2012年6月19日火曜日

英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化- (発表要旨)


第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会8/4(土曜日)14:30~16:00の時間枠で、以下のシンポジウムを開催します。一人でも多くの方に来ていただきたいので、ここに概要と発表要旨を掲載します。




英語教師が書くということ
-日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-


(課題研究フォーラム:中国地区英語教育学会)

コーディネーター:柳瀬 陽介(広島大学) 
指 定 討 論 者: 樫葉 みつ子 (広島大学)
提 案 者:上山 晋平(広島県福山市立福山中・高等学校)
提 案 者: 山本 真理 (兵庫県立北須磨高等学校)

概要:

 人はなぜ書くのでしょうか。英語教師にしても自分の実践を書くことでなぜ変化・成長できる(あるいは少なくともそう実感できる)のでしょうか。このフォーラムでは、日頃から自分の実践を振り返る文章を、英語で書いている高校教師と、日本語で書いている中高一貫校教師を提案者として招き、自らの実感を報告してもらいます。次に、指定討論者とコーディネーターがそれぞれに提案者の報告を整理・解釈して、それを元に提案者との対話を試みます。最後に参加者の皆さんからの問いかけを促し、全体で討論を試みます。
 このフォーラムは、従来のリフレクションやナラティブの研究で必ずしも明確に区別されてこなかった口頭言語と書記言語の違いを明確にし、「書く」ことの意義を具体的に解明しようとします。また、書記言語を日本語にすることと英語にすることの違いについても検討します。研究者だけでなく実践者にもぜひ聞いていただきたいフォーラムです。


以下は、大会の予稿集に掲載される予定の四人の発表要旨です。

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英語教師が書くということ

― 日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化 ― 


柳瀬 陽介(広島大学)


キーワード:語り(ナラティブ),リフレクション,質的研究




1.はじめに


  国内外で一万以上の授業を観察してきた教育学者の佐藤学は次のように語る。


教育改革をめぐる華々しい言葉や粗雑な言葉とは異なり、教師の日常の実践を語る言葉は、元来つつましい言葉であり、小さな事柄を細やかに語る丁寧な言葉である。
しかし、もう20年以上、教育の行政と業界(ジャーナリズムとマスメディア)によってあまりに粗雑な言葉が氾濫したために、教師自身の言葉が貧弱になっている。「生きる力」とか「心の教育」とか「ゆとり教育」とか「確かな学力」とか、誰も定義できない実体の曖昧な言葉が教育ジャーナリズムをとおして氾濫し、それらの言葉を使うことによって教師たちは教室を語る言葉を失い、子どもの学びを語る言葉を失い、教師としての自分を語る言葉を失ってきた。
今こそ、教師としての「私」を語り、教室の固有名の子どもを語り、自らの実践経験を自らの言葉で語ることが重要なときはない。(佐藤 2009, pp. 91-92)


  だが教師が「自らの実践経験を自らの言葉で語ること」は、おそらくは1980年代以降の量的研究の流行と共に英語教育学界では抑圧されてきた(現時点でさえ、量的なエビデンスを使わない「語り」によるナラティブ系の研究は紀要掲載論文を見る限り少ない)。


筆者は、こういった偏りを批判的し、これまでアクション・リサーチやExploratory Practice、あるいはエビデンスとナラティブ、または技能の言語記述に関しての理論的考察の学術論文を公刊してきた。また科研でも、ある熟練中学英語教師の質的記述、第二言語教師ナラティブ、そして本発表もその研究活動の一部である「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」の研究代表を務め、質的研究・ナラティブ研究の理論的理解を広げ深めることを試みてきた。著作としても『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』と『成長する英語教師をめざして ― 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』を共編者として刊行して、学会論文では取り上げられにくい教師の語りを公刊してきた。


  しかし、欧米での応用言語学研究が多くの質的研究を産出し、理論的にも洗練度を上げている(例えばTESOL QやApplied Linguisticsの特集号(共に2011年刊行)を見よ)ことと比べるなら、質的研究やナラティブ研究に対する日本の英語教育研究者の理解は未だ低い。


