。
(2) リンガ・フランカにおけるコミュニケーションでは、L1が背景(およびそのさらに奥に暗黙的に存在する環境)としてのコミュニケーションの源泉となる。背景・環境が、コミュニケーションの記号の革新につながることもある。


4 考察

以上の検討により、しばしば聞かれる以下の言明に対する理解が深まる。

4.1 「英語教育には中身がない」:
技能の自動化といった訓練ばかりが強調され、出会いを鮮烈なものにし背景の指示を先鋭なものにするために英語教材を「作品化」することが、文学的教材を排斥し資格試験問題を偏重するといった近年の傾向の中でますます減っている。あるいは、構文中心で本文を作るため文体論的洗練を犠牲にすることも、「作品化」の軽視の現われである。

4.2 「文学的教材でもコミュニケーションは学べる」:
文学的教材は、メッセージをメッセージたらしめる言語表現そのものへの工夫(作品化)にみちた教材であり、言語コミュニケーションの本質的側面を扱うものである。しかし「文学的教材」を狭義の文学的正典 (canon) だけに外延的に定義することは、「作品化」を矮小化することである。

4.3 「英語活動はコミュニケーションではない」:
コードとしての英語の使用ばかりが強調される英語授業の英語活動は、他教科の優れた授業での「聴く」「つなぐ」「もどす」コミュニケーション (佐藤 2009)とは大きく異なる。コードの自動的使用は、それだけでは豊かなコミュニケーションを生み出し得ない。英語授業は英語コミュニケーションの力を十全には育てていない。

4.4 「職場での語り合いが、教員研修によって奪われる愚」:
異なる複数の人間が同じ場に集い、多様な作品(メッセージ)と様々な背景を発見してゆくという非予定調和的コミュニケーションを理解することが、情報伝達モデル的理解によって阻害されている。コミュニケーションは予定通りのテクストを生み出さないかもしれないが、場を形成し、そのコミュニケーションの場が豊かな理解と行為を生みだし、またオートポイエーシス・システムとして自己言及的に自己(再)組織化をする (柳瀬 2012)。


5 結論

5.1  要約:
英語教師の成長の最重要項目は、英語授業というコミュニケーションに習熟することである。しかも、英語授業というコミュニケーションは、学習者自らが英語でコミュニケーションができるようになることを目的にするので、英語教師はコミュニケーションについて他教科以上に理解を深めておく必要がある。
しかし英語教育の中身・活動を批判する声、英語教育界自身が資格試験の数値に短絡的に傾斜し文学的教材を排斥する傾向からすれば、英語教育界のコミュニケーション理解は乏しいように思える。このままでは「授業は英語で」が形骸化し英語教育の内容・実質がますます言語的にも文化的にも貧困なものになる恐れがある。
この乏しいコミュニケーション理解は、英語教育界が情報伝達モデルのような単純なコミュニケーション観に傾斜し、ヤーコブソンが示したような、人間の呼びかけ・出会い・メッセージ・背景が成立する場を、記号の理解とともに同時に考える複合的なコミュニケーション・モデルをまだ咀嚼していないことを一因としているかと考え、本発表ではヤーコブソンのモデルの解釈を示した。

5.2 結語:
情報伝達モデルは、個々人を相互作用の中で複合化されたものではなく、分解された要素と捉える点で、個人主義的である。孤立した個人を基本単位として考える思考法は、デカルト以来の西洋近代において強力に発達した枠組みであるから、それを相対化することは困難である。それゆえ、ヤーコブソンのモデルなどを発展的に理解・解釈することで、場を構想する思考法に習熟することは、新自由主義以来加速した近代の個人主義的発想がいまだに減速していないように見える日本の(英語)教育界にとっては重要である。英語授業の改善にも、英語教師の成長にも、コミュニケーションのさらなる理論的理解は重要である。

5.3 限界:
本発表は「場」を主題の一つにしながらも、西田幾多郎あるいは西田を参照しながら近代科学の枠組みで語ることを清水博などの論考を取り上げることができなかった。本発表が日本語によるものでありながら、これら日本語論考を対象としなかったことは皮肉なことであるが、同時にこれは、西洋近代以外の語り方が日本の英語教育界では未だ困難であること(というより受け入れられにくいこと)に由るとも考えている。(加えて言うなら、教師の成長の最大要因とも考えられる人間としての成熟については何も語らなかった)。

5.4 課題:
コミュニケーションの最初の決定的要因である出会いの成立の感知は、認知的・言語的というより身体的なものである。その他にも身体はコミュニケーションの呼びかけにも深く関わっている。英語という第二言語で、自然なからだを作り上げることは、学習者のみならず教師にとっても大きな挑戦である。からだについては竹内敏晴などの優れた論考があるが、本発表では発表枠の関係もあり身体論を論証に統合させることができなかった。コミュニケーション論への身体論の導入と統合は今後の課題である。


参考文献

石田雅近・久村研・酒井志延・神保尚武(編)(2011)『英語教師の成長―求められる専門性』 東京:大修館書店
小山亘 (2012)『コミュニケーション論のまなざし』 東京:三元社
小山亘 (2008) 『記号の系譜―社会記号論系言語人類学の射程』東京:三元社
佐藤学 (2009) 『教師花伝書』 東京:小学館
清水博 (1996) 『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』東京: 中央公論社
清水博 (2003) 『場の思想』 東京: 東京大学出版会
高橋一幸 (2011) 『成長する英語教師』 東京:大修館書店
竹内敏晴(1988)『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)(初版は1975年に思想の科学社から出版)
竹内敏晴 (2001) 『思想する「からだ」』晶文社
竹内敏晴(2009)『出会うということ』藤原書店
竹内敏晴 (2010) 『レッスンする人』藤原書店
竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
西田幾多郎 (1949)「場所的論理と宗教的世界観」(pp. 371-464)『西田幾多郎全集第11巻』東京:岩波書店
松井かおり (2012) 『中学校英語授業における学習とコミュニケーション構造の相互性に関する質的研究―ある熟練教師の実践過程から』 東京:成文堂
柳瀬陽介 (2009) 「現代社会における英語教育の人間形成について」『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 39, pp.89-98.
柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂(編) (2011)『成長する英語教師をめざして』東京:ひつじ書房
ラボ教育センター (2011) 『佐藤学 内田伸子 大津由紀雄が語る ことばの学び、英語の学び』東京:ラボ教育センター
ルーマン、ニクラス著、佐藤勉監訳 (1993) 『社会システム論(上)』 東京:恒星社厚生閣
ルーマン、ニクラス著、佐藤勉監訳 (1995) 『社会システム論(下)』 東京:恒星社厚生閣
Bateson, G. (2000) Steps to an ecology of mind.  Chicago: University of Chicago Press.
Damasio, A. (2000) The feeling of what happens. Mariner Books
Damasio, A. (2010) Self comes to mind. Pantheon
Jakobson, R. (1960) Linguistics and poetics.  In Sebeok, T. (ed) Style in language.  Massachusetts: The M.I.T. Press. (pp. 350-377)
Luhmann, N. (1984). Soziale Systeme. Frankfurt: Suhrkamp
Luhmann, N. translated by Bednarz, J and Baecker, D. (1995). Social Systems. Stanford: Stanford University Press.
Shannon, C. (1948) A mathematical theory of communication.  Reprinted with corrections from The Bell System Technical Journal, Vol. 27, pp. 379-423, 623-656, July, October, 1948.  Obtained from: http://cm.bell-labs.com/cm/ms/what/shannonday/shannon1948.pdf
Sullivan, H. (1970) The psychiatric interview.  W W Norton & Co Inc
Sperber, D. and Wilson, D. (1986/1996) Relevance.  Oxford: Blackwel
Wilson, D. and Sperber, D. (2012) Meaning and relevance. Cambridge: Cambridge University Press.



2012年6月22日金曜日

学術論文を書く際の指針を示すスライド



Below are slides I often use to explain how to write an academic paper.




(1) Three most important questions you should ask about your paper.




(2) Three components of INTRODUCTION





(3) For important key terms, you need these.



(4) WHAT-HOW-WHY (detailed)






(5) The structure of your argument






(6) Argument consists of a line of small claims.





(7) Do not pretend that your argument is perfect.





(8) Get a wide audience for your narrow topic, and let them feel relevance.





(9) Four stages of writing a thesis





(10) Balance between overview and detailed description.






(11) Expand your horizons gradually.





(12) Towards the end of writhing a thesis, you need ...





