2012年9月15日土曜日

山本兼一『命もいらず名もいらず(上)(下)』日本放送出版協会、加えてウェブ活動15年目のご挨拶




「命もいらず名もいらず」といいうのはもちろん山岡鉄舟(鉄太郎)のこと。西郷隆盛が山岡鉄舟を評して言った

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす」(下、104ページ)

ということばに由来しています。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と称された山岡鉄舟も人物なら、「困りもす」と言いながら山岡鉄舟の意を形にした西郷隆盛も人物です。


私が山岡鉄舟について初めて知ったのは、小学生の時に読んだ子ども向けの読み物でした。東征軍による江戸攻撃を中止させるべく徳川宗家の密使として派遣されたのが山岡鉄舟。世間的には江戸城無血開城は勝海舟と西郷隆盛の間の会談によるとされていますが、その準備交渉は山岡鉄舟によるもの(ウィキペディア:江戸開城)。準備交渉といっても、制度化されたものではなく、西郷隆盛と会う方法すらわからないといった状況。下手をすれば、いきりたつ東征軍に殺されるところ。そこを正面突破したのが山岡鉄舟。私が読んだ子ども向けの本もその箇所を活き活きと描き出し、以来、私の心の中に山岡鉄舟は残りました。本書は、史実に基づく時代小説として次のように描き出しています。

  街道に面した大きな家があった。門前に番卒が立っている。大勢の人間が中にいる気配がある。
  鉄舟は、益満と顔を見合わせた。
--ここが、本営だな。
--まちがいあるまい。
  うなずいただけで、意が通じた。

「通るッ」

  大声でさけぶと、番卒が捧げ銃の礼をとった。玄関から、そのままなかに踏み込んだ。
  座敷にざっと百人ばかり兵隊がいる。床の間を背負って、真っ赤な毛がふさふさした赤熊(しゃぐま)をかぶった男がいた。隊長であろう。
  そばまで歩み寄った鉄舟は、息を深々と吸い込んで、大音声を発した。

「朝敵徳川慶喜(けいき)山岡鉄太郎。大総督府へ通るッ」

  ふだん上様の名を口にする時は、たいていの者が音(おん)で呼ぶので、そのままに叫んだのである。
  赤熊の隊長は、あっけにとられたらしく、きょとんとした顔で、なにやらつぶやいている。
「とくがわけいき、とくがわけいき・・・」
  それはいったい誰だという顔である。
  兵隊は、だれ一人として、動こうとせず、声さえ発しなかった。ただ、あきれた目つきで鉄舟をながめている。鉄舟のあまりの大声と、あたりを圧する態度に、胆を抜かれてしまったらしい。 赤熊をかぶった隊長をにらみつけると、鉄舟はそのまま屯所を出て、足早に街道を進んだ。(下、69ページ)

この後、鉄舟は西郷隆盛と初めて出会いますが、いきりたつ東征軍を止めることができたのは、この鉄舟の豪胆な至誠と、西郷隆盛の器量の大きさがあってのことです。かくして冒頭の「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす」ということばに至ります。


鉄舟の人となりをつくったのは、撃剣(=剣術)と禅と書だとよく言われますが、この三つの修行も、数々のエピソードからするなら、現代日本人の想像を絶するものです。このあたりを的確に記述できるだけの現代日本語を私は知りません。現代日本人は、このような修行そのものだけでなく、その修業を描写することばすら失ってしまったのかもしれません。

また鉄舟は若い頃の修行だけを拠り所にして、それ以降は威張り続けるだけといった小物ではもちろんなく、生涯修行を続けました。剣においては浅利又七郎、禅においては天龍寺滴水和尚と対峙しながら修行を重ねていた45歳の鉄舟(明治13年(1880))は、ある日、一代で巨万の富を築いた平沼専蔵の訪問を受けます。その平沼と鉄舟の会話を本書は以下のように描写します。