  本研究はそんな状況を背景にしながらも、欧米のナラティブ研究でも未開拓な、語りのメディアの選択についてメディア生態学に基づき着目し、(口頭で語ることではなく)「書くこと」がどのような意味合いをもっているのか、および第一言語(日本語)か第二言語・目標言語(英語)で書くことの違いを探究するものである。




2.今回の発表の研究方法
  
本発表の4人の登壇者は次のような役割分担を持っている。上山は自らの実践を日本語でブログに書く英語教師として自らの書く経験を振り返る。山本は英語でジャーナルを書く英語教師として振り返る。指定討論者の樫葉は(元)英語教師・(現)教師教育者としての自らの経験を活かしつつ、上記2名の振り返りを分析・解釈する。コーディネーターの柳瀬はそれらを総括し研究の理論的枠組みを整える。


  今回の発表では、筆者が上山と山本に提示した10の質問をきっかけに議論を深める。質問は上山と山本がそれぞれの原稿に掲載しているのでここでは書かない。以下、上山と山本の原稿、および樫葉のコメントを掲載し、柳瀬のこの原稿の続きはその後に掲載する。
  




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教師の成長における「振り返り」の効用
―いつ,何を,どう書くことが,よりよい実践につながるのか―




上山 晋平(広島県福山市立福山中・高等学校)


キーワード:実践記録,研修成果,ブログ,発表




1.はじめに


この発表では,授業実践や研修成果をまとめる手段として記録している「実践記録」と,それを整理してまとめた「ブログ」について,また,それらをどう実践に活用するかについて述べる。以下,コーディネーターからの質問に答える形で「書くこと」についてまとめている。




2.「書くこと」について


(1) 書き始めたきっかけは何ですか?


 教師生活1年目に読んだ本に書いてあった次の言葉がきっかけである。「できるだけ授業記録を残そう。うまくいったときだけでも記録を書いて残していけば,今後の実践につながる。書かないと残らない」。この言葉を読んで,限りある教師生活の,貴重な経験を活かしていくために書き続けようと思って,英語授業,学級経営,校務分掌,部活動等にわたって気づいたことを日本語でパソコンで記述する取り組み(実践記録)を始めた。


(2) 主にどんなことを,いつ・どこで・どのように書いていますか?


 (1) のように,英語授業だけでなく,学級経営,校務分掌,部活動にわたって,「うまくいったこと」「新しく取り組んだこと」「発見したこと」を主に書いている。自分にとってのsomething newを書き残しているとも言える。気づきを言語化すると,その一日に対する充足感が高まる。「自分を更新できた」気になるからだ(自己更新)。書くのは主に学校で,帰宅前の5~20分ほどを使っている。忙しいときは,翌日の朝に書くこともある。特記事項がない日は書いていない。学校でまとめた文章を整理し直して,家庭でブログにアップすることもある(実践記録をまとめているので、短時間でまとめることができる)。また,書いたものを研究発表などの機会を利用してまとめ直し,体系的に整理している。それが書籍の執筆につながったものもある。自分の実践が積み重なる感覚は大きい。


(3) 書き始めた頃と現在では「書く」ことの感触は異なりますか?


 書き始めた頃に比べて,筋道立てて短時間で書けるようになったと思う。書くことで頭が整理され,自分の考えがまとまってきたからだろう。当時は,自分のためだけに「日記風」の実践記録を書いていたが,現在は,他の人にも役立つようにタイトルや内容を「ビジネス書風」に工夫し,自分の体験を一般化して記述するよう努めている。


 ○【以前】 「生徒の名前を覚える努力をした」 → 【現在】 「はじめて受け持つ生徒の名前を覚える5つの方法」
○【以前】 「学級開きの前日準備をした」 → 「学級開きの前日には何を準備するか」  


(4) これまで書き続けたことによって自分がどのように変わってきたと思いますか?


 (3) でも述べたが,書き続けることで,自分の頭の中が整理,リンク,体系化され,気付きの多さにつながっている。メモ取りの頻度が増えたのは,そのためでもある。また,実践記録の読者を想定した書き方も身につけることができている。分かりやすい・興味を引く書き方をして,自分の実践を,より俯瞰的にとらえることができる。


(5) 書いたものを自分で読み返しますか?