(13) General/Specific and Before/After in a paper






2012年6月19日火曜日

英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化- (発表要旨)


第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会8/4(土曜日)14:30~16:00の時間枠で、以下のシンポジウムを開催します。一人でも多くの方に来ていただきたいので、ここに概要と発表要旨を掲載します。




英語教師が書くということ
-日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-


(課題研究フォーラム:中国地区英語教育学会)

コーディネーター:柳瀬 陽介(広島大学) 
指 定 討 論 者: 樫葉 みつ子 (広島大学)
提 案 者:上山 晋平(広島県福山市立福山中・高等学校)
提 案 者: 山本 真理 (兵庫県立北須磨高等学校)

概要:

 人はなぜ書くのでしょうか。英語教師にしても自分の実践を書くことでなぜ変化・成長できる(あるいは少なくともそう実感できる)のでしょうか。このフォーラムでは、日頃から自分の実践を振り返る文章を、英語で書いている高校教師と、日本語で書いている中高一貫校教師を提案者として招き、自らの実感を報告してもらいます。次に、指定討論者とコーディネーターがそれぞれに提案者の報告を整理・解釈して、それを元に提案者との対話を試みます。最後に参加者の皆さんからの問いかけを促し、全体で討論を試みます。
 このフォーラムは、従来のリフレクションやナラティブの研究で必ずしも明確に区別されてこなかった口頭言語と書記言語の違いを明確にし、「書く」ことの意義を具体的に解明しようとします。また、書記言語を日本語にすることと英語にすることの違いについても検討します。研究者だけでなく実践者にもぜひ聞いていただきたいフォーラムです。


以下は、大会の予稿集に掲載される予定の四人の発表要旨です。

*****


英語教師が書くということ

― 日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化 ― 


柳瀬 陽介(広島大学)


キーワード:語り(ナラティブ),リフレクション,質的研究




1.はじめに


  国内外で一万以上の授業を観察してきた教育学者の佐藤学は次のように語る。


教育改革をめぐる華々しい言葉や粗雑な言葉とは異なり、教師の日常の実践を語る言葉は、元来つつましい言葉であり、小さな事柄を細やかに語る丁寧な言葉である。
しかし、もう20年以上、教育の行政と業界(ジャーナリズムとマスメディア)によってあまりに粗雑な言葉が氾濫したために、教師自身の言葉が貧弱になっている。「生きる力」とか「心の教育」とか「ゆとり教育」とか「確かな学力」とか、誰も定義できない実体の曖昧な言葉が教育ジャーナリズムをとおして氾濫し、それらの言葉を使うことによって教師たちは教室を語る言葉を失い、子どもの学びを語る言葉を失い、教師としての自分を語る言葉を失ってきた。
今こそ、教師としての「私」を語り、教室の固有名の子どもを語り、自らの実践経験を自らの言葉で語ることが重要なときはない。(佐藤 2009, pp. 91-92)


  だが教師が「自らの実践経験を自らの言葉で語ること」は、おそらくは1980年代以降の量的研究の流行と共に英語教育学界では抑圧されてきた(現時点でさえ、量的なエビデンスを使わない「語り」によるナラティブ系の研究は紀要掲載論文を見る限り少ない)。


筆者は、こういった偏りを批判的し、これまでアクション・リサーチやExploratory Practice、あるいはエビデンスとナラティブ、または技能の言語記述に関しての理論的考察の学術論文を公刊してきた。また科研でも、ある熟練中学英語教師の質的記述、第二言語教師ナラティブ、そして本発表もその研究活動の一部である「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」の研究代表を務め、質的研究・ナラティブ研究の理論的理解を広げ深めることを試みてきた。著作としても『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』と『成長する英語教師をめざして ― 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』を共編者として刊行して、学会論文では取り上げられにくい教師の語りを公刊してきた。


  しかし、欧米での応用言語学研究が多くの質的研究を産出し、理論的にも洗練度を上げている(例えばTESOL QやApplied Linguisticsの特集号(共に2011年刊行)を見よ)ことと比べるなら、質的研究やナラティブ研究に対する日本の英語教育研究者の理解は未だ低い。


  本研究はそんな状況を背景にしながらも、欧米のナラティブ研究でも未開拓な、語りのメディアの選択についてメディア生態学に基づき着目し、(口頭で語ることではなく)「書くこと」がどのような意味合いをもっているのか、および第一言語(日本語)か第二言語・目標言語(英語)で書くことの違いを探究するものである。




2.今回の発表の研究方法
  
本発表の4人の登壇者は次のような役割分担を持っている。上山は自らの実践を日本語でブログに書く英語教師として自らの書く経験を振り返る。山本は英語でジャーナルを書く英語教師として振り返る。指定討論者の樫葉は(元)英語教師・(現)教師教育者としての自らの経験を活かしつつ、上記2名の振り返りを分析・解釈する。コーディネーターの柳瀬はそれらを総括し研究の理論的枠組みを整える。


  今回の発表では、筆者が上山と山本に提示した10の質問をきっかけに議論を深める。質問は上山と山本がそれぞれの原稿に掲載しているのでここでは書かない。以下、上山と山本の原稿、および樫葉のコメントを掲載し、柳瀬のこの原稿の続きはその後に掲載する。
  




*****
  
教師の成長における「振り返り」の効用
―いつ,何を,どう書くことが,よりよい実践につながるのか―




上山 晋平(広島県福山市立福山中・高等学校)


キーワード:実践記録,研修成果,ブログ,発表




1.はじめに


この発表では,授業実践や研修成果をまとめる手段として記録している「実践記録」と,それを整理してまとめた「ブログ」について,また,それらをどう実践に活用するかについて述べる。以下,コーディネーターからの質問に答える形で「書くこと」についてまとめている。




2.「書くこと」について


(1) 書き始めたきっかけは何ですか?


 教師生活1年目に読んだ本に書いてあった次の言葉がきっかけである。「できるだけ授業記録を残そう。うまくいったときだけでも記録を書いて残していけば,今後の実践につながる。書かないと残らない」。この言葉を読んで,限りある教師生活の,貴重な経験を活かしていくために書き続けようと思って,英語授業,学級経営,校務分掌,部活動等にわたって気づいたことを日本語でパソコンで記述する取り組み(実践記録)を始めた。


(2) 主にどんなことを,いつ・どこで・どのように書いていますか?


 (1) のように,英語授業だけでなく,学級経営,校務分掌,部活動にわたって,「うまくいったこと」「新しく取り組んだこと」「発見したこと」を主に書いている。自分にとってのsomething newを書き残しているとも言える。気づきを言語化すると,その一日に対する充足感が高まる。「自分を更新できた」気になるからだ(自己更新)。書くのは主に学校で,帰宅前の5~20分ほどを使っている。忙しいときは,翌日の朝に書くこともある。特記事項がない日は書いていない。学校でまとめた文章を整理し直して,家庭でブログにアップすることもある(実践記録をまとめているので、短時間でまとめることができる)。また,書いたものを研究発表などの機会を利用してまとめ直し,体系的に整理している。それが書籍の執筆につながったものもある。自分の実践が積み重なる感覚は大きい。


(3) 書き始めた頃と現在では「書く」ことの感触は異なりますか?


 書き始めた頃に比べて,筋道立てて短時間で書けるようになったと思う。書くことで頭が整理され,自分の考えがまとまってきたからだろう。当時は,自分のためだけに「日記風」の実践記録を書いていたが,現在は,他の人にも役立つようにタイトルや内容を「ビジネス書風」に工夫し,自分の体験を一般化して記述するよう努めている。


 ○【以前】 「生徒の名前を覚える努力をした」 → 【現在】 「はじめて受け持つ生徒の名前を覚える5つの方法」
○【以前】 「学級開きの前日準備をした」 → 「学級開きの前日には何を準備するか」  


(4) これまで書き続けたことによって自分がどのように変わってきたと思いますか?


 (3) でも述べたが,書き続けることで,自分の頭の中が整理,リンク,体系化され,気付きの多さにつながっている。メモ取りの頻度が増えたのは,そのためでもある。また,実践記録の読者を想定した書き方も身につけることができている。分かりやすい・興味を引く書き方をして,自分の実践を,より俯瞰的にとらえることができる。


(5) 書いたものを自分で読み返しますか?


 私の書く行為は,「メモ」「実践記録」「ブログ」「発表資料」の4段階ある。次の段階に活用するために読み返している。書いたものがたまると,それらをまとめてプリントアウトする。カバンに入れて,時間があるときに読み直している。読み直すコツは,読み直したくなるタイトルにすることである。
 例)
○「はじめて受け持つ生徒の名前を覚える5つの方法」
○「試験の採点を早く終える3つのコツ」   
○「生徒の納得度が高まる解説の仕方(Reading)」


(6) 書くことの苦労や限界は何ですか?


 書くには時間がかかること。授業や研修の後で一番大切で,一番大変なことは,ポイントや気付きを振り返り,まとめること。「振り返りの時間」をもつことである。復習をして,実践に活かす点を意識できる貴重な機会だが,時間がかかるので,意識的に行わないと難しい。一番よいのは,「その日に書く」こと。「時間があるときに書こう」と思っても,そのような日は来ない。大切なことすべてを書こうと思うと時間がかかって続かないので,シンプルにポイントを書くだけでもよいと気軽に考えて,経験を記録に残し続けるよう心がけることが大切。


(7) これからも書き続けますか?続けるにせよ,止めるにせよそれはなぜですか?


 必ず書き続ける。教師として働ける期間は有限であり,生徒にとっても二度とない時間である。自分の体験を残して,次の改善につなげることは,生徒のためにも,自分のためにも大切だと思う。書くことがそれを実現する。


(8) もしこれまで書いてこなかったら,自分はどうなっていたと思いますか?


 「英語の授業はすぐ終わる!」「楽しい!」という生徒からの声はなかなか聞けなかっただろう。また,研修会等での発表や,書籍の執筆という機会も与えられることはなかっただろう。情報は発信者のもとに集まる。発信することで,自分の体験を整理でき,人の役にも立つ。「書くことは自他の幸福につながる」とも言える。


(9) もし自分が英語(もしくは日本語)で書くとしたら,「書く」ことはどのように変わると思いますか?