「その時に気づいたんです」
「なにをですか」
「大きな商売をしようと思ったら、損得に怖じ気づいちゃ、いけないってことです。それでは、とても大事業はできません。儲けたいと欲をかけば狼狽して胸がドキドキしますし、損を心配したら身が縮みます。世間の相場も分からなくなってしまいます」
  それは、撃剣でもいえることだ --と、鉄舟は思った。
「たしかに、必ず勝とうと思うと、妙に胸が波立ちます。負けるのを心配すれば、手足がうまく動かない。そして、結局身動きひとつできなくなる」
  実際、二十歳のころ、鉄舟は、そんな自縄自縛にとらわれて、道場で一歩も動けなくなったことがあった。
  鉄舟のことばに、平沼がうなずいた。
「いずれの道も、究めようと思ったら同じなんでございましょう。わたしは、大損をしてからというもの、まず、自分の気持ちがすっきりしているときに、しっかりと方針を思い定めておいて、あとは、その時の小さな値の動きなんかに拘らず、ずんずんと商売を進めました。そうするようになってから、私も一端(いっぱし)の商人になれた気がします」
「そいういうものか・・・」
  平沼の言葉が、鉄舟のこころに沁みわたった。
  つねに求めつづけていたら、大悟はふいに、あたりまえの顔をしてむこうからやってくる。
  とくに、感激はない。しかし、平沼のことばこそ、自分の迷いを晴らしてくれる光明だというはっきりした手応えと実感があった」(下、342-343ページ)



ここでおそろしくレベルを下げて私の話をします。私は最近 ―後期が始まる前の、集中して勉強ができる数少ない日々に― カントの『純粋理性批判』のノートを作っています。これまで何度も通読を試みながらも挫折し、入門書を読むだけだった私ですが、柄谷行人の『トランスクリティーク――カントとマルクス』を契機にもう一度カントを読みたくなり、今回中山元先生の翻訳を入手して初めて通読しました。

読みながら下線を引き、一冊読み終えるごとに下線部を読み返し、特に重要な箇所に付箋を貼りました。全巻を読み終えたら、すべての付箋部分を読み返し、付箋をつけた箇所に相当する箇所をCritique of Pure Reason (Penguin Classics)で読み、その英文をエディター(私はできるだけMS Wordを使いません!)に書き写しました。今はその箇所の原文をKritik Der Reinen Vernunftでチェックし、その原文をProject Gutenberg (http://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html) からコピーしてノートを作っています。

実はやるべきことは他にも沢山あるし、果たすべき多くの義理を私は欠いているのですが、それでも集中して勉強できる今はこれをやりたいと、今は必要最低限の仕事以外はこのノート作りばかりしています。このノートが将来の研究・教育活動とどうつながるのか、私にはわかりません。私はただわがままに振る舞っているだけなのかもしれません。しかし、どこか体の奥で私はこの勉強の必然性を感じています。「こんなことをやっていてもいいのだろうか?」という頭の片隅の声を、私は押しのけながらノート作りを進めています。

しかし、もし大学院生がこんな勉強をしていたら私はどう言うだろうか、と考えた時、私は戸惑いを覚えました。「もっと手堅く、査読付き論文の形に結実しやすい勉強をしろ」というかもしれないと感じたからです。

実際、現在の若い研究者(の卵)は、業績づくりの強い圧力にさらされています。私はある時、ある大学の若い心理学研究者と話をする機会を得ました。彼はある任期付きの職を得ていますが、現在はその最終年度です。会話の流れの中で、私が「新聞なんか読んでます?」と聞くと、彼は「とてもそんな余裕がありません。新聞を読む時間があれば、少しでもデータを整理して論文にしたいです」と語りました。「じゃ、論文を書くことが楽しくてたまらないの?」と尋ねると、彼は「いや、今書いているような論文は、本当に自分が研究したいテーマではないんです。自分が研究したいテーマは、なかなか論文の形になりにくいので、今はとにかく査読に通りやすいテーマの論文を数多く書いています。早く定職を得て、自分が本当にやりたい研究をしたいです」と語りました。