 私の書く行為は,「メモ」「実践記録」「ブログ」「発表資料」の4段階ある。次の段階に活用するために読み返している。書いたものがたまると,それらをまとめてプリントアウトする。カバンに入れて,時間があるときに読み直している。読み直すコツは,読み直したくなるタイトルにすることである。
 例)
○「はじめて受け持つ生徒の名前を覚える5つの方法」
○「試験の採点を早く終える3つのコツ」   
○「生徒の納得度が高まる解説の仕方(Reading)」


(6) 書くことの苦労や限界は何ですか?


 書くには時間がかかること。授業や研修の後で一番大切で,一番大変なことは,ポイントや気付きを振り返り,まとめること。「振り返りの時間」をもつことである。復習をして,実践に活かす点を意識できる貴重な機会だが,時間がかかるので,意識的に行わないと難しい。一番よいのは,「その日に書く」こと。「時間があるときに書こう」と思っても,そのような日は来ない。大切なことすべてを書こうと思うと時間がかかって続かないので,シンプルにポイントを書くだけでもよいと気軽に考えて,経験を記録に残し続けるよう心がけることが大切。


(7) これからも書き続けますか?続けるにせよ,止めるにせよそれはなぜですか?


 必ず書き続ける。教師として働ける期間は有限であり,生徒にとっても二度とない時間である。自分の体験を残して,次の改善につなげることは,生徒のためにも,自分のためにも大切だと思う。書くことがそれを実現する。


(8) もしこれまで書いてこなかったら,自分はどうなっていたと思いますか?


 「英語の授業はすぐ終わる!」「楽しい!」という生徒からの声はなかなか聞けなかっただろう。また,研修会等での発表や,書籍の執筆という機会も与えられることはなかっただろう。情報は発信者のもとに集まる。発信することで,自分の体験を整理でき,人の役にも立つ。「書くことは自他の幸福につながる」とも言える。


(9) もし自分が英語(もしくは日本語)で書くとしたら,「書く」ことはどのように変わると思いますか?


 英語で書くと時間がかかるので書く量や頻度は減るだろうが,英語で書く力は高まるだろう。ただし,他の人に伝えるには,英語を日本語に変換する必要が生じるので,人のためになるという効果は薄くなるかもしれない。何のために書くことかという目的の違いが,記述言語の違いとなる。私は当分,日本語で書き続けるだろう。


(10) その他何かありましたら,お聞かせください。


 書くことのデメリットは時間がかかること。メリットは数多い。書くことは残すこと。書くことは考えること。書くことは拡げること。書くことは,自分の実践を自他に活かすことである。また,書くことは育てることでもある。関連に気付かなかった自分のそれまでの実践が,書いてまとめることで関係性が整理され,思わぬ観点でつながることがある。スティーブジョブズの”connect the dots”の状態である。書くことは発見することでもある。




3.おわりに


 実践のみの教師と,実践後に振り返り,それを次の実践につなげる教師のどちらの成長が大きいだろうか。書くという振り返りは,成長を促す自覚的な行為である。授業や研修後に振り返りを位置づけること。その中から次に実践したいものを付箋に書き出すこと。それを実践できたか確認すること。こうした「振り返りと実践」サイクルが,教師の成長を促す。










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授業をふり返り書くことの意味と影響 
―ジャーナル・ライティングを通して考えること―




山本 真理(兵庫県立北須磨高等学校)


キーワード:ジャーナル,リフレクション,英語




1.はじめに


この発表では授業をふり返る手段として記録しているジャーナルについて述べる。以下、コーディネーターからの質問に答える形で「書くこと」についてまとめている。




2.「書くこと」について


(1) ジャーナルを始めたきっかけ


神戸市外国語大学大学院の授業分析の課題の中にティーチングジャーナルがあり、2004年から始めた。このジャーナルと生徒のふり返りの記録を中心に修士論文を書き、その後も現在までジャーナルは続いている。