 英語で書くと時間がかかるので書く量や頻度は減るだろうが,英語で書く力は高まるだろう。ただし,他の人に伝えるには,英語を日本語に変換する必要が生じるので,人のためになるという効果は薄くなるかもしれない。何のために書くことかという目的の違いが,記述言語の違いとなる。私は当分,日本語で書き続けるだろう。


(10) その他何かありましたら,お聞かせください。


 書くことのデメリットは時間がかかること。メリットは数多い。書くことは残すこと。書くことは考えること。書くことは拡げること。書くことは,自分の実践を自他に活かすことである。また,書くことは育てることでもある。関連に気付かなかった自分のそれまでの実践が,書いてまとめることで関係性が整理され,思わぬ観点でつながることがある。スティーブジョブズの”connect the dots”の状態である。書くことは発見することでもある。




3.おわりに


 実践のみの教師と,実践後に振り返り,それを次の実践につなげる教師のどちらの成長が大きいだろうか。書くという振り返りは,成長を促す自覚的な行為である。授業や研修後に振り返りを位置づけること。その中から次に実践したいものを付箋に書き出すこと。それを実践できたか確認すること。こうした「振り返りと実践」サイクルが,教師の成長を促す。










*****


授業をふり返り書くことの意味と影響 
―ジャーナル・ライティングを通して考えること―




山本 真理(兵庫県立北須磨高等学校)


キーワード:ジャーナル,リフレクション,英語




1.はじめに


この発表では授業をふり返る手段として記録しているジャーナルについて述べる。以下、コーディネーターからの質問に答える形で「書くこと」についてまとめている。




2.「書くこと」について


(1) ジャーナルを始めたきっかけ


神戸市外国語大学大学院の授業分析の課題の中にティーチングジャーナルがあり、2004年から始めた。このジャーナルと生徒のふり返りの記録を中心に修士論文を書き、その後も現在までジャーナルは続いている。


(2) ジャーナルの内容


 毎年、ある1つのクラスを決め、その授業について書く。週2単位か3単位の授業なので、基本的に週2,3回書いている。授業前にLesson objectives, Teaching objectives, Procedureを書き、授業後にPost-class reflectionを記録している。Reflectionは授業のあとできるだけ早く書きたいが、次の日になることもある。英語で授業中のできごとや生徒の様子の描写、授業中の自分の考えや行動を記録している。うまくいったことも問題点も、なぜそのようなことが起こったのかといった考察も含めて、気付いたことはできるだけ書くようにしている。時には、これからどうしたらよいかなど、ジャーナルに向き合っているときに考えたことを記すこともある。Reflectionの量は日によって異なる。初めてのreflectionはA4ノートの1/3程度しか書けなかったが、現在は2ページになることもある。


(3) 「書く」意味の変化


 ジャーナルを始めたころはメンターに見せるため、そのあとは修士論文という目標のため、と大学院時代は「書くこと」はやめてはいけない義務感を持っていた。書いているときは人に読まれることを意識して言葉を選んでいたように思う。現在は人に見せる義務感はなく、「書くこと」は生活習慣の一つのように感じている。見せることを意識していたほうが、丁寧に書いていたかもしれないが、今のほうが自由に思いを表現している。


(4) 自分の変化


 ジャーナルをつけることで、「なぜ」と自分に問うことが増えた。以前ならうまくいったことは、「よかった」で終わっていたが、何がよかったのか、次にどの点を変えればよいのか、変えなくてよいのかを考えるようになった。また、うまくいかないことがあっても、「だめだった」と終わるのでなく、どこでつまずいたのか分析するようになった。分析するためには、生徒の観察や自分自身との対話が必要である。ジャーナルをつけていなかったころより、観察はずっと注意深くなり、また自分自身を冷静に見つめ、目の前の状況を受け入れることができるようになった。自分の意思を確認することで、ただ周りに流されたり不安なままやりすごすことは減った。


(5) 書いたものの読み返し


 普段はあまり読み返さない。ただし書いたことのいくらかは頭に残っていて、授業のときやリフレクションを書くときに思い出している。今回のような発表は、読み返すよい機会だと考えている。


(6) 書くことの苦労・限界


 ジャーナルをつけることで観察が注意深くなったためか、ジャーナルがなかったら気付いていなかったかもしれない生徒の様子が気になったり、他人の言葉や態度に過敏になった時期がある。また心の準備がないまま自分の弱さと向き合わざるを得ないこともあった。これが一時はとてもつらく、やめたいと思った。人と関わるのも苦しく感じたこともあった。そういう時、リフレクティブ・プラクティスを実践している友人やメンターと話しながら、ジャーナルを続けることができた。続けているとつらいことだけでなく、うれしいことに気付き、時間はかかったがつらさを乗り越えることができた。


(7) ジャーナルのこれから


 おそらく今のまま書き続けていくと思う。上で述べたようにつらいこともあったが、ジャーナルに救われたことも多い。ジャーナルをつけるために観察する姿勢が変わり、書くことで考えは深くなり、すべてを書ききれない、自分が見ている(と思っている)ことがすべてではないことを感じてきた。ジャーナルは授業だけでなく、私の生活も変えてくれたと言える。これまでの変化は、今ふり返ってみるとどれも意味があり、これからもこのような変化に気付けるのだと思えば楽しみである。また、若いときのように多くの人に相談しアドバイスを得る時間が持てなくなった今、自分の思いを整理する場としてジャーナルは必要である。私はジャーナルと自分の関係を「人と話す」ようだと感じることがある。人と違うのは、授業や自分の思いをよくわかっている自分と語り合うのだから、自分をよく見せたり長い説明をしたりする必要がないという点であろう。


(8) もし書いていなければどうなっていたか


 人間は時間とともに成長すると考えると、ジャーナルがなくても、私も少しは成長していたであろう。しかし、自分のまとまらない思いを抱えて、人に聞いてもらうことをもっと求めていたのではないだろうか。人に認めてもらうことや答えを与えてもらうことだけを求めていたら、自分がこれほど変われたかどうかわからない。多くの人に助けてもらってきたことは事実だが、ジャーナルと向き合う時間が、私の考えを深めるのに大いに役立ったことは間違いない。


(9) 使用言語について


 ジャーナルはきっかけが課題であったため、指示された英語で書いている。それが重荷と感じたこともある。辞書が必要であるし、自分の思いを表現しきれないもどかしさもあった。しかし英語で書いていると人に読まれる心配が少なく、それが続けられた要因の一つであるといえる。忘れてしまう前にReflectionを書こうと、私は様々な場所にノートを持っていく。職員室以外に部活動の場所であったり、喫茶店であったり、書ける所どこにでも持っていくが、もしこれが日本語であれば生徒や他の人の目に触れることにもっと注意しなければならず、書く時間が限られ、書けない日もあったかもしれない。英語で書いていると客観的に自分を見ているようで、素直な思いを出そうとする一方、感情的になってしまうことはほとんどない。英語で書くおかげで英語での表現力が高まり、ALTと話をしていても以前より長い時間、考えをじっくり話せるようになってきた。


 教科を超えて他の人と自分の経験や考えを共有するためには日本語のほうが便利であろうと思うことはある。同僚がジャーナルに興味を持ったとき、自分が書いていることを日本語で説明しなければならず、「日本語で書いていれば読めるのに」と言われた。リフレクティブ・プラクティスの仲間を増やしたいと思ったときは、日本語で書くことを考えたこともある。


しかし現在私はジャーナルを公開しようとは思っていない。生徒のことや自分のことなどどこまで安全に見せられるかについて不安があるからである。そのため、人に伝えるときは、自分の選んだ部分を説明するようにしている。




3.まとめ


 授業についてジャーナルを書くことで変化した観察力・考察力が授業以外の場でも活き、自分の考えに根拠を持ち、自分の行動を決定していく過程に大きな変化を感じている。ジャーナルで自分のティーチングをふり返ることは、授業のみでなく私のライフにも影響しているのだと思う。










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成長を手にした教師たち
―書くことは考えること,自分を変えること―


樫葉 みつ子(広島大学教育学研究科)


キーワード:教師の成長,リフレクション,ジャーナル・ライティング,メンター




1.はじめに


 (元)英語教師であり,(現)教師教育者である私は,山本先生と上山先生の報告を読んで,驚嘆を禁じ得ませんでした。自分を変えたいという,あのように強い意欲と固い決意を2人が持つに至ったこと,そして,そこには書くことによるリフレクションが大きく関与していることは,注目に値します。そして,このような教師の成長の可能性に,私は大きな希望を見出します。




2.教師の「現場の学び」


 教師は従来,現場で育ってきました。職員室で同僚と様々な課題について会話を交わしたり,校内研修その他の研究会で実践報告をしたり,教師仲間からフィードバックを得たりする中で,自分の視野を少しずつ広げ,状況を深く理解し,考える力をつけてきました。いわば,自分とは異なる他者との交流によって,自分を変化させ豊かに成長させてきたのです。もちろん,他者から得るものだけが教師の学びのすべてではありません。しかし,他者に出会って自分の価値観を改めたり,自分を作り直したりすることがなければ成長することは少ないでしょうから,その意味で,教職のような複雑な現場では,教師仲間との交流は貴重なものだと言えるでしょう。このように,現場に身を置くだけで,教師はある程度育ててもらえたものでした。ところが,今,教師の現場での学びは以前ほど多くはないと,危ぶむ声が聞かれます。
 


3.教師をとりまく状況


 教師の現場での学びが危ぶまれる理由の筆頭に挙げられるのは,言うまでもなく教師の多忙化です。平成18年度「文部科学省教員勤務実態調査」によると,小中学校の教諭の平日の残業時間は,昭和41年にはひと月に約8時間だったものが,平成18年度では約34時間と,26時間も増えています。1日平均約1,7時間の残業時間という計算になります。この調査における残業時間には,教員が持ち帰って行う授業準備などの業務は含まれていませんので,通勤や持ち帰りの仕事に要する時間などを差し引くと,時間的なゆとりがほとんどない教師の生活実態が浮かんできます。


また,このような忙しさが影響してか,校内研修や,教師自らの意思による民間の研究会への参加は減少傾向だと言われています。さらに,学校の小規模化に伴って学校に配置される教職員数も少なくなっており,人的ゆとりのない現場では,人材養成が困難になっていることを示す報告もあります(文部科学省、2012)。つまり,学ぶ機会が減った,このような現場に置かれている教師は,以前よりも教師としての成長を阻害されているのではないかと考えられるのです。
 


4.リフレクションとジャーナル・ライティング


 山崎・榊原・辻野(2012)は,専門的な教職像を「省察的実践家」に求め,教育関係者が一丸となって,教師の力量形成と発達を支えることを主張しています。そこで重視しているものは,他者との対話や交流,つまりリフレクションの契機となるものです。


