2013年7月16日火曜日

7/14講演会「英語教育、迫り来る破綻」に参加して



7/14に開かれた英語教育講演会(「英語教育、迫り来る破綻」 参照:大津先生ブログ江利川先生ブログ)の開催は、時期的に非常に有益なものでした。関係者に深く御礼申し上げます。

私も参加して学んだことは多いのですが、とてもそのすべてを書く時間はないので、以下、重要な点だけを、しかも走り書きの形で残しておきます。



■現在の政権与党等の教育改革案が前提としている思い込み

現在の政権与党等の教育改革案は、社会と教育に関する以下(・印)の思い込みに基づいているが、それらは⇒印の意味で誤っている(あるいは少なくとも偏っている)


<社会に関する思い込み>

・グローバル資本主義競争で勝たなければ、日本は衰退するだけ
⇒グローバル資本主義競争に過剰に巻き込まれずに国民の暮らしを豊かにする方法について考えていない

・「グローバル人材」を育成することが国益であり「教育再生」である
⇒ごく一部の「グローバル人材」を育てるための教育で国民教育がどれだけ損なわれるかについて考えていない

・「グローバル人材」の選別は、とりあえず英語資格試験の点数で行える
⇒「グローバル人材」に関する人格的側面や文化理解的側面さえも実質的に考慮から外している


<教育に関する思い込み>

・言語コミュニケーション力は(他の学力と並んで)個人を対象とした「客観的な」試験で数値化できる
⇒コミュニケーションは、やり取りの中で創発してくるものであり、偶発的な要因が複合的に絡まっており、「客観的」な試験でその力を十全に測定できないという言語コミュニケーション論がわかっていない

・教育改革(あるいは「教育再生」)は、学習者個人間の競争を促進することでなされる
⇒学習者は、周りの人間や環境との相互作用の中で共に(しかしそれぞれに)成長するという<学びの生態学>がわかっていない

・学習とは個人の認知能力の発達だ
⇒学習を個人の、しかも脳の中の問題だともっぱら考えてしまい、個人の脳内の現象に限定されない学習理論を不当に軽視している(これについては情報処理的心理学だけでしか学習を考えていない研究者も批判されるべき)

・英語教育の理想とは、ネイティブ・スピーカー(あるいはそれに準ずる者)が教え、学習者をネイティブ・スピーカーのようにすることだ
⇒言語教育論について無知で、英語教育における単一言語主義 (monolingualism) が強くなった植民地支配的背景を理解しておらず、単一言語主義がもつ限界や欠点(学習者や教師の「複言語主義的な能力」を認めようとしないこと)がわかっていない



■ 英語教育目的論が重要

学校英語教育は、他の英語学習プログラム(例、企業内研修、個人による学習や留学、塾や予備校の受験対策等)とどう異なり、どのような公的使命を現代において有しているのかという英語教育目的論をきちんと展開しないと、英語教育は混乱するばかり。ちなみに英語教育目的論は、公共政策に関するものであり、社会科学的な議論が必要とされる。個人の思い入れの表明は英語教育目的論の名前に値しない。



■ 理性的説得と感情的共感

英語教育に関しては(他の考察対象にもまして)、理性的に考察し議論することが大切であるが、その反面、政治は理性だけでは動かず「勘定と感情」で動くことが大きいことも忘れてはならない。

「勘定」については、グローバル資本主義に過剰適応せずとも「豊か」に暮らせる(というよりその方が豊かに暮らせる)ということを、理論的に明らかにするだけでなく、多くの生活実践で示さねば、人びとの「勘定」感覚から、上記の「思い込み」は消えないだろう。

「感情」については、何より現役の英語教師が積極的に授業公開(YouTube公開も含む)をして、今の英語教育実践は昔と大きく変わり、実際に学習者に英語を喋らせていることを保護者を始めとした一般市民に示さないと、多くの市民は過去の思い出だけで英語教育を語り、「悪いのは英語教師だ」というルサンチマンにしばしば絡み取られる。



■ しかし英語教育界にも徹底的な改革が必要

しかし、英語教育界にも身を切るような改革が必要である。7/14の講演会に足りないところがあったとすれば、それは英語教育界にも徹底した改革が必要であり、自ら血を流さないと一般市民は納得しないという認識ではなかっただろうか。

確かに英語教育界には、すばらしい実践者もいるし、過労死寸前のところでぎりぎりの苦闘をしている教師も多い。その意味で、英語教育界への理解と支援(特に人的・時間的な支援)は必要である。

だが、中には、本人の自覚や努力の不足から、あるいは自己研修する時間や機会の不足から、十分な授業ができていない英語教師がいることも事実である。この事実を改善しない限り、あるいは少なくともこの事実を英語教育界が公に認め、自己改革の意思を明確に示さない限り、一般市民や政治家の理解と支援は得られないだろう。

例えば、「小学校英語教育とは何であり、何のためにあり、どのように行うのか」ということを十分に教えられないままに授業に駆り出され、ALTに任せきりの授業をしたり(しかもそのALTも言語教育については素人だから形だけの授業をしているに過ぎない)、自分が昔習ったような授業をしたりしている小学校教師は少なくない。

中学校英語教師についても、きちんとした発音指導ができない(時には自分自身がきちんとした発音ができない)教師や、中学生が英語の文字・単語が読めないことを「こんなもんだ」と諦めてしまっている教師は少なくない。

高校英語教師についても、英語教師バッシング論で批判される、まさに旧態依然の授業(いいかげんな音読と直訳だけの授業)しかしない教師も珍しくない。そんな授業しかしない教師の中には、そもそも英語が深く読めない教師も存在する(だから旧態依然の授業しかできない)。

しかし一番罪が重いのは、(私も含めた)大学の「英語教育学者」であり、小学校英語教育の理論的な混迷(小学校英語教育のWHATやWHYを突き詰めて考えていない)や実践的な誤解(中学校英語授業を水で薄めたようなものをHOWとしてもっぱら教えている)も、力量のない中学校・高校英語教師を社会に送り出したことについても、大学の「英語教育学者」に直接の責任がある。

だが公正を期すために述べるなら、教育行政者にも責任はある。OECDで最低レベルの教育支出で、一クラス40人という先進国では見られない大人数授業をさせ、教師にはどんどんと書類仕事などを増やし、教師に十分な自己研修の機会(というより健康を取り戻す時間)すら与えていないことを知りながら、「財務省が言うから仕方ない」と教育現場の現実に頬かむりをする教育行政者も(英語)教育界の不全に大きな責任をもっている。教師は専門職であり、大学・大学院教育だけで十分な教育をすることは不可能で、在職中の研修が不可欠である。教育行政者は財務省・政権与党(ひいては財界)の使いっ走りではないはずだ。教育行政者はもっと現場教師のための権限獲得をするべきだ(少なくとも私を含めた多くの教育関係者は、多くの教育行政者が「上意下達」ばかりで、教師や学習者の味方になっていないのではないかと感じている)。



以上を、ごくごく簡単な報告(というより私的な備忘録)とします。最近はとにかく時間がほしいです。


追記

7/14の講演会内容について詳しく知りたい方は、下記の書をお求めください。










追記 (2013/07/17) 
補説記事を書きました。 こちらもぜひお読みください。

「教師は学校の中で育つ」 -- 亘理先生のコメントを受けて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/blog-post_17.html

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