(2) ジャーナルの内容


 毎年、ある1つのクラスを決め、その授業について書く。週2単位か3単位の授業なので、基本的に週2,3回書いている。授業前にLesson objectives, Teaching objectives, Procedureを書き、授業後にPost-class reflectionを記録している。Reflectionは授業のあとできるだけ早く書きたいが、次の日になることもある。英語で授業中のできごとや生徒の様子の描写、授業中の自分の考えや行動を記録している。うまくいったことも問題点も、なぜそのようなことが起こったのかといった考察も含めて、気付いたことはできるだけ書くようにしている。時には、これからどうしたらよいかなど、ジャーナルに向き合っているときに考えたことを記すこともある。Reflectionの量は日によって異なる。初めてのreflectionはA4ノートの1/3程度しか書けなかったが、現在は2ページになることもある。


(3) 「書く」意味の変化


 ジャーナルを始めたころはメンターに見せるため、そのあとは修士論文という目標のため、と大学院時代は「書くこと」はやめてはいけない義務感を持っていた。書いているときは人に読まれることを意識して言葉を選んでいたように思う。現在は人に見せる義務感はなく、「書くこと」は生活習慣の一つのように感じている。見せることを意識していたほうが、丁寧に書いていたかもしれないが、今のほうが自由に思いを表現している。


(4) 自分の変化


 ジャーナルをつけることで、「なぜ」と自分に問うことが増えた。以前ならうまくいったことは、「よかった」で終わっていたが、何がよかったのか、次にどの点を変えればよいのか、変えなくてよいのかを考えるようになった。また、うまくいかないことがあっても、「だめだった」と終わるのでなく、どこでつまずいたのか分析するようになった。分析するためには、生徒の観察や自分自身との対話が必要である。ジャーナルをつけていなかったころより、観察はずっと注意深くなり、また自分自身を冷静に見つめ、目の前の状況を受け入れることができるようになった。自分の意思を確認することで、ただ周りに流されたり不安なままやりすごすことは減った。


(5) 書いたものの読み返し


 普段はあまり読み返さない。ただし書いたことのいくらかは頭に残っていて、授業のときやリフレクションを書くときに思い出している。今回のような発表は、読み返すよい機会だと考えている。


(6) 書くことの苦労・限界


 ジャーナルをつけることで観察が注意深くなったためか、ジャーナルがなかったら気付いていなかったかもしれない生徒の様子が気になったり、他人の言葉や態度に過敏になった時期がある。また心の準備がないまま自分の弱さと向き合わざるを得ないこともあった。これが一時はとてもつらく、やめたいと思った。人と関わるのも苦しく感じたこともあった。そういう時、リフレクティブ・プラクティスを実践している友人やメンターと話しながら、ジャーナルを続けることができた。続けているとつらいことだけでなく、うれしいことに気付き、時間はかかったがつらさを乗り越えることができた。


(7) ジャーナルのこれから


 おそらく今のまま書き続けていくと思う。上で述べたようにつらいこともあったが、ジャーナルに救われたことも多い。ジャーナルをつけるために観察する姿勢が変わり、書くことで考えは深くなり、すべてを書ききれない、自分が見ている(と思っている)ことがすべてではないことを感じてきた。ジャーナルは授業だけでなく、私の生活も変えてくれたと言える。これまでの変化は、今ふり返ってみるとどれも意味があり、これからもこのような変化に気付けるのだと思えば楽しみである。また、若いときのように多くの人に相談しアドバイスを得る時間が持てなくなった今、自分の思いを整理する場としてジャーナルは必要である。私はジャーナルと自分の関係を「人と話す」ようだと感じることがある。人と違うのは、授業や自分の思いをよくわかっている自分と語り合うのだから、自分をよく見せたり長い説明をしたりする必要がないという点であろう。


(8) もし書いていなければどうなっていたか


 人間は時間とともに成長すると考えると、ジャーナルがなくても、私も少しは成長していたであろう。しかし、自分のまとまらない思いを抱えて、人に聞いてもらうことをもっと求めていたのではないだろうか。人に認めてもらうことや答えを与えてもらうことだけを求めていたら、自分がこれほど変われたかどうかわからない。多くの人に助けてもらってきたことは事実だが、ジャーナルと向き合う時間が、私の考えを深めるのに大いに役立ったことは間違いない。