大事なものがリフレクションであるならば,山本先生や上山先生が行っている1人でもできるジャーナル・ライティングによるリフレクションは,現状の突破口の1つになりうるのではないでしょうか。山本先生と上山先生は,自分の中に良い聞き手や読み手を育てて,リフレクションを成立させています。ジャーナルと自分との関係を「人と話す」ようだと述べる山本先生は,自分の中に聞き手を取り込んでいます。読者を想定して,自分の体験を一般化して記述するように努めていると述べる上山先生は,同じように自分の中に読み手を誕生させています。これらの聞き手や読み手を相手にしてリフレクションを続けた2人の,洞察力や実践力の高さは,目を見張るばかりです。多忙で教師の仲間関係が成立しにくい現代においては,自律的な教師の成長を支える有効な手段として,ジャーナル・ライティングによるリフレクションを位置付けることができると思われます。


 ただ,注意したいのは,山本先生も上山先生も,ジャーナル・ライティングを始めた頃は,そのリフレクションの質を引き上げてくれるようなメンターが存在したと考えられることです。知識や経験の少ない教師が1人で振り返ることには限界があります。目に映ってはいても見えていないことに,自分だけで気付くことは難しいものです。書かないより振り返って書く方がいいとは言えますが,その価値を高める方法など,考えていかなくてはなりません。




5.おわりに


 山本先生と上山先生とは,書くことで考え,自分を変えて,教師として成長を遂げています。もし今から教職をスタートするのであれば,私も2人に倣って,ジャーナル・ライティングでのリフレクションを自分に課そうと思います。主体的に書くことでさらに主体的な学び手となり,教師として変化する様を自分に見たいと思います。そして,子どもたちひとりひとりの学びや成長を,しっかりと見届けたいと思います。


教師教育に携わる現在の立場からは,この方法を後進の育成や現職教員の研修に用いることができないかと考えます。大会当日の全体討論の行く末に期待を寄せています。




6.引用文献


文部科学省(2006)「文部科学省教員勤務実態調査」http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/icsFiles/afieldfile/2010/09/22/1297939_09.pdf
文部科学省(2012)「中央教育審議会教師の資質能力向上特別部会(第11回)参考資料2学校および教員を取り巻く状況に関する参考資料」
http://www.u-gakugei.ac.jp/~jaue/_src/sc511/04sanshiryo07-02.pdf
山﨑準二・榊原禎宏・辻野けんま(2012)『「考える教師」―省察、創造、実践する教師 』学文社








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柳瀬原稿の続き




3.観察力、自己観察力、多重的世界構成力の発達


  上山と山本の述懐を、ルーマンのオートポイエーシス論の枠組みを契機として考えると、両者のそれぞれの成長は、(1) 観察力、(2) 自己観察力、(3) 多重的世界構成力の側面でとらえることができる。


  (1) の観察力とは、自分の外にあるもの(=者・物)の観察をする力であり、その観察に続く分析・統合・記述をする力も含む概念とする。上山と山本はそれぞれに、以前は気づかなかったことに気づくようになったこと(=観察)、頭の中を整理(=分析)し、リンク・体系化(=統合)して書く(=記述)することが上達したことを述べている。


  この観察力の向上は、(2) の自己観察力の向上につながる。自己観察力とは、外にあるものを観察する自分をさらに観察(=二次的観察・リフレクション)する力であり、その自己観察に伴い、(再び)自分を分析・統合・記述する力も含む概念である。上山と山本はそれぞれに、自らの実践を俯瞰的にとらえること(=自己観察)、「なぜ」を自らに問うこと(=自己分析)、自分を更新すること(=自己統合・自己組織化)、書く自分が書かれた自分と対話すること(=自己記述)を向上させている。


  こうして自己観察を続けることにより、上山と山本は、自らの中に読み手・聞き手を育て上げ、リフレクションを重ねる。リフレクションの重なりにより山本は「自分が見ている(と思っている)ことがすべてではない」ことを理解し、現在の自分を絶対化することなく何を変えられるか・何を変えなくてよいかと、自分の可能性を想像し複数の可能世界を構成している。上山は自らの実践を書いておき、それらの記述を読み直すことにより自分で思ってもみなかった新しい関係性を発見したり、ブログ・発表資料・書籍の公開・配布・公刊により他の教師にも新たな知のつながりを発見させたりしている。書くことにより、自らの知的世界を脳内から複数の文章へと拡張し、複数の文章の間に様々に新しい関係性を自他に発見させ、知的世界を複数化しているとも言える。このように複数の可能世界と知的世界を構成することが、(3) の多重的世界構成力である。この力により、私たちは「今・ここ」に生きながら、同時に「今・ここ」を超えた生き方を可能にしている。


  これらの三つの力は、書くことにより育てられやすいと言えよう。特に (2) と (3) は、書くことで自分の実践を明確に言語化・対象化しないと困難であろう。限られたワーキングメモリーだけで行動している限り、私たちは「今・ここ」の事柄への対応ばかりに追われ、リフレクションして考え、新たな自分や世界を構成することはなかなかできないかもしれない。書くことは強力なreflective deviceである。




4. まとめ


  このように、書くことは、所与の世界をより冷静に理解し、新たな可能性を豊かに構成することを促進し、教師の成長を促す。今後は教師ナラティブの事例の収集とそれらの原理的理解(=リフレクションのリフレクション)を教師教育・教員研修で重視すべきだと筆者は考える。だが他方で、学界による質的研究軽視や教育行政による教師の自由時間の剥奪といった制度的障害も一歩一歩克服してゆかねばならない。そして教師は、教室を語ることば、子どもの学びを語ることば、教師としての自分を語ることばを取り戻さなければならない。幸い「日本ほど、教師たちの実践記録が多数出版され、校内の授業研究が活発に推進され、実践的な知見と見識が教師たちによって共有されてきた国は他には存在しない」(佐藤 2009, p. 202)。制度的障害を打破し、教師が書く文化を再興することは、日本の教育の未来にとって重要なことである。


  またさらなる可能性としては、英語教師が自らの実践の振り返りを英語で書き、日本語話者以外の英語教師とも連帯する途がある。英語学習・英語使用はいまや地球規模の現象であるから、日本人英語教師の英語による実践記述、その書き手だけでなく国(内)外の読み手の非日本語話者英語教師の見識も拡げることになろう。そのための道筋は稿を改めて考えたい。




参考文献


佐藤学 (2009) 『教師花伝書 』 東京:小学館


柳瀬陽介 (2001)「アクション・リサーチの合理性について」『中国地区英語教育学会研究紀要』No.31, pp.145-152


柳瀬陽介 (2006) 「インタビュー研究における技能と言語の関係について」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 37, pp.111-120


柳瀬陽介 (2008) 「Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 ― アクション・リサーチを超えて」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 38, pp.71-80

柳瀬陽介 (2009) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ―EBMとNBMからの考察」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 40, pp.11-20

柳瀬陽介 (2011) 「メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複数性」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 41, pp.31-40

柳瀬陽介 (2011) 「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 41, pp.77-86

柳瀬陽介 (2012) 「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」 『中国地区英語教育学会研究紀要』No. 42, pp.51-60

柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂 (2011) 『成長する英語教師をめざして—新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り 』東京:ひつじ書房


吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』 東京:ひつじ書房


N.ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1』法政大学出版局


N.ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 2』法政大学出版局

Applied Linguistics (2011) Volume 32, Issue 1. Qualitative Interviews in Applied Linguistics: Discursive Perspectives


TESOL Quarterly (2011) Volume 45, Issue 3.  Narrative Research in TESOL





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発表当日は、以上の論考を踏まえて、より深く、より現実的な話ができればと考えております。ぜひお越しください。

2012年6月17日日曜日

からだの感性でわかること ― 上本晋之先生のメールから




敬愛する上本晋之先生からメールをいただきました。武術と英語教育についての洞察にみちたこの文章を私一人で留めておくのももったいなく思いましたので、上本先生の許可を得て以下にその一部を転載します。斜字体の部分が上本先生の文面で、それを補うために、他の著書からの引用や私の駄文を加えます。

上本:さて、以前先生からいただいた竹内敏晴ノートを読み返していました。特にやわらと弓の稽古の場面から、自分の受け取った考えを勝手に書かせてもらいます。(いい迷惑でしょうが、おつきあいください=強引)


ここでいう「竹内敏晴ノート」とは、竹内敏晴氏の著作を読み進めながら、私が印象的な文章を抜書きしている私的なノートのことです(著作権の関係で、私的利用にのみとどめています)。

上本先生が主に言及しているのは以下の部分かと思いました。このくらいの転載なら著作権にもふれないので、以下に引用します。

嘉納治五郎は柔術とか小具足術とか「やわら」と呼ばれていた流派の体術をとりまとめ新しく組織して「柔道」を始めた。これは「近代化」と呼ばれる明治時代における文化再編成の努力の一貫だろう。それは、現在から眺めれば、第一に、「やわら」を生活の実用から切り離してヨーロッパ風のスポーツの枠内に位置づけた、ということであり、第二に、その結果、勝ち負けを基準とするゲームに仕立て直した、ということを意味するだろう。

祖父からわたしへ、からだからからだへと伝えられてきた、いわば志のようなものをことばにしてみれば、「やわら」とは、第一に素手で相手に立ち向かうすべであり、第二には常に勝ち負けと別の次元で相手と向かいあう身構えであった。「やわら」とは武器を持つ相手にから手で向かい、その勢いをむしろ利用してかわし、これを倒すのではなく、押えて、これと対等に向いあって立つこと、言いかえれば、対話の始まりうる地点にまで相手と自分とを導く振舞なのであった。 「やわら」の志は「柔道」化によって、なにがなんでも勝ち抜くぞ、敵対する相手を倒さずにはおかぬぞ、というヨーロッパ思考に呑み込まれ、覆い隠されてしまった、と言ってよいだろう。十字軍に代表されるこの思考への違和感は同時代の内村鑑三や岡倉天心からもしばしば発せられたことだが、ヨーロッパ風近代化に血眼になっている明治の文化人たちの眼には入らなかったのは当然のことだったのだろうと思われる。現代においても、たとえばアメリカから流入する心理療法の多くに共通する「勝ち犬負け犬」といったイメージにも氷山の一角は露れていよう。これに抵抗を感じる日本人は少なくない。

