2013年4月11日木曜日

第85回日本英文学学会シンポジウム・「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか (5/26(日)東北大学)



この度、ご縁をいただいて、第85回日本英文学学会全国大会(5/25-26 東北大学)のシンポジウム(第11部門)で司会兼講師として発表させていただくこととなりました(5/26(日)10:00-13:00 B103教室)。


発表タイトル

「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感

― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか ―



登壇者

司会・講師(1) 柳瀬 陽介(広島大学教授)

講師(2) 佐藤 綾子(山口大学教育学部附属山口中学校教諭)

講師(3) 和田 玲(順天中学校・高等学校教諭)

講師(4) 組田 幸一郎(千葉県立成田国際高等学校教諭)

講師(5) 鈴木 章能(甲南女子大学教授)



企画意図

日本の英語教育は、教育内容と指導法を標準化し、教育全体を数値目標で管理することを促し、教師は生徒の成長過程よりも、制度化された学力結果を考慮することに仕向けられているように思えます。

しかしこの近代的流れは、資本主義的社会(=人間の行為の商品化と、商品交換による貨幣の獲得を促進する社会)への過剰適応ではないでしょうか。私たちは数値化・標準化・制度化からこぼれおちる人間の営みをあまりに切り捨てていないでしょうか。

仮に文学を「標準化・制度化・数値化できない個を見つめ、それをあらゆる言語表現を駆使して描き出すこと」と定義するなら、今こそ英語教育には「文学的」な態度の復権が必要と考えます。資本主義社会への適応だけに収束できない人間の生そして幸せを目指す英語教育が必要ではないでしょうか。

本シンポは会場の参加者からも積極的に意見を求め、会場全体で実り豊かな対話を生み出すことを目指します。




この話を最初にもちかけられたとき、格式ある学会に、学会員でもなく英文学専攻でもない私がやるのなら、思い切ってやるしかないと思いました。格式のない私がにわかに格式を取り繕うことなど不可能だからです。

ですから人選も(この学会としては異例だそうですが)中高で実際に教える(そして私が信頼する)教師を選び、日本英文学会会員からも、日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイト(e-job-100)を立ち上げた、私が敬愛する英文学者を選びました。私自身は、この大変に権威ある学会に対するトリックスター(もしくはジョーカー)という役割で発表し、英語教育などで「正統」とされている考えを(調子に乗りすぎて悪ふざけすることなく)ゆり動かしてゆこうと考えています。

ちなみに、発表者の実践について私が過去に書いた主な記事は以下のとおりです。


佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/11/blog-post_23.html
和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html
組田幸一郎先生の講演を聞いて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/11/blog-post_22.html
日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイト(e-job-100)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/e-job-100.html



以下は、プログラムに掲載された各発表者の発表予定要旨です(私も含めて、内容が若干変更になる場合もあるかもしれません。私自身は前日まで、できるだけ納得のいく内容にするため修正をかなり重ねるつもりです)。



各発表の要旨


第一発表

英文学関係者は時代の流れに抗するべきではないのか


柳瀬陽介(やなせ・ようすけ)
広島大学教授


これまでの英語教育は日本の西洋近代化の一環でもあった。西洋近代は「客観主義」(Lakoff & Johnson, 1999)の認識論をもち、言語についても「デカルト派言語学」を好んできた。この認識論・言語観は、知識を客体化する教育観(Freire, 1970)、時間を標準化・抽象化する資本主義的前提(Postone, 1993)などとも通底している。さらに、教育全般において多肢選択法テスト・数値目標管理・Can-do listなどを、英語教育において文学教材排斥・単一言語主義らを、時代の流れとして無批判的に受容する状況を生み出している。この流れに対して「英文学」は何をなすべきなのか。発表では、Jakobson(1960)によるコミュニケーションの6つの要因-機能の再解釈、plurilingualism理念の検討などを行い、「身体」を基盤に英語教育概念を再構築することを試みる。