(9) 使用言語について


 ジャーナルはきっかけが課題であったため、指示された英語で書いている。それが重荷と感じたこともある。辞書が必要であるし、自分の思いを表現しきれないもどかしさもあった。しかし英語で書いていると人に読まれる心配が少なく、それが続けられた要因の一つであるといえる。忘れてしまう前にReflectionを書こうと、私は様々な場所にノートを持っていく。職員室以外に部活動の場所であったり、喫茶店であったり、書ける所どこにでも持っていくが、もしこれが日本語であれば生徒や他の人の目に触れることにもっと注意しなければならず、書く時間が限られ、書けない日もあったかもしれない。英語で書いていると客観的に自分を見ているようで、素直な思いを出そうとする一方、感情的になってしまうことはほとんどない。英語で書くおかげで英語での表現力が高まり、ALTと話をしていても以前より長い時間、考えをじっくり話せるようになってきた。


 教科を超えて他の人と自分の経験や考えを共有するためには日本語のほうが便利であろうと思うことはある。同僚がジャーナルに興味を持ったとき、自分が書いていることを日本語で説明しなければならず、「日本語で書いていれば読めるのに」と言われた。リフレクティブ・プラクティスの仲間を増やしたいと思ったときは、日本語で書くことを考えたこともある。


しかし現在私はジャーナルを公開しようとは思っていない。生徒のことや自分のことなどどこまで安全に見せられるかについて不安があるからである。そのため、人に伝えるときは、自分の選んだ部分を説明するようにしている。




3.まとめ


 授業についてジャーナルを書くことで変化した観察力・考察力が授業以外の場でも活き、自分の考えに根拠を持ち、自分の行動を決定していく過程に大きな変化を感じている。ジャーナルで自分のティーチングをふり返ることは、授業のみでなく私のライフにも影響しているのだと思う。










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成長を手にした教師たち
―書くことは考えること,自分を変えること―


樫葉 みつ子(広島大学教育学研究科)


キーワード:教師の成長,リフレクション,ジャーナル・ライティング,メンター




1.はじめに


 (元)英語教師であり,(現)教師教育者である私は,山本先生と上山先生の報告を読んで,驚嘆を禁じ得ませんでした。自分を変えたいという,あのように強い意欲と固い決意を2人が持つに至ったこと,そして,そこには書くことによるリフレクションが大きく関与していることは,注目に値します。そして,このような教師の成長の可能性に,私は大きな希望を見出します。




2.教師の「現場の学び」


 教師は従来,現場で育ってきました。職員室で同僚と様々な課題について会話を交わしたり,校内研修その他の研究会で実践報告をしたり,教師仲間からフィードバックを得たりする中で,自分の視野を少しずつ広げ,状況を深く理解し,考える力をつけてきました。いわば,自分とは異なる他者との交流によって,自分を変化させ豊かに成長させてきたのです。もちろん,他者から得るものだけが教師の学びのすべてではありません。しかし,他者に出会って自分の価値観を改めたり,自分を作り直したりすることがなければ成長することは少ないでしょうから,その意味で,教職のような複雑な現場では,教師仲間との交流は貴重なものだと言えるでしょう。このように,現場に身を置くだけで,教師はある程度育ててもらえたものでした。ところが,今,教師の現場での学びは以前ほど多くはないと,危ぶむ声が聞かれます。
 


3.教師をとりまく状況


 教師の現場での学びが危ぶまれる理由の筆頭に挙げられるのは,言うまでもなく教師の多忙化です。平成18年度「文部科学省教員勤務実態調査」によると,小中学校の教諭の平日の残業時間は,昭和41年にはひと月に約8時間だったものが,平成18年度では約34時間と,26時間も増えています。1日平均約1,7時間の残業時間という計算になります。この調査における残業時間には,教員が持ち帰って行う授業準備などの業務は含まれていませんので,通勤や持ち帰りの仕事に要する時間などを差し引くと,時間的なゆとりがほとんどない教師の生活実態が浮かんできます。


また,このような忙しさが影響してか,校内研修や,教師自らの意思による民間の研究会への参加は減少傾向だと言われています。さらに,学校の小規模化に伴って学校に配置される教職員数も少なくなっており,人的ゆとりのない現場では,人材養成が困難になっていることを示す報告もあります(文部科学省、2012)。つまり,学ぶ機会が減った,このような現場に置かれている教師は,以前よりも教師としての成長を阻害されているのではないかと考えられるのです。
 