だが「勝ち負け」を至上の価値基準とする思考は欧米だけのものではないことは勿論である。日本伝来の武術においても、「やわら」と背中合わせの思考はある。(竹内 2010, 80)



[インターハイの弓道をテレビで見ていて] でも、そのうちに、こうやって見事に当てて、彼らはいったい何が面白いんだろうという気になってきた。私の場合は、弓を引いて、その記録も持っているけれども、的に当てるために弓を引いていたわけじゃないということに、その時に非常にはっきり気がついたんです。こうやって引いて、息をはかって、クッとなったらポンと当たる。それだけのことなら、ある運動センスを持っていたら、かなりの程度で当てることはできるんです。で、画面を見ていると、彼らにはそれ以上のことがまったくない。ただスポーツとしてやっているという感じでした。的に当てるのが目的で、20本引くとしたら何本当たるかということだけでやっていることがよくわかるんですね。私は弓を引く時に、こういうふうになったことはなかったということに、見ているうちに逆に気がつきました。

じゃあ、自分は一体何のために弓を引いていたかと考えると、的に当てるために引いていたという記憶はありません。自分の実感からいうと、左手に弓を握って前へ押し、右手を弦で引っぱるでしょう。すると世界が水平に無限に広がっていくわけです。それで広がり広がって、あるところでビューッと矢が飛んでいく感じだった。水平だけでは駄目で、もちろん垂直にもやるわけだけど、五重十文字といいますが、無限に広がっていってはじめてぶち当たるある存在感みたいなものがあって、それがスポッと開いたとたんにパーンと当たっているということです。ただそれだけといえばそれだけのことですが、それをどう名づけていいかがよくわからない。ですから、いつの間にそうなったかはともかく、とにかく弓を引いて的に当てるために苦労するということが自分にはなかったと気がついた。(竹内 2010, 112-113)



18、9歳の頃、私はひたすら弓術に打ち込んだ。戦時中であり、他にろくな娯楽がなかったせいでもあろう。絶好調であった時、ふと気づくと、引きしぼっている矢の先の的が、近く大きく見えるのであろう。ただ大きく見えるだけではない。自分の左手はすでに的の中に入っていて、的は自分の左肘のあたりにある。すでに矢先が的の中に入っているのであるから、これははずれるはずがない。 こういう状態を、昔の人ならば、的と一体になっていると言ったかも知れない。(竹内 2010, 128)





これらの竹内の記述を受け、上本先生は、大切なのは他人との比較ではなく、理想と自分との距離であることを述べます。

上本:昔のやわら、柔術と今の柔道と何が違うか、というと、「勝負論の違い」と言えそうです。誰との勝負か、ということから始まり、勝負を目的とするか、手段とするか、の観点の違いも指摘できそうです。勝負を目的にして、勝手は喜び、負けては悔しがり、という経験をすることが精神的な成長になると考える人も多いのではないでしょうか。しかし、それが「精神修養」という言葉でまとめられているようで、私は賛成できません。技の稽古を通して、学び、理解することは自分自身の現在地点と、技が描く到達点との距離だと私は考えます。私が未だに稽古にこだわるのは、非才の身の自分がどこまで行けるか、距離をどこまで縮めることができるか、試したいからです。


上本先生は、ここで古流の武術稽古が、どれだけからだの感性を高めたかを述べ、同時に近代的な解明をいたずらに崇めることに警戒します。

上本:竹内氏がどれほど武術をからだに染みこませる稽古精進をされたか、その到達された体感は文面から想像できます。その過程で、稽古そのものを通して、お持ちだった感受性を磨き、からだと対話する意識を発展させていかれたのでしょう。それは、氏の体感能力、身体意識の高さを示すと共に、古流の武術が築き上げた稽古修行の体系が見事であったことの証左であると思います。

些か極論めいていますが、いわゆるスポーツの理論で技を読み解き、解釈しても、(昔の)名人、達人レベルを理解できないと私は考えます。昔、某国立大学の少林寺拳法部がCGで高段者の技を解析して、「コツ」を科学するという試みをしました。分かりやすくしたつもりの取り組みでしたが、結論としては成功したとは言えません。それは、技を成立させている要素のほんの一部しか示せないからだと考えます。形として見えているものだけに焦点を当てての分析の限界です。


近代的な分析とは「客観的」に対象にアプローチする万人に開かれた方法論ですが、万人に開かれているということは、「誰でもわかる」ことでもあります。「誰にもわかる」ことを公正に記述することの重要性は言うまでもありませんが、「誰にもわかる」ことだけを探究の対象とすることは、質の高い経験にささえられた鋭敏な感性でのみはじめてわかることを、考察の対象から外してしまうことでもあります。

熟達者だけがわかることは、「客観的」で「科学的」な方法論からすれば「錯覚」となるでしょうが、わかる者にははっきりとわかり、わからない者にはまるでわからない現象というものはあるものです。別にこれはオカルトではなく、耳の肥えた人が共に認め合う見事な音楽演奏や、鑑識眼に長けた人がこぞって称える骨董品、あるいは味のわかる人なら頷く料理などで私たちの生活にも浸透していることです。もちろんこれらの領域においても俗人というものはいますから、俗人がわかりもしないのに通ぶって恥をかくことは多くあり、私たちはそういった例から、選りすぐられた人間だけがわかる感性的理解を嘲笑しがちですが、それは僻みというもので、マイケル・ポラニーもいうように、技能・技芸に熟達した者のみが理解し得ることというのは厳然としてあります。









長年の武術鍛錬を行なってきた上本先生は、いわゆる古武術の黒田鉄山先生の稽古会・懇親会に参加された時のエピソードを次のように語ります。

上本:たとえば、黒田鉄山先生が稽古後の懇親会で私の目の前で示された「軸」の伸展と収縮。意のままに正中線が、体軸が現れ、消える。これは機械では測定不可能です。黒田先生に私が感想を述べたところ、ニヤっとお笑いなり、「おわかりなんですね。」というお言葉をいただきました。間近におられたお弟子さん達は不思議そうな顔で、「今、何があったんですか?」と先生に尋ねていました。同じ空間にいても、見えない人もいる。見えた者は示した人と同じ感覚を有する。不思議な感じがしますが、これが相手との交流で得られる体験の深さです。これを科学は「錯覚」というでしょうね。


ここから上本先生は、話を本業である英語教育に移して、「近代的」で「客観的」で「科学的」でもあろうとする授業分析について語ります。トーンは批判的ですが、別に上本先生は反近代的・反客観的・反科学的になっているわけではありません。強いて言うなら上本先生は、脱近代主義的・脱客観主義的・脱科学主義的であることについて語っているのだと私は理解しています。

上本:翻って、英語授業について。若い英語教師たちは、本当に授業運営について、よく「知って」います。最近の大学では名人・達人と称される人たちの映像を見て、研究する授業があるそうですね。

先に某大学少林寺の話を出しました。これとよく似たことが今でも、英語の教師の中で行われている気がします。若い教師の皆さんは、よく「知って」いるのです。でも、実際に使うという場面で活かされていない。このギャップをどう埋めるのか?

近代的・客観的・科学的であろうとすることの重要性を十分に理解しながらも、それらをイデオロギー化してしまったという意味での近代主義・客観主義・科学主義に囚われてしまわないために、上本先生は、武術の稽古のやり方を指摘し、英語教育においても、近代主義・客観主義・科学主義的に一般論として語れないが、弟子が師と実践の感覚を共にしながら少しずつ自分のからだに染み込ませてゆく身体的な理解の重要性を説きます。

こういった徒弟制度・内弟子制度そして口伝の重要性は、西洋近代化する以前の日本では当たり前のこととして日々実践されてきたことですが、今では前近代的で主観的で非科学的なものとして一部の人々(特に悪い意味での官僚的感性と知性しかもたないエリート)にとって軽視されています。しかし近代主義・客観主義・科学主義的には捉えられない実践そしてからだの知恵を否定することは、反知性的であり、非現実的なことです。私たちは自らが無自覚に陥ってしまっているかもしれない呪縛(=イデオロギー)から自分たちを解放し、知性的で現実的であることを目指さなければなりません。

上本:古伝の空手では、型を学び、型の分解組み手 [=型で学んだ動きが、実際の戦いではどのように使えるのかを学ぶこと] をし、型に戻るようです。型の習熟が使える技の必要条件でしょう。英語指導でこういうシステムがあるのか、学びの浅い私は知りません。知っている技術を使ってみる。反応を分析して技術に改良を加える。こういう過程になるのでしょうか。落とし穴は、自分の指導技術がすぐその場で通用するか確認しにくいため、気づくのに時間がかることです。武術ならば、試したその時点で結果が、つまり利くかどうかが瞬時に応えとして出るのです。

私は若い人たちに期待したいです。年寄りの私は、自ら見栄(そういうもの、実はないのですが)を捨てて、若い人達に授業を見せています。私の役目かと勝手に考えてのことです。なんと、来年には私が職場で現役教諭最年長になります(苦笑)。昨年までの2年間は、職場に連続して新任が二人入ったので、私とペアで同じ学年(3年)を担当しました。ある意味で、内弟子制度(苦笑)です。声の出し方、視線の向け方なども示しました。頭での理解にとどまらず、「腑に落ちる」ところまで行って欲しいという願いからでした。


上本先生からのメールの引用は以上ですが、こういった身体的あるいは感性的な理解と学びは、別に武術稽古をやった人間だけが強調していることではありません。小・中・高の様々な教科の授業をこれまで1万以上観察してきた佐藤学先生は、『教師花伝書』で ―これはすばらしい本です。下手な研究会や学会に行く暇があれば、この本を読むことを強くおすすめします― も次のように述べます。