第二発表

中学校における読む授業について


佐藤綾子(さとう・りょうこ)
山口大学教育学部附属山口中学校教諭


「コミュニケーション能力の基礎を養う」という目標に掲げられてから、英語が単なる道具とみなされ、授業はその道具を使いこなすための技術を身につける場と化している。練習方法や多種多様な活動といった方法論が飛び交う。しかし、練習や活動をすること自体が目的になっているような学びのない授業は、コミュニケーション能力の基礎を養うことも、生涯にわたって英語を学び続けようとする生徒を育てることもできないと考える。
そこで、生涯にわたって英語を学び続けようとする生徒を育てるために、中学校の「読む」授業にできることを提案したい。生徒に読みたいと思わせ、そして、読むことをおもしろがる生徒を育てるために、「何を」読ませるか、何が読めたら「読めた」ことになるのか、読ませるためにはどう発問するかという点について考えていきたい。



第三発表

文学教材を用いた高校英語教育の発展可能性について

和田玲(わだ・れい)
順天中学校・高等学校教諭


「実践的コミュニケーション能力の育成」が現場で叫ばれるようになって久しい。教室はいま、急速に英語の技能訓練の場と化し、その成否で授業の良し悪しを測るような風潮さえ目立ち始めている。しかし、生徒たちは機械的訓練を中心とした指導から言葉を学ぶ喜びを享受し、自立的学習者へと成長を遂げることは出来たのだろうか。話すための基礎である思索力と積極的発話力、提案力はさほど意識的に育てられていないように思える。
テキストをいかに読み、生徒に何を伝えるかを抽出する感性が言語の教師には求められなければならない。高校生が何を思考対象とするべきかに関しても再度検討する必要があるだろう。また、そのために良い教材を提示することも重要だ。英語の授業が、単なる技能訓練の場としてだけでなく、生徒の自己拡大や内発的動機づけを促す場となるために必要な観点を、文学作品の主題や文学テキストへの取り組み方をヒントに考えてみたい。



第四発表

内面性を育てる文学


組田幸一郎(くみた・こういちろう)
千葉県立成田国際高等学校教諭


他者と共感し、他者に共感される。それが協力し合うための前提になる。自分は一人で生きているのではなく、周囲とつながっているのだという安心感はとくに若者には必要となる。お金や名誉、学歴が人間を幸せにするとは限らない世の中で、自分の内面からわき出てくる「つながり感」は精神的な安定感とつながってくる。その共感をサポートしてくれるものが文学にはある。日本語であれば素直には受け入れづらい、少し「恥ずかしい」内容だとしても、英語であれば、それを受け入れ、共感し、さらに音読まで生徒はしてくれる。「星の王子様」のセリフに引っかかりを持ってくれることもあるし、「ゲド戦記」の主人公の成長に自分を重ね合わせることもある。とくに英語教育は実用的なものを求められているが、どの生徒にもプラスとなる精神的深まりに文学は大きく寄与する。閉塞感のある時代だからこそ、文学的要素が教育には必要なのではないだろうか。



第五発表

中庸の英語教育:教育学、仕事現場の声、世界文学の視座から


鈴木章能(すずき・あきよし)
甲南女子大学教授


 石井(2012)によれば、近年の学力論争は経済界や受験評論家たちの声とともに学校の競争主義と成果主義を蔓延させ、いまや教師の仕事は外部で決定された「目標」の達成を遂行し、数値的に示す作業に矮小化されている。その「目標」は、社会統合機能、選別分配機能、自律化機能の三つの学校教育機能の内、進歩主義のビジネスモデルに基づく選別分配機能に専ら結びついている。この単線的目標は動機づけ問題の克服やグローバル経済の競争社会での生に繋がっているようだ。この中で英語教育はコミュニケーション力に力点が置かれ重視されてきた。それは一面、正しい。だが、実際に仕事現場の声を調査すれば、いまや選別分配機能や数値的成果の余白となった「文学的」な力も求めている。つまり、グローバル経済社会を生きるために英語教育が強調されればされるほど、文学の学びが必要となる。世界に目を向ければ現在、世界文学という研究・教育が盛んになりつつある。ただし、欧米や、日本以外のアジア圏で。仕事現場の声や世界文学の動向などとともに、現行の英語教育について考えてみたい。