これに似た話はよく聞きます。「必ず査読者に認めてもらえるような論文を書こう」とすると心が落ち着かない。かといって「自分が本当に研究したいこと」を考えようとすれば、「そんなことをする余裕などない」とどこからともなく声が聞こえてきて、不安に駆られてしまう。そして結局、不如意なままの毎日を過ごしている、といった院生、あるいは定職を得ていない若い研究者の話です。いや、これは中高年の研究者にもあてはまる話かもしれません。

「論文執筆など、所詮は処世術」と割り切るなら簡単なのかもしれません(さらには「東大話法」を身につけるなら!)。しかし少しでも自分で納得がゆく研究をしようと志を抱くなら、にっちもさっちもいかなくなるように思えてしまいます。

上記の平沼のことばを借りるなら、研究者も「自分の気持ちがすっきりしているときに、しっかりと方針を思い定めておいて」、あとは小さな事に拘らず、「ずんずん」と研究を進めるべきなのかもしれません。

「しかし、そんなことでは食えないではないか」と頭の片隅の声は、小さいけれどしっかりと届いてくるささやき声で私に語りかけます。「うーん」と私はまた迷い始めます。私は現在、もったいないぐらいの定職をいただいておりますが、私が指導する院生はまだ定職を得ておらず、定まらぬ世情の中で、不安を抱えております。私はどう指導の方針を定めたものか。

しかし時代小説にせよ、別の時代の人々の生き方に思いをはせるのは精神の均衡のためにはよいことです。この本を読むと、武士階級の消滅・徳川家の解体というものはおよそ大きな変動で、現代のリストラ以上であったことがわかります。昔日の日本人は、そんな大変動の中を生き抜き、近代日本を作り上げました。

鉄舟ゆかりの寺に全生庵がありますが、その「全生」とは、「以て死すべくして而して死し、以て生くべくして而して生く。これを全生という」を意します(下、389ページ)。たまたま定職を得ている者がこのようなことを言うのはあまりも安直であり、傲岸あるいは偽善ですらあるのかもしれません。しかし、不安な時代に生きる(自分を含めた)者に対して言えるのは、



浮き足立つな

地に足をつけろ



だけなのかもしれません。そうして平常心を得てこそ、心が定まり、心は波立たず、止水のようになり、どんな問題にも速やかに対応しながらも、その問題を一切心に残さない鏡のようになれるのかもしれません。(関連記事:http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/03/comparing-foreign-language.html


実は私がこの本を読み始めたのは、先日あることで大いに立腹したからでした。そのようなことに立腹する自分の器の小ささに、さらに心乱されて、長い間本棚にあったこの本を取り出し、夜寝る前などに少しずつ読み進めて、昨夜読了したところです。

折しも本日は、私がウェブ活動を(旧「英語教育の哲学的探究」で始めてから、ちょうど15年目にあたる日です。せめて読者のみなさんに一言御礼を述べるべきかと考えていましたが、おざなりなことばしか出てこず、どうしたものかと思っていましたが、昨夜この本を読み、この本について書くことでご挨拶に代えさせていただこうと思いました。



ウェブ活動15周年の本日、このブログをお読みくださっている皆さまに改めて御礼を申し上げます。

「誰かはわかってくれるかもしれない」と思いながら、自分が本当に書きたいことだけをこのブログに書き連ねてゆくことで、私は精神の均衡を保ってきました。

その意味で私が実生活でお会いしたことがなく、おそらくはこれからもお会いすることがない読者のあなたが、私を支えてくださっています。

私はこのような自由を享受できる社会を愛しますし、この開かれた社会をより人間的なものにするために、私なりにわずかばかりのことができればと思っております。

同時に個人的には、このブログ記事を書く時間で、果たせることができたはずの義理を欠いてしまい、非礼を働いてしまっている皆さんに、改めてお詫び申し上げます。私は自分の勝手からなかなかに離れられない小物です。

このような私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。

ほんのわずかも近づくことができぬと知りながら、「山岡鉄舟」という理想像を心に抱いて、毎日を過ごしてゆきたいと思いますゆえに。




関連記事:

津本陽『春風無刀流』文春文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post_25.html
山岡鉄舟 ― 始末に困る真心の人
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_22.html
この国難に際して、改めて西郷隆盛に学ぶ
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