4.リフレクションとジャーナル・ライティング


 山崎・榊原・辻野(2012)は,専門的な教職像を「省察的実践家」に求め,教育関係者が一丸となって,教師の力量形成と発達を支えることを主張しています。そこで重視しているものは,他者との対話や交流,つまりリフレクションの契機となるものです。


大事なものがリフレクションであるならば,山本先生や上山先生が行っている1人でもできるジャーナル・ライティングによるリフレクションは,現状の突破口の1つになりうるのではないでしょうか。山本先生と上山先生は,自分の中に良い聞き手や読み手を育てて,リフレクションを成立させています。ジャーナルと自分との関係を「人と話す」ようだと述べる山本先生は,自分の中に聞き手を取り込んでいます。読者を想定して,自分の体験を一般化して記述するように努めていると述べる上山先生は,同じように自分の中に読み手を誕生させています。これらの聞き手や読み手を相手にしてリフレクションを続けた2人の,洞察力や実践力の高さは,目を見張るばかりです。多忙で教師の仲間関係が成立しにくい現代においては,自律的な教師の成長を支える有効な手段として,ジャーナル・ライティングによるリフレクションを位置付けることができると思われます。


 ただ,注意したいのは,山本先生も上山先生も,ジャーナル・ライティングを始めた頃は,そのリフレクションの質を引き上げてくれるようなメンターが存在したと考えられることです。知識や経験の少ない教師が1人で振り返ることには限界があります。目に映ってはいても見えていないことに,自分だけで気付くことは難しいものです。書かないより振り返って書く方がいいとは言えますが,その価値を高める方法など,考えていかなくてはなりません。




5.おわりに


 山本先生と上山先生とは,書くことで考え,自分を変えて,教師として成長を遂げています。もし今から教職をスタートするのであれば,私も2人に倣って,ジャーナル・ライティングでのリフレクションを自分に課そうと思います。主体的に書くことでさらに主体的な学び手となり,教師として変化する様を自分に見たいと思います。そして,子どもたちひとりひとりの学びや成長を,しっかりと見届けたいと思います。


教師教育に携わる現在の立場からは,この方法を後進の育成や現職教員の研修に用いることができないかと考えます。大会当日の全体討論の行く末に期待を寄せています。




6.引用文献


文部科学省(2006)「文部科学省教員勤務実態調査」http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/icsFiles/afieldfile/2010/09/22/1297939_09.pdf
文部科学省(2012)「中央教育審議会教師の資質能力向上特別部会(第11回)参考資料2学校および教員を取り巻く状況に関する参考資料」
http://www.u-gakugei.ac.jp/~jaue/_src/sc511/04sanshiryo07-02.pdf
山﨑準二・榊原禎宏・辻野けんま(2012)『「考える教師」―省察、創造、実践する教師 』学文社








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柳瀬原稿の続き




3.観察力、自己観察力、多重的世界構成力の発達


  上山と山本の述懐を、ルーマンのオートポイエーシス論の枠組みを契機として考えると、両者のそれぞれの成長は、(1) 観察力、(2) 自己観察力、(3) 多重的世界構成力の側面でとらえることができる。


  (1) の観察力とは、自分の外にあるもの(=者・物)の観察をする力であり、その観察に続く分析・統合・記述をする力も含む概念とする。上山と山本はそれぞれに、以前は気づかなかったことに気づくようになったこと(=観察)、頭の中を整理(=分析)し、リンク・体系化(=統合)して書く(=記述)することが上達したことを述べている。


  この観察力の向上は、(2) の自己観察力の向上につながる。自己観察力とは、外にあるものを観察する自分をさらに観察(=二次的観察・リフレクション)する力であり、その自己観察に伴い、(再び)自分を分析・統合・記述する力も含む概念である。上山と山本はそれぞれに、自らの実践を俯瞰的にとらえること(=自己観察)、「なぜ」を自らに問うこと(=自己分析)、自分を更新すること(=自己統合・自己組織化)、書く自分が書かれた自分と対話すること(=自己記述)を向上させている。