***


先日は、自民党の教育再生会議から、国公立大学受験資格や卒業要件としてTOEFLを義務化する案が発表されました。一部の大学(ありていに言ってしまえば一部のエリート)に高度な英語力が必要なのはその通りですが、しかし、それをすべての国公立大学に求めるのは暴論だと私は考えています(たいていの大学生はTOEICにすら対応できないのですから、学術的な内容を扱うTOEFLに歯が立つわけはありません)。もしTOEFL導入を短兵急に行えば、高校や大学(あるいは教育産業)に「TOEFL対策講座」が雨後の竹の子のように出現し、そこで対策問題集を中心とした短視眼的な訓練が行われるだけになると私は予想します。


と言いますのも、昨今は新自由主義的発想があまりにもはびこり、教育の領域を臆面もなく侵食しているからです。新自由主義的発想が、教育に適用されるときには、次のような思考回路に陥り、それ以外の方法が考えられなくなってしまいがちです。

1 数値目標の設定

2 その目標への最短路の確定

3 その最短路での一斉競争

4 一元的な「勝ち組」と「負け組」の決定


「TOEFL導入⇒TOEFL対策講座の乱立」となると私が予想するのは、こういった思考回路の無批判的な受容がいたるところで見られるように思えるからです。見識があるはずの校長や教頭が「上から結果を出せと言われているので」といって、教員に短期的な結果を強要します。教員は「上から言われているので仕方がない」とばかりに、生徒・学生に短期的な結果を求めます。結局、しわ寄せがくるのが現状の権力構造で一番下にいる生徒・学生です。学ぶ喜びや意義を自ら見出す機会を奪われ、「グローバル時代に必要だから」というスローガンだけで、問題集対策に追い込まれます(参考記事:学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど))。

問うべきは、このような一時代前の工場の生産管理のようなやり方で、

(1) 一部の「勝ち組」にさえ、これからの世界を切り拓くような英語力が身につけられるのか 
(2) 大多数の「負け組」とされる者にとっての学びがどれだけ損なわれかねないか(特に意欲や潜在力の点において)

ということです。

しかし新自由主義的な言説はますます単純化し、批判精神を失ったメディアもそれに迎合し、こういった単純すぎる計画は現実に実行されかねません(この4月から実施されている高校の指導要領の「授業は英語で行なうことを基本とする」も、単純すぎる計画だと私は考えます。長期的には正しいことも、短期的に権力で強行すれば、さまざまな問題が生じます(参考記事:高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出)。

政治家は、そういった問題も織り込み知り尽くした上で、敢えて単純すぎる案を強行するというのなら、それは冷酷なリアリストの政治家としての一つのあり方かもしれませんが、少なくとも今回のTOEFL提案を行った自民党の教育再生実行本部の遠藤利明本部長は、そのような見識の持ち主とは思えません。下記ブログに書き起こされた遠藤氏のインタビューを読めば、彼がインタビュアーと「日本語でコミュニケーションが通じてない」ことがわかります。


bluelines: 日本人はスピーキングが苦手

http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20130404/1365066300


また、The Japan Timesの4月5日の記事(To communicate in English, TOEFL is vital: LDP panel -- Focus urged on speaking, not the written word) での遠藤氏の発言も単純極まりないものでした(私としては、遠藤氏および自民党の見解をただ伝えただけのような、このスタッフライターの見識を疑います。もっともKrashenのブログで読める3/31の社説は極めてまともでしたが)。

シンポでの私の発表は、このように新自由主義的発想で、「数値目標設定⇒競争」こそが教育においても正しいことであるという考えに対して、批判的精神を失いはじめた時代に抗するために、できるだけ論点を整理して、冷静に「近代的英語教育」の姿を明らかにし、英文学と英語教育の間の関係を私なりに考えたく思っています。



多くの方の参加、そして多くの方のご発言をお待ちする次第です。





関連記事

日本英文学会シンポジウム 「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感:報告と資料掲載
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/526-1-2-3-canon-jakobsonlinguistics-and.html




6 件のコメント:

mikarin さんのコメント...