授業が始まり、まず私を驚嘆させたのは、小グループで夢中になって学び合う子どもたちの姿だった。一人ひとりが自然体で、しかも弾むような好奇心を共有して考えを交流し、知性的に探究し合う姿は素晴らしかった。これほど学びの作法を洗練させ、質の高い学びを実現している教室はそれほどあるものではない。(p. 20)



授業の始まりにおいて私が最も大切にしているものは、教室の「息づかい」である。教室を訪問すると、「息づかい」が感じられない教室がある。「息づかい」が乱れている教室があれば、整っている教室もある。「息づかい」が浅い教室もあれば、深い教室もある。授業が始まる時点の「息づかい」が、その授業のその後のすべてを決定すると言っても過言ではない。それほど教室の「息づかい」は授業の成否にとって重要である。(p. 27)



その短いシーンを見た途端、「これはすごい!」と唸ってしまった。子どもたちの姿が自然体で柔らかいのである。そのしなやかで柔らかい子どもたちの身のこなしを見ただけで、呉井さんの仕事が一つの境地を開いてきたことを直観し、これから始まる授業が小学校低学年の文学の授業の最先端を切り開くものになることを予感した。この直感と予感を言葉で説明するのは至難である。教室の学びを推進させる「息づかい」という言葉が最も適切なのかもしれない。あるいは東洋哲学の「気」という言葉が事柄を言い当てているのかもしれない。授業開始の「息づかい」や「気」の流れが、その授業のすべてを前もって決定している。(pp. 108-109)




こういった、「子どもたちの姿」「自然体」「身のこなし」「息づかい」などについて語ると、現職の先生の多くは大きく頷いてくれますが、一部の研究者はこれらのことばに対して冷笑的な態度を貫きます(ましてや「気の流れ」といったことばなど聞いた日には!)。しかし、感じることができる者には感じられ、理解できる者には理解でき、そうでない人にはまったく感じられないし理解もされないことは厳然と存在するのです。私たちはそういった感性や理解を、独善に陥らずに、ことばの深い意味で客観的に(=客観主義的ではないやり方で)探究し解明してゆく必要があります。(関連記事:「質的研究に関する私的ブックガイド」の下の方にある、鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門  実践と質的研究のために』(東京大学出版会)の紹介記事)。



最後にある講演会で、聴衆からの質問に答えた佐藤学先生のことばを紹介します。貧困な感性と頑なな知性しかもたない権力志向の管理職タイプの人間が聞けば、顔を真赤にして否定しそうなことばですが、教育という実践は、このようなことばを等身大に受け止め、否定もしないが過大評価もしない知性と現実性を必要とすると私は考えます。「学力向上を目的にして協同学習をしてはいけない」という佐藤先生の主張に対して、「それでは協同学習の目的とは何なのか。協同学習がうまくいっているかどうかを判断する指標とは何か」という聴衆からの質問を受けて、佐藤先生は次のように答えます。

佐藤: 協同的学びの目的は何か、ということはぼくにとって、学校の目的は何かということと一体ですね。ひとり残らず子どもたちが学びに参加し、その権利が実現できること、学びの質を高めることです。学力の結果は直接的には求めない。なぜなら、学力の結果自体を目的とすると、学びがやせ細っていくし、その結果、学力が伸びない。そういう関係なので。ということでよろしいでしょうか。あとなんでしたか。
[吉岡=シンポジウム司会]: 指標です。 
佐藤: 指標ね。「見ればわかる」という考え方です(笑)。それ以上はないです。すごくぼくは気になっているんですね。玄人が見ればわかります。確かに素人だとわからないかもしれない。学生みたいな教師とか。だけど、そういうことをきちんきちんと伝えていかないと、何でも測定して数にして、比較して、というのに慣れてしまうと、もう教育は成り立ちませんよ。

ラボ教育センター (2011) p. 201







関連記事
野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判(特に追記・追追記)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html



追記
内田樹先生が「直感と医療について」という文章を書かれています。上の私の記事と関係があるので、ここでもお知らせします。
http://blog.tatsuru.com/2012/06/18_0930.php







2012年6月9日土曜日

Jakobson (1960) Linguistics and Poeticsを読む



小山亘先生の著作を読んでいろいろ考えさせられて、やはりロマーン・ヤーコブソン (Roman Jakobson)(1986-1982)の'Linguistics and Poetics' (In Style in Language. Edited by Thomas Albert Sebeok. The M.I.T. Press. pp. 350-377は再読しておかねばと思い、およそ20年ぶりにこの論文を読み直しました。以下はその論文の中から、現在の私にとって関心のあるところをまとめて、そこから私なりの考えを書き連ねたものです。この夏にいくつかの発表をするための研究ノートとしてここに書き連ねます。

■Poetics (「詩学」)とは何か?

この論文タイトルの'Linguistics and Poetics'を見た現代人の多くは、poeticsなんてlinguisticsの中心からおよそ離れた、しかも時代遅れのトピックを扱って何になるのだろうと思うかもしれません(1990年代頃からの、日本の英語教育界における「文学叩き」はおよそ反知性的で醜悪なものでした。批判を受けた者が、誰か他の者に批判の矛先を向けて批判を逃れようとすることは、一般によく見られることでしたが、英語教育関係者の多くも英語教育で文学を教えようとする者を糾弾することで、自らが受け止めるべき責任を回避しようとしたのかもしれません。もっともその当時の文学的な英語教育が一切の批判を免れうる完全無欠なものだったとはとうてい思えませんが)。

しかしヤーコブソンは、poeticsを言語研究における周縁的なものとも時代遅れのものともとらえていません(そしてこの見識はこの論文が書かれた1960年よりも、現代の方が一層重要度を増していると思います)。Poeticsは、もちろん通常は芸術作品としての言語表現についてのものだとされています。

Poetics deals primarily with the question, What makes a verbal message a work of art? (p. 350)


しかし彼は、poeticsとはあくまでもことばの構造の研究であり、その意味で言語学の中核をなすと述べます。

Poetics deals with problems of verbal structure, just as the analysis of painting is concerned with pictorial structure. Since linguistics is the global science of verbal structure, poetics may be regardes as an integral part of linguistics. (p. 350)


さらに彼は、poeticsを言語学の中だけでとらえるのではなく一般的な記号論の中で考えるべきであり、さらにはpoeticsは狭義の言語芸術だけを対象にするのではなくあらゆる言語さらには記号の使用を対象とするべきとします。'Poetic features'は、芸術的な詩作だけでなく、広く観察されるからです。

In short, many poetic features belong not only to the science of language but to the whole theory of signs, that is, to general semiotics. This statement, however, is valid not only for verbal art but also for all varieties of language since language shares many properties with some other systems of signs or even with all of them (pansemiotic features). (p. 351)






■コミュニケーションのスピーチ・イベントを構成する6つの要因

Poeticsを以上のように理解すると、言語・記号表現に見られる'poetic features'とは何か、またその'poetic features'を作り出す'poetic function'とは何かということが大切な課題となってきます。というわけで、この論文で彼は'poetic function'を解説するのですが、その際に言語の(以下、記号一般の考察は割愛し言語の考察だけに絞ります)他の機能も共に考察して、'poetic function'を考えるべきだとしています。そこで登場させるのが、言語コミュニケーション (verbal communication) に必ず現れるスピーチ・イベント (speech event) ―適切な翻訳語が思いつきません!― を構成する要素 (constitutive factors) を示した有名な図です。以下はヤーコブソンが論文の353ページに書いている図をできるだけ忠実に再現したものです。




この図に対して、ヤーコブソンは、一見、コミュニケーションの情報伝達モデルとも思えるような説明をしています(例えば "The ADDRESSER sends a MESSAGE to the ADDRESSEE."や"the encoder and decoder of the message"など)。しかし注意深く読むと、従来私たちが考えがちのように、予めコンテクストがあって、その中でメッセージの伝達が行われるのではなく、メッセージがコンテクストを要求すると彼は書いています。さらにaddresserとaddresseeの接触も、単に物理的なものでなく心理的なものでもあると書いています。ヤーコブソンのコミュニケーション(スピーチ・イベント)モデルを情報伝達モデルと同じとすることはできません。

The ADDRESSER sends a MESSAGE to the ADDRESSEE. To be operative the message requires a CONTEXT referred to ("referent" in another, somewhat ambiguous, nomenclature), seizable by the addressee, and either verbal or capable of being verbalized; a CODE fully, or at least partiall, common to the addresser and addressee (or in other words, to the encoder and decoder of the message); and, finally, a CONTACT, a physical channel and psychological connection between the addresser and the addressee, enabling both of them to enter and stay in communication. (p. 353)






■ヤーコブソン・モデルの解釈

このヤーコブソンの図を私なりに拡張して解説するなら、ヤーコブソンの解説は「メッセージがコンテクストを創り出す」と言い換えることもできるでしょう。もう少し言うなら、「コミュニケーションの作動により、メッセージが創出し、そのメッセージ創出がコンテクストを創り出す」となります。さらに言い換えを続けるなら、メッセージを成立させるのはコミュニケーションの両者が出会うこと(CONTACT)です。こういった意味合いで、ヤーコブソンの図を少し書き換えますと以下のようになります。




ここではADDRESSERとADDRESSEEを直接に結びつけているのはMESSAGEではなくCONTACTとなっております。その両者の出会いを背後から支えているのが(たとえ部分的ではあっても)共有されているCODEです。これらの出会いと共有から生み出されるのがMESSAGEとCONTEXTです。

「メッセージ」と「コンテクスト」は、情報伝達モデルが考えるように最初から存在しているものと考えられてはいません。「メッセージ」と「コンテクスト」は、「呼びかける者」が「呼びかけられる者」に物理的だけでなく心理的にも「出会う」ことによってはじめて出現すると言うことができると私は解釈しています。「記号」はその出会いを間接的に背後から支えているだけです。このモデルは、「メッセージ」とは記号化と記号解読という記号の働きにより送信・受信・共有が行われるものではなく(=情報伝達モデル的解釈)、「メッセージ」とは、(共有されている記号の知識に助けられつつも)あくまでも「出会い」が創出させるものであり、さらにその「メッセージ」の創出がメッセージを成立させるための「背景」(=「コンテクスト」)を同時に創出する、ということを主張しているものだと私は理解しています(これは「関連性理論」 (Relevance Theory) の考え方とも合致します)。