  こうして自己観察を続けることにより、上山と山本は、自らの中に読み手・聞き手を育て上げ、リフレクションを重ねる。リフレクションの重なりにより山本は「自分が見ている(と思っている)ことがすべてではない」ことを理解し、現在の自分を絶対化することなく何を変えられるか・何を変えなくてよいかと、自分の可能性を想像し複数の可能世界を構成している。上山は自らの実践を書いておき、それらの記述を読み直すことにより自分で思ってもみなかった新しい関係性を発見したり、ブログ・発表資料・書籍の公開・配布・公刊により他の教師にも新たな知のつながりを発見させたりしている。書くことにより、自らの知的世界を脳内から複数の文章へと拡張し、複数の文章の間に様々に新しい関係性を自他に発見させ、知的世界を複数化しているとも言える。このように複数の可能世界と知的世界を構成することが、(3) の多重的世界構成力である。この力により、私たちは「今・ここ」に生きながら、同時に「今・ここ」を超えた生き方を可能にしている。


  これらの三つの力は、書くことにより育てられやすいと言えよう。特に (2) と (3) は、書くことで自分の実践を明確に言語化・対象化しないと困難であろう。限られたワーキングメモリーだけで行動している限り、私たちは「今・ここ」の事柄への対応ばかりに追われ、リフレクションして考え、新たな自分や世界を構成することはなかなかできないかもしれない。書くことは強力なreflective deviceである。




4. まとめ


  このように、書くことは、所与の世界をより冷静に理解し、新たな可能性を豊かに構成することを促進し、教師の成長を促す。今後は教師ナラティブの事例の収集とそれらの原理的理解(=リフレクションのリフレクション)を教師教育・教員研修で重視すべきだと筆者は考える。だが他方で、学界による質的研究軽視や教育行政による教師の自由時間の剥奪といった制度的障害も一歩一歩克服してゆかねばならない。そして教師は、教室を語ることば、子どもの学びを語ることば、教師としての自分を語ることばを取り戻さなければならない。幸い「日本ほど、教師たちの実践記録が多数出版され、校内の授業研究が活発に推進され、実践的な知見と見識が教師たちによって共有されてきた国は他には存在しない」(佐藤 2009, p. 202)。制度的障害を打破し、教師が書く文化を再興することは、日本の教育の未来にとって重要なことである。


  またさらなる可能性としては、英語教師が自らの実践の振り返りを英語で書き、日本語話者以外の英語教師とも連帯する途がある。英語学習・英語使用はいまや地球規模の現象であるから、日本人英語教師の英語による実践記述、その書き手だけでなく国(内)外の読み手の非日本語話者英語教師の見識も拡げることになろう。そのための道筋は稿を改めて考えたい。




参考文献


佐藤学 (2009) 『教師花伝書 』 東京:小学館


柳瀬陽介 (2001)「アクション・リサーチの合理性について」『中国地区英語教育学会研究紀要』No.31, pp.145-152


柳瀬陽介 (2006) 「インタビュー研究における技能と言語の関係について」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 37, pp.111-120


柳瀬陽介 (2008) 「Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 ― アクション・リサーチを超えて」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 38, pp.71-80

柳瀬陽介 (2009) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ―EBMとNBMからの考察」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 40, pp.11-20

柳瀬陽介 (2011) 「メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複数性」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 41, pp.31-40

柳瀬陽介 (2011) 「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 41, pp.77-86

柳瀬陽介 (2012) 「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」 『中国地区英語教育学会研究紀要』No. 42, pp.51-60

柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂 (2011) 『成長する英語教師をめざして—新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り 』東京:ひつじ書房


吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』 東京:ひつじ書房


N.ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1』法政大学出版局


N.ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 2』法政大学出版局

Applied Linguistics (2011) Volume 32, Issue 1. Qualitative Interviews in Applied Linguistics: Discursive Perspectives


TESOL Quarterly (2011) Volume 45, Issue 3.  Narrative Research in TESOL





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発表当日は、以上の論考を踏まえて、より深く、より現実的な話ができればと考えております。ぜひお越しください。

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