このシンポジウムの企画を知り、勇気づけられる思いがします。私は参加することはできませんが、ひとりでも多くの方が、このシンポジウムに関心を持っていただければ、と思います。

柳瀬陽介 さんのコメント...

mikarin さん
コメントをありがとうございます。
今の日本の英語教育界は、あまりに体制迎合的で、各々が保身に走り、そのしわ寄せをどんどん弱者に押しつけている(あるいはどんどん弱者を作り出している)ようにすら思えます。
シンポでは、そんな英語教育界の「当たり前」に対して、根本的な揺さぶりをかけられたらと思っています。
2013/04/12
柳瀬陽介

shakti さんのコメント...

柳瀬さんは、英語のWritingの記事で、次のように指摘されています。

http://gtec.for-students.jp/gtecmag/contents/vol17_1.htm

「そういう学生には「新書を読め」と指導します。小説に比べて比較的固い内容で、パラグラフライティングに近い構成をしているので、伝わりやすい文章を体得するためには有効ですね。だから、中学や高校生も、家庭で小説だけでなく新書なども含めた色んな本を読むことがWriting力向上にもつながると思います」

小説ではなく新書本を読めというわけです。ところが、今回は文学からのアプローチですから、ある意味では全く正反対の考え方とも言えます。そんなわけで、大変面白い試みですね。

私の希望としては、小説か新書本かというよりは、もう少し絞り込んでもらいたいと思います。新書本と言っても、昔の岩波新書のようなものから、最近のビジネス本までいろいろ。小説に至っては、千差万別。我々の共通理解となるような小説や新書本の例を出して欲しい。そうしないと、話が全くかみ合わなくなってしまうような気がします。

個人的には、私はクッツェーとオクリのファン。英語の勉強のために、大衆小説を読みたくないな。

柳瀬陽介 さんのコメント...

shaktiさん、
コメントをありがとうございました。
私は以前、テクニカルライティングについても書いていましたし、
http://www.eigokyoikunews.com/columns/y_yanase/2009/04/post_2.html
今年度から「学術文章の書き方」という授業も大学院で開講しています。
ですから機能的文章の読み書きは非常に重要だと思っています。

しかし、同時に文学的な文章(あるいは物語文)の読み書きも大切だと考えています。
また、文学(物語)を必要以上に非難する一部の人びとの思考の浅さを危険なことだと思っています。

シンポでは私はマクロなことを言い、佐藤先生、組田先生、和田先生に、実践を具体的に語っていただき、鈴木先生にまとめてもらおうと思っています。

2013/05/03
柳瀬陽介

shakti さんのコメント...

goodreadsというアプリとHPはご存知ですか? 英語等の本しか登録できないようですが、読書共同体としては大いに魅力です。

http://www.goodreads.com/?auto_login_attempted=true

右か左かといった単純な枠組みには収まりきらない小説・物語に刺激を受け、そこからコメント(感想文)を書くような、そういう読者共同体(読み手でありかつ書き手である)の成員になりたいと私は思うようになりました。

英語を書くにしても、無から英作文するのではなく、テキストを読み、それに応える形で書くのが自然だと思うのです。英作文というのは、共同体参画活動というのが本来の姿ではないでしょうか。

余談ですが、NHKの村上春樹を英語で読むという講座良いですよ。講師が英文学者でないところも、さらによい。

柳瀬陽介 さんのコメント...

shaktiさん、
再びのコメントをありがとうございます。

goodreadsのことは知りませんでした。
また村上春樹を英語で読むNHKの講座の噂は聞いていますが、実際に番組は聞いていません。


「テキストを読み、それに応える形で書くのが自然だと思うのです。英作文というのは、共同体参画活動というのが本来の姿ではないでしょうか。」


というのはまったくその通りだと思います。

日本の英語教育というのは、目的においても方法においても、どうも私たちの暮らしから遊離してしまっているような気がします。
シンポでは、特に佐藤先生、和田先生、組田先生に、英語教育の「実感」を語っていただきたいと思っています。

2013/05/04
柳瀬陽介