と、これまでに私はヤーコブソンの用語を日本語で再表現(翻訳)してきました。この翻訳語は、これまでの定訳とは必ずしも一致していませんが、私なりに見出した日本語です。

それらの私なりのことばを使ったのが以下の図です。





以下、定訳でなく私なりのことばを選んだ理由を簡単に書きます。

ADDRESSERとADDRESSEEを私は「話し手・聞き手」あるいは「送信者・受信者」と訳すべきではないと考えます。現実世界のコミュニケーションにおいて、話し手は必ずしも聞き手に恵まれません(例えば、教師が大声で話しても、まったく生徒が聞いていない教室を考えてみてください)。また、話し手が伝えたかった「メッセージ」も、聞き手が10人いれば10通り(いやそれ以上)に理解されるのがコミュニケーションの現実かと思います。メッセージが送信・受信されると表現するのは、人間のコミュニケーションのモデルにおいては適切ではないと私は考えます。ADDRESSERは「呼びかける者」でしかなく、ADDRESSEEは「呼びかけられた者」でしかないという直訳的な日本語の方が私は適切だと考えます。

呼びかける」の呼びかけが呼びかけられた者に届いた時、「出会い」が成立する ―これらのことばを私が使う背景には、竹内敏晴氏の論考があります―。この「出会い」にはもちろん物理的条件(例えば聞こえるだけの声の大きさ)が必要ですが、それだけでは出会いは成立しません(例えば、声を上げれば上げるほど、生徒が教師のことを無視する教室を考えてください。あるいは教育現場の例ばかりでは嫌なのなら、うるさいだけでまったく心に届いてこない街頭演説を考えても結構です)。出会いは、身体のレベルだけでなく心のレベルでも生じます(いや身体と心で同時に生じる、と言うべきでしょう)。この意味で私はCONTACTを単に「接触」とは訳さず「出会い」と訳したく思います。

MESSAGEはうまいことばが見つかりませんでしたのでそのまま「メッセージ」としました。ですが、これを「テクスト」と読み替えることは控えました。「テクスト」と聞くと、私たちはどうしても、書記化された言語(=文書)や音声化された言語(=口頭言語)のように、物理的に確固として存在し、かつ万人に同型に認識されるテクストを考えがちだからです。この点、「メッセージ」でしたら、話し手にとっても必ずしもうまく伝えられないこと(話し手はしばしばことばを連ねた後に「つまり私が言いたいこと [=メッセージ] は・・・」と言います)および聞き手によっても異なって解釈されうること(聞き手はしばしば「要するに彼のメッセージは・・・」と自分の解釈を述べます)をうまく表現してくれます。こういった理由で私はMESSAGEはそのまま「メッセージ」としています。

同じようにCONTEXTを「コンテクスト」としたら、私たちはしばしば「前後の文章表現」( = co-text) のことを連想してしまいます。しかしヤーコブソンがCONTEXTという用語で意味しているのは、例えば「福島第一原発の事故は・・・」といったメッセージ(の一部)が指すreferentであり、そのreferentが結びついている多くの関連事象でもあるわけです。ですから私はこのCONTEXTはあえて「背景」と訳すことにしました。

CODEに関しては「記号」としましたが、これは「記号体系」とするべきか実は迷っています。しかし、人間がコミュニケーションで使う記号の中には体系性の低い、その場限りで使う非言語的なものもありますから、ここでは「体系」ということばは使いませんでした。





■スピーチ・イベントの構成要素はそれぞれどのような機能を発揮するか?

以上のようにヤーコブソンの図と用語を私なりに読み替えた上で、ヤーコブソン自身がこれら6つの構成要素が特に発揮する機能についてどう解説をしているかをまとめてみましょう。ヤーコブソン自身の解説をできるだけ忠実にまとめますが、時折、私の訳語と解釈も入れます。

まず、ヤーコブソン自身は、先程掲載したコミュニケーションのスピーチ・イベントの6構成要素の図に上書きするようにして、以下の図を357ページに掲載しています。下はその図のできるだけ忠実な再生です(353ページの図にあった破線はこの図にはありません)。





それではこの図を時折参照しながら、以下のまとめをお読みください。

(1) REFERENTIAL (背景の指し示し)

これは通常の言語コミュニケーションにおいて最も重要な (predominant) 機能で、ヤーコブソンは「指示対象へと向かう状況設定、背景へと向かうこと」("a set (Einstellung) toward the referent, an orientation toward the CONTEXT")と定義しています。このREFERENTIALの代わりに"denotative"や"cognitive"といった用語が使われることもあります(p. 353)。

(2) EMOTIVE (自己表出)

これは呼びかける者が、呼びかけの内容についてどのような態度を有しているかを直接に表現する機能です("a direct expression of the speaker's attitude toward what he is talking about")。"Expressive"と呼ばれることもあります。興味深いのは、[big]とと[bi:g]の発音の違いです。周知のように英語では両方の発音とも同じく'big'を意味しますが、後者の方は通常の前者の言い方に比べて、自らの感情などをより多く表現しています(p. 354)。EMOTIVEを考える時には、このように狭義の文法を超えてコミュニケーションを考える必要があります。

(3) CONATIVE (動かされる)

これは呼びかけられる者が発揮する機能で、典型的には命令文などで呼びかけられた時にその命令に従って動くことなどが例に上げられます(p. 355)。

Georg Bühlerなどは、上記のreferential, emotive, conativeをもって言語の主要3機能としました。しかしヤーコブソンは、もちろんのこと他の機能も説明しなければならないとします(p. 355)。

(4) PHATIC (出会いを成立させ持続させる)

これはCONTACT(出会い)で発揮されなければならない機能であり、ヤーコブソンはマリノフスキMalinowski)の用語を借りてPHATICと呼びます。典型例は挨拶、相槌、あるいは"Are you listeing?"などの発話です(p. 355)。

(5) METALINGUAL (記号の解説)

これは論理学における"object language"(対象言語)と"metalanguage"(メタ言語)の区分に基づいたもので、コミュニケーションにおいて使われた言語(CODE)について解説する言語の働きのことです。ヤーコブソンは"glossing function"とも言い換えています  [現在の言い方なら "metalinguistics"となるでしょう]。彼は言語学習においてこの機能は重要であるとも述べています ("Any process of language learning, in particular child acquisition of the mother tongue, makes wide use of such metalingual opeations") (p. 356)。

(6) POETIC (メッセージの作品化)

こうして5つの機能を説明した後にヤーコブソンが述べるのがpoetic functionです(この機能は狭義の詩(=言語芸術作品)に限られないので、私はこれを「詩的機能」ではなく「メッセージを作品化する機能」と呼びます)。この機能をヤーコブソンは、メッセージ自体へと向かうこと、メッセージをメッセージとして成立させるためにメッセージを作品化させること、と解説しています (と言いましても、この表現には私の解釈が入っています。原文は "The set (Einstellung) toward the MESSAGE as such, focus on the message for its own sake"です)(p. 356)。

ヤーコブソンはこの機能は、芸術作品としての詩に最も見られるが、他の言語使用にも見られるものであり、poetic function(作品化機能)を芸術的な詩だけのものとして考えるべきではない (また詩はpoetic functionだけに留まるものではない)と述べています。

Any attempt to reduce the sphere of poetic function to poetry or to confine poetry to poetic function would be a delusive oversimplification. Poetic function is not the sole function of verbal art but only its dominant, determining function, whereas in all other verbal activities it acts as a subsidiary, accessory constituent. (p. 356)
日常的な言語使用でのpoetic function(作品化機能)の例としてヤーコブソンが挙げているのは、 ("Margery and Joan"ではなく)"Joan and Margery"と言うこと、("the dreadful Harry"ではなく) "the horrible Harry"と言うこと、("I love Eisenhower."でなはく)"I like Ike."と言うことなどです (pp. 356-357)。

これらの例でそれぞれの前者でなく後者が選ばれるのは、もちろん後者の方が「語呂がいい」からです。私たちはことばを選ぶ時、例えば「そうね、ドビュッシーの音楽は・・・」と適切な形容詞(的表現)を探す場合、「繊細だ」「洗練されている」「異常に美しい」などから選ぶと、語の選択という縦の垂直軸 (selection) で選びます。ところが、言語表現を「作品化」する場合は、縦の垂直軸(つまりはparadigmatic(系列的・連合的な軸)でことばを吟味するだけでなく、横の水平軸(つまりはsyntagmatic(統辞的・連辞的)な軸)でもことばを吟味し、ことばが並んだ時 (combination) に、聞き手に強い効果を与えるようにします。これをヤーコブソンは「作品化機能の実証的な言語学的基準」 ("the empirical linguistic criterion of the poetic function")として、次のように定式化します。

The poetic function projects the principle of equivalence from the axis of selection into the axis of combination. (p. 358, italic in the origninal)

拙訳(意訳):ある語の決定の際に人は、ほぼ等価と考える複数の語の中から最善の語と考えるものを採択するが、作品化機能においては、ことばのつながりにおいても、横に並んだ複数の語が様々な意味で等価になるようにことばを選ぶ。様々な意味で等価というのは、音節、強勢、韻律、統語構造などを意味し、これらの点でできるだけ等価になるよう語を配列することが、言語表現を作品化することである。


このように"poetics"を言語学的に定義した上で、ヤーコブソンは再び、poeticsとlinguisticsを分けて考えるべきではないとします。

To sum up, the analysis of verse is entirely within the competence of poetics, and the latter may be defined as that part of linguistics which treats the poetic function in its relationship to the other functions of lanuage. Poetics in the wider sense of the word deals with the poetic function not only in poetry, where this function is superimposed upon the other functions of language, but also outside of poetry, when some other function is superimposed upon the poetic function. (p. 359)


ここまでの10ページが、序論とコミュニケーションのスピーチ・イベントモデルの解説であり、論文の残り18ページはpoetic functionの例示に使われます。論文の最後は、再びplinguisticsとpoeticsのつながりの重要性を訴えるものです。poeticsに興味をもたない言語学者と、linguisticsに興味をもたない人文学者の両者を批判します。

All of us here, however, definitely realize that a linguist deaf to the poetic function of language and a literary scholar indifferent to linguistic problems and unconversant with linguistic methods are equally flagrant anachronisms. (p. 377)






■コミュニケーションのスピーチ・イベントにおける6つの構成要因とそれらの主要機能のまとめ

以上のヤーコブソンの論と図を私なりに少し改変してまとめれば、下のようになります。




日本語で表現すれば以下のようになります(私は今回も、自分なりに納得するように翻訳してはじめて得られる理解というものがあることを実感しました)。




人間の言語コミュニケーションという複合的 (complex) な事象をよりよく理解するには、複数の良質なモデルで考えることが重要だと思います。私は、博士論文で従来の言語学・応用言語学のコミュニケーション理論と哲学のコミュニケーション理論をなんとか統合的に考えた後、三次元的空間の合成ベクトルで言語コミュニケーションを考えるモデルで考察を進めてきましたが、これからはこのヤーコブソンのモデルも自らの理論枠組みの一つとして使ってゆきたいと思います。





■応用的考察

というわけで、早速応用的考察を試みます。と言いましても、時間がありませんので(最近は行政仕事・事務仕事に追われて、勉強時間がなかなか取れません 泣)、ここでは素描にとどめます。現時点での論の粗さはお許しください。


(A)授業というコミュニケーションは、教科書の内容というメッセージを、教師という送信者が生徒という受信者に伝達することではない。

これは中部地区英語教育学会岐阜大会シンポジウム(「学校英語教育を考える3つの視座: 成長する教師・自律する学習者・進化する授業」)で詳しく述べようと思っている考えの素描です。

授業をコミュニケーションと考えても、コミュニケーションを考えるモデルが情報伝達モデルでしかなかったら、授業とは、優れた教科書・教材をメッセージ(テクスト)として選定し、後はそれをいかに効率良く伝達するか(=プリント・プレゼンテーションなどの工夫)という問題だけに矮小化されかねません。

あるいは「英語の授業は、とにかくオール・イングリッシュでなければならない!」と眉を吊り上げる人は、コミュニケーションの作動の中で記号(CODE) が果たす役割を過剰評価し、コミュニケーションのその他の側面をきちんと理解しそこねてしまっているのかもしれません。

やや単純化して言いますと、優れた教科書・教材をテクストとして選んで、流暢な英語を教室の中の記号(CODE)として使えば、それは教師がいい授業をしていることだと、情報伝達モデル的に考えれば結論できるのかもしれません。それでいい授業にならないのなら、聞き手であるはずの生徒が悪いとも結論するのかもしれません。しかし、そう短絡していいのか、私たちはコミュニケーション・モデルを変えて考えるべきなのかというのが私が主張する予定のことです。



(B) 英文学の精読授業の再評価

ある英文学作品をテクストとして定め、それを読み、それについて教師が解説し学生と討議するという、伝統的な英文学の精読授業 ―と類型化していいでしょうか、識者の皆様?― は、現在の英語教育関係者には人気がない授業ですが、そう短絡すべきでないと私は考えます。

ヤーコブソンのモデルで言いますと、そのような英文学の精読授業は、テクストの精読を通じて、教師が丁寧に日本語で使用言語を文法的にも語用論的にも解説し、そのテクストの背景を文化・社会・歴史的にも指し示し教養を深めます。さらに重要なことは、これらのメタ言語的機能と背景指示機能が、文学テクストが、見事に作品化されていること(作品化機能)を示すために解説されることです。これらの授業では、言語表現の本質的特徴が学ばれるとまとめることができると私は考えます。



もちろん「英文学の精読」と称しながら、機械的な英文和訳に終始した実力のない英語教師もたくさんいた(今でもいる)はずです。ですから私は無批判的に英文学の精読授業の復古を主張するつもりなど毛頭ありません。しかし、ヒステリックに「英文学の精読なんて!」と冷笑する英語教育関係者の偏りだけは指摘したく思います。



(C) 「授業は英語で」の課題

私は「高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出」などでも述べているように、「授業は英語で」という学習指導要領の方針が、形骸化したり暴走したりして、高校の英語の授業の営みをかき乱してしまうかもしれないことを懸念しています。しかし、他方で、高校の先生の一部には、(上の精読の要素も少しももたない)機械的な英文和訳しかせずに、英語の実力もつけないどころか生徒の日本語感覚までおかしくしている人もいることは承知しています(このことは、教員研修制度の貧困や教師の自由時間の剥奪あるいは大学の教員養成の不全などと共に語らなければ高校教師を不当に批判してしまうのですが、それは全国英語教育学会愛知大会:課題研究フォーラム(8/4土曜)などでも語ることとして、ここではとりあえず「授業は英語で」という原則が全国津々浦々の指導主事によって説かれ、公立学校の教師は建前としてはそれに逆らえないことを前提として話を進めます。下の図をごらんください。クエスチョン・マーク(およびその数の多さ)と赤色の濃さは、これからの英語教師の課題(端的に言うなら問題)の大きさを示しています。




私がこれまで観察してきた限り、「授業は英語で」の方針の授業のほとんどは、教師が流暢な英語で生徒に行動の指示をすること(クラスルーム・イングリッシュ)、および教科書の英文の表面的な文字通りの意味を尋ねることなどが多い授業となっています(時に深い発問を英語でするすばらしい教師もいらっしゃいますが、それは例外的で、多くは"When was he born?" "He was born in 1973."と教科書に明らかに書かれていることに関する表面的なやりとりばかりに終始しています)。ヤーコブソン・モデルで言いますと、生徒を英語で動かす(英語での指示)機能 (conative function) と、背景を指し示す機能 (referential funciton) は重視されていますが、後者にしても明らかな文字通りのreferentを指すだけで、行間やテクストの背後にある背景を指し示すことはあまりありません。

英語表現についてのメタ言語的解説(文法面と語用面)も英語で行うことは容易でないでしょう。また、たとえ英語教師がそれなりに英語で解説しても、生徒がその英語をわからなければ意味がないことは言うまでもありません。それでも文科省は文法解説までは英語使用を求めないようですから、これは大きな問題ではないかもしれません。

それよりも問題になるのは、ヤーコブソン・モデルの他の機能で言えば、教師が英語でうまく自己表出をできるか (emotive function)、英語で生徒の心と身体を動かす出会いを作れるか (phatic funcition)でしょう(これらの機能では、中学英語教師の方が優れている場合は多いと思います)。もちろん高校教師の方の中でも自己表出や出会いをすでに英語で行なっていらっしゃる方も多いわけですが、少数の優れた例を除くなら、まだ英語でのコミュニケーションは不自然で平板で、教育環境が整っている場合ならともかく、教育困難な状況においてそのような英語で「出会い」を作り出せるかどうかは疑わしいとすら言えるのかもしれません(上から目線でごめんなさい。私も教育困難な状況に置かれたらどう授業をしたらいいか深刻に悩み、試行錯誤を続けると思います。しかしその際に、もし私に「授業は英語で」がとにかく形骸的に強制されたら、私は困り果てると思います。指導主事や校長に見て見ぬふりをするだけの器量があればいいのですが、もし「授業は英語で」をスローガン化し管理者がそれを連呼するなら、英語でどう「出会い」を成立させるか、端的に言うならどう授業を成立させるかは大きな問題となってくると考えます。

私が最も大きな課題になると思うのは、言語表現の洗練に関する「作品化機能」 (poetic function)が、教師・生徒共に英語を使うことに気を取られ、ないがしろにされかねないことです。生徒が使う英語はもとより、教師が使う英語、ひいては教科書の英語までもが凡庸で平板なものにならないか。そのような英語を教える授業で、これからグローバル社会で人びとを説得しなければならないような未来をもつ学習者に対応できるのか、また、教育困難な環境で、知的喜びを喚起し学習者を内発的に動機づけることができるのか、私にはこれらの点を懸念しています。

いや大学までもが、資格試験の成績と大学授業の単位を交換する時代に、高校英語教育の英語が通俗的で知的には退屈になるのは、驚くべきではないのかもしれません。しかし、私が問いかけたいのは、その日本の教育界の「流れ」が、現在の日本が直面している諸課題にとって、妥当なものか、ということです。

いつもながら繰り返していることですが、根源的に考えることをためらわないようにしたいと思います。



関連記事


小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html

コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/6.html




2012年6月1日金曜日

健康と病いについての語り(ナラティブ)を聞けるサイト ディペックス・ジャパン



先日、日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイトである"e-job-100" (http://e-job-100.sakura.ne.jp/modx/)をご紹介しましたが、今朝の毎日新聞で、病いを得た方の語り(ナラティブ)を映像・音声・テキストで見る・聞く・読むことができるサイトのことを知りましたので、ここでも紹介します。



NPO 健康と病いの語り ディペックス・ジャパン
http://www.dipex-j.org/



このサイトは英国のサイトを手本に作られているそうですが、英国では一般向けと若者向けのサイトに分かれています。





私は以前、「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html)という発表を行い、Evidenced Based Medicine (EBM) と Narrative Based Medicine (NBM) についてもまとめました。

上掲サイトはもちろんNarrative Based Medicine (NBM)の考えに基づくものですが、NBMをEvidenced Based Medicine (EBM) と対立するものとはみなさず、両者は相互補完するものとみなしているようです。